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防衛大学走水海上訓練場
カッターボートが並ぶ、防衛大の訓練場
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ここへ来て、このカッターボートを見ると、30年前に私が担当していた会社の社長さんの事を思い出す。
社長さん(Yさん)は軽巡洋艦名取の元乗組員だった。
名取はフィリピン沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈するが、Yさんは奇跡的に生還する。
以下「先任将校」松永一郎著のまえがきから当時の様子を引用。
昭和一九年八月、軍艦「名取」はフィリピン群島マニラからカロリン諸島パラオへ、緊急戦備物件の輸送中、敵潜水艦から魚雷攻撃を受けて撃沈された。場所は、フィリピン群島サマール島の東方三百マイル(約六百キロ)の海域だった。・・・・中略・・・・
航海長小林英一大尉(当時二十七歳)は先任将校として、カッター三艘および生存者百九十五名をもって軍艦名取短艇隊を編成した。しかし、食料(乾パンは少々あった)も真水もなく、また磁石とか六分儀などの航海用具も何一つ持たなかった。・・・・・・中略・・・・・・・・
そして十三日目の早朝、短艇隊はついにミンダナオ島の北端スリナガオにたどり着いた。
食事も休養も十分取らずに毎日十時間カッターを漕いでいたので、接岸したときは体力の限界点だった。・・・・後略・・・・
カッターボートはこれより大きかったかは知らないが、一艇に65名も乗り組み、太平洋の荒波の中、ひたすら櫓をこぎ続けた。
よくぞ冷静に対応したものだと思う。
昔の海軍兵学校では、教官が無理難題の状況を設定し、如何に判断するかという授業が行われていたと聞く。たとえば東京湾にゴジラが現れたらどうするかというような設問だったようだ。
名取のYさんのように、昔は空前絶後の経験をされた人がけっこうおられた。そんな人たちが今の日本を引っ張ってこられたのだと思う。
また話が長くなった。
旗山崎は公園として整備され、砲台跡が見学できるようになっていた。
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帰りは馬堀海岸から堀之内駅へ
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