イタリアより

滞在日記

アッシジをあとに

2012年02月28日 | アッシジ

ホテルをあとに

たった二日間の滞在でしたが、アッシジでたどったフランチェスコの足跡はどこも興味深く、中世の怒濤の歴史を垣間見た思いです。フランチェスコの教えは、やがてヨーロッパとアジアの狭間で争いにまみれ、今もなお戦争の根深いところでは貧困と宗教が絡み合う…。

文明は800年の時を経て再び大きく交代し、現在ヨーロッパは衰退の時期に突入しています。イタリアも財政危機にあえいでいますが、もしもフランチェスコが甦ったなら何を思うでしょう。複雑怪奇な現代に、きっとまた彼の苦悩が始まることでしょうね。


アッシジのバスのターミナル/ウニタ・ディターリア広場


アッシジを立つ朝、タクシーでカルチェリの庵を訪ねたあと、バスでアッシジ駅まで下りました。これから鉄道でフィレンツェに移動する予定です。急ぐ旅ではないから切符も買っていないし、勿論列車もどれに乗るのか決めていず、のんびりとしたものです。これが一人旅のいいところでしょうか(^^)。


アッシジ駅にある最新式の券売機

国鉄のアッシジ駅には、切符の自販機が1台置かれています。見るとローマと同じ最新式の機械です。きっと最近設置されたものなのでしょう。小さな田舎の駅に、居心地が悪そうにどこか場違いな感じで立たされている、ピカピカの券売機はそんな雰囲気でした。イタリアのこうした駅は、どうかすると窓口は閉ざされて切符が買えないことがあります。そんな時は、大抵近くのバールが切符を売ってくれるのですが、日本にはない慣習に一人旅の初心者は右往左往します。何しろ、列車の中で検札にかかると、切符を持っていなければ、どんな理由があろうとも罰金が科せられるのですから。


国鉄アッシジ駅の切符売り場窓口


案の定この駅も窓口には販売時間が表示されていてこの時間は開いていません。私は切符は自販機で買いましたが、以前は、この自販機は悪評高く、釣り銭や切符が出なかったとか、クレジットカードが飲み込まれたまま戻らなかったとか、恐ろしい話(笑)を沢山聞きました。しかし新しい機械は反応も良くて、使い方に慣れると時刻表代わりになるし、列車の接続や乗り換え駅も即座に分かって意外に重宝するのです。中にはクレジットカードを読み取る際、『?』というのもありましたが、コツはただ一つ、根気よく反応を待つ。もしかしたら機械もゆるゆる“イタリア式”なのかもしれません(^^)。

それと、これは小声でヒソヒソ

イタリア国鉄の切符売り場の窓口は愛想のないことこの上ない。笑顔もないし、釣り銭も窓口に設置された丸い金属製の入れ物に投げるように返してくる。彼らにすれば、言葉も分からない外国の旅行者相手にうんざりなのかも知れませんが、町の中の陽気で親切なイタリア人との違いに驚きます。もっともヘラヘラされたら、返って不安になりますが、それでもこちらが挨拶すれば、返答くらいあっても良さそうなのに。一言「Buon viaggio」(良い旅行を)とでも言ってくれたら、旅行者はどんなに嬉しいことか。それだけでイタリアに対する好感度は倍増する。

一方、日本の国の鉄道は東と西どちらのJRの職員さんも近年の顧客対応いや“個客対応”は、親切で素晴らしい。もしも私がFS(イタリア国鉄)のCEOならば、きっと職員をJRに派遣して研修を受けさせることでしょう。いやぁやっばり誇れます。我が国は!(^^)!
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迷える子羊

2012年02月22日 | アッシジ

サン・ダミアーノ修道院へは

ヌォーバ門を出て、矢印の方向に下りていくのが正しい順序


町の東にある大きな駐車場からサン・ダミアーノに向かう私でしたが、エスカレーターを見つけたことから、もしかしたら新発見が他にもあるかも知れないと、広場を横切り車道へ下りて行きました。頭の中に入っていたはずの地図が少しづつずれていくのにも気付かず、愚かにもこの道もサン・ダミアーノに続くだろうと勝手に思い込んでいたのです。

