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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その14 伊藤 亜紗

2017年05月17日 00時03分30秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その14 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見える人には必ず『死角』がある」 P-69

 もう一度、富士山と月の例に戻りましょう。見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。

 だとすると、そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけなのではないか、という気さえしてきます。見えない人は、厳密な意味で、見える人が見ているような「二次元的なイメージ」を持っていない。でもだからこそ、空間を空間として理解することができるのではないか。

 なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間や物を見るか」です。「自分がいる場所」と言ってもいい。もちろん、実際にその場所に立っている必要はありません。絵画や写真を見る場合は、画家やカメラが立っていた場所の視点を、その場所ではないところにいながらにして獲得します。顕微鏡写真や望遠鏡写真も含めれば、肉眼では見ることのできない視点に立つことするできます。想像の中でその場所に立つこうした場合も含め、どこから空間や物をまなざしているか、その点が「視点」と呼ばれます。

 同じ空間でも、視点によって見え方が全く異なります。同じ部屋でも上座から見たのと下座から見たのでは見えるものが正反対ですし、はたまたノミの視点で床から見たり、ハエの視点で天井から見下ろしたのでは全く違う風景が広がっているはずです。けれども、私たちが体を持っているかぎり、一度に複数の視点を持つことはできません。

 このことを考えれば、目が見えるものしか見ていないことを、つまり空間をそれが実際にそうであるとおりに三次元的にとらえ得ないことは明らかです。それはあくまで「私の視点からみた空間」でしかありません。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その13 伊藤 亜紗 

2017年05月15日 00時08分42秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その13 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人の色彩感覚」 P-68

 つまり、見えない人は、見える人よりも、物が実際にそうであるように理解していることになります。模型を使って理解していることも大きいでしょう。その理解は、概念的、と言ってもいいかもしれません。直接触ることのできないものについては、辞書に書いてある記述を覚えるように、対象を理解しているのです。

 定義通りに理解している、という点で興味深いのは、見えない人の色彩の理解です。
 個人差がありますが、物を見た経験を持たない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがあります。「私の好きな色は青」なんて言われるとかなりびっくりしてしまうのですが、聞いてみると、その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。たとえば赤は「りんご」「いちご」「トマト」「くちびる」が属していて「あたたかい気持ちになる色」、黄色は「バナナ」「踏切」「卵」が属していて「黒と組み合わせると警告を意味する色」といった具合です。

 ただ面白いのは、私が聞いたその人は、どうしても「混色」が理解できないと言っていたことでした。絵の具が混ざるところを目で見たことがある人なら、色は混ぜると別の色になる、ということを知っています。赤と黄色を混ぜると、中間色のオレンジ色ができあがることを知っています。ところが、その全盲の人にとっては、色を混ぜるのは、机と椅子を混ぜるような感じで、どうも納得がいかないそうです。赤+黄色=オレンジという法則は分かっても、感覚的にはどうも理解できないのだそうです。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その12 伊藤 亜紗 

2017年05月13日 00時02分33秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その12 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人にとっての富士山と、見える人にとっての富士山」 その3 P-64

 こうした月を描くときのパターン、つまり文化的に醸成された月のイメージが、現実の月を見る見方をつくっているのです。私たちは、まっさらな目で対象を見るわけではありません。「過去に見たもの」を使って目の前の対象を見るのです。

 富士山についても同様です。風呂屋の絵に始まって、様々のカレンダーや絵本で、デフォルメされた「八の字」を目にしてきました。そして何より富士山も満月も縁起物です。その福々しい印象とあいまって、「まんまる」や「八の字」のイメージはますます強化されています。

 見えない人、とくに先天的に見えない人は、目の前にある物を視覚でとらえないだけでなく、私たちの文化を構成する視覚イメージをもとらえることがありません。見える人が物を見るときにおのずとそれを通してとらえてしまう、文化的なフィルターから自由なのです。


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その11 伊藤 亜紗

2017年05月11日 00時08分24秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その11 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人にとっての富士山と、見える人にとっての富士山」 その2 P-64

 三次元を二次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつです。「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。とくに、富士山や月のようにあまりに遠くにあるものや、あまりに巨大なものを見るときには、どうしても立体感が失われてしまいます。もちろん、富士山や月が実際に薄っぺらいわけではないことを私たちは識知っています。けれども視覚がとらえる二次元的なイメージが勝ってしまう。このように視覚にはそもそも対象を平面化する傾向があるのですが、重要なのは、こうした平面性が、絵画やイラストが提供する文化的なイメージによってさらに補強されていくことです。

 私たちが現実の物を見る見方がいかに文化的なイメージに染められているかは、たとえば木星を思い描いてみれば分かります。木星と言われると、多くの人はあのマーブリングのような横縞の入った茶色い天体写真をを思い浮かべるでしょう。あの縞模様の効果もありますが、木星はかなり三次元的にとらえられているのではないでしょうか。それに比べると月はあまりに平べったい。満ち欠けするという性質も平面的な印象を強めるのに一役買っていそうですが、なぜ月だけがここまで二次元的なのでしょう。

 その理由は、言うまでもなく、子どものころに読んでもらった絵本やさまざまなイラスト、あるいは浮世絵や絵画の中で、私たちがさまざまな「まあるい月」を目にしてきたからでしょう。紺色の黄色の丸――月を描くのにふさわしい姿とは、およそこうしたものでしょう。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その10 伊藤 亜紗 

2017年05月09日 00時02分38秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その10 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人にとっての富士山と、見える人にとっての富士山」  その1 P-64

 見える人と見えない人の空間把握の違いは、単語の意味の理解の仕方にもあらわれてきます。空間の問題が単語の意味にかかわる、というのは意外かもしれません。けれども、見える人と見えない人では、ある単語を聞いたときに頭の中に思い浮かべるものが違うのです。

 たとえば「富士山」。これは難波さんが指摘した例です。見えない人にとって富士山は、「上がちょっと欠けた円錐形」をしています。いや、じっさいに富士山は上がちょっと欠けた円錐形をしているわけですが、見える人はたいていそのようにとらえていないはずです。

 見える人にとって、富士山とはまずもって「八の字の末広がり」です。つまり「上が欠けた円錐形」ではなく「上が欠けた三角形」としてイメージしている。平面的なのです。月のような天体についても同様です。見えない人にとって月とはボールのような球体です。では、見える人はどうでしょう。「まんまる」で「盆のような」月、つまり厚みのない円形をイメージするのではないでしょうか。