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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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エレミヤ書 37章

2022年11月14日 | エレミヤ書
エレミヤ書 37章
ゼデキヤ王は人をつかわし、彼を連れてこさせた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った、「主から何かお言葉があったか」。(37・17)
 
時代が前後します。先の36章は紀元前605年頃でエホヤキム王の時代でした。エホヤキム王の死後にその息子エホヤキン王が就任し、3ヶ月の在位の後にバビロンへ捕囚となりました。
 
そこで、バビロンは、エホヤキンのおじであるゼデキヤを王として任命し、傀儡(かいらい)政権としました。それが、今日の37章からの記録です。 ※37章1節「エホヤキムの子コニヤ」とは、バビロン捕囚となったエホヤキンのこと。ゼデキヤはヨシヤの子、すなわちエホヤキンのおじにあたる人物。
 
そのため、ゼデキヤ王の治世はバビロンの顔色をうかがいながらの統治でした。しかし一方、国内の首長(高官)たちは反バビロンの態度を崩さず、独立の機会を目論んでいました。そんな両者の間で右へ左にと王の心はゆれていました。
 
おりしも南からエジプト軍が進撃して来たことにより、一時的にバビロン軍が退却を余儀なくされたため、国内には反乱の気運が一気に高まりました。
 
しかし、預言者エレミヤは……、
 
①バビロンは再び戻ってくる。
②その時はエルサレムは完膚無きまで滅ぼされる。
③残りの者はバビロンへ捕らえ行かれる。
 
……と語りました。
 
エレミヤの預言は民衆の戦意をなえさせ、混乱をまねくとして、首長たちはエレミヤを逮捕し牢獄に閉じ込めてしまいました(37・15)
 
エレミヤは、民衆や王のご機嫌取りの言葉ではなく、神の御言をまっすぐに伝える預言者でした。彼の目は人にではなく、いつも神に向けられていました。しかし、ゼデキヤ王は人目をはばかって、獄からエレミヤを呼び寄せ神の御告げを聞こうとしました。
 
ゼデキヤ王は人をつかわし、彼を連れてこさせた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った、主から何かお言葉があったか』。エレミヤはあったと答えた。そして言った、あなたはバビロンの王の手に引き渡されます』」(37・17)
 
王は人の目を気にしていました。だから、密かに尋ねました。神を意識して大胆に語るエレミヤと、人を意識して密かに尋ねるゼデキヤ王とが対照的です。
 
人の目や意見を気にしすぎると、ゼデキヤ王のように人の目や意見に翻弄される人生になります。天地が滅びようとも滅びることがない神の御言にかたく立つ者であろう。
 
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エレミヤ書 36章

2022年11月12日 | エレミヤ書
エレミヤ書 36章 
王とその家来たちはこのすべての言葉を聞いても恐れず、またその着物を裂くこともしなかった。(36・24)
 
「このすべての言葉を聞いて……」とは、エレミヤに告げられた神の御言のことです。この時の王はエホヤキムです。まだバビロン捕囚が実行される前のことです(紀元前605年)。
 
神はエレミヤに、いままでの預言を巻物に記録して、それを人々に読み聞かせるように命じられました(36・2~3)。そこで、エレミヤが語った言葉をバルクが記述しました。口述筆記です。
 
この時点でエレミヤは、神殿への出入りが禁止されていたようで、そのために書記役のバルクがエレミヤに代わって神殿に集う人々に読み聞かせたわけです。
 
※新改訳では「私は閉じ込められていて、主の宮に行けない」と翻訳されているが、口語訳と新共同訳では「神殿の出入りを禁止されている」と翻訳(36・5)
※第32章に「エレミヤが王の監視の庭に監禁された」とあるが、そのことではない。32章の時の王はゼデキヤ、紀元前587年頃。今日の36章の王はエホヤキムで紀元前605年頃。時系列が逆である。時系列が前後しているため要注意。
 
「神はバビロンを用いてユダヤを滅ぼされる。だから、バビロンに降伏していのちを得よ」と預言するエレミヤは、国民の戦意を失わせる厄介者であったため、ユダヤ当局はエレミヤの神殿への出入りを禁止したのです。
 
そこで、書記のバルクが代わって巻物(御言)を読み聞かせたのですが、これがユダヤの首長たち(政府高官)の耳に入り、彼らはその預言に恐れを感じて、ぜひ、これは王にも聞いて頂かなければならないと判断し、王にも読み聞かせました。
 
しかし王とその家来たちはこのすべての言葉を聞いても恐れず、またその着物を裂くこともしなかったのです(36・24)。しかも、御言を書き記した巻物を暖炉の火で燃してしまいました(36・23)。
 
聖書に記された御言は、私たちに恐れをいだかせます。罪に対するさばき。悔い改めない者たちへ下される神の御怒り。これを聞いて、私たちは襟(えり)を正さざるを得ません。
 
しかし、エホヤキム王のように、御言を聞いても恐れず、悔い改めず、御言を焼き捨てるような人が居るのも現実です。
 
巻物は焼き捨てられましたが、神は再びエレミヤに、巻物に書き残せと命じられました(36・28)。 ※エレミヤ書の記述が年代順になっていない部分があるのは、このような経緯があった為ではなかと考えられる。
 