しかし、どの道をたどっても中心地に着く旧市街と違って、ここはもう郊外です。車の専用道路も通っていて、道路一つ間違えると裾拡がりにとんでもない方向へ行く。ついに私はオリーブ畑の中に入り込み、やっと道を間違えたことに気が付きました。しかし案内を乞うにも周辺には人っ子一人居ません。お天気のいい日中だったからさほど不安感はありませんでしたが、畑のど真ん中でただ一人、これが日の暮れていく夕方だったらどんなにか心細かったことでしょう。


サン・ダミアーノから望む迷子場所^^;

如何に方向が違ったか…


やがて道路の先に車が止まっているのを見つけ、その方向に歩いて行くと大きな建物も見えてきて、その前にはバス停と駐車場も現れました。ここが病院だと分かるのにさほど時間もかからず、やっと人心地付くことができたのでした。


アッシジの病院


病院から出て来た、年の頃は70歳~くらいのご婦人に、「サン・ダミアーノに行きたいのですが、道を教えて下さい」と話しかけると、「あっらーそれは大変、遠いわよ」と言われてしまいました。そして、このご婦人を迎えに来たらしいご主人とおぼしき人を呼んで何やら話した後、私に助手席に乗るよう手招きをして車のドアを開けました。どうも送ってくれるらしい…。私は一瞬躊躇しましたが、アッシジには悪い人はいない、という確信の元、ご好意に甘えることにしたのです。

しかし、車は、どんどん訳の分からない方向へ走っていき、ぐるぐると林の中に入って行く…歩いて来た道のりを思い出しても、覚えてきた地図を頭に描いても、何でこんな方向になるのかだんだんと不安になっていきました。おまけに、以前見たアメリカのホラー映画、人の良さそうなお年寄りの車に乗ったばかりに林の中の一軒家に連れ込まれ、身体をバラバラに切り刻まれる…も思い出し、あーもしかてぇー\(>o<)/

いやいや、なんと失礼なことを考えたことか、この親切なご夫婦のお陰で、オリーブ畑にいた迷える旅人は、無事にサン・ダミアーノ修道院のそばにたどり着くことが出来たのです。私が居た場所は全く以て見当違いの方向で、そこから車でサン・ダミアーノへ行こうと思ったら、ちょっとした峠をぐるりと回らないと行き着けない。私は御礼の言葉だけでは感謝し尽くせず、車が見えなくなるまで、ずっと頭を下げ続けていました。
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サン・ダミアーノの別れ

2012年02月20日 | アッシジ

聖フランチェスコとの別れを悲しむ尼僧たち(ジョット作)


フランチェスコが亡くなったのは、私がアッシジに着いたその足で向かった、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の中で守られている「ポルツィウンコラ」という小さなお堂の後ろにあるトランジット礼拝堂の中でした。ポルツィウンコラは、今はきらびやかな様相を呈していますが、当時は荒野にぽつねんとあった質素な教会だったといいます。このポルツィウンコラは、フランチェスコが布教をし始めた当時、所有者のベネディクト会から委ねられた布教の拠点となった教会です。神の声を聞き、彼が再興した三つ目の礼拝堂でもありました。キアラもここで剃髪をしています。教会内は撮影が禁止されているので写真はありませんが、私が見学した時も敬虔な信者さんが、このポルツィウンコラの中でずっと頭(こうべ)を垂れていました。


アッシジ到着後すぐに立ち寄ったサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会

中にはもう一つポルツィウンコラという小さな小さな教会があります


フランチェスコは、死後自分の遺体を運ぶときサン・ダミアーノに立ち寄ってくれるよう遺言をしたそうですが、上記のジョットの絵がその当時の様子を表しているのだとか。もしそれが本当ならば、サン・ダミアーノに立ち寄ることは、キアラと最後の別れをするためであり、生前会うことの叶わなかったキアラへの思いに応えたフランチェスコの深い愛なのだと感じます。フランチェスコは享年44歳、キアラは32歳になっていました。

