民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「文人囲碁会」 その3 坂口安吾

2015年08月18日 23時05分14秒 | エッセイ(模範)
 「文人囲碁会」 その3 坂口安吾 「教祖の文学」草野書房 所載

 僕が今迄他流試合をして、その図々しさに呆れたのは将棋さしのチームであった。将棋さしのチームは木村名人が初段で最も強く、あとは大概、三四級というところだが、彼らは碁と将棋は違っても盤面に向う商売なのだから、第一に場馴れており、勝負のコツは、先ず相手を呑んでかゝることだという勝負の大原則を心得ている。
 相手をじらしたり、イヤがらせたり、皮肉ったり、つまり宮本武蔵の剣法のコツをみんな心得ていて、ずいぶんエゲツないことをやる。こういう素性のよからぬ不敵の連中にかゝっては文士はとてもダメで、実際の力はさしたる相手でないのに、みんなやられて、ともかく、闘志で匹敵したのは尾崎と僕だけであり、さすがに僕も、この連中にはやゝつけこまれた形であった。
 僕が碁に負けて口惜しいと思ったのは、この将棋の連中で、いつか復讐戦をやりたいと思っているのも、この連中だけだ。僕のような素性の悪い負けきらいは、勝負そのものでなしに、相手の人柄に闘志をもやすので、つまり僕と尾崎が、好敵手なのもそのせいだ。豊島さんや川端さんが相手ではとても闘志はもえない。
 尾崎は本当は僕に二目おく筈なのだが、先で打つ、彼は僕をのんでかゝるばかりでなく、全く将棋さしと同様に、じらしたり、いやがらせたり、皮肉ったり、悪道無道のことをやり、七転八倒、トコトンまでガンバって、投げるということを知らない。そのうえ、僕を酔わせて勝つという戦法を用いる、つまり、正当では必ず僕に負ける証拠なのである。
 彼は昔日本棋院の女の子の初段の先生に就て修業しており、僕も当時は本郷の富岡という女の二段の先生に習っており、断々乎として男の先生に習わぬところなどもよく似ていた。
 戦争以来、彼は郷里に病臥して手合せができなくなったが、日本棋院も焼けてしまって、文人囲碁会もなくなり、僕も碁石を握らなくなってから、三年の年月がすぎてしまった。

底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「教祖の文学」草野書房
   1948(昭和23)年4月20日発行

「文人囲碁会」 その2 坂口安吾

2015年08月16日 00時12分10秒 | エッセイ(模範)
 「文人囲碁会」 その2 坂口安吾 「教祖の文学」草野書房 所載

 倉田百三なる先生がこれ又喧嘩碁で、これは然し、万人が大いに意外とはしないようで、彼は新橋の碁会所の常連であった。豊島、川端、村松三初段は全然腕に自信がなくて至って、鼻息が弱いのだが、倉田百三初段の鼻ッ柱は凄いもので、この自信は文士の中では異例だ。つまり、この鼻ッ柱は宗教家のものだろう。政治家なども大いに自信満々のようだが、文士というものは凡そ自信をもたない。
 僕と好敵手は尾崎一雄で、これは奇妙、ある時は処女の如く、あるときは脱兎の如く、時に雲助の如く喧嘩腰になるかと思うと、時に居候の如くにハニカむ。この男の碁の性格は一番複雑だ。これ又大いにその文章を裏切っているがやっぱり碁の性格が正しいのだと私は思っている。
 文人囲碁会で最も賞品を貰うのは尾崎一雄で、彼は試合となると必らず実力以上のネバリを発揮する。このネバリは尾崎が頭ぬけており、文士の中では異例だ。わずかに、僕がそれにやゝ匹敵するのみで、他の諸先生はすぐ投げだしてしまう。豊島、川端先生など、碁そのものは喧嘩主義だが勝負自体に就ては喧嘩精神は旺盛ではないようで、文人的であり、尾崎と僕の二人だけが素性が悪いという感じである。
 文人囲碁会は、帝大の医者のクラブ、将棋差しのチーム、木谷の碁会所クラブなどゝ試合をしたが、勝ったことは一度もない。豊島大将を始め至って弱気ですぐ投げたり諦めたりしてしまうから、他流試合には全然ダメで、勝つのは尾崎と僕だけだ。尾崎と僕は必ず勝つ。相手は僕らより数等強いのだが、断々乎として、僕らは勝ってしまうのである。
 尾崎は僕より弱くて、僕と尾崎が文人囲碁会チーム選抜軍のドン尻だが、他流試合ともなると、敵手のドン尻は大概二三級で、本来なら文句なしに負ける筈だが、全く、僕はよくガンバる。こういう闘志は僕の方が、やゝ尾崎にまさっている。