私たちも落胆せずに、御言を宣べ伝える者でありたい。キリストの手紙である私自身が、切り裂かれ、焼き捨てられようとも……。
 
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エレミヤ書 35章

2022年11月11日 | エレミヤ書
エレミヤ書 35章
レカブの子ヨナダブの子孫は、その先祖が彼らに命じた命令を守っているのである。しかしこの民はわたしに従わなかった。(35・16)
 
レカブの子ヨナダブの子孫とは、もとをたどるとケニ人です。このケニ人は、出エジプトを導いたモーセの義兄弟の子孫です。血統的にはアブラハムの子孫ではありませんが、出エジプトしたイスラエルの民に協力して、荒野における旅路を助けました。
 
次のような記録があります。
 
「サウルはケニ人に言った、『さあ、あなた方はアマレク人を離れて、下っていってください。彼らと一緒にあなた方を滅ぼすようなことがあってはならない。あなた方は、イスラエルの人々がエジプトから上ってきた時、親切にしてくれたのですから』。そこでケニ人はアマレク人を離れて行った。」(サムエル上15・6)
 
そのような理由で、サウル王がアマレク人と戦う際に、アマレクの地に居住していたケニ人を避難させたわけです。こうして、ケニ人そしてその子孫であるレカブ人たちは、元は異邦人でありましたが、主なる神を礼拝する民となって、イスラエルと共に住むようになりました。
 
とはいえ、彼らはカナンの地での定住生活を選ばず、荒野を旅するように天幕生活を続けました。また、ぶどう酒を飲まず、家も畑も持たず、遊牧生活を続けました。イスラエルからは「変わり者」に映ったことでしょう。それは、信仰の純粋性を保つための彼らなりの工夫です。
 
もちろん、律法は隠遁生活を命じていません。レカブ人のヨナダブの命令によるのであり、それは、定住して富を蓄えることで世俗にのめり込んで行くことを戒めたのだと思われます。
 
それは「地上では旅人である」ことを生き様で示した信仰の父祖アブラハム(ヘブル11・13)の生き方そのものでした。レカブ人たちは先祖の命令に従うことによって、堕落して行くイスラエルの中で純粋な信仰を保つ民としてこの時代まで生きのびていました。
 
エレミヤは、そのレカブ人たちを招いて酒宴をもうけたのですが、案の定、彼らは先祖からの命令ですからと断りました。彼らの対応をエレミヤは予測していたはずです。むしろ、信仰に堅く立つ彼らを引き合いに、ユダの人々の不信仰をいましめ、教えるためにそうしたのです。
 
そして主はレカブの子ヨナダブの子孫は、その先祖が彼らに命じた命令を守っているのである。しかしこの民はわたしに従わなかったと言われたのです。
 
異邦人であったレカブ人の方が純粋な信仰を保っていました。かたや、本家本元のユダヤ人は、信仰の本質である「神に聞き従う」という生き方を見失っていました。
 
イエス様もカナン人の女の信仰をお褒めになりました。ローマ人の百卒長の信仰に感動されました。異邦人である彼らのような信仰が果たしてイスラエルの中にあるのかと問われました。
 
では、私たちはどうだろうかと問われる出来事です。人々から「変わり者」と揶揄されても、イエス・キリストの教えに従い続ける信仰があるだろうか……と。
 
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エレミヤ書 34章

2022年11月10日 | エレミヤ書
エレミヤ書 34章
後に心を翻(ひるがえ)し、解放した男女の奴隷をひきかえさせ、再びこれを従わせて奴隷とした。(34・11)
 
バビロン軍の激しい攻撃にさらされている最中のことです(34・1)。ようやくユダの王ゼデキヤは、預言者エレミヤの言葉に耳を傾けるようになりました。
 
ゼデキヤ王は神の御前に身を正そうとしたようです。その結果、同族でありながら不当に奴隷とされている民の解放を決断しました。エルサレムの民もそれに同意し契約を結びました。
 
その契約はすなわち人がおのおのそのヘブル人である男女の奴隷を解放し、その兄弟であるユダヤ人を奴隷としないことを定めたものであった。(34・9)
 
ユダヤでは負債がかさんで同胞を奴隷とすることもありました。しかし、律法では7年目には、その負債を赦免し奴隷を解放せよと命じています。
 
元を正せばエジプトで奴隷であった民です。そこから、神が贖いだして自由の民としてくださいました。それなのに、同胞の民を奴隷として働かせるのは良くないと言われたのです。そこで、神は7年目を「安息年」として定め、負債を赦免し、奴隷から解放するよう命じているわけです。 ※神の御心は我々が自由になること。だから、一旦奴隷となってもそこから解放するのが神のご計画である。
 
この律法に従って、ヒゼキヤ王とエルサレムの人々は、奴隷解放を実施したのですが、冒頭の聖句のように後に心を翻し、解放した男女の奴隷をひきかえさせ、再びこれを従わせて奴隷としたのです。
 
奴隷を解放したのには、実は裏があったようです。というのは、敵に包囲されていて兵糧攻めを受けており、奴隷の食いぶちまで養いきれないという打算が働いたようです。解放するから、自分の食糧は自分で何とかしろというわけです。
 
しかし、一旦解放したものの、事態が変化しました。それは、ユダと同盟を組んでいたエジプト軍が南から進撃してくれたことによって、一時的ではありますが、バビロン軍が退去し始めたのです。
 
状況が変わるや、債権者たちは先の契約をひるがえして、再び民を奴隷としたというわけです。何と身勝手な振る舞いですか。目先だけの御利益信仰者たちは、このように〝ご都合主義〟の民になってしまいます。私たちはどうでしょうか。都合が良くても悪くても、主を愛し続けているでしょうか。
 
