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イタリアより

滞在日記

ラヴェンナの思い出その2

2014年07月14日 | ラヴェンナ

夕刻のラヴェンナ駅前

1850年代、この地域を牛耳っていたらしいルイージ・カルロ・ファリーニの銅像

駅前の通りには、この人の名前が付いている


ネット予約していた普通列車の切符を捨てて、新たな切符を買って乗車した車内の中で偶然行き会わせた人に声を掛けられた私。話の内容からすると、ラヴェンナの散策中、あちこちの聖堂でこの人たちに出会ったようなのですが、私には全く記憶がありませんでした。というよりも、どこに行っても余りにも美しいモザイク画に圧倒され、聖堂の天井ばかりを見上げていたので、私には周辺への気遣いがなかったのでしょう。


駅前の小さな教会も訪ねました

聖歌が静かに流れていましたよ


通路を挟みながらも、隣席に座った見知らぬ人から突然話しかけられたことにも驚きましたが、聖堂で思わず発した私の独り言や無意識の所作を見られていたということが分かって、顔から火が出る思いでした。でも…

どゆーこと?



どこの聖堂もほんとに綺麗でした


話を聞けば、最初に会ったのはサンビターレ聖堂だったようなのですが、行く先々で私の姿を見たそうで、といっても散策の順路をサンビターレから始めれば同じコースを辿ることになるのは当たり前だし、そう不思議なことではないと思うのですが、カメラに納めようとする程彼の琴線に触れたのは、なんと私のなのでした。


ガッラ・プラチーディア霊廟の天井画


この傘は、20数年前実家の母が、もう古いしデザインも流行遅れだから、と処分しようとした折りたたみ傘なのですが、どこにも不具合はないし、これなら忘れたりなくしたりしてもいいかと、海外旅行用に貰ってきたのでした。そもそも折りたたみ傘は、使用後、閉じると濡れたまま手に持つのに、どう持って良いのか意外に不自由を感じます。その点この傘は、カバーにちょっとした工夫がしてあって、閉じればたたむ必要なくその大きさのまま、カバーから変身した収納袋にいれて、手にぶら下げることが出来るのでした。



その昔、ブランド物の傘が流行したことがありました

この傘もその頃の年代モノで、奇しくもイタリアブランド「ヴァレンティノ・ガラバーニ」でした

柄に剥げ掛かったヴァレンティノのロゴマーク「V」が付いている



ネオニアーノ聖堂のモザイク画


そんな訳で、母のお下がりの古い傘はいつも旅行に持って行くのですが、こんな物でも縁があるのか、忘れることもなく、そして無くすこともなく、ここ何年も私の旅のお供をしてくれているのでした。しかし、さすがに老体なので、小降りの雨ならいいのですが、大雨が降っている中、長い時間さし続けていると雨漏りがしてきます。防水加工の効果が限界にきているのでしょう。そんなこともあって、朝から雨が降り続けていたラヴェンナでは、聖堂や礼拝堂に入るたび、係の人の許可を得て、少しでも乾くようにと傘を広げたまま、差し障りのない隅っこに置かせて貰っていたのでした。


ヨハネによるキリストの洗礼


薄暗い聖堂内の隅っこに置かれた古い古い傘が、イタリア人の感性にどう響いたのか。彼が言うには、イタリアでは見ない珍しいデザインと、隅っこに広げられたままそっと置かれた静かなたたずまいが、周辺のモザイク画とよくとけ合って、とても愛らしく可愛かったのだとか。いやぁよー分からん。ですが、写真まで撮って見せてくれたのは、彼が余程その光景に感銘を受けたのだろうと、傘の持ち主としてはちょっと嬉しくもありました。


彼が見せてくれたスマホに納められた私の傘

それを更に私もカメラに撮らせてもらいました(*^_^*)


