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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エレミヤ書 7章

2022年10月10日 | エレミヤ書
エレミヤ書 7章 
あなた方は、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。
(7・4)


ユダヤの人々の中には、〝不敗神話〟がありました。それは、エルサレムの町には主の神殿があるのだから滅びることがないというものでした。かつての日本が、われら神国ニッポンは滅びないと豪語していたのに似ています。

冒頭の聖句にあるように、人々は「これは主の神殿だ」と繰り返し言っていたのでした。しかし、神は、それは迷信であり偽りの言葉だ。そんなことを信頼してはならないと言われたのです。

確かに「神殿」とは聖なるものです。神は神殿とその町エルサレムを愛しておられます。ご自身の御名にふさわしい栄光ある所です。しかし、人々はそこで、とんでもないことを行っていました。

「子どもらは、たきぎを集め、父たちは火をたき、女は粉をこね、パンを造ってこれを天后(てんごう)に供える。また彼らは他の神々の前に酒を注いで、わたしを怒らせる」(7・18)

「天后」とは「天の女王」とも訳され、バビロンの女神イシュタルのことです。その女神への捧げ物として、パンを焼き、まつっていたのです。

また、このようなこともありました。

「ベンヒンノムの谷にあるトペテの高きところを築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。」(7・31)

幼児犠牲の儀式は異教のおぞましい習慣で、それがユダヤ人の中でも流行っていて、人々は幼児をいけにえとして火に焼き、占いと魔術に興じていたのです。このような神の忌み嫌われる愚行がたび重なる中で、ついに神は、神殿もエルサレムも滅ぼしてしまうと決断なさったのです。

さて、新約の時代における神殿とは、イエス・キリストを信じる者たち自身です。イエスを信じて聖霊を受けた人々は聖霊の宮です。この宮を汚してはなりません。御言は次のように語られます。

あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなた方はその宮なのだからである。(Ⅰコリ3・16~17)

このような神の峻厳の前に立ち得るのは、イエス・キリストの血によって日々きよめていただく他にありません。尊いイエスの血が流され、その血を受けることの幸いを感謝します。

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エレミヤ書 6章

2022年10月08日 | エレミヤ書
エレミヤ書 6章
あなた方は別れ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋(たず)ねて、その道に歩み、そしてあなた方の魂のために、安息を得よ。しかし彼らは答えて、『我々はその道に歩まない』と言った。
(6・16) 


南ユダ王国は岐路に立っていました。神のさばきが間近に迫っています。悔い改めて神に立ち帰るのか。それとも、神の招きの手を振り払うのか。

神は言われるのです。別れ道に立って、よく見なさい……と。良い道はどちらなのか。幸いな道はどちらなのか。よく考えて、安息への道を見出しなさいと、主は言われるのです。 ※「別れ道」を新改訳では「四つ辻」と翻訳。さぁ、どの道を行くのだと迫っている。

神は、私たち人間を、神の意のままに操(あやつ)るロボットのように創造なさったのではありません。自由意志を持つ人格的存在として創造なさいました。自分で選び、自らの意志で決断するようになさいました。

救いを選び取ることもできれば、滅びを選び取ることもできる。これが自由意志の世界です。正しい道を選び取るようにプログラムされたロボットには感情がありません。だから喜びがありません。善を選ぶことも、悪を選ぶこともできる自由意志があるので、生きる喜びがあります。神を愛する感動があります。これはロボットにはないことです。

「神はなぜ滅ぼされるのか」と神に不平を言う人がいます。でも、人には「救いを選び取る」自由意志が与えられています。そして、神は、幸いを選びなさい、いのちを選びなさいと命じておられます。その自由意志の結果としての滅びであり、救いなのです。

イスラエルの民をエジプトから連れ出した時点で、すでに神は語っておられます。

「わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすれば、あなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」(申命記30・19)

祝福の道を選びなさい」「いのちの道を進みなさいと神は命じておられます。ところが、人々は「我々はその道に歩まない」と言うのです。何とかたくなな心でしょうか。

主イエスも、狭い門を選びなさい。細い道を進みなさいと命じられました。いのちに至る門は狭く、その道は狭いのだ……と。しかし、残念なことに、多くの人は、広い門をくぐって、広い道を行きたがるのだ……と。

