ヴィットリーナ教会そばのフランチェスコとオオカミの像
グッビオ市のホームページより
■2016年12月24日(土)
アッシジの裕福な織物商の家に生まれ育ったフランチェスコは、当時の若者が皆そうであったように功名心からペルージャとの戦いに参加しますが、病に倒れ、心身とも傷ついて帰還します。死の淵をさまよいながらも奇跡的に回復するのですが、健康を取り戻した時、キリストの信仰に目覚めるのです。次第に修道の道にのめり込むフランチェスコは、やがて富や財産を拒絶し、親から与えられし物として、着ている衣服さえも脱ぎ捨て、故郷を去る決意をします。1207年、フランチェスコが25才の時でした。
ブラザー・サン シスター・ムーンより
着ている服を脱ぎ捨て、両親の元を去るシーン
アッシジを出たフランチェスコが最初にたどり着いたのがグッビオの町でした。この地で彼を受け入れ、のちの清貧の象徴となる修道服を与えたとされるのが、友人であったスパダロンガ家なのだそうですが、周囲には少しづつ、こうしてフランチェスコの教えに共鳴して、手助けをする者や“兄弟”たちが現れ始めます。
テアトロロマーノ付近からグッビオの町を望む
ベルナルドをはじめ、エジディオやピエトロなど12人の兄弟達とローマに赴き、時の教皇に謁見するのが1209年のこと。故郷のアッシジにあるサン・ダミアーノ聖堂やポルチウンコラ聖堂の修復もこの頃に重なっていることを思えば、グッビオに滞在したのはわずかな期間だろうと推測しますが、歴史的事実云々はさておいて、この間に町で起きた出来事こそが、聖人のエピソードとして書物「イ・フィオレッティ」に綴られ、後世伝承されるとになる当地の、オオカミとの和睦の物語でした。
大きな交差点にあるヴィットリーナ教会
向かいの芝生の上に像が建っています
ストリートビューより
フランチェスコがグッビオに滞在していたとき、町の人たちは野に現れるどう猛なオオカミに悩まされていました。時には町に出没して家畜や人を襲うので、誰も町から外へ出ることが出来なくなっていました。フランチェスコは、こうした町の現状に心を痛め、オオカミと話をしようと、皆が止めるのも聞かず、たった一人で彼らのすみかに出掛けます。
フランチェスコがオオカミに出会ったとき、オオカミは襲いかかろうとしますが、フランチェスコの掲げる十字架と優しい口調で話しかける聖人の様子に、彼はフランチェスコの足元にひれ伏しました。
リュック・オリヴィエ・メルソン作「グッビオのオオカミ」(Le Loup d'Aggubio)
それを見たフランチェスコは、オオカミに言います。『我らが兄弟たるオオカミよ、おまえはこの地で、神が造られ給もうた家畜や人々に害を与えた。彼らを殺し、食べるという大きな罪を犯したのだ。故に絞首台に上がらせることは当然のことだ。人々はおまえを許さず、ののしり責め立て憎んでいる。いまや、全ての村人がお前の敵だ。犬でさえおまえを嫌い、吠え掛かっている。しかし、私は、町の人たちとお前を和睦させたいと思う。おまえがこうした罪を犯すのは、ひとえに空腹のせいだと私は知っている。今後、おまえは町で悪さはせず、人にも家畜にも決して危害をくわえないと約束してくれるならば、私もおまえに恵みを与えよう。』
フランチェスコがこう言うと、オオカミは頭を垂れて、この約束を守ることを誓いました。更にフランチェスコは続けます。『兄弟オオカミよ、キリストのみ名の元に、町の人たちとおまえとの和睦を図ろう。おまえは町の人たちに危害を加えないと約束をしてくれたのだから、人々もこれからは、おまえの命をつなぐ食べ物におまえが生涯困らないよう与えることをわたしが保証する。』この言葉を聞いたオオカミは、前足をフランチェスコの手に置きました。全てを受け入れて、彼も又その保証をするというしるしでした。フランチェスコは、人々にもオオカミの罪を許すように、犬たちにも、今後オオカミに吠えたり追いかけ回さないよう言い聞かせるのでした。
人々は訪ねてくるオオカミに食べ物を与え
犬さえも彼に向かって吠えることなく居る
犬さえも彼に向かって吠えることなく居る
こうして、町の人たちとオオカミは、互いにフランチェスコとの約束を守って仲良く暮らし、オオカミはこの2年後に天国に召されますが、人々は彼の死を悼み深く悲しみました。上記の絵画の中、オオカミの頭に光輪が描かれていますが、これはフランチェスコの尊さを表しているのでしょう。オオカミが町の中を歩いているのを見ると、人々はフランチェスコの徳や教えがよみがえり、対峙する相手と和を結ぶ大切さを思い出すのでした。