今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「綺譚 桜の森の満開の下」2014/10/18 いまさら感想記

2015年02月24日 15時03分33秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

藤間勘十郎 文芸シリーズ 其の壱
「綺譚 桜の森の満開の下」 @セルリアンタワー能楽堂 2014/10/18
【原作】坂口安吾
【構成・演出・振付・音楽】藤間 勘十郎
【鳴物】藤間千穂
【笛】鳳聲千晴
【出演】中川晃教 /市川ぼたん / いいむろなおき

去年この舞台を観た頃はとても忙しく、体調も悪くてなかなか感想が書けませんでした。
なのですみません、今更な感想記です。
それにしても、「桜の森の満開の下」って、題名が長すぎますよね! 普段は面倒で「桜のなんちゃら」とか言ってますが(笑)以下の文では適当に略します。

で、この舞台は珍しく能楽堂で行われましたが、渋谷のセルリアンタワーにも能楽堂があったとは知りませんでした。
能楽堂の中って、何故か空気が清浄に澄んでいるように感じられるし、茶室や禅寺のように静かで気持ちが良いですね。
能楽堂といえば、ちょうど3月に国立能楽堂で、「桜の森」にもチラリと関わる「桜川」が上演されます。
坂口安吾はこの「桜川」を例に取り、子供を探す母親が桜の下で狂い死にしたかのように書いてますが、実はそうじゃありません。母も子も死んでません。
私はせっかくですから、来月その「桜川」も観に行ってこようと思います。能や狂言を観るのは随分と久しぶり。
  
そして、まず最初に、私はどうしても、舞台に使われる「生首」の話からさせて頂きたいんですが(笑)
舞台の(あくまでも、舞台の)生首の話を嬉々として始めると、大抵の人から敬遠されますが、この舞台に生首の話題は欠かせません。

この舞台で見た「首」は、原作に相応しく、その意味で今まで私が観た舞台の中で、最も秀逸な「首」だと思いました!  
それは、能楽で使われる能面を風船のような丸い玉に被せただけなので、一見飾り物のようにも見えました。だから全然生々しくはありませんが、どことなくグロテスク。能面はあらゆる感情を表すといいますが、それだけに、この舞台のように「首」のみで見ると、生と死の境界が曖昧に感じられ、物と人の違いや、魂の有るか無しかの違いも判別しがたく思えます。そこがこの作品にぴったりだと思います

能面首を使った、いいむろなおきさんのパントマイムは見ごたえがありました。
翁の首と、それを片手に持ったいいむろさんの戯れるような動きを見ていると、初めは女の首遊びと同じ事かと思っていたのが、だんだんと翁が生きているような気がしてきました。翁が生きているようにも死んでいるようにも、どちらにもとれます。
このシーンは途中でクスリと笑える滑稽な動きもあって面白く、物語全体に漂う閉塞感や緊張感を一時的にふっと抜いてくれました。

市川ぼたんさんは、美しさに説得力がありました。
女は「物」に魔術をかけます。着物と紐を組み合わせ、美を作り上げます。個として意味を持たない物でも、女の手によると完成された美が生まれます。
市川さんはお顔も美しい方ですが、着物の着こなし方から立ち居振る舞い、首の傾げ方も手の先や足の踵やつま先の下ろし方なども、何から何まで美しくて、年月をかけて完成された日本の伝統美を感じました。これは一朝一夕に、簡単に真似できるものじゃないですよね。 都の女ならではの、雅(みやび)な美しさと色気に目が奪われます。お衣装も素敵でお似合いでした!
朗読だけならグロテスクと思う「首遊び」の場面も、市川さんと能面ですから、無邪気な姿が一層に怖くて美しいです。
その時、命を失った「首」は、女の妖しい遊び(空想)の中だけの「魂の宿る物」となります。死んで腐りながら、無理やり生かされています。市川さんが台詞を言わないせいか、不思議な冷たさや静けさが増してぞっとしました。

あっきー(中川晃教さん)は、狂言師の話し方を意識したのか、地声を低くこもらせての不思議な喋り口調 が印象的でした。例えるなら、フルートが尺八の音を意識して邦楽を吹いているような感じ。クライマックスの号泣(というより、慟哭?)のシーンでは、辺りの空気がピーンと張り詰めたようで凄かったです。(喉に負担がかかるんじゃないかと、ちょっと心配になったけど)
私はあっきーの和服姿が特に好きなので、それが見られたのが嬉しかったです。今回の衣装もすごく似合っていて、山賊というよりは都の男のように見えましたが、とてもカッコいい 私的に「あっきービジュアル・ベスト5」に入るかも。