「文人囲碁会」 その1 坂口安吾

2015年08月14日 00時05分18秒 | エッセイ(模範)
 「文人囲碁会」 その1 坂口安吾 「教祖の文学」草野書房 所載

 先日中央公論の座談会で豊島与志雄さんに会ったら、いきなり、近頃碁を打ってる?
 これが挨拶であった。四五年前まで、つまり戦争で碁が打てなくなるまで、文人囲碁会というのがあって、豊島さんはその餓鬼大将のようなものだった。
 僕は物にタンデキする性分だが碁のタンデキは女以上に深刻で、碁と手を切るのに甚大な苦労をしたものだ。文人囲碁会で僕ほどのタンデキ家はなかったのだが、その次が豊島さんで、豊島さんはフランス知性派型などゝ思うと大間違い、僕は文士に稀れなタンデキ派と考えている。
 豊島さんの碁は乱暴だ。腕力派で、凡そ行儀のよくない碁だ。これ又、豊島さんの文学から受ける感じと全く逆だ。
 川端康成さんの碁が同じように腕力派で、全くお行儀が悪い。これ又、万人の意外とするところで、碁は性格を現すというが、僕もこれは真理だと思うので、つまり、豊島さんも川端さんも、定石型の紳士ではない腕力型の独断家なのでお二人の文学も実際はそういう風に読むのが本当だと思うのである。
 更に万人が意外とするのは小林秀雄で、この独断のかたまりみたいな先生が、実は凡そ定石其ものの素性の正しい碁を打つ。本当は僕に九ツ置く必要があるのだが、五ツ以上置くのは厭だと云って、五ツ置いて、碁のお手本にあるような行儀のいゝ石を打って、キレイに負ける習慣になっている。
 要するに小林秀雄も、碁に於て偽ることが出来ない通りに、彼は実は独断家ではないのである。定石型、公理型の性格なので、彼の文学はそういう風に見るのが矢張り正しいと私は思っている。
 このあべこべが三木清で、この人の碁は、乱暴そのものゝ組み打ちみたいな喧嘩碁で、凡そアカデミズムと縁がない。
 ところで村松梢風、徳川夢声の御両名が、これ又、非常にオトナシイ定石派で、凡そ喧嘩ということをやらぬ。この御両名も文章から受ける感じは逆で、大いに喧嘩派のようだけれども、やっぱり碁の性格が正しいので、本当は、定石型と見る方が正しいのだと私は思っている。
 喧嘩好きの第一人者は三好達治で、この先生は何でも構わずムリヤリ人の石を殺しにくる。尤も大概自分の方が殺されてしまう結果になるのだが、これ又、詩から受ける感じは逆で、何か詩の正統派のような感じであるが、これも碁の性格が正しいのだと私は思う。


「鴻毛より軽し」 その2 杉本 苑子 

2015年08月06日 01時25分00秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「鴻毛より軽し」 その2 杉本 苑子 

 映画では荊軻が失敗し誅されたと知ったあと、ラストシーンで高漸離が「風、蕭々」の詩を高く唱するが、彼の真骨頂はむしろその後に発揮される。亡き友の志を継ぐべく、高漸離は始皇帝に近づくのである。
 皇帝は高の意図を察知するが、筑の弾奏者としての技倆を惜しみ、両眼を煙でいぶして失明させ、側近く召し使う。高漸離もおとなしく皇帝に仕え、私室で、あるいは宴席で、求められるまま筑を弾じた。こうして、すっかり始皇帝が気を許し、油断しきるまで待って、高漸離はその声めがけて力の限り筑を投げつける。あらかじめ筑の胴には鉛を流し込み、重くしてあったから、顔面に命中すればまちがいなく、致命傷を負わせることができたはずなのだ。しかし的ははずれ、高漸離はその場で誅殺される。盲目ゆえの悲劇であった。

