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イタリアより

滞在日記

アッシジの守り神/聖ルフィーノ大聖堂

2012年02月02日 | アッシジ

サン・ルフィーノ大聖堂(ドゥオーモ)

カトリックには、「守護聖人」という地域に根ざした守り神がいます。例えば、フィレンツェなら、守護聖人は「洗礼者のヨハネ」、ヴェネチアは「聖マルコ」、少し飛んで日本では、カトリックを伝えたことによる功労から「フランシスコ・ザビエル」がその名を連ねています。面白いところでは、職業にも守護聖人がいて、中世の教育に労を尽くした「聖イシドールス」という思想家はプログラマーなどIT関連の「守護聖人」なのだそうです。何でも彼は、断片的な情報を集め、それらを見事にまとめ上げる達人だったからだとか。

ここアッシジは、サン・フランチェスコの町なので、守護聖人はこの「フランチェスコ」だと思いがちですが、実は殉教者の「聖ルフィーノ」が守護聖人になっています。アッシジは古代ローマからある古い町ですが、ルフィーノはこの町に初めてキリスト教を伝えた初代の司教でした。238年に殉教したと伝えられていますが、その頃はローマ帝国が強大な力を誇った時代で、徐々に帝国内に浸透していくキリスト教に対する迫害も熾烈を極めていました。布教のためにどれほどの辛苦を舐めたか、「殉教者」という三文字が彼の重い歴史を物語っています。フランチェスコが生まれる900年以上も前の時代…アッシジの守護聖人ルフィーノの生涯は、もっともっと語られていい、と思いました。

さて、ドォーモそのものは、壊されたり立て直されたりして、完成までに長い年月が掛かっていますが、元々この場所はローマ時代から形をなしていたので、壁には当時の古い石が今でも埋め込まれているのが分かります。又1028年頃に立て替えられた古い建物の跡が、聖堂内の入口近くの床下にガラス張りで見ることが出来ました。そして何と言っても、この聖堂の美しさを思うのは、ファサードです。特にバラ窓の装飾は見事で、まるでレース編みをはめ込んだよう。アッシジの山に含まれるピンク色の土もその優雅さを際だたせています。聖堂内に入って見れば、窓から優しい光が射し込み、採光の観点からも実に機能的に出来ているのに気づきます。


レース網のような美しいバラ窓には使徒も配されている


聖堂の建設には途中で中断した時期もあって、それ故に全体はロマネスク様式ではあるものの、その後、一世紀の時を経た、初期のゴシックのような風情も上層部には混在して、それでも建物全体に違和感のない不思議な風格をかもしだしています。ローマの貯水槽を基礎とした鐘楼も、のちに1階分が足されたとのことですが、聖堂が、立て直されるたびに立派になれば全体的なバランスを取るのにそれも必要なことだったに違いなく、全ての設計を担ったとされるジョバンニ・ダ・グビオの苦労も偲ばれます。

このドォーモで、フランチェスコやキアラを初め、彼らの兄弟達のほとんどが洗礼を受けました。内部は撮影が禁止なので写真はありませんが、聖フランチェスコや聖キアラの像もルフィーノと共にあって、やはりこのドォーモは町の重要な聖堂なのだと思わせられます。

それにしても、ローマの教会などとは明らかに違って、この地の教会や聖堂はどこもほんとに慎ましやかです。教会の中に居るのは、きらびやかな衣服をまとった富める人、外には貧しい身なりで、それでも懸命に祈る人。この大きな矛盾に気付き、清貧の中に生涯を生きたフランチェスコとその仲間達、そして彼らを導いたであろう聖ルフィーノのドォーモは、フランチェスコとキアラの二つの聖堂を両手に包み込むように建っていました。

【余談】


若者達と(^^)

