イタリアより

滞在日記

シラクーザの二人その2.プラトン②

2021年01月30日 | シラクーザ

オルティージャ島へ/ウンベルティーノ橋にて

本当にお天気に恵まれていました

2019年12月24日撮影


ディオニュシオス一世は、周辺に知識階級の人間をはべらせ、芸術や文化にも関心を寄せていました。元々の職業が役人とは言え、もしかすると官庁や裁判所の書記や筆耕などを務めた、極めて有能で文才にも恵まれた人物であったのかもしれません。下世話な話になりますが、今に置き換えれば、芥川賞や直木賞受賞を目指して小説でも書いていそうな…ハイ妄想ストーリーです。が、実際、彼には役人時代から文化界にもつながりがあり、自身も詩を作ったり、戯曲を書いていたそうだから、あながち的外れでもなさそうに思います。といってもやはり妄想ストーリーの域は出ませんが。


サヴェリオ・ランドリナ通り

この道を真っすぐ行くとドォーモ広場に出る


ディオニュシオス一世は、当然シラクーザに来訪したギリシャの哲学者プラトンを歓迎します。二人は当初、良好な関係で居たようですが、やがてプラトンが『正しい人間は幸福であり、不正を働く者は惨めである』とか『独裁者は勇気がない』等とする考えを持っていることを知ると、ディオニュシオスは彼を遠ざけてしまうのでした。

ここでもさくっとしたお話で恐縮ですが、プラトンがディオニュシオスに面と向かってそう言い放ったのかどうかは別にして、ディオニュシオスにすれば、大いに心当たりもあって、痛いところを突かれたことになったのでしょうねぇ。時として「正論は人を傷つける」。


路地から見える青い海が太陽に照らされて光っていました


さて、ディオニュシオス一世には、とても可愛がっているディオンという名の義弟がいました。家系図をたぐれば、なんともややこしいのですが、以下のような関係性になります。この若くして頭脳明晰なディオンという青年が、シラクーザとプラトンを結ぶ鍵となるのですが…。


※ディオンと姉アリストマケはヒッパリノス1世を父に持つ貴族の姉弟でした
※ソープロシュネ・アレテ姉妹にはヒッパリノス2世という男の兄弟が居ます


・ディオニュシオス一世の妻は「ディオンの姉」→ディオニュシオス一世とディオンは義理の兄弟
・息子ディオニュシオス二世は、上記父親と「ディオンの姉」との間に生まれた女性(異母妹)と結婚
・ディオンはディオニュシオスー世と「ディオンの姉」の子供と結婚→ディオ二世とは叔父と甥の関係

もう何がなんだか訳分からん親戚関係ですが、ディオニュシオス一世から見れば、ディオンは義理の弟であり、自身の娘と結婚しているから義理の息子でもある、ということになります。又、ディオニュシオス二世からすれば、ディオンは、叔父にして義兄弟という間柄になって、これが後々、複雑な人間模様を浮かび上がらせることにもなっていきます。ちなみに、上記のプラトンの説諭に激怒したディオニュシオス一世は、プラトンを殺そうとしますが、この時、ディオニュシオスをなだめ、プラトンの命を救ったのがこのディオンでした。


シラクーザからカターニアへ帰るバスの車窓に見たエトナ山

2019年12月24日撮影


当初、プラトンがシラクーザを訪れたのは、ヨーロッパで最も高い活火山であるエトナ見物でしたが、ディオンという青年に出会って強く心を惹かれます。鋭い洞察力を持ち、プラトンが説く哲学やその理論に対しても旺盛な学習意欲を見せるディオン。元々が素直で賢い青年だったから、ディオニュシオス一世の寵愛を受け、当然プラトンも彼に篤い信頼を寄せるのでした。一方ディオニュシオスの息子の二世は…。

一度目のシラクーザ訪問は、ディオニュシオス一世と初めて出会い、ディオンとも知り合って、更には一世の怒りを上記のように買ってしまい、やむなくシラクーザから退散しましたが、それから20年後、再び、プラトンはこの地を踏むことになります。

