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漢字は、感じでも書く

2005-02-17 14:28:28 | 生活・教育・文化・社会
[218] 漢字は、感じでも書く (2005年02月17日 (木) 14時28分)

 あれは90年代前後のことだろうか。学生が幼稚園で実習した後の、反省会のときだった。高齢の園長から「今の若い人は漢字をかけないので、指導してほしい」との発言があった。
 当時この種の反省会は、園(長)側から大学への注文をとなえる発言が多いので、それ受け止めテーマにして、視点を変えて多面的に話を展開するのもひとつのコツであった。わたしは「ワープロが普及してきているし、漢字の読みは必要だけれど書く力は衰えていく」と発言をして、漢字談義をしようと思った。ところが「漢字は書けなくてもよい」とも受け止めたらしく、「日本が漢字をないがしろにしてはいかん」といって立腹されて、進行上あわてたのだった。
 それから時間をへて、ワープロは普及した。そのため簡単に変換してくれるので、文書の漢字の表記は増えた。漢字検定が普及し、新聞などで目にしない漢字を使う人も現れている。難しい字を読まなければならないことが、増えた。電子辞書が助けてくれているが。
 パソコンを使っている場合は、書く機会が少なくなって、書けない人が多くなっているのではないか。わたしは、漢字表記はずいぶんパソコンに助けられながら、書く力の退化を感じているのである。

 このことを立ち入って言えば、新聞が常用漢字を基準にしているのに対し、パソコンは日本工業規格を採用しているため漢字が多いのである。
 日本語の表記については、文科省の国語審議会でたびたび基準を発表する。わたしの記憶の範囲で言えば、ある時期に「おこなう」が「行なう」でもよかったのが、「行う」に統一された。ところが「おこなった」を「行った」と書くと、「いった」に読んでしまうことがある。そんなこともあるのでこの場合、わたしは漢字を使わないで「おこなう」とひらがな表記にすることにしている。
 新聞の場合は、新聞社ごとに表記基準をもっている。たとえば「1カ月」を『朝日』そのように表記するが、NHKは「1か月」である。どちらももっとも普及している「1ヶ月」と表記しない。その理由と思われることは、「ヶ」はもともと「箇」だったのを、急いで書くために「竹」の片方だけに省略して書いたことから始まった文字だからではないだろうか。「1箇」を「1ヶ」と書くことが多いのも同じことだ。「ヴ」の表記が認められたため「ヴァイオリン」「ヴェトナム」と、「バ「べ」の表記が変わってきている。とにかく日本語は、表記の正規法がないのである。

 1月27日に総合初等研究所による、漢字がどれだけ身についているかの全国調査が、公表された。テレビ報道を見て「今どきの子どもは・・・」と、いぶかしく思った人が多かったのではないか。
 わたしは子どもの実態として納得し、むしろ学力低下論に結び付け漢字ドリルが盛んになるだろう、幼い子どもの早教育の漢字トレーニングが正当化されるだろう、といったことに思いをめぐらしたのだ。日本語を豊かにするために漢字の衰退はよくないが、早教育や漢検が幅を利かすことではないだろう、と考えている。
 ひらがなが表音文字に対して、漢字は言葉を表記する文字である。日本語はまれに見る音の少ない(およそ110)言語なので、同音異語が多い。それを漢字で区別して、意味を理解している。漢字は、言葉(単語)の理解と同音異を区別する必要と結びつけて獲得することが、重要である。もちろん獲得する過程でドリルも必要になるだろう。しかし早教育で、言葉が分からずしかも必要ともしていない年齢の、漢字トレーニングは無意味である。漢字を覚えるが、必要としないので忘れるのも早い。漢字トレーニングより、発達課題にそった必要な活動をしたほうがよいのである。

 漢字力の衰退を、言葉の危うさにつつまれる問題ととらえ、子どもの環境をみることにしよう。
 まず子どもへの情報が、ビジアルなものの比率が多すぎることが上げられる。テレビ、ビデオ、ゲーム、マンガ、アニメなどは言葉がない、あるいはあっても副次的である。
 そのために言葉そのものの力が、弱まっているのではないか。学生にも見られることだが映像信仰といってよいものがある。もっとも大学が授業で、映像使用を推進していることでもあるのだが。わたしの最近の体験では、子どもの歌を獲得する(指導でもある)過程の録音を流したら、「ビデオで見たかった」という感想が1人でなく出てきた。歌という音楽のことなので、耳で聞き分けるのが大事であり、むしろ映像が伴わない方がそれに集中できるはずだ。
 しかも一般的には映像が、撮影者や編集ということを通して作られているのに、真実だと思っている節があるのだ。これは一見映像論のようだが、言葉の力の衰退の関係で、わたしはみているのである。
 ビジアル環境だけではなく、市町村合併にともなう名前にひらがな表記が増えていることも見逃がせない。ひらがに表記にしている時点では、誰もが漢字の裏づけを思い浮かべている。あとの世代の人は漢字を思い浮かべなくなるだろう。となると言葉として地名の意味をを考えなくなる。10年20年後を考えるとひらがな表記を後悔するのではないだろうか。
 ところで漢字のことを、言葉と置き換えて書いてきた。単純に置き換えたのではなく、言葉を豊かにするという観点で、漢字をとらえる必要があると考えているからである。

 漢字を、当て字というか、造語でもないその言葉の感じ、別なニュアンスを当てはめる表記がよく見られるようになった。CMのキャッチコピーもやるが、日々目にするのはスポーツ新聞である。
 遠足というのを「延足」と書いているのを見たとき、遠くまで歩くことがいやな人にとって距離を延ばされるという気分になるのだろう、と読み取れて感心したことがある。落書きを「楽書き」としていたのを見て、書く人にとっては楽しく書いているのだろう、と思ったが、辞書を引いたら落書きを「楽書(らくしょ)」ともかくと記してあった。
 スポーツ新聞では、ピッチャー陣が打たれて総崩れのとき、「投壊」といった活字が躍るときがある。この言葉も認知されていくのだろうか。
 漢字は造語ができるので、新しい価値を切り開くときがある。今注目されていて必要な言葉の造語で、防災に対して「減災」ということがいわれている。防災が災害を防ぐという考えで計画あるいは工事をするが、「減災」は自然の猛威は完全に防ぎきれないので、災害を軽減しようという考え方である。たとえば河川について、「減災」の考えで行くと強固な堤防造りだけではなく、水をいくつにも分散して流す河川を造るということになるという。



1 コメント

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はじめまして (カフェオレ)
2005-04-30 22:25:44
セールス…するつもりはないのですが(やっぱりセールスかな?)、日本児童出版美術家連盟が創立40周年記念に出版した渾身の1冊「月刊保育絵本クロニクル」-絵本に見るこどもの背景ーについて書いた記事をTBさせてください。

今日の話題と関係なくて恐縮なんですが、真面目に絵本や児童文学について考えておられるようなので、こんな本もありますよ、と一応宣伝させていただきます。
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