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心地よいうなずきと苦痛なうなずき

2005-11-02 19:02:37 | 生活・教育・文化・社会
 わたしは保育園や社会福祉施設を、訪ねることが多い。好意的なコミュニケーションを取ろうという気持ちを持つため、うなずきや「はぁ」「はい」といった同調するあいづちを打ちながら話を進めることが多い。
 とくに保育園の場合は、保育そのものが子どもと保育者のコミュニケーションが同調的あいづちを交わすことが多く見られる。子どもの依存的コミュニケーションに、保育者が応えるためでもある。それの反映として職員どうしも、あいづちとしてのうなずきを多用する。
 そんなわけで、初めて訪ねた保育園でも、友好的にコミュニケーションを作り出すのに、うなずきの役割は小さくないのである。話が弾むと、うなずきの頻度も増して心地よくなるものだ。

 そんなうなずきではあるが、このところ苦痛なうなずき体験をしている。テニススクールのシステムが変わったので、わたしは朝の初中級クラスに所属している。コーチは、テニスの教則本をなぞるように、細かいステップを解説してからプレーに移る。その解説の際コーチは常に同意を求めるので、うなずきを返さなくてはならない。
 わたしはそのうなずきが、苦痛なのだ。さまざまなプレーをすでに体験しているのに、プレーを分解したある要素を、しかも分かりきっていることに薀蓄(うんちく)を傾けられるのである。わたしの課題にあっていないと自己診断しているのだが、同意を求められる、あるいは服従なのかもしれない。
 複数の場合他の人が同意を請け負ってくれるので、わたしは少し楽になる。うなずかないと、コーチは無視されていると思う節があるのだ。若いコーチでもあり、不安がそうさせているのか、自分の指導を浸透させたい思いが強いからか、それとも支配的気持ちがそうさせているのか、といったことに思いをめぐらしているところだ。コーチの立場からしたら扱いずらい人、と思っているかも知れない。

 さてこのうなずきであるが、朝日新聞(9月22日、名古屋本社)には、ドイツでは賛意の表明のときにするしぐさとのことだ。したがって、話はじっと終わりまで聞いて待っている。それに対して日本では、会話中にうなずかないと不安になるので、賛意でなくとも頻繁にするしぐさである。
 このことからすると、わたしは日本人だから、やっぱりテニスの際もつねにうなずいて同調の表現をしなければならないのかな。

 また、キネシクス(kinesics 身体の動きが持つ意思伝達機能を研究する心理学の一分野を言う)の5つの動作分類では、うなずきは言語調整動作(対話の進行における調整機能を果たす非言語動作のこと)にあたるのだ。会話での間のとり方や話し出すタイミングとともに、うなずきは良好なコミュニケーションのためにおろそかにできないことなのだ。 
 ついでに他の動作としては、表象動作(言葉の代わりをするような動作。サインなど)、例示動作(言葉を補強するような動作)、感情表示動作(感情を表現する動作)、適応動作(その場で自分を安定されるための動作)と分類されている。
 ノンバーバル(非言語的言語)コミュニケーションに関心を持っている者として、分かるがゆえにテニススクールでのうなずきを求められることの、苦痛は増大しているようでもある。

 ところで『人は見た目が9割』(新潮新書、10月20日発行)という本が出版された。ノンバーバルコミュニケーションの入門書として書いたようだが、演劇や漫画などとかかわっていることの独自な切り口とともに、断定的で大味な内容である。
 居酒屋での放談を聞いているのような気分で読めば、おもしろいだろ。なにしろ政治が小泉劇場型によってつくられる時代なのだ。小泉が重視して使っているノンバーバルを解読するためにも、これからは日常生活レベルでも、ノンバーバルの意味に開眼しなければならないこと間違いなしである。


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