このイタリア人の男性は、列車内で件(くだん)の傘を見つけて私に声を掛けてくれたのでしょうが、もしもベネチアのアックアアルタに心折れて、この場所を訪ねなければそもそもこんな出会いはなかったし、私が予定を変えずにこの列車に乗らなければ彼らと話をする機会も得なかった、もっと言えばこの日雨が降っていなければこんな巡り合わせもなかったと思うと、今以て何か不思議な気持ちがしてきます。偶然という一片のモザイクが一つ一つ重なって生まれたようなこのひとときは、こうして雨のラヴェンナを更に忘れえぬ町としてくれたのでした。四人の乗客は、私と同じボローニャの駅で下りましたが、ベネチアまで帰るという私に、気を付けて良い旅を、と口々に言って手を振ってくれました。

ちなみに



これがその時の傘を広げた様子

確かになぁ

当の私も気付かなかったけれど、そう言われてみれば、モザイク画を彷彿とさせる…か?
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ラヴェンナの思い出その1

2014年07月07日 | ラヴェンナ

夕刻のラヴェンナ駅


朝、7時にベネチアを出てから約10時間余り、ラヴェンナの散策を終えたのは午後5時もとっくに回っていたと思います。辺りは薄暗くなっていました。ベチチア~ラヴェンナ間は、乗り換え時間も入れると片道3時間はかかります。日本で言えば、新幹線で東京から名古屋までの距離感でしょうか。決して近くはないけれど、イタリアは鉄道路線が充実していて、しかも料金も安いからこんな日帰り旅行も苦にはなりません。


2014年12月26日午前7時25分
ベネチア サンタ・ルチア駅発フレッチャ・ジェントに乗って


それでも、アックアアルタの中をヴァポレットに乗ってサンタ・ルチア駅まで、そして特急列車でボローニャを経由してラヴェンナまでの道のりは結構疲れました。帰りの列車の切符もネット予約をしているので気が楽ではあるのですが、町歩きを終えたら、早くベネチアのホテルに帰りたくなりました。仮の住まいとはいえ、帰宅する先があるのは有り難いものですね。


ラヴェンナの町で見かけたノラ猫

カラカラフードと缶詰の両方を貰っている

贅沢な食事をしているのね(^^)


帰りの列車は、前述の通り、ネット予約をしているのでラヴェンナの駅では指定の列車に乗るだけなのですが、駅の時刻表を見ると、一つ早い電車がありました。ラヴェンナからベネチアのサンタ・ルチア駅まで帰るには、まずラヴェンナからボローニャまで普通列車で行って、ボローニャでフレッチャジェントという特急列車に乗り換えます。ネットで取った切符は、この行程の列車が二つとも指定されているのですが、スーパーエコノミーという、通常料金の半額以下の切符を購入したために、一切の変更は出来ません。

それは承知していたのですが、少し心配なことが出て来ました。この国では列車の遅れは日常茶飯事で、実は一つ早い列車も遅れが10分と表示されていたのです。もし、私が乗る予定の普通列車が更に遅れたならば、ボローニャから乗る特急電車にも乗れなくなってしまいます。ボローニャでの接続時間は15分だったのですが、迷った末思い切って、この一つ早い電車に乗ることに決めました。


イタリア鉄道のネット予約したチケット

特急列車と普通列車が指定されています


そうなるとラヴェンナからボローニャまでの普通列車の切符は買い直すことになるのですが、この料金6.9ユーロをどう考えるか。日本円にすれば約900円だけれど、うーん…普通列車が遅れて特急列車に間に合わなければ、特急列車の切符も買い換えが必要だしなぁ。こちらは30ユーロで、日本円で4000円。すでに手元にある普通列車の切符は捨てることにもなって、勿体ないという気がしなくはないのですが、やはりここはリスク回避をすることにしたのでした。

ネットの列車予約の注意
スーパーエコノミーなどの安い切符を購入する際、もし普通列車と特急列車が混在しているときは、区間を分けて購入する方が良いです。例えば今回の例でいえば、「ベネチア/サンタ・ルチア駅」~「ラヴェンナ」まで一気にネット予約すると、乗り換えの普通列車までが指定されてしまい、この普通列車も変更やキャンセルが出来ません。しかし普通列車は現地で購入しても料金は変わらないので、ネット予約は特急列車だけにして、普通列車の切符は現地で購入することをお勧めします。そうすれば、今回のようなケースにも対応できます。但し、普通列車の切符にも刻印後は、距離によって時間制限はあるので注意は必要です。