どうか、いのちを選び取ってくださいますように。祝福の道を選び進んでくださいますように。「こんな過ちの多い自分が、祝福の道なんて、図々しくて選べません」と言ってはなりません。

人生の岐路に立つ度に、神は、いつも「いのちと祝福の道を選びなさい」と命じておられます。失敗した者にも、堕落した者にも、なおも神は恵み深くあられて、「悔い改めて救いを得よ」と命じておられます。イスラエルの轍(わだち)を踏んではなりません。

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エレミヤ書 5章

2022年10月07日 | エレミヤ書
エレミヤ書 5章
しかし、あなた方は、その終りにはどうするつもりか。
(5・31)


預言者による呼びかけに対しても、人々の心はかたくなでした。エレミヤは、そのような人々について、悲しみをこめてこう祈りました。

「あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。

そこで、私は思いました。『彼らは、実に卑しい愚か者だ。主の道も、神のさばきも知りもしない』」(5・3~4・新改訳)

当時の人々の高慢ぶりが、次のようにえがかれています。

「彼らは主を否んでこう言った。『主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らの内にない。彼らはこのようになる』」(5・12~13・新改訳)

滅びなど来るはずがないと高をくくっていました。警告する預言者の言葉など、風に舞う木の葉の程度にしか考えていませんでした。

人々の態度は、被造者としての立場を超えていました。わが物顔に振る舞い、自らを神として高ぶっていました。だから、主はこう言われます。

あなた方はわたしを恐れないのか、わたしの前におののかないのか。わたしは砂を置いて海の境とし、これを永遠の限界として、越えることができないようにした。波はさかまいても、勝つことはできない、鳴りわたっても、これを越えることはできない(5・22)

海の波でさえ砂浜という境界線を守って、それを超えようとしないのに、人間よ、お前たちはその境界をやすやすと越えて、自らを神とする高慢の罪の恐ろしさを知れ……と言われます。

さあ、このような態度でよいのでしょうか。そのような不遜な生き方をして、どのような終わりを迎えようというのでしょうか。主は、終わりを考えよと言われます。今日の冒頭の御言です。

しかし、あなたがたは、その終りにはどうするつもりか。(5・31)

神の呼びかけには、厳しさの向こうに、悔い改めて立ち帰れという願いが込められています。十字架による救いの道を提供しながら、「あなたは、そのまま行って、その終わりにはどうするつもりか」と問うておられるのです。

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エレミヤ書 4章

2022年10月06日 | エレミヤ書
エレミヤ書 4章
あなた方の新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。
(4・3)


「新田」とは、これから開墾しなければならない耕地のことです。新改訳では耕地を開拓せよと翻訳しています。開墾して、いばらを取り除かなければ、豊かな収穫は期待できません。

神は、新田を開墾せよと命じておられます。それは、なおも、民の心は荒れ果てたままで、いばらが生え、御言の種をまくには、あまりにも混沌としているからです。

いばらの地のような心を、どのように耕せばよいのでしょうか。そのことについて、神は、心に割礼を受けよと命じています。

ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。(4・4)

イスラエルの民は肉体の割礼は受けていましたが、それは「心の割礼」へと向かわせるための準備でした。肝心なことは、心をおおってしまっている、いばらのような考えを取り除くことです。「心の包皮を取り除け」とはそういう意味です。

いばらのような心。それは、かたくなな心です。頑固な心です。エレミヤ書では、民のかたくなな心についてくり返し述べられています。うなじの固い民だとも言われています。

そのような心に、神の御言が蒔(ま)かれても、根を張ることができません。だから、開墾しなければなりません。そのために、神は、時に試練の中を通過させ、試練という鍬(くわ)を使って耕されます。

イスラエルにとってアッシリヤによる侵略、そして、その後のバビロン捕囚という患難は、民のかたくなな心を砕くためでした。彼らは、捕囚の地バビロンで悔い改め、悔いし砕けし魂を与えられるようになったからです。