 中略

 (ともあれ)荊軻にしろ、樊於期や高漸離にしろが、いったい何のために一片の報酬すら求めず、一つしかない命を捨てたのか。
 表面的に見れば、まもなく秦に滅ぼされてしまう燕の国の、太子丹のために死んだことになる。しかし丹は、乱世の風雲を疾駆できる資質ではない。毀誉褒貶はあるにせよ始皇帝のほうが、はるかにスケール壮大な巨人であった。丹のごとき二流の人物に、三人の好漢がむざむざ命を捧げたとは思えない。

 中略

 荊軻や樊於期、高漸離らの耳の底にも、まい進しつつある秦の轍の下に、燕をはじめ押しつぶされてゆく弱小国の悲泣が、凩(こがらし)さながら鳴りどよもしていたはずである。しかしそれだけのことで個としての彼らが、乱世の風塵に呑み込まれてしまったとは思えない。むしろ風塵と対峙し、結果の空しさを承知しながらその風圧に抗して死ぬことで、個の存在を燦然と、歴史の中に封印しようとしたのではあるまいか。
(略)
 「人の命は地球より重い」という。その意味する内容の、真実の「重み」とはうらはらに、唄うように軽く、無造作に、この言葉が飛び交う現代だが、少し前には「命は鴻毛より軽し」という言葉もあったのだ。自身の一命を羽毛よりも軽しと観じ切って、敢然と捨てる意志力こそ重い。男でなくては持ちえぬこの強靭さの、まばゆい光彩に女はこがれる。そして、そのような男たちが、スクリーンの上でしか存在しなくなった現実に、絶望するのである。
                                 (「オール読物」99年二月号)
 

「鴻毛より軽し」 その1 杉本 苑子

2015年07月31日 00時19分43秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「鴻毛より軽し」 その1 杉本 苑子 P-71

 私の趣味は読書だが、映画も好きで、時おり見に行く。家からさほど遠くないO市に、外国映画の封切り館があり、シニア料金で、なぜか二本も見られるのである。
 
 中略

 私は妙なところに凝る性分で、映画に触発されるとやみくもに、詳しい時代背景や他の歴史事実との関連が知りたくなり、次から次へ本を読みまくる。そしてその読書がまた、映画から受けた感銘を倍化させてもくれるのである。

 中略

 したがって七十三歳の現在なお、知識欲だけは一向におとろえず「あれも判らぬ。これも知りたい」と焦るばかりで、惜しくもない命が、知的好奇心のためにのみ惜しまれる毎日なのだ。
 ところで、このエッセイを書こうと思っているのは、じつは『始皇帝暗殺』についてなのである。・・・と言っても、映画批評ではない。おそらくごまんと批評のたぐいは出たであろうし、自分流にしか映画を見ない私には、批評する資格も、する気もない。この映画で私が注目したのは、主役の始皇帝でも荊軻(けいか)でもなく、脇役扱いされている高漸離(こうぜんり)と樊於期(はんおき)なのである。
 この二人の行動に、私は男ならではの、死の美学を見る。たまらなく、そこに惹かれる。(略)
 まず樊於期だが、彼は秦の重臣だった。しかし秦王政(始皇帝)が父子楚(しそ)の子ではなく、母と宰相呂不韋(りょふい)の三つの所産だという重大な秘密を知ってしまう。このため危険を感じ、燕(えん)の国に逃れて、太子丹(たん)の庇護を受ける身となる。つまり亡命者である。
 しかし彼は、丹太子が刺客の荊軻を放ち、始皇帝を殺害しようと企てたとき、みずかrなお一命を絶つ。それというのも始皇帝が、莫大な賞金をかけてまで、樊於期の首を求めていたからであった。
「始皇帝が欲している燕の領土の地図と、私の首とを恭順の証として持参すれば、皇帝は喜び、まちがいなく謁見を許すだろう」
 そう樊於期は荊軻に告げ、言葉通り自裁して、その首を提供したのだ。
 いま一人の高漸離は、これも荊軻の友人だが、詩人であり筑の名手でもあった。筑というのは胴が円く頸が細く、十三絃のところどころに柱を立てて、撥で掻き鳴らす小型の楽器である。
『史記』では、荊軻を見送った高漸離が、易水の岸辺に佇んで、
「風、蕭々(しょうしょう)として易水寒し、壮士ひとたび去って復、帰らず」
 と吟じる場面が描かれている。日本人にもなじみの深い刺客列伝中のハイライトだし、中国趣味の蕪村などもこの別離に酔ったか、
 
 易水に葱(ねぶか)流るる寒さかな

 と一句ものしている。