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エレミヤ書 33章

2022年11月09日 | エレミヤ書
エレミヤ書 33章
この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉(ほまれ)となり、栄えとなる。(33・9)
 
「この町」とはエルサレムのことです。いま正にバビロン軍に包囲され、破壊されようとしている町のことです。神のさばきを受け、神によって撃たれるこの町が、やがて、回復するときが来るのだと預言されています。
 
さらに、捕囚の民が帰還し、エルサレムは再建され、その町を治める歴代の指導者は真実な王であり、その町では、まことの礼拝者たちによる礼拝がささげられるようになると預言されています。
 
主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。また、わたしの前に燔祭をささげ、素祭を焼き、つねに犠牲をささげる人が、レビびとである祭司のうちに絶えることはない。(33・17~18)
 
こうして、エルサレムという町の名は、主にとって喜びの名となり、世界中の国民から羨(うらや)ましがられるほどの栄誉を受ける町になるのです。
 
このように、エルサレムという町は、神の御国の完成と密接につながっています。御国の首都がエルサレムであり、王であるキリストが住む都であり、王がこよなく愛する町です。
 
バビロンからの帰還民によってエルサレムは再建され、預言どおりの町になったかのようですが、長くは続きませんでした。神の国の王であるキリストが来られることによって完成するはずです。
 
いまから2千年前に王は来られましたが、エルサレムの人々は彼をキリストだとは認めず、彼を十字架につけました。そのようなエルサレムを悲しんで、キリストは涙されました。
 
しかし、必ず御言の通りになるはずです。キリストの再臨の時に完成します。ヨハネによる黙示録は「千年の王国の支配」について預言していますが、その期間に成就するのに違いありません。
 
さらには、このご計画は、天の都エルサレムの完成へと続いて行きます。王であるキリストの住まわれる都は、まるで花婿を迎える花嫁のように美しく整えられた姿で完成します。
 
この天の都エルサレムは、キリストの花嫁である教会によって形づくられているのです。
 
罪によって汚された地上のエルサレムがさばかれ、撃たれ、そして再建されたように、私たちキリストの教会も、神からの訓練と懲らしめを受ける中で、きよめられ、整えられます。
 
そうなさるのは、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるため」なのです(エペソ5・27)
 
果たしてそのようなことが実現するのでしょうか。でも、神ご自身も言われているように、それは「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」なのです(エレミヤ33・3)
 
人間には不可能のようにも思える事も、神は必ず実現なさいます。神の約束が確実であることを、このように表現なさっています。
 
もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのならエルサレム回復の約束も反故になることもあるだろう。しかし、そんなことは決してないのです(33・25~26)
 
面白い言い方です。太陽が昇ると昼間になり、そして、太陽が沈んで月が昇ると夜になるようにと神は定められました。もし、それを変更するようなことがあれば、神の約束も変更するだろうけど……と。
 
でも、そんなことはありません。それほど、神の約束は確かなのです。
 
今日も太陽が昇りました。ああ、神の約束は変更されていないのです。今日も月が昇り夜となるのを見るはずです。それを見て、私たちは、神の契約は破られることなく実現すると確信するのです。
 
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エレミヤ書 32章

2022年11月08日 | エレミヤ書
エレミヤ書 32章
人々はベニヤミンの地と、エルサレムの周囲と、ユダの町々と、山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々で、銀をもって畑を買い、証書をつくって、これに記名し封印し、また証人を立てる。それは、わたしが彼らを再び栄えさせるからであると主は言われる。(32・44)
 
第一回目のバビロン捕囚で、エホヤキン王とその兵士および従者たちは連れて行かれ、バビロンが任命したゼデキヤ王が傀儡(かいらい)政権として統治しました(列王下24・16~17)
 
これで、これで一時は落ちついたでのですが、ゼデキヤ王は反旗をひるがえし、独立を画策しました。それを察知したバビロン軍はエルサレムを包囲し、総攻撃が目前に迫っている時のことです。もはやユダ王国は風前のともしびです。
 
バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されたのです(32・2)
 
なぜなら、「バビロンに打ち勝つことはできない」「バビロンに降伏して生きのびよ」と語るエレミヤは、王からすれば戦意を喪失させる厄介者です。非国民扱いです。捕らえて口を塞ぐしかありません。
 
しかし、たとえ非国民呼ばわりされようとも、また王を敵に回そうとも、神の御言を曲げずに伝えたエレミヤの姿に学ばなければなりません。果たしてお前に彼のような気概があるのかと問われます。
 
さて、この状況下で、神は不可解なことをエレミヤに命じられました。エレミヤの従兄弟(いとこ)であるハナメル(ハナムエル)の土地が他人の手に渡ろうとしているので、親族であるエレミヤが買い取ってやりなさいと言われるのです(32・7~8)
 
律法では、各部族の土地は神から割り当てられた嗣業(しぎょう)であって、それを他者に手渡してはならないと定められています。つまり、神が定めた割り当ては、各自の使命なのだという考えです。
 
ですから、それが他人の手に渡るようなときは、その嗣業を守るために親族の者が代わって買い取る義務があったのです。この「買い取る」という行為を「贖う」(あがなう)と言います。
 