-続く-
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シラクーザの二人その2. プラトン①

2021年01月25日 | シラクーザ

マニアーチェ城


1038年当初建設を命じた東ローマ帝国のジョージ・マニアケスの名前が付けられたお城

その約200年後にシチリア王フェデリーコ二世によって再建されましたが、
城と言うより軍事を目的として造られた要塞です


「アルトゥーザの泉」からカステッロ・マニアーチェ通りを直進、
突き当たりに、この城のエリアに立ち入るための鉄門があります。


月曜日   8:30ー13:45 ※チケット売り場は13:00まで
火曜-土曜 8:30ー19:00 ※チケット売り場は18:15まで
 
日曜・祭日 8:30ー19:00 ※チケット売り場は18:15まで
   
第一日曜日 入場無料


続いてもさくっとしたお話になりますが…

紀元前4世紀、ディオニュシオスの時代に戻ります。この頃ギリシャでは、のちにディオニュシオスと関わることになるプラトンが誕生します。彼はギリシャの王の血筋をひくやんごとなき一族の元に生まれ、幼い頃から文武両道の知的教育を受けていました。青年期には、古代ギリシャの哲学者ソクラテスからも大いなる学びを得ます。国の政治にも関心を寄せていましたが、民主制の元、否、民主政治の国家であったはずのアテネで、師と仰ぐソクラテスが、アテネの神を信じず、更には若者達を堕落させたとして処刑されて以降、政治への関心を封印して、もっぱら自身の哲学や政治思想を深めていきます。膨大で多岐にわたる難しい彼の思想はさておいて、国の運営についてプラトンは、究極、哲学者が王になるか王たる者が哲学者になるかそうしてそのどちらかが、政(まつり)ごとを行うのが理想の国家だとの考えを追究したのでした。


プラトン/ウキペディアより


ソクラテスの死にはさぞかし絶望し、孤独の深淵に懊悩もしたでしょう。あるいは身の危険も感じ、逃亡の意味合いもあったかも知れません。プラトンはアテネを出て各地を遍歴し、やがてシチリアへ渡ります。母国アテネで目の当たりにした救いがたい民主制の現実、何しろ、無作為に選ばれた500人の民衆の投票でソクラテスは死刑になったのだから…更には自国のポリスの衰退も相まって、彼は母国では成し得ない自身が理想とする国家をシラクーザで実現しようとしたのでした。


ウキペディアより


古代ギリシャの聖域だったデルフィのアポロン神殿跡

プラトンが師と仰いだソクラテスが「無知の知」の真理に至った場所でもあって…


この頃のシラクーザでは、ディオニュシオス一世が、同じギリシャの植民地である南イタリア半島に勢力を広げようとしたり、恐れ多くもかしこくも、神のお告げを受ける本国ギリシャ・デルフィのアポロン神殿を略奪しようとしたり、相変わらずの暴虐ぶりというか、この時代においては、戦果を挙げるべく精力的に闘い続けていました。プラトン39歳、ディオニュシオス一世44歳、二人はシラクーザで対面します。正確には、プラトンの名声を聞いて、ディオニュシオスが彼を宮殿に招いた訳ですが…しかしこれが、後の世から見れば、プラトンにとって運命の出会いと言っても過言ではない出来事になるのでした。又々妄想ストーリーがむくむくとわき上がりそうで…

■プチ妄想ストーリー

プラトン:あれがエトナ山か~物見遊山で来てみたが、ふーむっ登ってみたい。ツアーに申し込むか…

ディオ1:プラトンがシラクーザに来たのか。彼を宮殿へ迎え入れよ。我がステータスを上げるのだ!

-続く-

余談
シラクーザの散策の順序をどうするか、どう回れば効率的かと随分迷いましたが、私の場合、カターニアからの日帰りだったため、時間に余裕が無く、オルティージャ島と郊外の遺跡間は、タクシーを利用しました。コロナが終息して、いつか渡伊出来る日が来た時のために、又ご説明したいと思いますが、このタクシーの利用はお勧めしたいです。
コメント (8)
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シラクーザの二人その1.アルキメデス

2021年01月20日 | シラクーザ

アルテミスの噴水(Fontana di Artemide)