買い直した“奇跡を呼んだ切符”~大げさか(^^)

駅の刻印機は壊れていて、車掌さんに手書きして貰いました

不便だけれども、日本にはないこんな場面は結構好きかも(*^_^*)


そんな訳で、既に予約をしていたラヴェンナからボーローニャまでの普通列車の切符は破棄することにして、駅で新たな切符を買いました。これで乗り継ぎの特急列車には、間違いなく間に合うと安堵して、やって来た列車に乗り込みました。普通列車は勿論自由席。オフシーズンの夕刻ともあって車内はがらがらでした。私は適当な席に座って出発を待ちましたが、美しいモザイク画を一つ一つ思い出しては、朝のベネチアの水害と悪天候にもめげず、この地を訪問したことに一人満足をしていました。

ちょうど発車寸前だったでしょうか。通路を隔てた隣の席に、四人の乗客が乗り込んできたのですが、そのうちの一人の年配のご婦人がラヴェンナの日本語の案内本を持っておられることに気付きました。瞬時目が合ったので私は頭を軽く下げましたが、やはりこのご婦人は日本の方で、これが思いも寄らぬ出会いとなったのでした。


ラヴェンナから普通列車に乗って


のちに分かったことなのですが、この四人の乗客は、二人のご婦人とそれぞれのご子息で、一組の親子がフランス人でした。件(くだん)の日本の女性のご子息はイタリア人の男性でしたが、正確には日本人とのハーフということになるのでしょうか。この日本人の親子はフランスからやってきたお友達家族を案内してラヴェンナ観光をされたそうですが、日本で活躍する芸人さんパトリック・ハーラン(通称パックン)によく似たそのイタリア人の男性が、なんと私に流暢な日本語で話しかけてくるではありませんか。お母さんが日本人なので、日本語が話せるのは当然と言えば当然かも知れないのですが、それよりもその話の内容に驚きました。


ネオニアーナ洗礼堂


          :「あなたは、ラヴエンナのあちこちの教会におられましたね」

          :「ハイ」(その為にここに来たんだもんね←まだ余裕あり)

          :「聖堂に入った途端、“わーっキレイぃ”と言っておられました」

          :「はぁ?」(た、確かに言った…気がする…汗)

          :「教会の隅っこに傘を広げて置いておられたでしょ」

          :「ハ、ハ ハイ」(な、なんで知ってんねん、そんなこと←動揺)

          :「とても可愛かったです」

          :「はっ?」(混乱)

          :「なので写真を撮ったのですよ」

          :「ヒッ」(錯乱)

思えば、私の返事はハ行のみでした・・・


続く

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ダンテの墓へ

2014年06月30日 | ラヴェンナ

かつてダンテが眠っていた場所

第二次世界大戦中、遺骸を空襲から守る為に造られた所謂“防空壕”の跡

お墓ではありません



ランチを済ませたあとは、前述のサンタポリナーレ・ヌォーヴォ聖堂へ向かいましたが、その前にポポロ広場まで戻って、イタリアの有名な詩人であり哲学者であり、政治家でもあったダンテのお墓に立ち寄りました。確か、フィレンツェのサンタクローチェ教会の中にもダンテの遺骨はあって…と思いましたが、よくよく調べて見ると、教会の中にはダンテの彫像が置いてあるのみで、彼の遺骨を巡っての諸事情を知ることになりました。


ダンテの墓への道順


元々がフィレンツェの貴族の出身であったダンテは、父親が金融業を営んでいたこともあって、自ずとフィレンツェの市政に参画し始めます。当時フィレンツェをはじめとする北イタリアでは、ローマ教皇庁と神聖ローマ帝国のそれぞれの勢力が対立していましたが、政争が激化して、ダンテもこの政権争いに巻き込まれてしまいます。おまけに、内部抗争が勃発し、「商業を中心として町を発展させようとする会派」VS「貴族を中心に教皇との結びつきを固持しようとする会派」、もっと簡単に言えば「富裕層対貴族層」の争いに発展し、富裕層の側に立ち、フィレンツェの経済的自立を望んでいたダンテは、熾烈な戦いの末、貴族層の勢力から故郷フィレンツェを永久追放されてしまうのでした。ダンテ、37才の時でした。