あっきーが演じる「桜の森」の男(山賊)は、生きた人間をまるで「物」のように、無感動に簡単に扱います。
女が殺せと言えば心痛むことなく(少しはためらうけど)元の女房達でも殺し、金品や女のために「大根を斬るのと同じように」人の首を切ります。
罪悪感はもちろん、何も感じていません。むしろ退屈しています。首遊びをする女にも、「首だから」おぞましいとか、怖ろしいとかも思いません。
男には、人間と物の区別とか、他人の心とか、個々の価値が分からないのかもしれません。女房が7人いても、最初から独りだったんですよね。他人は物と大差ないから。
男はその孤独に気付いていません。
私は「こんな男嫌だ!私には絶対無理!」という役を演じる時の、あっきーが好き(爆) ってか、そう思う役が多い

ところで、女は本当に鬼だったのでしょうか?
舞台の予習で初めて小説を読んだ時は、「ああ、女は鬼だったのか」と、素直に納得しましたが、この舞台では市川ぼたんさんが美しいままなので、「鬼に見えたのは、男の幻覚だったんじゃないか?」という気もします。
もしかして、女は亭主を目の前で惨殺され、その首が「物」になってしまった瞬間から、心のどこかが壊れてしまったのかもしれません。しかも、亭主を殺した男に惚れられて、その男がいないと生き延びられない・・・なんて、まともな神経じゃやっていけませんよね  そのせいで狂ってしまい、生と死を弄(もてあそ)ぶ「生首遊び依存症」 になったんだったりしてね?
孤独といえば、この女の孤独も相当なもので、下働きの醜い女も山賊も、まともな話相手にはならないし、自分を慰めてくれるのは「首遊び」の妄想の世界だけ。
うわ~、この女が美人で我がままそうだから強くみえるけど、本当は随分と可愛そうで、孤独な悲しい女じゃないですか (私は基本的にフェミニスト) その自覚が全くなさそうなので鬼っぽいですけど、もし人間ならば、ここまで絶望的だと、私なら死んでほっとするかもしれません。 そう思うせいかどうなのか、血みどろの世界なのに観劇後には不思議と心安らかな気持ちがしたんですよね。開演前に感じた清浄な空気が、終わりに戻ってきた感じです。
能は「無から始まり、無に終わる」と聞いたことがありますが、その「無」は虚無の無ではなく、仏教でいう「空」なんでしょうか?・・・なんて、よく解らないままに適当な事を書いてますけど  「桜の森の満開の下」を能楽堂で観られて、本当に良かったです。

さて!
「桜の森」にハマって、ここまでしつこく書いてしまった原因は、何といってもあっきーがこの劇に参加したせい(笑)
「綺譚 桜の森の満開の下」は、春にバージョンアップして再演されます。
(別に回し者じゃありませんが、成り行きで宣伝)

  
  
綺譚『桜の森の満開の下』

藤間勘十郎の構成・演出で、日本の文学に日本の古典芸能の要素を取り入れエンタテインメントして立体的に作劇していく企画シリーズ第一弾!
2014年、セルリアンタワーの能楽堂で初演、好評を博した本作が2015年”劇場版”としてバージョンアップ!
【原作】坂口安吾
【構成・演出・音楽】藤間勘十郎
【出演】中川晃教 市川ぼたん いいむろなおき 山本一慶 花園直道
【みどころ】
藤間勘十郎の文芸シリーズ其の壱の本作は、坂口安吾の代表的な短編作品「桜の森の満開の下」ー血みどろの世界でありながら、独特の美学や宗教観があり、不思議な透明感の漂う傑作に挑みます!

【日時】2015年4月25日(土)開場14:30 開演 15:00
【会場】芸術文化センター 阪急 中ホール 
発売日:一般 2015年1月17日(土) 

【日時】2015年5月16日(土) 開演 16:00  
【会場】京都芸術劇場 春秋座
発売日:一般 2015年2月18日(水) 

【日時】2015年5月19日(火)~24日(日)
【会場】あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術総合センター)
発売日:一般 2015年3月1日(日)

