アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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日本版「オリーブの木」の可能性

2012年10月29日 23時16分20秒 | 二大政党制よりも多党制
 先週の木曜日と言えば、石原慎太郎が唐突に都議会で「新党作りに忙しくなるから今日で知事を辞めるわ」と言ってのけた日でした。そんな理由で辞める事が出来るのなら、私だって「ブログやミクシイの投稿で忙しくなるから今日はもう帰るわ」と言って、バイトをほっぽり出して帰っても文句ないですわね。石原が良くて私がダメだとするなら、それこそ差別じゃないですか!新党と個人ブログを同じにするなって?新党も所詮は石原個人の野望実現の為のもの。東京都民にとってはどちらも同じ他人事!
 それに、わざわざまた新党作る位なら、何故今まで新党「立ち上がれ」何チャラの党首に収まってきたのでしょうかね。今までの何チャラでは一向に人気が上がらないので、また別の新党を作ってイメチェンを図るつもりなのでしょうが、そんな物に付き合わされた挙句に、支持してもいないのに政党助成金までむしり取られる国民こそいい迷惑!
 そんな事の為に知事を辞められたのでは堪ったものではないですね。都民や国民は石原の出世の道具じゃない!でも、これで折角目の上のたんこぶがいなくなるのですから、もう二度と石原みたいな奴を知事にしてはいけませんね。

 
 そんな事を考えながら、丁度その日は私は仕事休みだったので大阪の難波を歩いていたら、高島屋前で「緑の党」が街頭宣伝でビラを撒いていました。一番最初に掲げた写真がそのビラですが、読んでみて「意外と行けるんじゃないか」という感想を持ちました。「脱原発」で急速に勢力を拡大しつつある同党ですが、それでもまだまだ「環境保護だけ」のイメージが、それまでの私の頭の中にもありましたから。幾ら脱原発デモで「地方や下請け労働者に被曝を強要するような社会を変えよう」と叫んでも、実際投票するとなると、やはり前述のイメージが頭をもたげて来て、「貧困・格差の問題や外交問題は二の次か」「所詮は有閑階級の暇つぶしでしかないのか、食うや食わずの人間の事なぞ何も考えていないのか」という意識を払拭する事が出来ませんでしたから。どちらかと言うと80年代ドイツの「緑の党」の様なイメージを抱いていました。

 しかし、この「緑の党」のビラやその中の結成宣言を見て、決して「環境保護だけ」の党ではない事を知り、改めて感銘を受けました。以下、同党の結成宣言をこちらに転載します。(読みやすくする為に別途改行等を施した以外はそのまま引用しています)

 緑の党 結成宣言 (2012.7.28)

 3.11後の今ここに 新たな道を歩み出す
 森を奪う都市文明から 森に寄り添う文明数多(あまた)へ 答えを生きる時がきた
 果てない世界市場化と 経済成長呪縛から 世界各地が共に奏でる 色どる経済成熟へ 答えを生きる時がきた
 いのち汚す原発と 奪い合いの地下資源より 太陽による永遠の平和へ 答えを生きる時がきた
 はやさ・大きさ・効率主義から スロー・スモール・シンプルで 適正規模と多様性へ 答えを生きる時がきた
 過剰なほどにカネ追わず 過剰なほどにモノ造らず
 過剰なほどに働かず 仕事と時間を分かち合い
 豊かなこころを蘇らせる 答えを生きる時がきた
 買うしか術ない暮らしより 手・足・知恵で創るを楽しみ
 与え・支え・いのちを謳歌し 自立しあう安心へ
 地域でつながる循環へ 答えを生きる時がきた
 色んな人と色んな生き方 互いに凹凸△認め合い 組み合わさって補い合い 宿命を宿しおのおの輝く 答えを生きる時がきた
 テレビの向こうに決断任せず 自ら責任引き寄せて 足元からの微力をつらね 笑顔の未来えらびとる 答えを生きる時がきた
 今日から土に種を蒔き こころに緑を育てよう
 いのちにぎわう 豊かな地球を いのちみんなで分かち楽しみ
 100年先を見渡して 答えを生きる一歩をここに 歩み出したい一歩をここに
 「緑の党」を立ち上げる (引用終了) 

 「答えを生きる」等の分かりにくい表現や、生硬な言い回しが気になるものの、全体として非常に格調の高い文章で構成されています。特に中段以降の拝金主義批判(過剰なほどにカネ追わず)や競争・市場原理主義批判(互いに凹凸△認め合い)のくだりからは、今の資本主義・新自由主義の限界を乗り越える展望が感じられます。