しかし、サン・ダミアーノ修道院は、キアラの手に託された後、尼僧のための「クララ会」が創設され男子禁制です。果たしてその場所で、「生活規範」を遵守するキアラは、例えそれがフランチェスコの遺体といえども、亡骸を抱くことができたのでしょうか。またこの絵が不自然なのは、背景の教会がサン・ダミアーノ修道院ではないことです。もしかしたら、これはローマ教会の意を汲んで画家が教会を書き換えたものかも知れませんが、どちらにしてもフランチェスコの遺体がサン・ダミアーノに立ち寄った時、キアラはフランチェスコの亡骸に触れることなく修道院の窓越しに別れを告げたのではないか、彼の遺体を涙してかき抱くのではなく、慟哭をただただ祈りの中に閉じ込めて…そしてそのキアラの心象風景を描いたのが上記のフレスコ画…。

全く以て勝手な想像ながら、こう思うととても自然で、先のベネディクト十六世が述べた“沈黙”と“この単純で厳格な美しさ”を持つ場所でのキアラの深い悲しみと祈りが腑に落ちてくるのでした。

【余談】

アッシジの駐車場

快晴のアッシジの空の下、実に気持ち良くサン・ダミアーノ修道院まで歩いて行きました。この修道院はアッシジの旧市街から2㎞ほど南へ下る郊外にあります。旧市街にあるフランチェスコの生まれた場所をはじめ、父親に監禁されたという跡も見てきたし、いよいよサン・ダミアーノに行くのだと私は張り切っていました。修道院までの道のりも大体頭に入っていて、地図も持たずに歩みを進めていたのです。

町の東の外れにあるポルタ・ヌォーバ門から「サン・ダミアーノ」へと書かれた標識に従って素直に行けば良かったのに、どう血迷ったか、ちょっと向こうに行ってみよう、と妙に心がざわめくものがありました。そして見付けたのが駐車場の隅にあったエスカレーターでした。

駐車場の片隅にあるエスカレーター

おっー昨日はエレベーターを見付けたけれど、アッシジにはエスカレーターもあったんだ!とまたまたハイテンションになる私です。観光本に書かれていないことをこうして現地で見付けるのは、なんとワクワクして楽しいことでしょう。ちょっと乗ってみよう~


ゴトゴト上り始めた…


このエスカレーターは感知式で、足を掛けると自動で動き始めます。上を見上げると何だか鬱蒼とした森の中にでも入っていくようで、お天気の悪い時や夜になると恐い…


乗り換え


たどり着くと、乗り換えて更に上へと上がるエスカレーター。一体どこに出るのか、ドキドキしながらも私は興味津々でした。


森の中を貫通するように更に上がっていく


エスカレーターが着いた先は、ヌォーバ門近く。そこからボルゴ・アレティーノ通りに行けば、サンタ・キアラ聖堂があり、町の中心コムーネ広場へと続く。成る程~。私は電車を利用してバスでウニタ・ディタリア広場に着いたから、一番近くのフランチェスコ聖堂から見学してきたけれど、車やバスで来た人は、駐車場に車を留め置いて、この東の外れからフランチェスコ聖堂に向かって見学するのだと、ここまで来てやっと町全体の成り立ちを理解することが出来たのでした。

自分の足で歩いて廻って初めて分かるこの旅の面白さ、このときの私はサン・ダミアーノへの道のりはすっかり飛んで、頭の中は実に単純なこの喜びでいっぱいでした。まさかこの後、迷子になるとは思ってもみなかったのです。
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サン・ダミアーノへ

2012年02月17日 | アッシジ

フランチェスコが再建したサン・ダミアーノ修道院


とうとうここまで来た、という思いになりました。アッシジの町を歩くことは、そのままフランチェスコの足跡をたどることになりますが、どの教会やゆかりの地に立っても、このサン・ダミアーノ修道院ほど静かに心にしみいる場所はありませんでした。


糸杉とオリーブ畑が続くサン・ダミアーノへの道


裕福な商人の息子に生まれたフランチェスコは、青春時代、放蕩の限りを尽くしていました。そしてこの時代の若者の誰もがそうであったように、安易な功名心と騎士道に憧れ、隣国との戦いに参加します。しかし、その戦いは惨憺たるもので、ついには病を患い、心身ともボロボロになって帰国することになるのです。現代でもアメリカの兵士が戦争を体験して帰還後、鬱病や無常観にさいなまれることが少なくないと聞きますが、もしかしたら当時のフランチェスコもちょうどそんな状態だったのかも知れません。