フランチェスコ教会の横にあるダンテの霊廟


フィレンツェに戻れば刑に処せられるとあって、ダンテの流浪の旅が始まる訳ですが、行き着いた先がここラヴェンナでした。つかの間の安らぎをこの地で得られたダンテでしたが、故郷を追われ放浪する彼の心の拠り所となったのは、亡き初恋の女性ベアトリーチェでした。彼女が24才という若さで夭逝したときは、ダンテは半狂乱に陥ったといいますが、その心情は、やがてこの地で完成させることになる「神曲」の中にも現れていて、ベアトリーチェを“天国”に配し、永遠の淑女として位置づけた上、自分を護る女神として崇めたのでした。


大理石で造られたダンテのお墓


客死したダンテの遺体はラヴェンナのサン・フランチェスコ教会に葬られましたが、生前、彼は高位聖職者が聖フランチェスコの精神に目もくれなかったことに憤るほど敬虔なカトリック信者でもあったので、異国の地ながら、聖フランチェスコ教会の傍らでこうして眠りについているのは、ほっとさせられる気がします。


ダンテのお墓の灯りの油は、今でもフィレンツェから届けられている


さて、彼の故郷フィレンツェは、今もダンテの遺骨の返還を促しているのですが、「神曲」の地獄編の中には、自分を追放したフィレンツェや貶めた(おとしめた)人物への恨み辛みが書き連ねられていて、翻訳本にざっと目を通すだけでもおどろおどろしい光景が繰り広げられています。例えばそれは聖職者に対しても例外ではなく、地獄に落ちた、というよりダンテが文筆で地獄に突き落とした彼らを、「頭頂を剃られているのはいずれも聖職者、教皇もおれば枢機卿もおり、貪欲の念、熾盛(しじょう)であった」などと著しているのは、なんとも手厳しい。もっともダンテがこの世に現れたなら、フィレンツェのこの要求は、何を今更!、と、怒り心頭に発するところでしょうか。


ダンテの霊廟のそばにあるサン・フランチェスコ教会

残念ながら今日は閉まっていて中に入れませんでした

流浪の民だったダンテを庇護し、今も守り続けるラヴェンナの町なのですね


そういえば、フィレンツェには、その名もVia Dante Alighieri(ダンテ・アリギエーリ通り)に「ダンテの生家」があります。実際には、ダンテを追放した後取り壊してしまったので、家は現存しないのですが市が観光用に建てました。遠い昔の話だとはいえ、永久追放しておいて遺骨を返せーだなんてね…フィレンツェ~ちょっとせこくない?。
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ラヴェンナにて その5

2014年06月22日 | ラヴェンナ

サンタポリナーレ・ヌォーヴォ聖堂


ランチ(後ほどご紹介)をしたあと、上記のサンタポリナーレ・ヌォーヴォ聖堂に向かいました。時間は12月26日、午後3時近くになっています。何しろベネチアからの日帰りなので先が急がれましたが、郊外にあるクラッセ聖堂はバスの時間がなくて、この時点で諦めました。そうなるとすっかり気分は楽になって、この聖堂へ行く足取りも軽やかでした。こうして時間に制限のある旅は、思い切って諦めることも大切ですね。いつか又ラヴェンナに来て、クラッセまで足を伸ばしてみようと思います。



サンタポリナーレ・ヌォーボ聖堂の外観


前述の地図からすると、ネオニアーノ洗礼堂を見たあと、隣の聖堂(立派なプレゼーピオが飾られていました)やネオニアーノの裏手にある、大司教博物館博物館(入り口に、私に向かって「チャイナか、いや日本人やろ」と言った獅子の置物がある)にも立ち寄りました。この博物館の中には、象牙で出来た有名な大司教の椅子や勿論モザイク画や、その他重要な展示物は沢山ありましたが、撮影は禁止で、係の人が目を光らせていました。なので写真はないのですが、ここも見どころのある見学コースです。