 要するに、「カネだけが全てじゃないよ」「あくせく働くだけが全てじゃないよ」という事です。幾ら金儲けの為に馬車馬のように働いても、その結果、一部の金持ちだけが肥え太り、その下で原発や核兵器が作られ、広島・長崎や福島みたいな事を繰り返しているようでは、何もならないじゃないか。もうそんな事から卒業し、もっとみんなが幸せになれる道を探ろうよ・・・。それがこの結成宣言の言いたい事ではないでしょうか。
 
 競争・成長至上主義で自治体や学校も企業の金儲けの道具にし、市民や社員や生徒もその金づるや歯車としか見做さない「維新の会」や「みんなの党」。
 国家至上主義で「強い日本」ばかりを追い求め、国民を一兵卒や「産む機械」としか見做さない自民党・「立ち上がれ日本」や石原慎太郎。
 これらの、やたら大言壮語ばかり並べ立てて、国民には更なる我慢や犠牲を強いるばかりで、人々の生活や人権をどう保障していくかとか、地球環境をどう守っていくかという疑問には何ら答えようとはしない、「夢も希望もない」右翼保守派の選挙公約とは、正に対極にある宣言であると言って良いでしょう。

 それはまた同時に、今の拝金主義(資本主義・新自由主義)に対する強烈なアンチテーゼであると同時に、金持ちだけでなく貧乏人にも自由と平等を求めた当初の理想から乖離し、資本主義と同じ拝金主義や国家主義の道を歩み、原発や核兵器も温存・拡大し続ける既存の社会主義国(中国・北朝鮮・ベトナム等)にも一石を投じるものとなっています。

 こんな事を言うと昨今決まって出てくるのが、「尖閣・竹島・拉致問題で中国や北朝鮮が攻めて来るかも知れないのに、何を理想ばかり言っているのか」「人権も強い国家あっての物種だ」という決まり文句なので、それに対しても少し反論しておきます。被曝労働や下請け・派遣差別の上に胡坐をかいた国家や企業なら、そんな国家や企業なぞ要らない。そんなモノは「強い」国家でもなければ企業でもない。ただ単に「不正な」国家・企業であるに過ぎない。上辺だけ民主主義を装っているだけで、その本質においては中国や北朝鮮と何ら変わりはない。
 「中国や北朝鮮の侵略に対抗しなければならない」と言うなら、尚更そうではない道を目指すべきだ。「緑の党」の目指すものこそが、そんな国家であり社会ではないのか。自国民だけでなく外国人の人権も保障し、政治難民も積極的に受け入れる、北欧やカナダみたいな国こそが、独裁体制下の国民にとっても「駆け込み寺」となるのだ。東ドイツやソ連が崩壊したのも、そんな「駆け込み寺」があったからであって、決して戦争で崩壊したのではない。戦前の大日本帝国のような国家であったなら、わざわざ逃げてきたりはしなかっただろう。

 ただ如何せん、今の「緑の党」のままでは余りにも小さすぎて、日本の政治に対して殆ど影響力を行使出来ません。「緑の党」自身の党勢拡大を図ると共に、「脱原発」や「格差是正」という点では志を同じくする共産党・社民党・生活党とも、積極的に連携を模索していくべきでしょう。別に合同なぞしなくても、最初は選挙協力の形で、やがて選挙連合から一種の統一戦線を志向すべきではないかと思います。
 その為には政策のすり合わせが必要でしょう。共・社両党とのすり合わせは、国内政策についてはそう難しくはないでしょう。問題は外交面で、今の中国や北朝鮮についてどこまで踏み込んだ対応が取れるかにかかっています。国民もそこを見ています。これは決して自民党や「立ち上がれ日本」等が主張する日米安保強化や軍拡を意味するものではありません。友好関係を維持しながらも人権外交を推進する事で、「駆け込み寺」の役割を果たせば済む事です。自民党や「立ち上がれ」とは違い、あくまで人権で勝負するのです。北欧諸国やカナダに出来る事が日本に出来ない訳がありません。
 生活党(新党「国民の生活が第一」)とのすり合わせについては、この党が橋下や石原との関係をどこまで清算出来るかにかかっています。幾ら「脱原発」や「格差是正」を掲げていても、原発・新自由主義推進の自民・民主・「みんな」・「立ち上がれ」・維新や石原新党と二股をかけている限り、国民からは単なる野合としか見做されません。

 なかなか一筋縄ではいきそうもありませんが、全く不可能でもないと思います。若しこの様な形で、「右翼ブラック連合」vs「緑・革新連合(所謂日本版「オリーブの木」)」の争いになれば、誰が国民の敵で味方か、はっきりと鮮明になり、今までの様な世襲議員やチンピラヤクザの離合集散の閉塞状況から抜け出す事も出来るのではないかと思います。
コメント (5)
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