二股の分かれ道を右へ


長患いの後、町の外れにある朽ちかけた教会で祈りを捧げているとき、十字架から「教会を再建しなさい」という神の声を聞きますが、これこそがフランチェスコの回心であり、アッシジの聖人フランチェスコの誕生の瞬間でもありました。この「教会を再建する」というのは、実はその当時の堕落しきった教会と人々の信仰心を取り戻す、その立て直しでもあったのです。時は13世紀初頭。ローマ教皇が権威を高め、強大な国家権力をにぎりつつある時代でした。


修道僧のモニュメント


たった一人で、教会を建て直すフランチェスコ、映画「ブラザーサン・シスタームーン」では、雪の降りしきる中、彼が裸足で教会に石を積み上げていくシーンがありますが、凡人なら精神を病んでいるか、何かに取り憑かれてでもいなければとてもとても出来る所業ではありません。今その当の教会サン・ダミアーノ修道院が目の前にある訳ですが、彼が説いた従順・清貧・貞潔の思想を表すとおり、慎ましやかで静謐な佇まいを持つ建物は、彼の死後、その遺体を納め、ローマ教皇が建てたサンフランチェスコ大聖堂と余りにも違い過ぎて、なんと皮肉なことかと思います。


ウンブリヤ平原を前に瞑想するフランチェスコ


この教会は、やがて出家したキアラに託されることになるのですが、フランチェスコの原点ともいえるサン・ダミアーノを任されたキアラは、ひたすら彼への敬愛と信仰を胸に、生涯ここから出ることなく、労働と祈りを捧げる日々を送ることになります。思えば、このキアラも裕福な貴族の娘です。わずか18歳で何不自由のない生活を捨て信仰にのみ生きることが出来たのは、キアラも又、フランチェスコ同様神から選ばれし人だったのでしょう。

2011年8月、現教皇ベネディクト十六世は一般謁見の中で、神の声を聞くために「沈黙」の重要性を語りかけると共に、聖キアラ、そしてこのサン・ダミアーノ修道院に精神のオアシスを見出すと述べています。沈黙は町や人々との交際から自分を遠ざけることによって守られ、沈黙に満たされることによって自らを祈りへと誘うことになる、又、場所の単純で厳格な美しさは、そこを訪れる全ての人々、例えそれが休暇の季節、数日間滞在するだけであっても、それは偶然ではなく、神の恵みによって魂がそのことを必要としているのだと。


外から見たサン・ダミアーノ修道院中庭(内部は撮影禁止です)

修道院の中庭は、閉じた空間であると共に天に向かって開かれている象徴的な場所

-ベネディクト十六世の言葉より-

フランチェスコとキアラが今なおこの場所に留まっているかのような静謐さが漂う教会に私がただ一人、どこか場違いなような思いに駆られながらも、なかなかこの場所から離れることができなかったのは、私の魂がこの場所を必要としていたからでしょうか…というのは、ちょっと出来過ぎの感がしないでもないですが、それでも驚くほど質素なこの建物こそが、アッシジの中で最もフランチェスコの精神を残す礼拝堂であるのは間違いのないところだと思うのです。(続く)
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サンタ・キアラ聖堂に思う

2012年02月06日 | アッシジ

サン・フランチェスコ聖堂と向かうように立つサンタ・キアラ聖堂

☆電線のように見えるのは、クリスマスのイルミネーションです(^^)

コムーネ広場からマッツィーニ通りをまっすぐ行くと、サンタ・キアラ聖堂に着きます。アッシジの観光では聖フランチェスコ聖堂見学後、コムーネ広場を経由してここまで歩いてくるのが一般的なコースになるかと思いますが、私も二日目、この聖堂の見学をしました。今日は中国人の観光客が沢山居て、とてもにぎやかです(^^)


アッシジの山から取れる淡い桃色の石で作られた聖堂は西日が当たると薄紅色に輝きます


この聖堂に祀られているキアラは、フランチェスコの愛弟子にあたる女性です。18歳から亡くなる59歳までの41年間を聖フランチェスコと共に生き、その教えを忠実に守った聖人として、女性ながら「もう一人のフランチェスコ」とも呼ばれます。キアラがフランチェスコに心を傾けたきっかけは、16歳の時、先の聖ルフィーノ大聖堂で聞いたフランチェスコの説法でした。もっともそれ以前にも、信仰のために彼が全てを投げ打って家を出たことも見聞きしていただろうし、又当時のそんなフランチェスコの生き方は、10代の多感な少女に少なからずの衝撃を与えたことは容易に想像のつくところです。