ルフィーノ大聖堂の前に、学生達がたむろしているお店がありました。聖堂内の見学時間までまだ20分近くもあって、ちょっとそのお店を覗いてみました。中からはピザの焼けるいい匂い~。お店は5~6人も入れば超満員の状態ですが、学生の一人が、「どうぞ」と席を譲ってくれて、私もピザを食べました。聞くとはなしに彼らの会話に耳を傾けているとクリスマスはどうするか、という話題のようでした。外にも店内に入りきれない学校帰りの若者がいて、どうもこの近くに学校があるらしいと推測できました。


聖ルフィーノ聖堂から続くトッリオーネ通り


聖堂の近くには中距離バスの発着地になっているマッテオッティ広場もあると見当を付けて聖堂の横の道を上がっていくと、まさしく推測通り、トッリオーネ通りはその広場に続いていました。そしてマッテオッティ広場の上方には寄宿学校があって、件(くだん)の若者達はこの寄宿学校の生徒だったと合点がいきました。更には地図には載っていない、この広場に行く近道も見付けて何だか私はすっかり嬉しくなりました。

その近道とは…なんとエレベーター

マッテオッティ広場への近道になるエレベーター

誰もいなくてちょっと不安だったけど…恐る恐る乗ってみました(^^)


エレベーターがあるのは、聖キアラ聖堂から少し先にある坂道を上がって出るアレッシ通りです。聖キアラ聖堂から聖ルフィーノ聖堂に行く途中になりますが、最初はこのエレベーターには気づきませんでした。でも二度目にこの通りを歩いたとき、ハテ?この建物は何だろか?と持ち前の好奇心が湧いたのでした(*^_^*)

又このあと、エスカレーターも発見。中世の石造りの町にエレベーターエスカレーター

なんて凄いんだ!聖フランチェスコの町は!!(^^)!
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アッシジの魚の小骨

2012年01月30日 | アッシジ

私のお気に入りの町角

映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」にも似たような通りが…(^^)

アッシジの小さな旧市街は、バスも巡回していますがバスを待つよりも歩いた方が断然早いです。先に紹介したコムーネ広場は、メイン通りになるサン・フランチェスコ通りを初め、ルッフィーノ、サン・パオロ、アレッシなど、どの通りもこの広場に通じていて、町巡りを始めるとこの町は歩くように出来ている、と実感します。

カルチェリの庵に連れて行ってくれたタクシーの運転手さんに聞くと、このクリスマスの前後は他の都市と同様に、一年の内で最も観光客が少ない時期なのだそうで、私もどこに行ってものんびりと過ごせたし、町の中に点在する教会もゆっくりと見ることが出来て、オフシーズンのメリットを思う存分味わいました。


小道から、隣の通りももひょっこり見える

しかし初日、町を歩き始めて少し違和感を覚えました。喉に魚の小骨が刺さったような感覚…。それが一体何に起因するのか、しばらく分からないままいましたが、二日目、やっと気が付きました。魚の小骨の正体は、車です。


道路脇に並ぶ車


狭い通りを背後から猛スピードで上がって来る、家と家の間を縫うように坂道の上からも降りてくる、その度に私は石の壁に身を寄せて、これらの車をやり過ごしましたが、時には、ショルダーバックのかけ紐を車のサイドミラーにひっかけられそうになったこともありました。それは、自家用車だったり、荷物を運ぶトラックだったり、タクシーだったり様々ですが、いずれも歩行者に配慮するなんてこともなく…


こんな狭い坂道を車はスピードをあげてやってくる…



「歩行者専用」「犬はノーリード禁止」の標識のある通り

勿論、坂だらけの町に生活する人たちの足として、車は欠かせないのは当然ですが、フランチェスコやその兄弟たちの足跡を当時を偲びながらゆっくりとたどるのには、背後から迫る車や頭上から勢いよく降りてくる車はちょっとしたストレスになりました。今は閑散とした町の中ですが、観光客や巡礼者が増えてくるシーズンになるとどうなるのでしょう。歩行者天国のように、町の中は車の乗り入れが禁止にでもなるのでしょうか。