* * * 

東京公演がなんと9回も!! 山本一慶さんと花園直道さんが加わり、お二人のファンがいらっしゃるにしても、なんだか心配
私は東京を数回観るのが精一杯と思ってましたが、原作を読み込んでいるうちに、ついに京都のチケットを買い足してしまいました。
春の京都で、和装姿のあっきーが花道を歩くところをぜひ見たいです(笑)
世のあっきーファンは次々と公開されるスケジュールに着いていくのが大変ですが、今年の前半、私はこの「桜の森」再演を一押しします。
原作が奥深くて素晴らしいし、演出に信頼できるのは初演を観てわかりました。そのうえ出演者が(新しいお二人を含めて)魅力的ですよね!
大いに期待しています

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いつかどこかで(61)絵本「やくそくの花」がウエブライブラリーで読めるようになりました

2015年02月21日 01時02分15秒 | いつかどこかで(雑記)

おおるり こと、松田 弓です。
去年、コンクールで佳作を頂きました絵本、「やくそくの花」が、有田川町立図書館ウエブライブラリーで読めるようになりました。
(ログインなしで読むことができます)

やくそくの花


絵は、亀本みのりさん。
ウエブの画面で、版画絵の独特な風合いがお分かりになると良いのですが。
文は私で、小学1、2年生を対象に書きました。

ご覧くださると嬉しいです。

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いつかどこかで(60)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(6)

2015年02月20日 16時37分18秒 | いつかどこかで(雑記)

我ながら、しつこい。しつこいのは嫌いなのに

う~ん、それにしても・・・
「人間の気と絶縁した冷たさ」かぁ・・・

改めて思えば、男は満開の桜を恐れたのでなく、「満開の下」が怖かったのですね。
読み直してみると、桜の花が怖ろしいとは、どこにも書いてありません。下なんですよ、満開の桜の下。そこに注目しなかったのは迂闊だな~
それを思うと、「桜の森の満開の下」の「秘密」は、これを最初に読んだ時に感じた「虚無感」に戻ってしまいます。

堂々巡りをして、変にこねくり回した挙句、振り出しに戻る


虚無感は、孤独よりもなお酷い。
無常感のほうがよほど救いがある。

虚しい、空っぽだ、何も無い。
空洞の器すらない。

孤独は、他者がいてこそ感じるものだ。
大勢の人の中にいて寂しいと感じるならば、それは孤独だ。
愛する人と二人でいてもなお寂しければ、いっそうに孤独を感じるだろう。

それは何も珍しいことじゃない。私だってそう感じる時がある。誰もが孤独だ。
しかし、人は基本的に孤独なのかもしれないが、それならば尚のこと、孤独の全てをネガティブに捉えて絶望する必要はないと思う。
孤独が生きるバネになることもあるし、多くの芸術は孤独から生まれる。孤独だからこそ、人の情けが身に染み、たまに誰かと心が響きあえば嬉しい。
「孤独には救いがない」と言う人もいるが、私はそう思わない。私は孤独が怖ろしくない。怖ろしいのは、孤独のみを見つめ過ぎることだ。

・・・などど、孤独について勝手に呟いて
いる場合じゃなかった(笑)


だけれども、虚無は違います。虚無感には救いがありません。
虚無をどっぷりと感じれば、生も死も虚しく、自分の命さえ惜しむ価値がなく、何も怖くない。何も感じない。肉体どころか魂もない。
何かもが虚(うつ)ろです。

・・・危険だ。
もし、この「桜の森」の、木の下の秘密が「虚無」なのだとしたら、読者がこの男に同調すると甚だしく病的で、不健康極まりない怖ろしい世界を味わうことになりそうです。
孤独を感じる迄にどどめておくか、私のように、あさっての方向へ脱線して読んでみるほうがまだマシかもしれません。 
なにせ、「一つの小説に無数の解釈があるのだから、一つの解釈が真実ではない(by安吾)」ですから。(←ちょっと言い訳)

・・・というわけで、

ここで頓挫したので、「運命の女」、ファム・ファタールや美女
についてと、「恋愛と孤独」に関しては、機会があればまたいつか。


いや~、それにしても、面白かったです。
このブログは更新が少ないのでアクセス数もそれなりに多くはないですが、それでもわりと舞台の題名などで検索して来られる方が多いんですよね。
どうやらbot系に好かれているみたいなんで(笑)
でも、これだけ書いても坂口安吾で検索して来られる方がいない、というのは、そのぶん恥をかかずに済んでほっとしましたが(笑)、つまり、これを読んでくださる皆さんはたぶん「いつもの方」で、エンタメ関係に興味のある方ですよね?
あ~、きっとそうですよねぇ。

まあまあ、本当にすみません、こんな赤恥ものの、ぐるぐるした読書ノートにお付き合いさせてしまって。
それでは、お詫びになるかどうかわかりませんが、次回は去年セルリアンタワー能楽堂で観た「綺譚 桜の森の満開の下 」の「いまさら感想記」を書きましょうか。
えっ? 「もういい!うんざりだ!」って??

