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おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

いつかどこかで(50)京都・建仁寺にて~時に流るる小さきもの~その弐

2014年04月30日 02時00分12秒 | いつかどこかで(雑記)

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

これは曹洞宗の開祖、道元禅師の詠んだ歌です。
これには様々な解釈があるようですが、何年か前に観た映画「禅ZEN」の中では、「すべてのものが、それぞれのあるがままにある」という悟りの言葉だったと思います。

私は時々この映画を思い出すことがあるので、禅にはちょっと興味がありました。
建仁寺は臨済宗の禅寺で、一般の人でも気軽に座禅の体験ができるお寺だとかで、双龍図を見る以外のもうひとつの目的は、「禅寺に静かに座ってみたい」というものでした。

で~も、ね~っ!
座禅って、ああいうふうに足を組んで座るのも、長々と正座するのも、私には絶対に無理!
座禅とは別に足の痺れや痛さを我慢する修行なんかじゃなく(笑)、自分の我や欲について、いかにすればそれを無くす事ができるかとか、そういう、自分の中の仏を見るためにするものでしょ?
え、違うの?
まあ、それはともかく(笑)、足が痛いのを我慢してたら私はそればかりが気になり、「心静かに」だとか「心を無にして」なんていられるわっけがない!

で、座禅体験はあっさりきっぱり諦めて、建仁寺に行ったら楽な姿勢(要するに体育座り)で座ってみたい場所があったんですよ。

それは、ここです。



この縁側の板には誰でも好きなように座ることができ、好きなだけ目の前の石庭を眺めることができるんです。
もしそれが真夏や真冬ならばちょっと辛いかもしれませんが、春の暖かな日だったので日差しも柔らかくて気持ちよく、本当に静かで、時間がゆっくりと流れているように感じられました。

実は私、禅の心には程遠く、無心になるどころか、逆にここに座ってゆっくりと考え事をしたかったんですよね。
日ごろの忙しさで、考えるのを先送りにしているあれこれの事とか・・・。
で、それなりにテーマなんかもあったんですが、一応は禅寺に相応しく、「自分の欲について」とか、ね(笑)

でも、ここに座っていたら、あんまり面倒な事を考える気がしなくなって、「物思いにふけるとか、考え事をするのって、しようと思ってするものでもないなぁ~」なんて、ぼぉ~っと座っていたんですよ、ぼぉ~っとね。
それで、のんびりと枯山水の庭を眺めていたら、次第にこの水を模した庭の流れが大きな歴史の、その時間の流れのように見えてくるのでした。

この庭が歴史そのものだとすると、そこに敷き詰められたあの沢山の白い小石は、その歴史に流れていった数多(あまた)の、まるで人間たちのようだ。

すると、庭を埋め尽くした白い・・・というか、灰色の小石の中で、時おり太陽の光を反射してキラっ!と光る石があるんですよね。
普通に見れば他と同じ小さな白い石のはずが、たぶん、光の角度のいたずらで、一瞬だけキラリと光って見えるのでしょうね。

歴史の中の一瞬で、キラリと光る人もいる。
けれども、それもまた、同じ小さな人なのだ。
そして、すべてが時の中で流れては、消えていくのだ。

・・・なんつって

ぼぉ~っと、考えていたら、いつの間にか、私の隣に幻の僧侶が座っていて、それからの私の取り留めの無い色々な想いを、そのお坊さんが静かに聞いてくれている気がしたんですよ。
だから、幻。 錯覚ですが。
それで、その都合のよい目に見えぬお坊さんは、何故か小さい子になった私へ穏やかに微笑み、どこがどうしてなのか、「そうか、そうか。嬢ちゃんはよいお子じゃのう」と言って頭をなでてくれて・・・

って~~

こういうこと書くと、「妄想もここまで来たか、頭おかしいんじゃないの?」と言われそうですが
要するに、勝手に、というか、自家発電的に、自分の妄想に癒されましたけど(笑)

双龍図にしても、この石庭の見える縁側の日向ぼっこにしても、一人ならではの、ゆっくりとした時間を過ごせて良かったです。

最近はもの凄く忙しくて、この前も「珍しく腕時計してるね」と友達に言われましたが、常に時間を気にしてあくせくと働く日々の中、何もない休日はここぞとばかりにだらだらと寝てしまい、それもまたあっと言う間に時間は過ぎてしまうしで、たまにはこんな風に、日常とかけ離れた場所にきて、心の赴くがままに任せ、ぼぉ~っとするのは心のデトックスになったようで気持ちが良かったです。

たった一日でしたが、そんな旅が出来て嬉しかったです。



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