これは町の人達のことを考えないだけの、単なる観光客のわがままかも知れないと思いながらも、町巡りの間中、魚の小骨はちくちくとちょっとやっかいなものでした^^;。

が、しかし、翌日、この魚の小骨に助けられる事態になろうとは…(-_-;)
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地獄の丘へ(アッシジ)

2012年01月26日 | アッシジ

その昔「地獄の丘」と呼ばれていたロッカ・マッジョーレ


町の中心はコムーネ広場です。広場といってもとても小さな場所です。でもコムーネ広場はどこに行くにも通る、いわばアッシジ旧市街のおへそのような位置になるので、ここを起点にすれば行き先も決めやすい結構便利な場所でした。初日、サン・フランチェスコ聖堂の見学後、コムーネ広場まで行き、そこからロッカ・マッジョーレへ上りました。


コムーネ広場


この広場から右手上方に伸びるサン・ルフィーノ通りに入ってロッカ・マッジョーレへ向かいますが、この道は、その名前の通り、アッシジの守護聖人を祀るサン・ルフィーノ大聖堂に続きます。そして聖堂の前を通り過ぎると道はぐっと狭くなり、古い民家が立ち並ぶエリアになります。その様子から察すると、恐らく、アッシジの町の中でも一番歴史のある地区なのだと思いますが、この道を更に上へ上がって行きました。


ルッフィーノ大聖堂が見えて来た



ここから、アッシジで最も歴史の古いエリアに入ります。道も狭くなって…

まだまだ上へ上へ石畳の道を上ります



アッシジの猫にもご挨拶~ボンジョルニャンコ♪



家々の間も縫って~



階段も上がりますハァハァゼイゼイ



古い住宅街を抜けて山道を登り切ると…そこが地獄の丘


ロッカ・マッジョーレはアッシジの町の一番上に築かれたローマ帝国時代の城砦ですが、当時はここから町を監視していたとか。てっぺんに上るとアッシジの町やウンブリアの平原が一望に見渡せて、成る程、監視するにも町を守るにも、絶好の見張り所だったことがよく分かります。平和な現代ではこうして景観を楽しむだけで済みますが、戦いに明け暮れていた時代には、それぞれの命運をかけて緊迫した毎日が続いていたのでしょうね。

しかし、このロッカ・マッジョッーレ、その目的が、監視する為の城塞なら随分圧迫感を覚えるし、町を守るためだと聞けば、なんと頼もしい…見方一つで、この城塞のイメージがコロリと変わるのが面白いです。


ロッカ・マッジョーレから望む景観(下方右にサンタ・キアラ聖堂、左にルッフィーノ大聖堂)


この日は、とても寒くて山道に入ると雪も降り始めました。私一人がトボトボ歩く中、地元のお年寄りに会ったのですが、「頂上は風があってとても寒いよ」と声を掛けてくれました。私は「ありがとうございます。でも行って来ます」と返事をしましたが、こうして赤の他人の私を気遣ってくれたことがとても嬉しくて、もう一踏ん張りしようと精気が湧いてくるようでした。

ロッカ・マッジョーレの内部は入場料を払って入ることが出来ますが、入口は錠前が掛かっていて閉まっています。聞けば、城塞の中は人一人がやっと通れるほど狭くて暗くて、とんでもなく閉塞感漂うトンネル状になっているらしいのですが、そこを通り抜けて展望台に出れば、アッシジの絶景が見られるのだとか。とても残念でしたが、それでも半日観光や一日観光ではなかなか訪れにくい場所だけに、ここまで上って来られただけでも私は満足でした。


私一人がぽつんと居ます(^^)

それにしても、ロッカ・マッジョーレが「地獄の丘」と呼ばれる理由。それは、当時ここが刑場になっていて、沢山の人々が処刑された場所だったからだそうですが、ローマ帝国の歴史を思うと頷けることでもあって、神の名の下に宗教が権力を持つといかに悲惨な世界になるか。若き日に十字軍に参加し身を以て知ったフランチェスコの懊悩を改めて思うことでした。
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悪魔の絵(アッシジ)

2012年01月20日 | アッシジ

サン・フランチェスコ聖堂

いいお天気になりました!