ふっ、ふっ、ふ・・・


と、謎の笑いを残して、次回へ続く・・・のか?

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いつかどこかで(59)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(5) 

2015年02月20日 02時10分35秒 | いつかどこかで(雑記)

前々回と前回で、「美しい桜が何故に怖ろしいのか?」について考えてみましたが、その作品背景がわかりました。
昭和28年に新聞に連載されたエッセイの、「桜の花ざかり」です。
著作保護期間を過ぎているので、ここにご紹介します。

「桜の花ざかり」

 戦争の真ッ最中にも桜の花が咲いていた。当たり前の話であるが、私はとても異様な気がしたことが忘れられないのである。

 焼夷弾の大空襲は三月十日からはじまり、ちょうど桜の満開のころが、東京がバタバタと焼け野原になって行く最中であった。

 私の住んでるあたりではちょうど桜の咲いてるときに空襲があって、一晩で焼け野原になったあと、三十軒ばかり焼け残ったところに桜の木が二本、咲いた花をつけたままやっぱり焼け残っていたのが異様であった。

 すぐ近所の防空壕で人が死んでるのを掘りだして、その木の下へ並べ、太陽がピカピカ照っていた。我々も当時は死人などには馴れきってしまって、なんの感傷も起こらない。死人の方にはなんの感傷も起らぬけれども、桜の花の方に変に気持がひっかかって仕様がなかった。

 桜の花の下に死にたいと歌をよんだ人もあるが、およそそこでは人間が死ぬなどということが一顧にも価いすることではなかったのだ。焼死者を見ても焼鳥を見てると全く同じだけの無関心しか起らない状態で、それは我々が焼死者を見なれたせいによるのではなくて、自分だって一時間後にこうなるかも知れない。自分の代りに誰かがこうなっているだけで、自分もいずれはこんなものだという不逞な悟りから来ていたようである。別に悟るために苦心して悟ったわけではなく、現実がおのずから押しつけた不逞な悟りであった。どうにも逃げられない悟りである。そういう悟りの頭上に桜の花が咲いていれば変テコなものである。

 三月十日の初の大空襲に十万ちかい人が死んで、その死者を一時上野の山に集めて焼いたりした。

 まもなくその上野の山にやっぱり桜の花がさいて、しかしそこには緋のモーセンも茶店もなければ、人通りもありゃしない。ただもう桜の花ざかりを野ッ原と同じように風がヒョウヒョウと吹いていただけである。そして花ビラが散っていた。

 我々は桜の森に花がさけば、いつも賑やかな花見の風景を考えなれている。そのときの桜の花は陽気千万で、夜桜などと電燈で照して人が集れば、これはまたなまめかしいものである。

 けれども花見の人の一人もいない満開の桜の森というものは、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げだしたくなるような静寂がはりつめているのであった。

 ある謡曲に子を失って発狂した母が子をたずねて旅にでて、満開の桜の下でわが子の幻を見て狂い死する物語があるが、まさに花見の人の姿のない桜の花ざかりの下というものは、その物語にふさわしい狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた。

 あのころ、焼死者と焼鳥とに区別をつけがたいほど無関心な悟りにおちこんでいた私の心に今もしみついている風景である。

 ―坂口安吾-


なるほど、実際の体験に基づいていたのですね。
「人間の気と絶縁した冷たさ」
「にわかに逃げだしたくなるような静寂」
・・・これか。


う~ん、
となると、「桜の恐怖の秘密は、恋愛の狂気」という私の考察は、徒労になったわけだ ひょえぇ~~っ!(爆)

でも、原風景は、あくまでもシーン誕生のきっかけ。
小説は小説で、何を言いたいか、ですよね。

そっか~

「狂的な冷たさ」、ね。

なぁ~るほど。

やっぱり、面白い。



そして、つづく 

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いつかどこかで(58)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(4) 

2015年02月19日 12時17分16秒 | いつかどこかで(雑記)

私はいつも、自分の書くものに冷たい風を感じますひゅるる~ ※写真は鈴鹿峠
(前回からの続き)

男が叫び逃げたくなるほど怖ろしく思い、気が変になるという、その桜の正体は何だったのか。

もしこれが試験問題で、学生の時の私だったら「孤独」と答えたかもしれません。
男は孤独が怖かった。または、孤独を知るのが怖かった。・・・とかね。だって、そう書いてあるもの(笑)