泉の真ん中に立つ女神アルテミスは森の妖精アレトゥーザを助ける
アレトゥーザは川の神アルフェイオスに言い寄られ、困り果てていた



どんだけ嫌われてんねん~♯

海沿いには、このアレトゥーザを主人公にした「アレトゥーザの泉」があります。
いずれも川の神を嫌って逃げる森の妖精の物語・・・ギリシャ神話に基づきます

シラクーザ/アルキメデスの広場にて

2019年12月24日撮影


シラクーザに関する偉人として二人の名前が挙げられます。一人はこの町の出身者である数学者のアルキメデス。今一人は、ディオニュシオスと大きくかかわる哲学者プラトンです。アルキメデスは、さすがこの町で生まれた有名人なので、広場にもその名前が付けられ、彼の代名詞のような「π」のモニュメントもバス通り沿いに立てられていて、車中からでも目を引きました。


ラルゴ・ニコーラ・カリパリ通りの三角地帯にあるモニュメント

カターニア→シラクーザ行きのバスの車窓から見えます

ストリートビューより

※地元紙によると退任した議会議員夫妻の寄贈だそうです
建築家マッシミリアーノ・ウルチュッロ設計
芸術家カルロ・ジレ作/2017年に設置
(高さ3メートル・幅も同じく3メートルらしい)


ディオニュシオスの治世より200年後、この時代のシラクーザは、ローマを裏切ってカルタゴ軍に付いていましたが、アルキメデスは、攻め入ってきたローマ軍から、ひたすら町を守ろうとしていました。様々な兵器を発明してローマ軍を悩ませます。それは、例えば、海岸沿いに並べた鏡に太陽の光を反射させ、敵船を焼き討ちするとか、巨大な鉤づめを考案して敵の船に引っ掛け転覆させるとか、得意の数学や物理学を駆使して、シラクーザを守るための道具を考案しました。ちなみにアルキメデスの博物館となるArchimedes Park Musemではそれらの発明品が垣間見られます。


フィレンツェの建築家ジュリオパリージによる絵画
鏡を反射させてローマの敵船を燃やす様子


そんなアルキメデスでしたが、ついには戦禍に倒れます。敵の指揮官は彼の優れた才能を知っていたので、危害はくわえるなと命じたのに、ローマ兵はアルキメデスとは知らず殺してしまったのです。有名なお話ですが、アルキメデスの最期の言葉はこのローマ兵に向けた『その図を踏むな』だったとか。紀元前212年、第二次ポエニ戦争でのことでした。


自らの発明品でシラクーザを守ろうとしたアルキメデス


ざっくりとしたお話になりましたが、ちなみに、この時の指揮官・マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、あのハンニバルと戦い、勇猛果敢な軍人と称された人物です。どこまでも伝承によるストーリーですが、シラクーザを巡る物語は、このようにすそ野を広げていくのが面白いです。



アルキメデスを称えて2016年に設置された記念像

wikiwandより

片方の手にコンパス、もう片方には小さな鏡を持って海に向かって立っています
オルティージャ島へ向かうウンベルティーノ橋を渡る右手の広場にあります
シラクーザの彫刻家と公募で選ばれたリグーリアの建築家のアイデアだそう



さて、もう一人の偉人がプラトン。ディオニュシオスの暴政を何とかして正そうと苦心惨憺するのですが、いかんせん、聞く耳を持たない王には、馬の耳に念仏、糠に釘、のれんに腕押し、そこまで言うか~ですが、それどころか、ディオニュシオス二世に至ってはプラトンを疎んじ始めます。これって、何だか、企業の第二創業における、今の世にも通じるような・・・

-続く-

余談
先日、テレビの海外特集で、ヨーロッパへ密航する難民のニュースを見ました。「アラブの春」で民主化を目指した国チュニジアの若者たちの話です。チュニジアの南東部に位置するザルジスという町でしたが、国の失業率が16%にも及び、仕事を求めて欧州へ渡るのだそうです。先ず目指すのは、チュニジアから一番近い、といっても、250キロもあるイタリアのランペドゥーサ島。以前何度か問題になりましたが、今回は深刻で、密航船で故郷を出た若者たちが、船の転覆で目的地にたどり着けないどころか、不運にも遺体となってザルジスの海岸に流れ着くのだとか。日々増えていくその遺体を、せめてもと一体一体、丁寧に葬る地元の老人の話には胸打たれましたが、それにしても地中海の覇者カルタゴの末裔…と言えるかどうか、余りにも時が経ち過ぎていますが、どちらにしても痛ましいチュニジアの現状でした。
コメント (14)
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