改めて思うと、アッシジは不思議な町でした。クリスマスが近いオフシーズンだったとはいえ、町の中は静かでどこか心が安らぐような空気がありました。同じキリスト教の巡礼地であるバチカンのような重々しさも圧迫感もなく、それでいて自ずと敬虔な気持ちが湧くような、そんな町の風情でした。やはりこれもサン・フランチェスコの町故に、だからでしょうか。先日、私の友人が、一年に渡る四国巡礼を無事終えたと言って来ましたが、彼女の境地もこんなだったかと、ふと友を思いました。


この坂道を上って…


この坂道(矢印が宿泊先のホテルの私の部屋(^^))を上ってたどり着くのが、サン・フランチェスコ大聖堂です。二日間、何度もこの道を歩きました。ローマからフィレンツェへの途中に立ち寄ることの出来るアッシジですが、例えば半日観光をするなら、真っ先に行くのは、この大聖堂だろうと思います。私も、到着したその日にスーツケースを部屋に投げ入れ、すぐに出掛けました。お天気が少し崩れかかっていて、とにもかくにも、ここだけは、と急いだのです。まさかベネチアのようにアックアアルタの心配はありませんが、山の中の町ゆえに、明日の天気もあてにはなりません。優先順位NO.1のこの聖堂は、行けるときに行っておかねば。ハイ、またまた旅の鉄則です^^;

サン・フランチェスコ大聖堂は、一言で言えば、その名前の通り、聖人フランチェスコの功績を称えて建設された祭礼の祠です。世界遺産ですので、詳しい説明はどこにでも載っていますが、ツアーでなく一人旅で見学する時に大切なことは、上部聖堂の壁面に描かれた「フランチェスコの生涯」のフレスコ画の説明です。

彼の生涯のエピソードが、28場面に渡って描かれていますが、まず、どこから見ていくか。そして一つ一つの場面が何を物語っているかを予め予習していくことをお勧めします。聖堂の入り口を入ったら、右奥から手前に見ていき入口付近をぐるっと回って、左奥に進むのが順路です。昔は字の読めない人たちが沢山居ただろうし、文書で伝えるよりもこうした絵画に描く方がはるかに訴求力がある、きっとこのフレスコ画もそういう意図をもって、長い間人々にフランチェスコの生涯を伝承してきたのでしょう。

そして最近発見された悪魔の絵

雲の中に、わし鼻で角(つの)を持ち、意味ありげにほほ笑む悪魔の横顔…

2011年11月ロイターより

私がイタリアに行く直前に入って来たニュースでした。美術修復家が、このジョットの28枚の壁画の一枚に、「悪魔が描かれている」のを発見したとのことでした。その絵は、第20枚目、「聖フランチェスコの死」と題される場面。天に召されるフランチェスコが描かれていますが、その雲の中に悪魔が微笑んでいるというのです。

勿論、今回私もその絵を見るのを楽しみに(不謹慎ながら^^;)していました。何しろ、世界のニュースになった出来事をかなり早い時点で見に行けるチャンスなのですものね。でも、壁画は、高い位置に描かれていて、自分の目では確認することは出来ませんでした。

宗教画で天国と対に描かれるのが悪魔。しかし、作者ジョットは、自分の描く絵の中に悪魔のイメージを持ち込みたくなかったとか。それで「ちょっとした楽しみで」悪魔を雲の中に描いたのかも知れないと、修復家の責任者は語ったのだそうですが、騙し絵のように、雲の中に隠れた悪魔は、言われなければ気が付かないけれど、一度その姿を見つけてしまえば、それと認識できて何だか妙な気分です。何世紀にもわたって伝えられてきた聖フランチェスコの生涯ですが、誰か一人くらいはこの悪魔に気付いた人はいなかったのでしょうか。

