油壷の地名の由来は
戦国時代の武将、北条早雲と三浦道寸義同との
新井城での戦いが起源だそうです。
三浦道寸義同は、北条早雲を迎え撃つため一族と共に新井城に立て籠もりましたが、
3年に及ぶ篭城戦の末、城は落ち、
道寸も敗死しました。
この時の凄惨な戦で湾が血に染まることとなり、
あたかも油を流したかのような様であったことから、油壷と呼ばれるようになったとか。
それまでは新井壺とでも呼ばれていたのでしょうか。
波のない穏やかな湾では、有り得る事のような気もします。
これが空堀で、ここから先が新井城の本城と思われる場所です。
新井浜から本丸を見る。
二の丸は油壷マリンパークのあたりで、
二の丸から海側に下ったところに三浦道寸の墓があります。
この墓は江戸時代に三浦一族の後裔に当たる人が建てたものだそうです。
導寸の辞世の句
討つものも討たるるものもかわらけよ
砕けて後はもとの土くれ
この句は小学生向けの「学習漫画日本の歴史」の中でも紹介されていました。
このような無常観を詠うのは、当時の一般的な感性のようで、
周防の大内義隆の辞世の句も同じようなイメージです。
討つ人も討たるる人ももろともに
如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)
辞世の句というのは、いつごろから始まったものなのでしょうか
武将が討ち死に覚悟の最後の一戦に臨む時に辞世の句を詠むという慣習は
太平洋戦争のころまであったようですね。
戦国時代の武将、北条早雲と三浦道寸義同との
新井城での戦いが起源だそうです。
三浦道寸義同は、北条早雲を迎え撃つため一族と共に新井城に立て籠もりましたが、
3年に及ぶ篭城戦の末、城は落ち、
道寸も敗死しました。
この時の凄惨な戦で湾が血に染まることとなり、
あたかも油を流したかのような様であったことから、油壷と呼ばれるようになったとか。
それまでは新井壺とでも呼ばれていたのでしょうか。
波のない穏やかな湾では、有り得る事のような気もします。
これが空堀で、ここから先が新井城の本城と思われる場所です。
新井浜から本丸を見る。
二の丸は油壷マリンパークのあたりで、
二の丸から海側に下ったところに三浦道寸の墓があります。
この墓は江戸時代に三浦一族の後裔に当たる人が建てたものだそうです。
導寸の辞世の句
討つものも討たるるものもかわらけよ
砕けて後はもとの土くれ
この句は小学生向けの「学習漫画日本の歴史」の中でも紹介されていました。
このような無常観を詠うのは、当時の一般的な感性のようで、
周防の大内義隆の辞世の句も同じようなイメージです。
討つ人も討たるる人ももろともに
如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)
辞世の句というのは、いつごろから始まったものなのでしょうか
武将が討ち死に覚悟の最後の一戦に臨む時に辞世の句を詠むという慣習は
太平洋戦争のころまであったようですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます