4月13日(日曜日)15時半から、私の地元、大阪・高石の中央公民館で、「パッチギ!」「岸和田少年愚連隊」等の映画監督である井筒和幸さんを招いての憲法9条講演会があり、私も参加してきました。
公民館には15時過ぎに着きました。開演の15時半にはもう会場の大ホールが満席となっていました。最初に講演主催者の「高石9条の会」を代表して弁護士の山崎国満さんから挨拶があり、そこから井筒さんの「いま憲法9条を熱く語る」と題しての講演が1時間15分ほど、その後に講演を受けての質疑応答があり、羽衣保育所の民営化・廃止差し止め裁判への支援とカンパの訴えと、集会アピールの採択という流れで、夕方17時半ぐらいに終わりました。
講演に先立ち、集団的自衛権に関する新聞切抜き記事を集めた資料が配布され、それを見ながらの講演傍聴となりました。その資料はA3サイズで52ページもあり、正直言って目を通すだけで一苦労でした。但し、内容そのものは優れており、自宅では親父が購読している産経のクソみたいな記事しか目に入らないので、そういう意味では、朝日や赤旗の記事も多く収録された資料は大変勉強になりました。
その新聞切抜き資料の中でも、とりわけ内田樹(うちだ・たつる)さんのインタビュー記事が特に印象に残りました。内田さんはその中で、集団的自衛権は確かに国連憲章でも認められた主権国家の権利だが、実際は安全保障の名の下に、超大国が自国の勢力圏にある国々の反政府運動、民主化運動や独立運動を弾圧する口実として使われてきた事を指摘されていました。なるほど言われてみればそうです。かつてのソ連・ワルシャワ条約機構によるチェコスロバキア侵略も、米国・米州機構によるキューバ・ニカラグア革命への干渉も、全て「機構加盟国の安全と利益を守る」という集団的自衛権の論理で正当化されてきました。
これは重要な指摘だと思います。日本での集団的自衛権の議論と言えば、これは日米安保条約の是非をめぐる議論でもそうですが、ともすれば「米国の戦争に巻き込まれる」という「受け身」「被害者」の視点でしか取り上げられて来ませんでした。反対派は「怖い、恐ろしい」と反発し、賛成派は「それは心配し過ぎだ」と取り合いませんでした。でも、本当に怖いのは「戦争に巻き込まれる」だけでなく、自分も「加害者」として、かつての大日本帝国のように、他国を侵略する側に回らされかねない事ではないでしょうか。米国が911テロにやられたのも、帝国主義国家として、ベトナム・中東や中南米を始め、第三世界の民衆から恨まれるような事を過去に一杯やってきたからではないですか。
それを安倍政権は、トップダウンの手法で、今までは歴代の自民党政府ですら認めなかった集団的自衛権を、国会にもはからず閣議決定の一片の通達だけで、認めようとしているのです。これはいわば、今まで裁判所が踏襲してきた過去の判例を、首相が自分の判断だけでひっくり返そうとするようなものです。選挙に勝ったからといって、首相や与党が何しても良い訳ではありません。もし、そんな事になれば、国会も裁判所も内閣の下請け機関に成り下がってしまいます。これではもはや三権分立でも民主主義でもありません。戦時中の日本の大政翼賛会や今の北朝鮮のような独裁政治と同じです。
このような独裁政治が行われようとしているのに世論は無関心です。選挙の投票率は過半数を割り込み、消費税増税や原発推進には反対なのに安倍政権・自民党の支持率は依然として高い。井筒監督もそれをしきりに嘆いておられました。
某TV番組の街頭インタビューで、「かつて日本が戦争した国を、韓国・米国・ドイツの三ヶ国の中から選べ」という質問に対し、若者の男女が「韓国かなあ?」と答えていた事を取り上げ、自分たちの中学生時代には考えられなかった事だと仰っていました。今時の若者は、松茸の匂いを嗅がせても「どぶ川の匂いがする」と答える。大人が、戦後の高度経済成長の中で金儲けだけに走り、近現代史や政治の基礎的知識や、生活や生き様を、次の世代にきちんと引き継いで来なかったツケが、今一気に出てきているのだ。
学校もマスコミも、どうでも良い事ばかり教え、肝心な事は何一つ教えない。「平安時代の乱交パーティー」でしかない源氏物語の文章は大学入試問題に出題しても、「第二次大戦の交戦国はどこか」といった最低限の歴史的知識も教えない。STAP細胞論文の真偽については事細かく報道するが、消費税や原発や憲法改正のニュースについては政府当局者の言い分をそのまま垂れ流すばかり。そんな中で、憲法改正の国民投票をやっても、憲法の条文の意味すら理解できないのではないか・・・と。
そして、憲法9条の意義を理解していない人が余りにも多い。9条の意義は「丸腰こそが一番強い」と言い切った所にある。多くの人は「腕っぷしが強くて武器も多く持っている人が一番強い」と思いがちだが、いくらそんな物をちらつかせて腕力・暴力で他の人をねじ伏せても、反発を招くだけで、さらに腕っぷしが強い人が現れれば簡単に負けてしまう。でも、本当に強い人は、たとえ腕力や武器がなくても、人徳で人を惹きつける事ができる。どんなに力が強くて武器を多く持っていても、「この人には人間的にかなわない」となる。お坊さんがそうだ。その事はヤクザ自身が一番良く知っている。
昨今、歴史問題や領土問題などで中国・韓国との対立を煽る政治家が少なくないが、実際にはそれらの国々からも大勢観光客が日本にやって来ている。それも決して富裕層ばかりではなく、一般庶民も大勢いる。それもこれも、憲法9条のお蔭で日本が今まで曲がりなりにも平和を維持してこれたからだ。
今、百田尚樹の書いた「永遠の0」という小説がロングセラーになり映画にもなっている。あの小説を反戦小説だと誤解している人が多いが、あんなもの反戦小説でも何でもない。前半でいくら主人公のパイロットが「とにかく生き抜くんだ」と叫び、軍上層部の腐敗や無能を告発した所で、最後にはその主人公も自ら特攻に志願して死んでいくのだろう。ゼロ戦の故障により戦線離脱で生還できるチャンスがありながら、その故障機を赤の他人のパイロットに譲り、自分はむざむざ死を選ぶという、現実にはあり得ない話にまで仕立て上げて。これでは、「主人公の様な奴でも最後はお国の為に死んでいった」という美談にしかならない。
実際の特攻作戦はそんな美しいものではなかった。志願というのは形だけで、半ば強制的に特攻に駆り立てられながらも、何とか最後まで生き残ろう、少しでも故障機に当たるようにと祈りながら、泣く泣く出撃していったのだ。その陰で、高級将校は戦艦大和の中で豪華料理に舌鼓を打ちながら、下っ端の兵士や下士官にばかり犠牲を強要していたのだ。
あんな小説を読み映画を観るぐらいなら、まだかつての東宝映画「あゝ決戦航空隊」を観る方がはるかにマシだ。鶴田浩二や菅原文太などのヤクザ映画の俳優がそのまま軍人に扮した映画だが、天皇や軍上層部の責任逃れもごまかさずにきちんと描いている。「永遠の0」のような、史実を捻じ曲げたごまかしなぞは一切ない・・・と。
そして最後に、その東宝映画「あゝ決戦航空隊」と「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言」(社会評論社)という書物を薦められて、講演を終わられました。
この講演を聞いて、政府やマスコミの垂れ流す北朝鮮・中国脅威論や韓国に対する反感に、私も知らず知らずのうちに絡み取られている事に改めて気付かされました。確かに北朝鮮の拉致や人権侵害は酷い。中国の少数民族抑圧や環境汚染も酷い。最近の韓国人のナショナリズムも目に余るものがある。しかし、では日本はどうかと問われれば、日本政府も国内では同じ様な事をやっているではないですか。秘密保護法の強行採決や集団自衛権を巡る安倍政権の前述の独裁ぶりや、福島原発事故の影響をひた隠しにするような政府の対応や、靖国問題や慰安婦問題での居直りぶり一つとっても。今の北朝鮮の個人崇拝にも、昔の天皇絶対崇拝の影響が観て取れます。
福島の被災者を見殺しにするような政府が、北朝鮮や中国の人権について説教を垂れる資格なぞあろう筈がありません。過去の歴史に真摯に向き合い、日本国憲法に謳われた平和や人権を〈名実ともに〉尊重する政府であってこそ、初めて北朝鮮や中国、韓国にも是々非々で臨めるのです。先の例で言えば、「ヤクザ」が何を言っても誰も聞く耳を持ちません。「お坊さん」としての人徳を備えてこそ、初めて人を惹きつける事が出来るのです。「丸腰こそが一番強い」と言うのは、とどのつまりはそういう事です。
でも、それをいくら言ってもなかなか広がらないのは何故か。確かに会場は盛況でしたが、参加者の大半は中高年で、若い人はチラホラとしか見かけませんでした。それには、右傾化の風潮や政府・マスコミの宣伝・洗脳、国民の大勢順応の「奴隷根性」の影響もあるでしょう。しかし、それだけではなく、私たちのこの取り組みの姿勢にも問題があるのではないでしょうか。
例えば、当日になって会場に配られたA3版52ページもの大量の資料がそうです。私は何とか目を通しましたが、普通の人はあれを見ただけで敬遠します。しかし、それはその人だけが悪いのでしょうか。
このご時世、日曜だからと言って必ず休める人ばかりとは限りません。何とか講演に参加出来た人の中にも、夜勤明けで仮眠を取っただけの人や、夜から仕事に出掛けなければならない人がいるかも知れません。そんな人にとっては、あの資料に目を通すだけでも至難の業です。でも、本当は、そんなブラック企業に搾取されるワーキングプアの人や、非正規雇用の若者にこそ、一番講演を聞いてもらわなければならないはずなのに。
本気でそういう人に参加してもらいたいと思うのであれば、戦時中の話や憲法9条の事ばかり言っていてはダメです。そういう人にとっては、「永遠の0」も単なるメロドラマの延長でしかない。感動もあくまでメロドラマとしての物でしかない。「かつて日本と戦争したのはどの国か?」と聞かれて「韓国かなあ?」と答えるような人に、最初から歴史や戦争についてのきちんとした知識なぞ求めても無理です。それを今さら嘆いた所で何も始まらない。
そんな人に集団的自衛権の事を説明するには、特攻作戦や靖国や慰安婦の話のよりもむしろ、堤未香「貧困大国アメリカ」(岩波新書)の中に出てくる徴兵リクルーターの話から入っていく方が、よほど分かりやすいのではないでしょうか。高校の学費も払えず、卒業してもまともな仕事につけない生徒を、奨学金をエサに軍隊に勧誘し、イラクやアフガニスタンで侵略のお先棒担ぎをさせる。集団的自衛権が認められ憲法9条が改悪されたら、日本もそうなる事はもはや火を見るより明らかです。その問題を何故もっと取り上げないのか。会場で配られたファイル(下記写真)に、憲法前文や9条だけでなく25条(生存権)や28条(労働基本権)の条文も明記されていたのは何故なのか。そういう取り組みをしない限り、若者を講演に呼んでくる事も、憲法改悪(明文改憲)や集団的自衛権行使(解釈改憲)を阻止する事も出来ないと思います。