そこで、エレミヤは代価を支払い、確かに自分の所有であることの証書を作成し、それを壺に入れて保存しました。
 
でも、考えてもみてください。すぐにでもバビロンが侵略して、彼らの支配する土地となるのです。そんな土地の権利証書に何の効力がありますか。ただの紙切れ同然ではありませんか。
 
エレミヤもそのことを神にたずねています。
 
神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人 ――バビロンのこと―― の手に渡されようとしているのに、私に『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ』と仰せられます(32・25)
 
それに対する神の答えが冒頭の聖句です。
 
人々は ――中略―― 銀をもって畑を買い、証書をつくって、これに記名し封印し、また証人を立てる。それは、わたしが彼らを再び栄えさせるからであると主は言われるのです(32・44)
 
約束の地は、しばらくの間バビロンの支配下に落ちるが、神が買い取ってご自分のものになさる時が来るのだという意味です。神は、ご自分の所有となさった土地も、民も、決してお忘れになりません。必ずご自分の所有とするために買い戻されます。つまり、贖(あがな)うお方です。
 
エレミヤが作成した権利証書とは、神の契約をあらわしています。この契約が存在している以上、神は、必ずご自分のものとされます。神は契約をお忘れにならないからです。
 
私たちクリスチャンも「契約」を受けたものです。しかも、新しい契約です。エレミヤが権利証書を土の器に入れたように、私たちは肉体という土の器に権利証書を持っています。私たち自身は神に贖われて、神の所有になったという神の権利証書です。
 
神の御言によって書かれた権利証書です。この者は神の者だという約束の御言です。こんなすばらしい御言を私たちは宝のようにして、この土の器に持っています。何という感謝。
 
話しをもどしますが、神は、イスラエルをご自分の民となさった以上、それを忘れず、心を尽くして、愛してくださるお方です。
 
わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植えると言われるとおりです(32・41)
 
「心をつくし、思いをつくし、力をつくして主である神を愛せよ」と命じられる神もまた、「心をつくし、精神をつくし、真実をもって」私たちを愛してくださっています。
 
このような真実な神に栄光がありますように。
 
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エレミヤ書 31章

2022年11月07日 | エレミヤ書
エレミヤ書 31章
わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。(31・33)
 
神のご計画。それは「平安を与える」計画です。その計画の内容は、今日の31章では新しい契約を結ぶという計画であると述べています。
 
ご存知のように聖書は〝旧約〟と〝新約〟に分けられます。いま私たちが読んでいるエレミヤ書は旧約聖書に属しています。「旧(ふる)い」と呼ぶのは、「新しい」契約が登場したからです。
 
しかし、エレミヤの時代は、まだ旧い契約の時代です。それは、イスラエル民族がモーセを通して神と結んだ契約のことです。奴隷の地エジプトから救い出されて、シナイ山で結ばれた契約です。 ※これを「シナイ契約」と呼ぶ。それ以外にもアダムがエデンの園で罪をおかした時の契約、ノアのときの契約、アブラハムに結ばれた契約、ダビデ王に結ばれた契約……等々ある。エレミヤ書では、その代表的な契約として「シナイ契約」を取り上げている。
 
神が新しく結ばれる契約は、従来の契約とは次元の違う契約なのだと述べられています。
 
見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。(31・31~32)
 
承知のように、イスラエルの人々は旧い契約を守ることができませんでした。偶像礼拝にのめり込み、主なる神から遠く離れてしまったのです。そこで、旧約ではうまく行かなかったので、旧約を改良したのが新約なのではありません。
 
神のご計画の中には、はじめから「新約」のビジョンをお持ちでした。新約に向かうために、旧約の下で訓練し準備をなさったわけです。
 
では、旧約と新約とではどのように違うのでしょうか。今日のエレミヤ書31章で取り上げている項目をもとに整理しておきます。
 
(1)神の御言を心の板に書き記す。
 
旧約における御言は石の板に刻印されました。律法が刻印された十戒の石板がそれです。その「律法」という神の御言は、人々を活かすことができませんでした。とはいえ、律法が悪いのではありません。それを行うことのできない罪人が悪いのです。
 
律法は神の聖なる御言であり、神の義を示しています。しかし、もう一度申し上げますが、律法という御言は人を活かすことができませんでした。何故ですか。それは〝外側から〟の御言だからです。
 
しかし、新しい契約では、その御言を心の板に書き記すのです。どうやってですか。それは聖霊によって私たちの心に刻印されます。聖霊によって、御言が私の心になります。
 
聖霊が、御言を私の心に書き記してくださることによって、御言に似た心、御言に似た考え、御言に似た発想、御言に似た価値観、御言に似た生き方へと導かれます。
 
人は〝外側から〟言われても素直に聞き従えないものです。でも〝内側から〟湧き出る考えなら素直にできます。
 
「偶像礼拝するな」という命令は、旧約では〝外側から〟きました。外側から命令されて、時には嫌々ながら従います。どことなしに無理があります。だから限界があります。しかし、新約では、内住される聖霊が私にそういう思いを内側に起こしてくださいます。ですから、創造主だけを礼拝したいのです。偶像礼拝はしたくないのです。
 
このように、律法による場合は、どこか無理をしながら従います。肉の頑張りで従います。ですから、表面的には従っていても、心がついて行きません。だから長続きしません。
 
信仰生活が苦しいですか。無理しているな~と感じますか。もしそうなら、旧約の生き方です。外側からの力による宗教生活です。新約は違います。無理をしているわけではありません。礼拝したいのです。神を愛して生きたいのです。
 