話が前後しますが、ネオニアーノ洗礼堂を出たらそのまま博物館へ


さて、ラヴェンナの駅から伸びる「ファリーニ通り」と交差する「ローマ通り」の先にこの聖堂はあるのですが、ネオニアーノから行くと、「ジェッシ通り」に続く「マリアーニ通り」の突き当たりが「ローマ通り」になって、右折した左手にサンタポリアーナ・ヌォーヴォ聖堂があります。


聖堂に入ったつもりなのに中庭しかない・・・


何気に開いているドアから入り、チケットを見せて係の人が指さす入り口から進みましたが、そこは古いいわゆるコリント様式らしき柱で囲まれた中庭でした。えっ?たったこれだけ?ぐるりと見渡しても聖堂らしきものがないのです。同じように入ってきた、英語を話していたので、多分アメリカ人と思われる女性も「?」だったようで、二人して顔を見合わせました。どこかに聖堂に入る扉があるはずですよねぇ…と言いながら、私たちは間違ってトイレにも入ってしまったりして…


あれだ!

なんとまぁ分かりにくい

とブツブツつぶやきながらも聖堂へ足を踏み入れると・・・息を呑みました



これまでのような狭い空間ではなく、広々とした教会内部一面のモザイク画は圧巻でした

けれど高潮に遭った歴史があって、その為に壁画は12メートルも持ち上げられたとか

どおりで、他の聖堂に比べてどこかアンバランスな感覚をぬぐえなかったことが分かりました


一時的にでもローマ帝国を統一したテオドシウスでしたが、彼が亡くなると東西は分裂し、二度と元に戻ることはありませんでした。ここから一気に帝国の滅亡への道が始まる訳ですが、前述の通り、西ローマ帝国を受け継いだテオドシウスの次男ホノリウスは、蛮族からローマを守る為に西ローマ帝国の都をミラノからここラヴェンナに移します。410年のことでした。


教会の後陣

宗教上の違いから改築されて建設当時とは趣が全く違っているらしい


大体二代目というのは、家や会社を傾けてしまうことが多いと言われますが、西ローマ帝国もあっという間に滅びてしまいます。ホノリウスに先見の明がなく無策だったということもあるでしょうが、古代ローマにおいては、東に比べて未開地だった西のエリアに豊かな経済発展を望めなかったことは否めなく、又、何よりも領土拡大のために戦いを繰り返していては、それだけでも国は疲弊して消え去るのも当然のことだったかもしれません。



やがて、ゲルマン人のオドケアル王や東ゴート族のテオドリック王やユスティニアス大帝などが入れ替わり立ち替わり次々とラヴェンナを治めることになり、その為に、ラヴェンナには様々な様式の文化が培っていくことになります。

中でも人類史上最も長く巨大だったビザチン帝国ユスティニアス大帝の影響は大きくて、先のサンビターレ聖堂をはじめ、ラヴェンナの各地にビザチン様式の華やかさを伴ったモザイクの芸術が一気に花開いたのでした。あのラヴェンナにゆかりのある詩人、ダンテに「ラヴェンナは色彩の交響曲を奏でる」と言わしめたのも、こうした複雑な歴史を背景に、東方からあでやかな文化がなだれ込んで来たからでしょう。


モザイク画はフレスコ画と違って色あせることがない


壁面には、聖女の殉教者たちの参列や東方三賢人のモザイク画が見て取れましたが、当時のままに残されているのは壁面上部のみらしく、元々が4段構成の図式が、高潮の心配からかさ上げされた結果、取り壊されたり、あるいは宗派の違いから、後に改修された部分も多々あって当時をそのままに想起する場面はないとのこと。それでもこれほどまでに美しいモザイク画が、このラヴェンナに残されていることこそが価値あることなのですね。

余談


「オステリア・ピアノフォルテ」


今日のランチはあらかじめ決めたお店がありました。昨晩ヴェンナの町をグーグルマップで確認している時に、地図上で偶然見つけたのですが、掲載されていたレビューでは地元の人の評価が高くて、その「リストランテal45」というお店に行くつもりをしていました。