今も、神は、様々な出来事を通して、私たちの心を耕そうとなさっています。そのような主のお取り扱いを受け入れるとともに、聖霊の助けを得て、荒れ地のような霊魂を耕す機会としよう。それは豊かな収穫に向かっているのです。神のなさる将来の計画は、このように壮大で、恵み深いものです。

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エレミヤ書 3章

2022年10月05日 | エレミヤ書
エレミヤ書 3章 
背信の子らよ、帰れ。わたしはあなた方の背信をいやす。
(3・22)


夫がありながら他の男と関わりを持つようにして、真の神をよそに神ならぬ神々と関わることを、霊的な姦淫であると表現しています。

イスラエルはソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂したわけですが、エレミヤ書3章では、北イスラエルを「姉」、南ユダを「妹」と呼んでいます。

姉である北イスラエルは偶像礼拝を重ね、神の御怒りは、アッシリヤ帝国による侵略というかたちで表されました。その姉を見て、妹である南ユダは学ぶべきでした。わが身を正すべきでした。

ところが、姦淫を恥ることもせず、いずれ主なる神のところに戻れば良いではないかと、うそぶく始末でした。

「あなたは多くの恋人と姦淫を行った。しかもわたしに帰ろうというのか」(3・1)と主は言われ、「あなたには遊女の額があり、少しも恥じようとはしない」と言っておられます(3・3)

人間同志であれば、これはもう完全に修復不可能です。しかし、それでも主は言われるのです。背信の女イスラエルよ、帰れ」「背信の子らよ、帰れとくり返し述べられています。

この神の呼びかけは、イスラエルに語られただけでなく、今にいたるまで、神が人類に呼びかけておられる御言です。しかも未信者だけに言われているのではなく、すでに信じている人々にもです。

自分は「帰って来ている」と思い込んでいても、意外や、主から遠く離れている自分の姿に気付いていないかも知れません。

さらに主は、あなた方の背信をいやすと言われます。背信とは霊的姦淫のことです。具体的には偶像礼拝のことです。さらには「罪」の問題です。

罪の解決はゆるしいやしのふたつの段階を経ます。神はまず「ゆるす」と言われ(3・11)、そして、「いやす」と言われます(3・22)

ゆるしは法的な救いですが、いやしは実際的な救いです。両方が必要です。罪をゆるされただけでなく、罪を犯さなくてすむように変えられる必要があります。

新約の時代になって、イエス様は十字架にかかって罪の代価を支払って下さいました。これは罪の「ゆるし」です。そして、聖霊を受けよと命じられました。それは、聖霊が内住なさって、罪人の性質や考え方を「いやす」のです。このイエスのもとに帰ろう。

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エレミヤ書 2章

2022年10月04日 | エレミヤ書
エレミヤ書 2章 
わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水溜を、水を溜めることのできない、こわれた水溜を、自分たちのために掘ったのだ。
(2・13)


まことの神を捨てて偶像礼拝に走った民に対する、痛烈な指摘が語られています。

第一に、若き日の誠実を失った妻だ。

「わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている」(2・2)と主は言われるのですが、今では、民は神への忠実を失い離れて行きました。

エジプトから救い出された頃の民は、まがりなりにも一生懸命に主に従おうと、あの荒野の中を生き抜いてきたのに、カナンの地に定住し落ち着いて来るや、その地の習慣にならって、民は偶像礼拝に傾いて行きました。

新約の時代の私たちにとっても、イエスを信じて救いを受けた頃の純情を忘れていないだろうか。はじめの愛から離れていないだろうか。わが身に問うてみる必要があります。

第二に、質の悪い雑種のブドウになりさがった。

「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか」(2・21)

主イエスを信じる道は、純良種のぶどうの木の生き方です。しかし、そこに偶像礼拝の習慣が混じるようになると、質の悪い雑種のぶどうの木になってしまいます。

イスラエルの民はカナンの地の混ざりものによって苦しみましたが、新約のキリスト教会の歴史にも同じことが言えます。ローマ帝国の国教となることによる堕落、マリヤ崇拝などの偶像の習慣、免罪符による罪の軽減等々……。