「姦淫するな」と律法が言うので、欲求を抑えるのではありません。内住の聖霊も私の霊もひとつになって、姦淫したくないという思いを持っているのです。きよく生きたいのです。
 
お分かりいただけたでしょうか。新約は聖霊によって内側からがキーワードです。聖霊のお働きなくして新約はあり得ないのです。
 
(2)だれもが主を知るようになる。
 
「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。」(31・34)
 
出エジプトしたイスラエルの人々は、モーセを通して神を知り、モーセを通して御言を受けました。その後の人々も、預言者を通して御言を受けました。外側の誰かから教えてもらいました。それが旧約でした。
 
しかし、新約の時代は聖霊が内住される時代です。聖霊が教えてくださいます。聖書を読むとき、聖霊なる神よ、どうか教えてくださいと祈りつつ読んでみてください。何故なら……、
 
助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるからです。(ヨハネ14・26)
 
また、「真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれる」からです(ヨハネ16・13)
 
もちろん専門家である牧師や教師の指導も必要ですが、いつもそのようには行きません。御霊なる神の助けを得て、自分で御言を食べる生活は、新約時代のクリスチャンにふさわしい生き方です。
 
(3)もはや罪に定められない。
 
わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。(エレミヤ31・34)新改訳では「わたしは彼らの咎(とが)を赦(ゆる)し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」と翻訳しています。
 
何という恵みの宣言でしょう。あれほど堕落したイスラエルの罪を二度と思い出さないと宣言なさるのです。それは、罪の完全な代価が支払われたかです。イエス・キリストの十字架の死は、すべての人類の罪の負債を支払って余りある程の値うちです。
 
主が十字架で最後に叫ばれた言葉を思い出してください。完了したと主は言われました。「テテレスタイ」というその語句は「完済した」という意味です。私たちの罪の支払を完済してくださいました。
 
どうか、イエスのこの御言が、皆さんの霊魂に聖霊によって刻印されますように。聖霊はこの御言が本当の神の〝ことば〟であると証ししてくださいます。本当に完済したことを証ししてくださいます。
 
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」のです(ローマ8・1)
 
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エレミヤ書 30章

2022年11月05日 | エレミヤ書
エレミヤ書 30章
その日になると、――軍の主の御告げ。―― わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。(30・8)
 
先の29章では、神がお持ちになっている計画とは「平安を与える」計画だと宣言されていました。それは、将来と希望を与える計画でした。どのようにして、それは実現するのでしょうか。
 
今日の30章はさらに具体的に預言しています。
 
その日になると……とは、ユダの民がバビロンから解放される「その日」のことです。70年の期間が終わると、神は、奴隷の地バビロンから民を解放し、祖国の地に戻されました。
 
単に祖国に戻るだけではありません。バビロンの地で訓練された民は、神を愛し、神への熱心をもって帰還するのです。そして、民の中から良き支配者が誕生するのだと預言されています。
 
その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。――の御告げ。――」(30・21)
 
この支配者とはだれのことでしょう。帰還民を指導した総督ゼルバベルのことを指してもいるようですが、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは民を神に近づけるために十字架でいのちをささげてくださいました。
 
そして、彼らが二度と奴隷のくびきを負うことのないようにしてくださいました。
 
帰還民であるユダはバビロンの奴隷というくびきが砕かれましたが、罪の奴隷というくびきまでも砕くことはできませんでした。それはイエス・キリストのなさることです。
 
「くびき」とは、奴隷をつないでおく木製あるいは鉄製の首輪のことです。逃げ出したくても、くびきに繋がれているために逃げ出すことができません。逃げ出したとしても、首にはめられたくびきは奴隷であることのしるしとなって、再び連れ戻されます。
 
何と恐ろしい道具でしょう。罪のくびきもそれと同じです。しかし、そのくびきを砕くことのできるお方がおられます。イエス・キリストです。
 
自由を得させるために、キリストは私たちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならないと言われているとおりです(ガラテヤ5・1)
 
そのためには「堅く立って」と言われています。そうです。キリストを信じる信仰の上に「堅く立つ」のです。そのような約束がユダの民に与えられたのですが、その実現はさらに時を経なければなりませんでした。しかし、今やその時を迎えています。今は恵みの時です。
 
You Tube朝マナ エレミヤ書 30章 - YouTube
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エレミヤ書 29章

2022年11月04日 | エレミヤ書
エレミヤ書 29章
もし、あなた方が心を尽くして、わたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(29・13)
 
ユダヤ民族のバビロン捕囚は2回にわたって行われました。この第29章は、第一次バビロン捕囚によって連れて行かれた人々に向けて語られた預言です。
 
(1)捕囚の期間は当分続くので、バビロンの地で家を建て定住せよ。
 
妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならないと主は命じられました(29・6)
 
捕囚として連行される……そんな悲惨な出来事の中で、神は、そこで生きよ、増えよ、減らすなと命じられました。神が願っておられることは、民を滅ぼすことが目的ではなく、再生することです。
 
つらい出来事の中でも、私たちがそこで、生きて、成長することを神は願っておられます。
 
気落ちすることもであるでしょう。でも、いつまでも落ち込んではいられません。この境遇でなければ受けることのできないレッスンを学びつつ、信仰を増やそう。減らしてはならないのです。
 
(2)連れて行かれた町の繁栄(平安)のために祈れ。
 
わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからであると言われます。その繁栄はあなた方の繁栄(平安)にもなるのだと(29・7)
 