そして、町の中には聖フランチェスコに扮するこんな人も(^^;)




いずれも、当のフランチェスコは天国できっと苦笑していることでしょうね。

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カルチェリの庵(アッシジ)

2012年01月18日 | アッシジ

私を待っていてくれるタクシーと運転手さん


アッシジには二日間滞在したので、聖フランチェスコ聖堂を初めとする主立った見どころは結構ゆっくりと見て回ることが出来ました。

聖人フランチェスコについては、大金持ちの子として生まれながら、全てを捨てて神の道に入ったというくらいの浅薄な知識しかありませんでしたが、こうして現地に立ち、一つ一つ足跡をたどれば彼の目指した境地が当時のローマ教会といかに異なるものであったか、何故こんなにまで多くの人々に受け入れられたか、その生涯に圧倒されながらも、少しづつ分かる気がしてきます。

アッシジは、世界中のクリスチャンが巡礼する場所ですが、中でも、旧市街地から離れた「カルチェリの庵」は、フランチェスコやその仲間達(キリスト教では“兄弟”と呼びます)が瞑想に日々を送った聖地として、今も静謐な佇まいを残します。旧市街の町の中はあちこち訪ね歩いたものの、この「カルチェリの庵」だけが行けないまま、出立する朝を迎えたのでした。


僧院中庭/奇跡の井戸


今日は、朝10時過ぎにホテルを出て移動の予定です。しかし、どこか後ろ髪が引かれる思いがして、やはり「カルチェリの庵」へ行こうと思い直しました。実はこの場所は、私の居る旧市街から4~5㎞離れた標高800mの山の中腹にあります。徒歩で行けば、私の足なら1時間以上かかるでしょう。季節の良い時は、沢山の人が歩いて行くのだそうですが、この冬の時期ではそうそう歩いて上る人も居ないだろうし、迷子になる可能性だって私にはあるのです(自信あり)。行くにはタクシーしか選択肢はありませんでした。


Piazza Unita Del Italia(バスのロータリー/ウニタ・ディターリア広場)


チェックアウト後、スーツケースはホテルに預かって貰って、バスのロータリーまで行きました。客待ちのタクシーが止まっているはず…。と思いましたが、何台もタクシーは駐車しているのに、どのタクシーも運転手さんがいないのです。困ったなぁ~と、ウロウロしていると、一台だけ助手席に人が乗っているタクシーがあって、声を掛けました。その男性は、車の留守番をしているようで、彼が携帯電話を掛けると、ローターリーの前のお店から当の運転手さんが出て来ました。

成る程~客待ちタクシーなのに誰も乗っていない車は近くのバールにその運転手さんが居るってことなのね。これは一ついい勉強になったと変なことに感心ながらタクシーに乗り込みました。


フランチェスコの森へ


アッシジの街は、ビール瓶を横にしたような形だと誰かが言っていましたが、「カルチェリの庵」には、そのビール瓶の口に当たる位置から瓶の底を抜け出て、更に山を上って行きます。車の中にいても坂道の傾斜が充分に分かる、これはタクシーを使って正解でした。春や秋なら、ハイキング気分でウンブリアの平原を楽しみながら歩けるだろうけどなぁ…と思っていると、まるで私の心を見透かしたように、ハイキング禁止!の立て看板が目の前を過ぎました。

そっか…ここは楽しむ所ではない、巡礼の地なのだと、改めて自分が行こうとしている場所の重みを知らされた気分でした。タクシーはこうして20分ほど走って、カルチェリの庵へ着きました。運転手さんには待っていてくれるように頼んで外へ出ましたが、思った通り訪問者は私一人だけです。杉木立や鬱蒼とした森に囲まれた聖地は何とも寂しい…フランチェスコが聞いたという小鳥のさえずりさえもしません。