私たちは種々の混ざりものによって、霊的な純粋性を失ってはなりません。御霊で始めたのに肉で仕上げようとしてはなりません。

第三に、欲情にあえぐ発情期の雌ロバのようだ。

「荒野に慣れた野ろばだ。欲情に息はあえぐ。そのさかりのとき、だれがこれを静めえようか」(2・24)

ここまで偶像礼拝の虜(とりこ)になったら、もう手の着けようがありません。本人も見境がつかなくなっています。こうなる前に悔い改めなければなりません。

第四は、真の泉を捨てて、壊れた水溜を掘った。

「真の泉」とは真の神、創造主のことです。このお方からは無尽蔵の水が湧き上がります。その方の私たちに対する愛は、途絶えることがありません。

主イエスも言われました。「わたしの与える水を飲む者は渇くことがないばかりか、その人の内で泉となって湧き上がるのだ」と。このようなお方を捨てるとは、何という過ちでしょう。

しかし、この世の神である悪魔が、人々の目をおおってしまうので、キリストの栄光が見えなくされています。だから、人々は壊れた水溜を掘るのです。

「壊れた水溜」とは、偶像のことです。神ならぬ神々のことです。お金を神とし、富や地位を神とすることも「壊れた水溜」です。ここに水を溜めておけば、渇きを潤すだろうと思って、一生懸命掘るのですが、すぐに水は干上がってしまいます。

真の泉に立ち返れと主は言われます。渇いている者は、わたしのもとに来て飲めと主は言われます。

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エレミヤ書 1章

2022年10月03日 | エレミヤ書
エレミヤ書 1章 
あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしが遣わす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。
(1・7)


「エレミヤ書」は、預言者エレミヤを通して神が語られた記録です。時代は紀元前7世紀後半。北イスラエル王国はすでにアッシリヤによって滅ぼされ、残された南ユダ王国は末期の時代でした。

「アモンの子、ユダの王ヨシヤの時、すなわちその治世の13年に、主の言葉がエレミヤに臨んだ」(1・2)と記録されているように、列王紀下の第22章以降が並行記事です。

先のイザヤは紀元前8世紀後半の人物ですが、エレミヤはその後、100年以上あとの人物ということになります。

さて、列王紀にも記されているように、時代は益々暗黒に向かって進んでいました。そのような中で立ち上がったのはヨシヤ王でした。ヨシヤ王は宗教改革に尽力(じんりょく)した王として有名です。

そのヨシヤ王の治世の第13年に、エレミヤは召されました。その時、彼はまだ18~20才位であったと思われます。ですから、エレミヤは恐れをなしてこう応えました。

ああ、主なる神よ、私はただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません(1・6)。そのエレミヤに対する主の返答が今日の冒頭の聖句です。若者にすぎないと言ってはならないのです。

エレミヤが召された時、実は、南ユダの王ヨシヤも21才の若者でした。ヨシヤは8才で即位していますから、治世の第13年ということは王が21才の時のことです。そして、ヨシヤ王は王国の中から偶像を取り除き、信仰復興運動を主導するわけです。

時を同じくして、神は、エレミヤという若者を呼ばれました。若いから何もできないのですか。立派な人だから、神はその人を用いられるのでしょうか。欠点のない者が神に用いられるのでしょうか。

神の方法は多くの場合、弱い者を用いられます。欠けのある者を用いられます。

若者とは何でしょうか。弱さとか欠けのある者です。エレミヤは、おのれの弱さ、不完全さを知っていました。しかし、弱いところに神の力は働くことを信じるのです。

弱さを知るからこそ神に求めます。欠けを知るからこそ祈らざるを得ません。

ですから「私はまだ若い」と言ってはいけません。「私はクリスチャンになって間もない」と言ってはなりません。「私は老年で力がない」と言ってもなりません。「私は足りない」と言ってはなりません。

主が遣わされるところで、主イエスを証ししよう。

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