自分を苦しめ、卑しめる人々とその町のために平安を祈るなんて、悔しくて祈れません。でも、神は「敵のために祈れ」と言われるのです。それが、神の民としての積極的な生き方です。
 
なぜ自分はこんな職場に、こんな部署に……と、不平がありますか。なぜこんな家に生まれたんだろうと不満がありますか。しかし、場所を変えたら良くなるとはいえません。
 
時には、捕囚の民のように、その連れて行かれた場所の祝福のために祈る使命を、主はお与えになるのです。祝福は、場所を変えたどこか遠くにあるのではなく、私たちが祈るその所にあるのです。
 
天国は、あそこにあるとか、そちらにあるというのではなく、あなた方のただ中にあるのです。そんな捕囚の民は、自分の心にシオンへの大路があると賛美するに至りました(詩84・5)
 
(3)神のご計画は平安と将来と希望である。
 
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。(29・11)
 
神は、このバビロン捕囚を通して、民を訓練なさいました。当面の訓練はつらくて悲しいものですが、そのレッスンを逃げずに学ぶ者は、やがて平安な義の実を結ぶようになります。
 
人知をはるかに超えた神の知恵と導きを信頼しよう。
 
神のご計画は、災いを与えようというのではなく、平安であり、希望であり、将来なのです。神の目には、その将来のビジョンがはっきりと映し出されています。それは天の御国のビジョンです。
 
あなたはどんなビジョンを描いていますか。個人的な成功ですか。個人的な幸いですか。でも、それはあまりにも小さ過ぎませんか。
 
神の視点に立ったビジョンを共有するようにと、神は願っておられます。
 
さて、これらの神の約束は、ぽか~んと口を開けていたら満たされるわけではありません。今日の冒頭の聖句で語られているように、「心を尽くしてわたしを捜し求めよ」と言われるのです。バビロンという異教の地で、まことの神を見出し、礼拝することは戦いがあったに違いありません。私たちが住む日本も同じです。心を尽くして主を求めなければ、異教の習慣に流されてしまいます。
 
神を求め、神を愛することは、自然にできることではありません。心を尽くして、精神をつくして、力をつくして、主である神を愛するのです。もちろん、聖霊の助けを受けて……ですが。
 
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エレミヤ書 28章

2022年11月03日 | エレミヤ書
エレミヤ書 28章
預言者エレミヤは去って行った。(28・11)
 
このエレミヤ書では度々、偽(にせ)預言者について取り上げてきましたが、今日の28章ではアズルの子ハナニヤとの論争が記されています。
 
すでに、第一次バビロン捕囚があって、一部のユダヤ人と神殿の奉納物がバビロンによって持ち去られた時のことです。そこに、ハナニヤという預言者が登場し、次のように語りました。
 
「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる。わたしはバビロンの王のくびきを砕いた。二年の内に、バビロンの王ネブカデネザルが、このところから取ってバビロンに携え行った主の宮の器を、皆この所に帰らせる。
 
わたしはまたユダの王エホヤキムの子エコニヤと、バビロンに行ったすべての捕らわれ人をこの所に帰らせる。それは、わたしがバビロンの王のくびきを砕くからである」と(28・2~4)
 
ハナニヤの預言は人々から喝采を浴びました。しかし、聖書はこう語っています。
 
「今、私は、人に喜ばれようとしているのか。それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買うとしているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、私はキリストの僕ではあるまい。」(ガラテヤ1・10)
 
エレミヤは神に喜ばれようとしました。その違いは何処から来るのか。それは、焦点がなのか、それともなのかの違いです。人を意識し、人からの評価や評判が関心事であれば、惑わされて、やがて偽預言者に変質してしまいます。
 
なぜ、ハナニヤはかくも大胆に偽りの預言を語ることができたのでしょうか。彼は彼で「主が私に語られた」という体験と確信を持っていたのです。
 
謎を解く鍵が「列王紀上22章」にあります。
 
アハブ王は自分に都合の良い預言を語ってくれる預言者を重用していました。その預言者も王に気に入られることを語ろうと、神が示してもいないことを「主の御言」として語りました。
 
あまりにも偽りがすぎるので、主は、アハブ王をいざなって滅ぼそうと決意なさいました。そこで、ひとりの御使が〝偽りを言う霊〟となって、預言者の口に宿ることになった……と記されています。
 
もはや、ここまで来ると、完全に惑わされてしまいます。そんなわけで、偽預言者は、自分が真実を語っていると本気で思い込むようになるわけです。
 
人の歓心を買おうとすると、このように誘惑にあいます。
 
もはや、このような状態の人々と議論をしても始まりません。言い負かそうと肉の思いがかき立てられるだけです。そんな状況にあったエレミヤは、ハナニヤのもとを去って行ったのです。議論で決着をつけたがるのは肉の思いです。結論は主にゆだねて〝去って行く〟ことも大事なことです。
 
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エレミヤ書 27章

2022年11月02日 | エレミヤ書
エレミヤ書 27章
彼の地に時が来るまで、万国民は彼とその子とその孫に仕える。その時が来るならば、多くの国と大いなる王たちとが彼を自分の奴隷にする。(27・7)
 
ユダヤ人がバビロンの奴隷となる預言が続きます。「彼の地」とはバビロンのことです。バビロンに「時」が来るまで、ユダヤ人をはじめ万国民はバビロンの支配下におかれる。しかし、その「時」が来るなら立場は逆になる……というのです。
 