駅からまっすぐに続くファリアーニ通りをポポロ広場へ行く途中の角を曲がります

無料で見学出来る「アリアーニ洗礼堂」の真ん前が「リストランテal45」


ネオニアーノ洗礼堂を出てポポロ広場まで戻り、そこから駅方面へ向かってアマンド通りへと歩いて行きました。「リストランテal45」は、「アリアーニ洗礼堂」の真ん前にあるようなので、ついでにこの洗礼堂のモザイクも見ようという心づもりです。ラヴェンナの町の中心街は、碁盤の目のようで、とても分かりやすかったのは幸いでした。

ところが・・・



「オステリア・ピアノフォルテ」店内

黄色の矢印のテーブルに座っています(^^)


途中左手にある「ピアノフォルテ」(via degli Ariani10)というお店に、ピキッ。携帯ではないですが、私のアンテナが三本見事に立ちました-☆。ランチタイムもそろそろ過ぎようとしているのに、地元の人が沢山入って食事をしているのがガラス越しに覗えたのです。どこの町でも同じですが、美味しいお店は人だかりがしている・・・気がつけば、店内に入っていた私、一人でも大丈夫ですか、と聞くと、若いカメリエーレ(給仕さん)は「チェルト」(勿論!)と、にっこり笑って奥のテーブルに案内してくれました。


このスープは頼んでいないので、これは多分、イタリアの“お通し”

食事前の熱々濃厚スープが五臓六腑に染み渡りました~ウマイっ


注文を取りに来たカメリエーレに「お勧めの料理は何ですか」という旅行会話の定番フレーズをいうと、出て来たのが以下のスパゲティでしたが、お通しのズッパ(スープ)といい、このもちもち食感のショートパスタといい、実に美味しくて、まさしくビンゴ!でした。


エビとトマトのもちもちショートパスタ

「ストロッツァプレーティ」という手打ちの、この地方のパスタらしいのですが、意味は・・・

神父の首をねじるぅ???


上記写真、私の前のテーブルに座る紳士は、一人でコース料理を食べていましたが、アンティパストから始まるお料理を一皿一皿豪快に空けていき、見ていても気持ちが良かったです。ワインはフルボトル一本を飲み干して、チョコレートケーキのデザートまで平らげて席を立ちました。イタリア人といえども、うーんっお見事!

私は、お通しのズッパとパスタ、飲み物にグラス一杯の白ワインと、そして最後にコーヒーを飲んでお腹がいっぱいになりましたが、飛び込みでこんな美味しいランチを頂けたのはラッキーでした。


無料で見学出来る「アリアーニ洗礼堂


隣にあるサント・スピリト教会附属の八角形の小さな洗礼堂です。5世紀末に先のテオドリクス王によって建てられたものだそうですが、町の隅っこに追いやられたようにぽつんと立っています。でも、この中のモザイクも素晴らしく他の教会と共に世界遺産になっています。建立された折の宗派との相違があって、当時とは変わってしまっているのだそうですが、外観と内部の装飾とのギャップにはやはり驚かされます。

いよいよラヴェンナの散策も終盤に入ります。この後はポポロ広場まで引き返し、ダンテのお墓に行きますが、次回は奇跡的ともいえるラヴェンナでの出会いも記しておこうと思います(^^)。
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ラヴェンナにて その4

2014年06月14日 | ラヴェンナ

ラヴェンナの町の中心になるポポロ広場


2013年12月26日、ラヴェンナに行った折の記憶がだんだんと遠のいてきました(汗)。途中、番外編のロシアの旅行記が優先になったためですが、そろそろイタリアに戻らねばと思います。

この旅は、昨年2013年12月18日~29日、ナポリからアマルフィ海岸→スパッカナポリ→カゼルタ宮殿→ベネチア→ベネチア滞在中にラヴェンナ→ローマと、ツアー旅行では絶対にスケジュールを組まない、実に一貫性に欠けた個人旅行の記録になりますが、ラヴェンナの続き(前回)を記しておきたいと思います。