青銅のフランチェスコ


僧院から道を下っていくと、光の輪をしょった彼が迎えてくれましたが、周辺は雪がうっすら積もっていて静寂な空気に包まれています。夏は涼しくて静かでいい所に違いないでしょうが、冬は厳しいなぁ。でも、ここにフランチェスコを初め、彼を生涯支え続けたベルナルドやローマ教皇謁見の際に尽力したパオロ、フランチェスコのみならず聖キアラの最期までも看取ったアンジェロたち兄弟が庵を結び、瞑想の場として折々に過ごした場所なのだと思うと、やはり姿勢を正して歩みを進めるようになりました。雪の降る中、裸足で教会の再建のために石を積む彼らの姿が脳裏に浮かびましたが、クリスチャンでもない俗物の私には、ただただ身震いをして彼らの強い魂に頭(こうべ)を下げるだけでした。


うっすらと雪の積もるフランチェスコの森の中

この辺り一帯は、フランチェスコの森として巡礼者の聖地ですが、歴史をひもとくと戦いにまみれた場所でもありました。アッシジは隣国のペルージャやスポレートと争っていたし、スペインやフランス初め、ヨーロッパ各地から侵略もありました。聖地といえども、戦争は森を焼き山を崩して容赦なく人々を混乱に陥れる、いつの時代も人間は残酷ですね。


木立の中から僧院の入り口で待つタクシーを確認する(笑)


タクシーの運転手さんには30分程待ってください、と伝えましたが、気が付くと一時間は過ぎていて私は焦りました。木立の中をもしや聖キアラが剃髪した川が向こうに流れているのではないかと、そんな錯覚にとらわれて、森の中に入り込み過ぎていたのです。帰りを迷わないように、角ごとに大きめの石を置いて道を進めていたので迷子にはならずに済みましたが、運転手さんが帰ってしまっていたらどうしようかと一瞬怖くなりました。でも、料金はまだ支払ってないしな~と意識はすぐ現実に戻ったのは幸いでした。

運転手さんは、イタリア人にしては寡黙な人だと思っていましたが、私が遅くなったことを詫びると、「イタリア語が話せるるんだねぇ」と言って急におしゃべりになりました。「いえ、ほんの少ししか分かりません」と返しながら、イタリア人はこうでなくっちゃ~とまでは思いませんでしたが(笑)、「日本は行ったことがないけど、いいところなのだね。友達がそう言っていたよ」と故郷を褒められるとやはり嬉しくなるのは否めませんでした(*^_^*)。

そして、これは運転手さんのサービスでしょうか。往復、違う道を通ってそれぞれ分かりやすく言葉を選んで案内してくれながら、坂道を本当に丁寧に走ってくれました。料金は往復で36.5ユーロでしたが、私は40ユーロを渡して心からお礼を言いました。日本の観光客にはイマイチ不評のイタリアのタクシーですが、こんな良いタクシーも中にはあるのですね。

こうしてカルチェリの庵がアッシジ最後の良い思い出になって、この地を後にすることが出来たのでした。

【余談】

この聖(サン)フランチェスコが活動した時代は13世紀。その約300年後、「1549年(いごよく広まると年号を覚えました(^^))」フランシスコ・ザビエルが日本にやって来てキリスト教が伝来します。アッシジは、そういう意味で日本とも関わり合いがあるのですね。なお、ザビエルの名前、アッシジの聖人フランチェスコが冠ってフランシスコとなっています。アメリカのサンフランシスコも名前の由来は同様です。

そして私個人にもほんの少し関わり合いが^^;…昔々のお話ですが、私の通った幼稚園はカトリック教会が運営していました。園長先生は牧師さんでイギリス人。立派な体格で、私達にはとてもとても恐い人に思えました。それでも私は無事に通園しましたが、妹は、ついに途中で幼稚園をやめました。ハイ、幼稚園中退です(^^)。小鳥や小動物にも優しかったフランチェスコの教えは、何百年も時を経ると変わるものなのですね。といっても、それこそもうとっくに時効のお話ですが…^^;
コメント (8)
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