イタリアより

滞在日記

トレッキアーラ城への道のり-行き方-その4.

2019年02月14日 | トレッキアーラ

パルマ・ガリバルディ広場前のクリスマスツリー

トレッキアーラ城の見学後、立ち寄りました


■2018年12月28日

パルマの鉄道駅を出たバスは、右手にパルマ川を見ながら、ジョバンニ・マリオッティ通りを走って行きます。その左側には、恐らくパルマの町が広がっているはずで、この時点で、お城の帰りには駅まで戻らず、途中下車して市内を散策しようと決めました。


お城からの帰りに途中下車したバス停の横に市が立っていました

このバス停名は、Piazza Chiaia (キアイア広場)と言います


バスの切符は、トレッキアーラ城までの往復チケットを買っています。バスの中では、勿論刻印を忘れずに。件の黒人さんも一緒に乗車して、バスの運転手にこの人はお城に行くからと、後ろから乗った私を振り返りながら、そう伝えてくれました。その親切がとても嬉しかったです。


上記写真の下二枚がトレッキアーラへの往復分切符(各90分有効)
ちなみに、上の切符はパルマ市内のバスの切符一回券(60分有効)


バスの車内で私の横に座ったご婦人が、どこから来たのか、何処へ行くのかと、矢継ぎ早に話しかけて来て、でもゆっくりとした優しい口調だったので聞き取りやすく、会話が出来たのは楽しかったです。ご自分も昔東京へ旅行したことがあるそうで、あの頃は若かったし、懐かしいわと話してくれました。ご自身は、コルッカニャーノで降りるけれど、トレッキアーラはまだまだよ、気を付けてね、との言葉を残してバスを降りて行きました。


思い出に撮らせて貰ったこのご婦人の御手(^^)


このご婦人が降りたバス停あたりから、バスは一気にスピードを上げて郊外路線をまっしぐらに走って行きます。外の景色は、それまでの町並みとは打って変わって、なだらから草原になりました。


こんな景色が続きます
前述した通り、遠くにお城が見えてきたら下車の準備


そうそう、肝心の下車するバス停は、『TRRECHIARA Piazza Leoni』です。いわば、トレッキアーラ・レオーニ広場ということになるでしょうか。確かに、バス停前は広場だけれど、駐車場として活用されているようで、私が想像したような広場ではありませんでした。バスの車内には電光掲示板が次のバス停名を表示するので、それを確認して、降りる時は早めにボタンを押して運転手に知らせます。イタリアでは日本のように、下車する乗客が居なくても、バス停では少し速度を落としてくれる、なんてそんな配慮はしてくれません。郊外線ではましてや下車する合図がなければ、あっという間に通り過ぎて行きます。

黒人さんが、トレッキアーラに私が行くことを乗車時に言ってくれたから、バスの運転手さんは、 Piazza Leoniのバス停が近付くと、バスのスピードを落として止まる様子を見せてくれました。私はその時になって降車ボタンを押したのだから、ちょっとマヌケっぽかったです^^;。


赤の四角:帰りのバス停
黄の四角:降りるバス停
青い矢印:お城へ行く道



バスから見た進行方向



Linee e Orari > Linee Extraurbane


★トレッキアーラ城   動画(音が出ます)

《2019年2月現在》年中無休 公式サイト
 4月1日~9月30日 月曜日-土曜日:08時10分~13時50分
            日曜日と祝日 :10時00分~19時30分

10月以降       月曜日-土曜日:08時10分~13時50分
            日曜日と祝日 :10時00分~16時00分

※毎月第一日曜日は入場無料
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トレッキアーラ城への道のり-行き方-その3.

2019年02月03日 | トレッキアーラ

ピエール・ロッシの居城を訪ね巡るビアンカ


妄想ストリーも終盤です


サン・セコンドの領主ピエール・マリーア・ロッシは、フランス語、スペイン語を初め数多くの国の言葉を学び、音楽や美術にも造詣が深く、更には『Pier Maria Rossi si dedicò con grande successo al “mestiere delle armi”』と彼を紹介したwebサイトにもあるように、兵器の製造にも成功を収めていました。“Si dedicò”(献上した)の相手は、勿論ミラノ公国フランチェスコ・スフォルツァです。その成果は当然、領地の拡大に直結して、周辺には26以上もの居城を所有していました。ビアンカはそれら一つ一つのお城を訪ねて回ります。その姿はまるで巡礼者のようです。そんな物語が天井一面に描かれているものだから、私はもう口をあんぐり開けて眺めていました。