フランチェスコは、この時28歳。清貧の中に身を置き活動を始めてから2年後のことでした。自身の信仰心の迷いの中、命を懸けてローマ教皇に謁見し、自らが創設した修道会の組織を認めてもらった直後で、それ故に、自然と共に生きる素晴らしさ、清貧の中にある幸せを説く彼の姿は自信に満ちて、16歳のキアラにはさぞかし神々しく思えたことでしょう。

聖堂から望むアッシジの町

映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」では、キアラは貧しい家の娘で、持参金も期待できないとフランチェスコの父親が言う場面がありますが、実際は裕福な貴族の令嬢です。当然結婚の話も出ますが、キアラはこれを嫌ってついにフランチェスコの元に走ります。キアラが18歳の時でした。それからのキアラの一生は、ただただフランチェスコとその教えと共にあり、一切の迷いなく神への信仰にその生涯を貫いています。

しかし、キアラの生涯を知れば知るほど、下世話な話だと承知の上で思うのは、彼女のフランチェスコへの思いです。きっかけは神の教えだったに違いないでしょうが、フランチェスコの深い優しさに触れ、共に清貧の中に生きるうち、淡い思いも抱いたに違いなく、尊敬はいつしか特別な敬慕の情に変わっていったのではないかとも思うのです。勿論それは神の元に浄化された愛であって、なんら恥じることのないものであったと思いますが、しかしそんなキアラの気持ちにフランチェスコが気付かない訳がなく、やがてフランチェスコは、キアラが過ごすサンダミアーノから少しづつ遠のくようになっていくのです。

聖堂の中では、ちょうどシスターとおぼしき人達が掃除をしていて、ちょっと落ち着きませんでしたが、それでもキアラの腐ることがなかったという奇跡の遺体を前にすれば、神への信仰とフランチェスコへの深い愛に生きた彼女の生涯には圧倒される思いでした。(でも…シスターが掃除をしているキアラの遺体は変…確か、炭化して顔面は黒いはずなのに綺麗なお顔…何かの事情で公開できなくなったなら、それはそれでいいのに…)

こうして私は世俗の感慨にもふけりながら、この後オリーブの木立の中をサンダミアーノに向かうのですが…。

【余談】


サンタ・キアラ聖堂前:○印が銀行。矢印の階段を下りて行くとトイレです。

町巡りでどんなに言っても切実になるのがトイレです。アッシジの町にはメインストリートに結構有料トイレがあって、さほど困ることはないのですが、問題はその有料料金です。どこのトイレにも両替機がなくて、50セント硬貨が一枚必要になります。バールで飲み物でも買って小銭を~と考えますが、飲みたくもない、食べたくないものを買ってまで、と思うのです。それに飲み物を飲んだら又トイレ~という悪循環(笑)

今回、私のサイフには見事に小銭がありませんでした。そこで思いついたのが銀行で両替をしてもらうこと。幸い、上の写真のように、サンタ・キアラ聖堂前には銀行があって、おまけにすぐそばにトイレまで。石造りの一見銀行のようには思えない建物にはしゃれた回転式のドアを押して入りました。中には、一人お年寄りがいて、なにやら窓口で相談をしている様子です。耳に入ってくる「ペンシオーネ」という単語から推測すると、どうも年金の通帳記入に来ていたようでした。係の男性もお年寄りもほんとにゆっくり~のんびり~。私も行内に入った以上、出る訳にもいかず、40分近く待ってやっと応対して貰いました。5ユーロ札を出して、50セント硬貨が必要だから両替をして欲しいと言うと、黒縁めがねを掛けた、ダビデを気弱そうにした、それでもよく見るとイケメン銀行マンは、気軽に1ユーロ札と50セント硬貨を4枚混ぜて換えてくれました。もしかしたら、「バールで買い物をして小銭をつくれ~」みたいなこと言われるかと、ダメ元で臨みましたが、アッシジはやっぱり優しかったです(*^_^*)
コメント (7)
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