この預言が語られた時の状況は、バビロンの進撃に対してどう対応すべきかをめぐって国中が混乱しているときでした。周辺諸国の代表もエルサレムに集まって対応策を協議していたようです(27・3)
 
周辺諸国は一致団結して「反バビロン連合」を結成すべしと南ユダ王国に呼びかけたわけです。 ※27章前半は、その周辺諸国にあてた預言。後半12節以降はユダの王にあてた預言。
 
しかし、神は、バビロンに降伏するようにと、エレミヤを通して語られます。バビロンに仕えて生きのびよと言われるのです。このような選択肢は、当時のエルサレムの人々には考えられない道でした。
 
バビロンに仕えるなど、人々には永遠の滅びのように思えたことでしょう。しかし、神は時が来るまでと言われます。
 
私たちの神は「時」を支配なさるお方です。すでに21章と25章で見たように、その時とは70年の期間です。神が定められた「時」を信頼しよう。私に都合の良い時ばかりを考えていると、不安や恐れがつのるばかりです。
 
しかし、時を支配される神は、必ずその時を備えておられます。
 
終末時代の大患難期に、「獣」と呼ばれる反キリストが活動するのだと預言されているのですが、その場合も、「この獣には大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、42ヶ月のあいだ活動する権威が与えられた」にすぎないのです(黙示録13・5)
 
反キリストが猛威をふるおうとも、所詮それは神がゆるされた42ヶ月の期間だけです。彼が尊大にふるまおうとも、その権威さえも〝神が与えた〟のです。すべては神のご支配のもとにあるのです。
 
神は与え、取り去られるお方です。時を支配なさる神はほむべきかな。
 
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エレミヤ書 26章

2022年11月01日 | エレミヤ書
エレミヤ書 26章
わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。(26・2)
 
この26章の状況は先の25章より5年前のことです。エレミヤ書は時系列に記されていません。このように前後する記事があります。 ※エレミヤの預言を書き記した書物はエホヤキム王が破棄したため(エレミヤ36章)、再び書き記すことになる。時系列の違いはそのためであろう。
 
神は、エレミヤに御言を託すわけですが、その言葉を残らず語れ」「ひと言も残すなと命じられています。預言者とはこういうものなのだと教えられます。
 
これを語ると、聴衆のつまずきになりはしないかという心配があります。こんなことを語って、人々は自分のことを何と思うだろうかと不安にもなります。しかし、神の御言を取り次ぐ牧師として襟(えり)を正さねばなりません。
 
エレミヤは残さず語りました。ひと言も省(はぶ)きませんでした。その結果は次の通りです。
 
エレミヤが主に命じられたすべての言葉を民に告げ終った時、祭司と預言者および民はみな彼を捕えて言った、あなたは死ななければならない』」(26・8)
 
エレミヤと同時代の預言者にシマヤの子ウリヤがいました。彼もエレミヤと同様の預言を神からあずかり語ったのですが、その結果、ウリヤは捕らえられ殺害されました(26・20~23)。
 
人を恐れず語る勇気が必要です。時が良くても悪くても語る大胆さが必要です。
 
教会で仕えている牧師のために、世界に派遣されている宣教師のために、そして、各地域に置かれている聖徒たちのために、彼らが神の御言を大胆に伝えることができるように祈ります。
 

エレミヤ書 25章

2022年10月31日 | エレミヤ書
エレミヤ書 25章
主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤ人の地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。(25・12)
 
神は、イスラエルの民をバビロンへと引き渡されますが、それは「神を愛する民」として彼らを再生するためでした。
 
神の目的は明確です。謙遜と従順の民を得ることです。言い換えれば、「まことの礼拝者を得る」ことです。そのような民が暮らす世界こそ、天にふさわしい世界であり秩序だからです。
 
そういうわけですから、神はバビロンによってイスラエルに「死」をもたらされましたが、それは、そこから新しい「いのち」を得るためです。
 
この地は ――イスラエルのこと―― みな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える(25・11)ことになるのですが、やがて70年を経て回復するのだと主は語られました。
 
感謝すべきかな。我らの主はあわれみ深い神です。そして、回復なさる神です。
 
神の予告通り、バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ペルシャの王クロスによって、イスラエル民族は―― 正確にはイスラエル部族の内の南ユダ王国の人々なので、これ以後、ユダヤ民族とも呼ばれるようになった―― 約束の地に戻ってきたのです。
 
実際には、バビロン捕囚があってからクロス王による解放まで、ぴったり70年ではありません。ただ、七とか十という数字は完全を表すので「神の定めた期間」を表す「七十」なのかもしれません。
 
また、第二次捕囚の直前にバビロン軍によって完全包囲された日が記録されていますが、BC589年テベルの月の10日です。その日から、ユダヤ人が帰還して神殿建設の礎を据えた日、即ちBC520年チスリの月の24日までが、丁度70年であるとする解釈もあります。 ※バビロン軍がエルサレムを包囲した日……列王下25・1。礎を据えた日……ハガイ書2・15~19。
 
いずれにせよ、神は御言の通りをなさいました。これが偶然ではなく、神から出た事であることが明らかになるためです。
 
この25章の後半は、バビロンの滅びの預言と諸国の滅びの預言です。神の憤りのぶどう酒の杯と表現されていますが、この杯をすべての国々は飲むことになるのです。
 
神の御怒りの道具としてバビロンは用いられたにすぎません。神の民イスラエルに勝利したとしても、本来なら謙遜であるべき勝利です。なのに、バビロンは自分を神のようにして、おごり高ぶったがゆえのさばきです。そのさばきはペルシャの勃興によって実現しました。
 