キッチンもありました


お城の中には台所や馬を飼っていた当時の様子がそのまま残されていて、明らかにこの場所で沢山の使用人が立ち働き、二人の和やかだったであろう生活が垣間見えました。夏の別邸なので、石造りの堅牢な建物は直射日光を遮り、パルマ川の渓谷を渡ってくる風は涼しくて、領主ロッシは身も心も癒やされたことでしょう。


使用人達が働く様子

お城の資料室に展示されています


今の世ならば、当人たちでなくても、彼ら使用人がInstagramやFacebookなどでお城の様子をUPして、例えば、それは、『今夜のメニューはステーキ!』やら『当地厳選の生ハム!』等々、リアルタイムで正妻の元に届きそうですが、当時であっても、二人のこうした暮らしぶりは、確実にアントニアの知るところとなったでしょう。


厩舎もありました


トレッキアーラ城とほぼ時期を同じくして建設していたお城、ロッカ・ビアンカは、完成するとマリーア・ロッシは愛人に贈ります。正妻アントニアが住むサンセコンドのお城のすぐ近くです。それを知って、あるいは、もしかしたら遠くにでも見えるロッカビアンカを毎日毎日眺めることになるアントニアの気持ちはいかばかりか。


ロッカ・ビアンカ
webサイトより


話が少しそれますが、アントニアに思いを馳せていると、ふと源氏物語が頭に浮かんできました。そう、あの六条御息所のお話です。奇しくも年齢差は、ロッシとアントニアと同じ、六条御息所は光源氏より7歳年上でした。余りにも光君を愛する余り、その身は生き霊となって、光源氏の相手の女性を次々呪い殺すという、何とも恐ろしいストリー展開ですが、勿論これは架空の物語。

それでは、アントニアはどうしたか。彼女は、しかし、誠に賢明な女性でした。夫の耐えがたい仕打ちには心穏やかならぬ日々を過ごしたものの、ある時点で見切りを付けて身を引き、修道院へ入ってしまいました。それがいつのことか分からないのですが、恐らく子育てもそこそこ終えた、そうして夫の心はもう自分には戻らないと悟った、これらのお城の建設のすぐ後のことだろうと推測します。もしかするともっと早い時点で、ロッシには三行半を突きつけていたかも知れません(あっ妄想です)


アントニアが子供達と暮らしていたロッカ・デイ・ロッシ(サンセコンド)

webサイトより


“Dopo diversi anni di matrimonio e dopo aver avuto dieci figli da Antonia Torelli, quest’ultima si ritirò nel convento di San Paolo a Parma”

トレッキアーラ城にまつわる文書を掲載したwebサイトの一文を参考にさせてもらうと、アントニアはパルマのサン・パオロ修道院に引退したそうですが、この修道院は元はベネディクト会系の女子修道院で、彼女は余生を神に捧げて過ごしたようでした。詳しい資料は見つけられないままですが、わずかな期間なりとも、ここで穏やかな日々が送れていたならと、そんな気持ちになりました。

史実によると、アントニアは、1468年疫病で亡くなったとあります。この時代の疫病とは、もしかしたら黒死病・・ペストかもしれない・・・14世紀にヨーロッパを荒れ狂ったこの伝染病は、その後も時を置きながら人々を襲ったというから、アントニアもこの死病に冒された可能性は十分にあって、そうなると彼女の亡骸はどうなったか、アントニアの埋葬場所やお墓が不明なのは、ここに至って、何となく分かる気がしてきたのでした。

ちなみに、件(くだん)の六条御息所も、自身が気付かぬまま、我が身が生き霊となって人々を呪い殺したことを知ると、その罪の深さにおののき、仏門に下る決心をしますが、それでも、死後も魂は成仏せず、光源氏と関係を持った女性達に取り憑いたというから、その情念たるやすさまじく、女性を怒らせると、どんなに恐ろしいことになるか^^;

あっ又時間切れです。次回こそ、本題、行き方の説明に戻りますm(_ _)m

【余談】


お城の入り口に続く坂道
息を切らして上がりました


トレッキアーラ城に、幽霊が出るそうです。普通に考えれば、その幽霊は領主のピエール・マリーア・ロッシやビアンカ・ペリグリーニだとなるところですが、目撃した人は、その幽霊は当時の装束を着ているわけでもなく、鎧もかぶってはいない、もう少し時代の下がった頃の市井の人の洋服をまとい、荘園にも入らないで時々泣いていたとも言います。


