イタリアより

滞在日記

シラクーザの二人その2.プラトン④

2021年02月19日 | シラクーザ

アレトゥーザの泉

紀元前4世紀の頃、エジプトから持ち込まれたらしいパピルスが生い茂っています
すぐそばにシチリアの海が広がるのに淡水が沸き上がっている不思議な泉でした

2019年12月24日撮影


またまた、さくっとしたお話に加えて、長くなるので詳細は端折りますが、プラトンが来島したことで、シラクーザの人々の意識も変わっていきました。学問に目覚める者もいれば、現状の改革に目を向ける者も現れて、こうした人々を中心にプラトンには徐々に仲間が増えていきます。


そういえば、シラクーザに関わる三人目の偉人…
思いもかけずカラバッジョの絵画が
「聖ルチアの埋葬」以外に
もう一作品観ることが出来ました


政争や陰謀、はたまた近しい者の嫉妬や告げ口による事件に見舞われながらも、プラトンは二度もシラクーザを訪れて、ディオニュシオスの教育に当たるのでした。それは、彼の「夢の実現」もさることながら、ディオンや同志たちの、自身に向ける信頼を裏切ってはならないというプラトンの思いの表れでもありました。何しろ、自国のアテネでは、プラトンがシラクーザに何度も赴くのは、権力に媚びを売る為だと言う者もいたから、プラトンとすれば意地でもこの国に、「理想国家」を作り上げたかったことでしょう。

しかし、ディオニュシオス二世にはプラトンの教えは届かない。三度目にシラクーザを訪れた時、体得したかと思われたディオニュシオス二世の哲学は見せかけだけ、口先だけの浅薄な知識であることをプラトンは見抜きます。



「Crocifissione di sant´Andrea」/「聖アンドレアの磔刑」

Palazzo della Soprintendenzaにて

2019年12月24日撮影
「聖ルチアの埋葬」は教会内部であった為撮影不可でしたが
ここではフラッシュ無しならと許可してもらえました


片やディオニュシオス二世は、叔父であり、義兄弟でもあった有能なディオンへの嫉妬や対抗心もあって、プラトンを半ば疎んじながらも、彼の名声や人望は十分に承知していたのでしょう。なかなかプラトンを放そうとはしませんでした。が、再び熾烈な政争に巻き込まれたプラトンは、命の危険にさらされて、ついにこの地を去らざるを得なくなったのです。プラトン66歳。「哲学を持つ王(哲人王)」を誕生させるという夢を抱いてシラクーザを訪れてから26年の年月が経っていました。


この「聖アンドレアの磔刑」は
かつてはウィーン・Back-Vega所蔵
現ロンドン・Spier所蔵のもの…

二つあるんだ…「聖アンドレアの磔刑」

カラバッジョの子弟であるシラクーザ在住のマリオ・ミンニーティの作品
「Miracolo della vedova di Naim」と「Maddalena ai piedi della Croce」も
並んで展示されていました

聞けば当作品は2019年4/19-2020年1/10までの展示で、
知らずに訪ねただけに幸運としかいいようがなかったです


シラクーザの人々に、真の法治国家を作り、一人ひとりが「善き行い」をすることこそが、子々孫々の幸福につながると説いたプラトンでしたが、現状は、以降も僭主政治は続いていきます。北フランスのノルマンディからシチリアにやって来た若者の子孫が「メルフィ憲章」と呼ばれる、人々の生活に即した法律を制定した「法治国家」を建設するのは、まだまだ果てなく遠い未来のお話です…。

2019年12月24日、急遽訪ねたシラクーザで図らずも知った二人の偉人の功績…アルキメデスはともかくも、ギリシャの哲学者プラトンが、シラクーザと時の僭主ディオニュシオスにこんなにも深く関わっていたことは、初めて知りました。

折しも大学受験の季節、もしも『プラトンに関連すると思われる、以下の作家の中から、該当する作品を挙げ、その関連理由を述べよ』~みたいな問題が出題されたなら、多分答えられる気がする…

1.井伏鱒二 2.川端康成 3.太宰治
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シラクーザの二人その2.プラトン③

2021年02月12日 | シラクーザ

天国の石切り場

古代の石灰岩の採石場が
今は有名な洞窟を有する
緑豊かな庭園になっています

2019年12月24日撮影


紀元前367年、ディオニュシオス一世はこの世を去り、彼と三番目の妻ドリスとの間に生まれた長男が、ディオニュシオス二世と名乗ってあとを引き継ぎます。実は、このディオニュシオス二世には、少々同情を禁じ得ない生い立ちがありました。イタリア版ウキペディアに、Il padre, Dionisio I, l'aveva sempre tenuto lontano dagli affari interni ed esteri,lo aveva fatto crescere chiuso nel castello, circondato da giullari e piaceri di corteとあって、どうも、父親のディオニュシオス一世は、息子が自分を裏切り、陰謀を企てるのではないかと恐れて、彼が知識のある人や徳のある人々に接触しないように、いつも城に閉じ込めていたというのです。


「ディオニュシオスの耳」へ続く歩道


閉じ込めていた、というのはいささか穏やかではないですが、上記を訳すと『父親のディオニュシオス一世は、常に内政・外政の諸事から息子を遠ざけ、宮廷の道化師や旅芸人たちと宮廷内の娯楽に取り囲まれながら、お城に閉じ込めて育てさせた』(kazu意訳)…ざっとこんな意味だろうと思います。

要するに父親自らがディオニュシオス二世を放蕩息子にならしめた訳ですが、猜疑心や恐怖心が我が子に対してまでも及ぶというのはこの時代においてはありがちながら、その結果として、教養のない力足らざる若者を自身が築き上げた偉業と広大な領地の跡継ぎにしてしまうというのは、何と皮肉なことだったでしょう。


ディオニュシオスの耳

2019年12月24日撮影

元々洞窟の上部にあった古代の曲がりくねった水道橋を上から下へと採掘したものらしい


ディオニュシオス二世の叔父であり、義兄弟でもあったディオンは、事の次第を憂慮して、何とかこの若き王を教育して、シラクーザの立派な支配者に育てようとプラトンを招聘(しょうへい)するのでした。ディオン自身は、プラトンの哲学や思想を理解し、シラクーザに何としても法治国家を作り、ディオニュシオス二世を徳のある立派な王にするとの志を立てますが、何しろ父親の、ある意味、幼少時の刷り込みは功を奏していて、放蕩の限りを尽くしてきた二世は、そうそう改心することはなかったでしょう。



グロッタ・デイ・コルダーリ(縄ない職人の洞窟)

職人が伝統的な技法で縄を製造した場所

湿気の多いこのあたり一帯の洞窟は麻縄を造るのには最適の場所でした
伝統による製法で、職人たちは格調の高い縄を作っていたのだそうです
ここでの縄の製造は、1983年頃まで続いていたとか

今は亡きディオニュシオス一世に初めて会った時から20年の時が過ぎ、プラトンは60歳になっていました。弱冠30歳でとてつもない権力を引き継いだディオニュシオス二世に学びをと、ディオンと共に苦心するプラトンでしたが…

‐続く‐
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