エレミヤ書 31章
わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。(31・33)
神のご計画。それは「平安を与える」計画です。その計画の内容は、今日の31章では「新しい契約を結ぶ」という計画であると述べています。
ご存知のように聖書は〝旧約〟と〝新約〟に分けられます。いま私たちが読んでいるエレミヤ書は旧約聖書に属しています。「旧(ふる)い」と呼ぶのは、「新しい」契約が登場したからです。
しかし、エレミヤの時代は、まだ旧い契約の時代です。それは、イスラエル民族がモーセを通して神と結んだ契約のことです。奴隷の地エジプトから救い出されて、シナイ山で結ばれた契約です。 ※これを「シナイ契約」と呼ぶ。それ以外にもアダムがエデンの園で罪をおかした時の契約、ノアのときの契約、アブラハムに結ばれた契約、ダビデ王に結ばれた契約……等々ある。エレミヤ書では、その代表的な契約として「シナイ契約」を取り上げている。
神が新しく結ばれる契約は、従来の契約とは次元の違う契約なのだと述べられています。
「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。」(31・31~32)
承知のように、イスラエルの人々は旧い契約を守ることができませんでした。偶像礼拝にのめり込み、主なる神から遠く離れてしまったのです。そこで、旧約ではうまく行かなかったので、旧約を改良したのが新約なのではありません。
神のご計画の中には、はじめから「新約」のビジョンをお持ちでした。「新約」に向かうために、「旧約」の下で訓練し準備をなさったわけです。
では、旧約と新約とではどのように違うのでしょうか。今日のエレミヤ書31章で取り上げている項目をもとに整理しておきます。
(1)神の御言を心の板に書き記す。
旧約における御言は石の板に刻印されました。律法が刻印された十戒の石板がそれです。その「律法」という神の御言は、人々を活かすことができませんでした。とはいえ、律法が悪いのではありません。それを行うことのできない罪人が悪いのです。
律法は神の聖なる御言であり、神の義を示しています。しかし、もう一度申し上げますが、律法という御言は人を活かすことができませんでした。何故ですか。それは〝外側から〟の御言だからです。
しかし、新しい契約では、その御言を心の板に書き記すのです。どうやってですか。それは聖霊によって私たちの心に刻印されます。聖霊によって、御言が私の心になります。
聖霊が、御言を私の心に書き記してくださることによって、御言に似た心、御言に似た考え、御言に似た発想、御言に似た価値観、御言に似た生き方へと導かれます。
人は〝外側から〟言われても素直に聞き従えないものです。でも〝内側から〟湧き出る考えなら素直にできます。
「偶像礼拝するな」という命令は、旧約では〝外側から〟きました。外側から命令されて、時には嫌々ながら従います。どことなしに無理があります。だから限界があります。しかし、新約では、内住される聖霊が私にそういう思いを内側に起こしてくださいます。ですから、創造主だけを礼拝したいのです。偶像礼拝はしたくないのです。
このように、律法による場合は、どこか無理をしながら従います。肉の頑張りで従います。ですから、表面的には従っていても、心がついて行きません。だから長続きしません。
信仰生活が苦しいですか。無理しているな~と感じますか。もしそうなら、旧約の生き方です。外側からの力による宗教生活です。新約は違います。無理をしているわけではありません。礼拝したいのです。神を愛して生きたいのです。
「姦淫するな」と律法が言うので、欲求を抑えるのではありません。内住の聖霊も私の霊もひとつになって、姦淫したくないという思いを持っているのです。きよく生きたいのです。
お分かりいただけたでしょうか。新約は「聖霊によって内側から」がキーワードです。聖霊のお働きなくして新約はあり得ないのです。
(2)だれもが主を知るようになる。
「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。」(31・34)
出エジプトしたイスラエルの人々は、モーセを通して神を知り、モーセを通して御言を受けました。その後の人々も、預言者を通して御言を受けました。外側の誰かから教えてもらいました。それが旧約でした。
しかし、新約の時代は聖霊が内住される時代です。聖霊が教えてくださいます。聖書を読むとき、聖霊なる神よ、どうか教えてくださいと祈りつつ読んでみてください。何故なら……、
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させる」からです。(ヨハネ14・26)。
また、「真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれる」からです(ヨハネ16・13)。
もちろん専門家である牧師や教師の指導も必要ですが、いつもそのようには行きません。御霊なる神の助けを得て、自分で御言を食べる生活は、新約時代のクリスチャンにふさわしい生き方です。
(3)もはや罪に定められない。
「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」(エレミヤ31・34)新改訳では「わたしは彼らの咎(とが)を赦(ゆる)し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」と翻訳しています。
何という恵みの宣言でしょう。あれほど堕落したイスラエルの罪を二度と思い出さないと宣言なさるのです。それは、罪の完全な代価が支払われたかです。イエス・キリストの十字架の死は、すべての人類の罪の負債を支払って余りある程の値うちです。
主が十字架で最後に叫ばれた言葉を思い出してください。「完了した」と主は言われました。「テテレスタイ」というその語句は「完済した」という意味です。私たちの罪の支払を完済してくださいました。
どうか、イエスのこの御言が、皆さんの霊魂に聖霊によって刻印されますように。聖霊はこの御言が本当の神の〝ことば〟であると証ししてくださいます。本当に完済したことを証ししてくださいます。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」のです(ローマ8・1)。