しかし、他の諸国については、実現した部分もあれば、そうでない部分もあります。これは、終末(ヨハネの黙示録に預言されている大患難の時代のこと)に実現することであろうと思われます。
 
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エレミヤ書 24章

2022年10月29日 | エレミヤ書
エレミヤ書 24章
イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。(24・5)
 
先に私たちは、神が「いのちの道」と「死の道」を置かれたことを見ました(21・8~9)
 
それはバビロンに降伏して捕囚として連れて行かれ、そこで異教の民に仕えて生きることが「いのちの道」であり、逆に、エルサレムにとどまって徹底抗戦するのは「死の道」であるという意味でした。
 
一般的な考えでは、戦って殉ずるのが信仰を全うする道であると思われます。しかし、バビロンによる攻撃には、神の目的があるのだと語られています。
 
バビロンによる攻撃について「わたし自身が、……あなたがたと戦い……」(21・5)と言われているように、〝神が〟イスラエルを撃っておられるのです。これに抵抗してエルサレムに籠城することは、神に敵対することであり、それは滅びの道になります。
 
しかし、降伏してバビロン捕囚の道を選ぶことは、神に降伏したのであり、それは「いのちの道」になるという意味です。
 
そして、今日の24章になるわけです。
 
まず、はじめに神は二つのイチジクを見せられます。良く実ったイチジクと、悪くて食べられないイチジクです。
 
一見して、バビロンに降伏して捕らえ行かれる民の姿は、悪いイチジクのようにも見えます。そして、エルサレムにとどまり勇ましくバビロンと戦う人々は良く実ったイチジクに見えます。
 
しかし神の啓示は、この所(エルサレム)からカルデヤ人の地(バビロン)に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いイチジクのように顧(かえり)みて恵もうと言われるのです(24・5)
 
そして……
 
わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。と約束されたのです(24・6~7)
 
驚くべき展開です。バビロンの奴隷になることは、死も同然です。神の民であるユダヤ人としての誇りも地に落ちるのです。ところが、そこからの再出発を、神は用意なさっているのです。
 
神の御心とは何ですか。物事が順調に行くことですか。目の前にある困難に打ち勝つことですか。もちろん、そのような一面もあります。しかし、それが、すべてではありません。
 
捕囚の民となって敗北することも御心です。神の圧倒的な御手のもとで倒されることも御心です。肝心なことは、そのような神のお取り扱いの中で、謙遜と従順を学ぶことです。
 
バビロンに捕囚となった人々は、バビロンの地で悔い改めを学びました。その地で、神を愛する愛に目覚めました。こうして、神は、民を造りかえて約束の地に戻すというのが、神の御心でした。
 
安っぽいご利益宗教に慣れ親しんでいる人は、順調に行かないと「神の御心ではない」と勘違いします。困難や試練が立ちはだかると、「神に見捨てられた」と逆恨みします。
 
神のなさることはそんな単純なことではありません。神のなさることは、私たちには推(お)し量ることができないほど深いのです。ただ、私たちに求められていることは、神を信頼しつづけることです。
 
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エレミヤ書 23章

2022年10月28日 | エレミヤ書
エレミヤ書 23章
彼らはその先祖がバアルに従ってわが名を忘れたように、互に夢を語って、わたしの民にわが名を忘れさせようとする。(23・27)
 
「彼ら」とは偽(にせ)預言者のことです。エレミヤは預言者として神の御言を語るために召されていましたが、同じ時代に、〝自称預言者〟が多くいました。彼らは人々を惑わしていました。
 
もはや時は、神のさばきと滅びが来たらんとしているのに……、
 
「偽預言者たちは、主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず『あなた方は平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって『あなた方に災はこない』と言う」のです(23・17)
 
人々はこのような偽預言者たちの言葉を歓迎しました。しかし、エレミヤに与えられた御言は、さばきと滅びであり、真実な悔い改めでした。人々は狭い門より広い門を求めたわけです。 ※先の21章を参照。
 
この傾向は新約の時代にもあります。「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(Ⅱテモテ4・3~4)と警告しています。
 
神の御言ではなく、偽りの言葉を伝える偽預言者たちについて、神はわたしはわたしの言葉を互に盗む預言者の敵となると言われます(エレミヤ23・30)
 
〝御言を盗んでいる者〟だというのです。牧師として、御言をゆがめたり、混ぜ物をしたり、間引きしたりするなら、盗人になるわけであり、主の敵となってしまうというのです。自戒すべき言葉です。
 
そして、ついには、冒頭の聖句のように、主の御名を忘れさせよとする者となってしまいます。
 
神の御言をまっすぐに受け止めよう。堅い食物のような御言も、口の中で何度もかみしめながら、苦(にが)い時も、味わいながらいただくことにしよう。
 
最近の子どもは、甘みの強い食物が多いので味覚が鈍感になっているそうです。苦みとか酸味に伴ううまみが分からないというのです。神の御言もそうかもしれません。甘みだけを好んで、苦みとか酸味のある御言を食べなくなります。
 
エレミヤ書はなおも厳しい御言が続きますが、そんな心得でいただくことにしよう。
 
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