Cortile d'onore「名誉の中庭」


地元の人にとっては、愛する二人の幽霊なら納得もし、歓迎もするのでしょうが、実は、この二人は、トレッキアーラ城の教会に埋葬されてはいなかったのだとか。16世紀にお墓が開けられたのですが、中には何もなく、ピエール・マリーア・ロッシの亡骸は故郷のサンセコンドに運ばれ、ビアンカは、ポー川の向こうミラノ近郊のアルルーノ家の墓に埋葬された、というのが専門家の見方なのだそうです。


二階のロッジャ


男性の幽霊は、トレッキアーラ城に誰よりも思いのあるロッシであろうとしても、女性の幽霊は、着ている洋服も違うし、ビアンカには似ていない、しかも幽霊は水を避け、川は渡っては来ないということになって、この奇妙な目撃情報は謎のまま…だとか。
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トレッキアーラ城への道のり-行き方-その2.

2019年01月24日 | トレッキアーラ

Camera d'Oro“黄金の寝室”の丸天井

この部屋には一面に
二人の愛の物語が綴られています

勿論、ピエールとその愛人ビアンカのお話です

妄想ストーリーは続きます。


こうしてピエールは宮殿のパーティへ出かけますが、その会場で出会った女性と恋に落ちました。その人こそが、トレッキアーラ城建設のきっかけになり、後世そのお城で生涯を共にすることになるビアンカ・ペッレグリーニBianca Pellegriniでした。

イタリア版ウィキペディアによると、ビアンカ・ペッレグリーニを、Era probabilmente la dama di compagnia della duchessa Milano Bianca Visconti と紹介しているので、彼女はミラノ公国のビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ伯爵夫人の付き人をしていたようで、更には、moglie del cavaliere Melchiorre di Arluno つまり、騎士であったメルヒオール・アルルーノの妻、そうなると彼女も又既婚者だったということになります。


お城の壁に描かれたピエール(左)と花嫁姿らしいビアンカ(右)

P:おっーなんとお美しい! 輝く星のようだ!わたしの太陽だ!
(星か太陽かどっちやねん、あっ妄想です)
P:sei bella bella! molto carina!

B:あーなんて素敵な殿方なんでしょう。わたしの好みだわ~♪
(そんなはしたないことは言わないと思います。妄想です)
B:E`magnifico!

お互いこうして惹かれあった訳ですが、今風に言うと、ダブル不倫になって、当時も口さがない人々の噂話の的になったことだと思います。それでも、彼女は、パルマに帰還する彼に付いて行ったというから、きっと現状の結婚生活には満足してなくて、それ故にピエールの情熱溢れる口説き文句にはひとたまりもなかったでしょう。彼も又然り、働き盛りとはいえ、周辺諸国との争いに疲労やストレスも貯まっていただろうし、そんな中で出会った、若く美しい女性に心を奪われてしまったのは、むしろ自然な成り行きだったかも知れません。ちなみに、この時、ピエールは27歳、ビアンカは23歳、正妻のアントニアは34歳でした。時は、15世紀半ば、北は、レオナルド.ダ.ビンチが描いた幻の壁画のモデルになったあのアンギアーリの戦いが、フィレンツェとミラノの間で勃発し、南ではアラゴン王がナポリを征服しようと触手を伸ばしていた、そんな混沌とした時代でした。


ビアンカに剣を差し出し、忠誠と深い敬愛の情を捧げるピエール・・・多分


こうして、ピエールとビアンカは、その後も愛を育むことになるのですが、ゴタゴタが起こらないように、ピエールは彼女の夫にはなにがしかの報償を与え、もしビアンカに子供がいたならば、彼らにもそれなりの保障は約束した・・・そのくらいの配慮と度量は、マニーフィコ(立派な)と呼ばれたピエール・マリーア・ロッシにはきっと備わっていたことと思います(妄想です)


王冠を被せピエールの労をねぎらい、その功績を称えるビアンカ・・・多分


そんな彼女との愛を全うすべく、夏の居城として造ったのが、トレッキアーラ城でした。そうなると、愛人を連れ帰った夫を前にして、妻の立場はどうなるのか、そりゃもう怒り心頭に発する境地だったに違いないと、勝手な妄想ストーリーは更に広がりますが、続きは又にして、お城への行き方を記しておきたいと思います。(行き方の説明はそっちのけで、ちょっとちょっと奥さんと、井戸端会議になってますよねぇ)

■2018年12月28日

パルマの鉄道駅は縦構造になっています。電車を降りたらエスカレーターやエレベーターで一番下の階まで行きます。構内にタバッキがあるので、バスの切符はそこで往復買いました。『トレッキアーラに行きたい』と言えば、通じます。ちなみに切符の種類は、EXTRAURBANO、VALE3ZONE です。