■2013年12月26日(木)

ラヴェンナ駅からまっすぐに伸びるファリアーニ通りを行くとポポロ広場に行き着きます。この広場を右折して、先ずはインフォメーション→切符売り場を目指しました。そして、最初に訪れたのがサン・ビターレ大聖堂でした。大聖堂の後方に付属するガッラ・プラキディア廟を見たあとは、大聖堂の入り口の門の真ん前のアルジェンターリオ通りを歩いて次の訪問場所、ネオニアーノ洗礼堂に向かったのでした。


雨も上がりつつあって青空が見えてきました

「ECO STORE」の角を曲がった通りの向こうにネオニアーノ洗礼堂が見えてきた!


前回記した“通り”、イタリア語では「via」と言いますが、カルロカッタネオ通り(via cattaneo)からマッシモダゼリオ通りを、左手に本屋さん&おもちゃ屋さんを見ながらまっすぐに歩いて行きました。日本を経つ前、又、昨夜もベネチアのホテルでラヴェンナの町はグーグルマップで確認をしているので、地図の読めない女にも、こうして迷いなく進むことが出来るのでした(自信たっぷり-☆)。


こんなに質素な“ほこら”なのに、中に入ると・・・


このネオニアーノ洗礼堂は、5世紀の初め頃建てられた洗礼堂です。古代ローマを舞台としたあの大ヒット映画「テルマエロマエ」の時代から約300年後くらいでしょうか。当時、東西に分裂したままのローマ帝国をわずかな期間ながらも統一した皇帝はテオドシウスでしたが、彼が亡くなるとローマ帝国は再び分かれてしまいます。今のトルコのイスタンブール、当時はコスタンテイノポリスと言いましたが、その町を首都とする東に対して、西ローマ帝国の首都はミラノにありました。しかし、西ゴート族の勢いが増し、彼らから襲撃されることを恐れて、都はこのラヴェンナに移されます。

周囲が沼地であったこの地が防衛の面から見ると安全なことや、その割にはイタリアの各地からの交通の便が良かったことが移転の理由でしたが、それよりもキリストの布教を拠点にしていたクラッセの港が近かったことが最大の要因でした。やがて、クラッセに置かれていた司教座(カトリックで司教や大司教が執務を取る意)は、ラヴェンナに移されることになり、こうした経緯を以て、この町に聖堂と洗礼堂が建立されたのでした。



そうそう、洗礼とは、原罪とそれまでに犯した過ちを清めることで、なるほど~このお堂の真ん中にはその儀式を行う為の水槽がありました。みんな、この水槽ものぞき込んで・・・どういう訳かコインが投げ込まれていましたが、水だまりがあれば、硬貨を入れたくなるのが旅人の人情か、なんか賽銭箱みた~いと、一人クスクス笑いが出たのでした(^^)


サンビターレ聖堂に比べると、少々見劣りはするものの
それでも、皆、口を開けてあんぐり見上げます

私もその一人(*^_^*)



天井を見上げれば見事なモザイクによって
ヨハネから洗礼を受けるキリストが描かれています
写真でも言葉でも伝えきれない、なんというきらびやかで美しい青…


余談

以下の地図は、ラヴェンナのインフォメーションで貰いましたが、地図の上部が私の出発点、イタリア鉄道の「ラヴェンナ駅」になります。この駅には、「地球の歩き方」に、荷物の預け場所があると記されていましたが・・・さて、雨の中、駅周辺を探してみましたが、それらしき場所は見当たりませんでした。ネットの情報から、もしかすると、観光シーズンになれば、駅を背にした左側に自転車置き場がありましたので、その辺りに特設されるのかも知れません。けれど、大きな荷物を持って雨でも降っていたりするとさんざんなので、ここは、ボローニャ駅の荷物預け所を利用するのが得策だと思います。


駅から「ポポロ広場」を経て、「サン・ビターレ聖堂」、付属する「ガッラ・プロチダ」、「ネオニアーナ洗礼堂」までやってきました。次はどこへ行くかな~いや、そろそろお腹も空いてきたので、ランチにしようと思います(^^)
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