エレベータやエスカレーターで一番下の階へ行く



両サイドの扉から外へ出ると行き先に応じたバス停が並んでいます

私は、何も考えずに外へ出たら、該当する乗り場がなくて、慌てました。バス会社の公式サイトからダウンロードして印刷した時刻表を手にしていましたが、パルマ駅発トレッキアーラへ行くバスがどこにも停車する気配がない、バス乗り場がないのです。発車時間は迫ってくるし、このバスに乗らないと、午前のお城の見学はできません。右往左往していると見かねたのでしょうね。近くの人が何人も寄ってきて、一緒にバス停を探してくれましたが、その中の一人の黒人さんが、トレッキアーラに行くのか?自分もそのバスに乗るよ、と言って、反対側のドアを指さしました。そっか~両方のドアのどちら側に出てもバス停はあるんだ・・・


お城へ行くには12番の乗り場から『CAPOPONTE』行きのバスに乗ります

それにしても、パルマの人達は、皆親切でした。最後まで心配してくれたこの黒人さん初め、車中で隣り合わせた老婦人も、帰りのバスに乗り遅れた私を寒いからここで待ってなさいと言ってくれたバールの女主人も、そればかりかトイレの番をしていたお兄さんだって、あの時、私を騙そうと思えば、いくらでも騙せたのに、みんなみんないい人達ばかりでした。


午前11時21分発のバスに乗車しましたが
バスは時刻通りに、やって来ました


‐続く‐

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トレッキアーラ城への道のり-行き方-その1.

2019年01月16日 | トレッキアーラ

バスの車窓から見えてきたお城


このお城を知ったのは随分前の事でした。どの航空会社だったか手に取った機内誌に、サイコロを積み上げたような変わった形のお城の写真が載っていたのです。周辺に何もない小高い丘の上にポツンと立っていた光景は、それまでイタリアで見てきたどのお城のタイプにも当てはまらず、なんと几帳面な造形か。けれど、凜としていて、それでいてどこかかわいらしさもあって、けれどこんな無防備な状態で立っているなんてと様々な感想を抱いたことを覚えています。

それが今回、パルマを訪れる為に下調べをしていて、偶然見つけたのでした。あっあのお城だ!名前も場所も知らず、長い間記憶の奥底に沈んだままだったお城が、こんな形で目の前に現れるなんて、これは運命だ!行かなければ!と思い入れを持ったわたしは、なんと単純なのでしょうね。


入場チケットは一人4ユーロ(2018年12月現在)

切符売り場は、門を入ってすぐ右に窓口があります


このお城は、パルマの市内から20㎞ほど離れた郊外にあるランギラーノという町にあるのですが、交通機関はバスしかありません。訪れた日も、私以外の来訪者は皆マイカー利用でした。それもカップル、お天気が良かったのでドライブがてら~、という軽いノリの雰囲気で、私一人だけが、こぶしを握りしめ、ついにここまで来た!ウルウル・・・と立ち尽くすその姿は、随分浮いていたことだと思います。


写真は公式サイトより


当時のお城の城主は、ピエール・マリーア・ロッシPier Maria Rossiと言います。サイトの説明には、この名前の前に Magnifico(マニーフィコ)という形容詞が付いていますが、これは、君主に対する敬称で、いわば偉大なるロッシ家のピエールさん、とでもなるでしょうか。元々はこの近郊のサン・セコンドという町の領主だったのですが、この時代、どこの国々でもそうだったように、ミラノやヴェネチアをはじめ遠くはフランスとの争い事にまで彼は頭を悩ませていました。それでも文武両刀に長けていたのでしょう。親から譲り受けた領地をこつこつと広げて行きました。

ここからは妄想ストーリー


1428年、彼が15歳になった頃、マントヴァの貴族グィード・トレリーの娘アントニアと結婚することになります。恐らくミラノのヴィスコンティ家あたりからの圧力による政略結婚だったのでしょう。それでも男の子7人女の子3人計10人もの子宝に恵まれ、順風満帆、ピエールさんもアントニアさんもそれなりに暮らしていたのだろうと思います。ところがそんな家庭に波風が立ち始めます。
   

ある日のこと(妄想です)

P:「ミラノからパーティの招待状が来たよ」
A:「あらっそーなの。又、宴会するのね」
P:「イヤになるよ。遠くまで出かけるのは」
A:「でもたまには都会の空気も吸って来ないと」
P:「君も一緒に行かないか」

A:「ムリよ。子供たちが居るのだもの」 
P:「そっか・・・じゃ一人で行ってくるか」
A:「そうしなさいよ」
P:「うん、二次会は断ってすぐ帰って来るよ」 


バス停から丘を目指して歩きます

黄色の矢印:お城の入場門へ
赤の矢印が:二人が眠る教会
サン・ニコーデモ教会
(といっても、ピエールと愛人が祀られています)



お城への入り口と教会の間を入って行った突き当たりにインフォがあります



トレッキアーラ城のインフォメーション

チケットは売っていません(チケットは前述とおり、お城の門を入った窓口で)
奥にトイレがありますが、お城の場内、進行経路最初の門の右横にもトイレはあります

このインフォ、お城の開門時間が終わるちょっと前に閉まってしまいました
お城を出てからパンフや絵葉書を買おうと思っていたのに…


-続く-

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トレッキアーラ城を訪ねて

2018年12月29日 | トレッキアーラ

トレッキアーラ城

降りたバス停からお城に行くまでに
写真スポットがあります
訪問者はきっと皆ここで撮影をするのだろうと思います
今日は私一人がお城を独り占めしました


■2018年12月28日(土)

パルマの郊外、生ハムの製造で有名なランギラーノ地区にあるトレッキアーラ城を訪ねました。ミラノから普通電車で約1時間半、パルマの駅から郊外のバス路線に乗ります。時刻表は前もってこのバス会社の公式サイトで調べてはいましたが、時刻表通りバスが出るのか、バス停はどこか、恐らく切符は近くにタバッキがあって、そこで買えるのだろうけれど、これらの詳しい情報は得られないままでした。


お城の内部

天井のフレスコ画にあんぐり口をあけています
何百年も前にしめった漆喰に描かれた絵が
こんなに色鮮やかで残っている
恐らく修復もされたのでしょうけれど
鮮やかな青は、パヴィアの修道士さんも
天国の色だと言ってたっけ


案の定、FSの駅を降りた途端、右往左往することになりました。田舎町を走るイメージのトレノルド線のパルマの駅が、縦構造でこんなにおしゃれな駅舎だったなんて。まるでちょっとした地方の空港みたいでした。何しろ昨日は、出口に行くのに線路を渡ったものだから。


SALA DELLA VITTORIA

豪華で豊かな黄金の部屋

中には剥げかけた色薄いフレスコ画もありましたが
よく見ると、まるでギリシャ神話をモチーフにしたような
幻想的な描かれようでした

これらの部屋の対比は面白かったですが
修復部分には少々雑な部屋もあって
当時のままを再現し保存し続けるのは
ほんとに難しいのだろうと思います



Camera d'Oro

印象深い部屋でした

愛する者同士の紋章が彫刻されたテラコッタが
壁の下部一面に張りめぐらされていました

二人の愛の絆の深さを偲ばせますが
でも・・・



ハートをあしらった紋章

領主ピエール・マリア・ロッシ-サンセコンドと
ビアンカ・ペレグリーニのこの二人
実は愛人関係のようで

なんだか一気に気持ちが萎えました(笑)

ということは
このお城は二人の愛の巣ということになる
どこにもある話なんだけど


周囲の人に尋ねながら、お城までたどり着きましたが、青空に映えるトレッキアーラ城を小高い丘の上に見た時には、一人でガッツポーズ!ついに来たと、要塞ではあるものの、どこかきりりとした、それでいて可愛い貴婦人のような佇まいに見とれていました。

朝のテレビの天気予報では、この周辺は曇り空で霧が出ると言っていたので、当たらなかった予報に嬉しい気持ちでいっぱいでした。パヴィアの僧院を訪ねた時のように、霧に包まれたままではお城の魅力も半減します。晴天でほんとに良かった。たとえ愛人同士が忍び会う為のお城であったとしても^^;

【余談】

※パルマでパンツ!



お城を見た後は、パルマの町を散策しました。小さなエリアに見所は詰まっているので歩くのも楽でした。ショッピング街をキョロキョロする私の目的は、お土産を買うこと。あったー!intimissimi uomo。イタリアに来るたびに買って帰るのですが、実は男性用の下着です。夫が言うにはとても履き心地がいいのだそうで・・・


パンツ三枚買うと一枚おまけしてくれます
昨年もそうでした(^^)


パルマの名産、生ハムを買わずにパンツ・・・お店のお姉さんに話すと、あっらーいいじゃない、生ハムは履けないもの~。確かに。と言うわけで、パンツもカバンに詰めて、帰る支度をします。明日の朝、帰国です。中国経由・・・トラブルが起こりませんように。
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