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
(「桜の森の満開の下」より)

そう書いてあるのだから、まんざら間違いではないでしょう。 でも、この場合の「あるいは」は、「もしかして」という意味ですよね? 
じゃあ、もしかしなかったら? 
桜の秘密がなんで孤独? すぐに散る儚い命だから?無常だから?死んじゃうから? それとも美しすぎるから? 美しいと孤独?
ってか、孤独って怖いの? 
あれ?男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。というけど、いつから男は孤独を怖れていましたっけ??
怖れていた時は孤独でなかった? それとも自覚してなかった? んで、いざ孤独になったらもう怖くないの?
どうして?

・・・な~んちゃって、ね。、私は三歳児か!

話を変えよう。(笑)

そう、桜は美しいですね。これは(記述がなくても)大前提。
では、「美しい」とは、どの様なことでしょうか?
って、またまた(笑)  
視覚的に美しいかどうかの基準は、人間の感性にありますよね。本能がもたらす場合もあるでしょう。
現代語の「美しい」の語源は、古きをたどると「可愛い」「愛しい」です。
「見ると愛しさを覚える」ことが、
「美しい」に変化したのでしょうね。
男が女に出会った瞬間、その美しさに衝撃を受けて見とれてしまうならば、それはほとんど一目惚れの状態ですよね。
美人が恋愛の対象になりがちなのは、先ず「目に見て愛しい」からです。
そして、特に男性は視覚から恋が始まりやすいというのは、古今東西の物語が語っていますよね。
「桜の森」の山賊も、女の顔や姿形が美しいので一目惚れしました。対象が花でなく、異性だから恋愛になったわけです。
坂口安吾で、「美しい」がきっかけで始まり、それが恋に至る小説といえば、私はこの「桜の森の」と、「夜長姫と耳男」と「紫大納言」しか読んでいませんが、いずれも「狂気の恋」の物語だと思いました。

安吾は「人は恋愛によっても、満たされることはない。」と言いましたが、「狂気の恋」という程にもなれば、満たされるどころか、むしろ飢えるかもしれません。
今まで全てが簡単に手に入ると思っていた男でも、女の全ては手に入りません。肉体は手に入っても、人は他者の魂(心)を丸ごと永続的に手に入れることなど出来ないのですから。
その飢えは、絶対的に満たされないので、叶わぬ想いは苦しみとなります。

う~ん・・・
ま、そんなことで、桜の恐怖の秘密は、「恋愛の狂気」かな。
どれほどに狂おしく愛しても、愛し足りず、満たされぬ、叶わぬ思い・・・叶わし・・・かなわし・・・悲し。
だから、恋愛は悲しいが、恋愛の悲しみは、どこかなまあたたかい・・・らしい。

とか、まあそんな感じでしょうか?
私が考える、桜の森の秘密とは、今のところ、この辺りで
止まっています。
男が桜の花を怖れたのは、その抗えない美しさゆえに、いつか訪れる「運命の恋」または「運命の女」との出会いの怖ろしさを本能的に嗅ぎ取ったから。

 かな~? とか思うのですが、この先、また変わったりするかも。

さあ、そこでついに現れたのは、今までさらってきた7人の女房達など比べ物にならぬ美しさの女。運命の女、ファム・ファタールだ!
というわけで、

つづく・・・たぶん

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いつかどこかで(57)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(3) 

2015年02月18日 15時26分32秒 | いつかどこかで(雑記)

私が今、何のためにこれを書いているのかというと、要するに「読書ノート」。
 「桜の森の満開の下」は、何度読んでもも完全に読みきれていない感じがして、不完全燃焼で何だかもやもやするんです。
なので、いろいろと引き出しを増やし、蓄積しつつあるものを小出しにしながら、その都度に感じたことや想ったことを書き留めています。

で、
普段は、桜を見ると、どういう気持ちになるでしょう?

私は、心が和らいで明るい気分になります。「陽気」とはちょっと違い、やさしく、そして懐かしい気持ち。
この花の命が短いと思うと一層に愛おしいし、滅びや無常を憂うよりは、「繰り返す再生」を歓びたくなります。
私にとって、桜の花は、思い出と再生の「約束の花」です。

では、その他の日本人にとっては、桜の花とはどのような存在でしょうか。
古来から文学・芸能において、桜は欠かせぬ題材でした。・・・とは、今更言うまでもないですね。
私が思いつく一番古いのは、万葉集あたりでしょうか。

桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰かも此処に 見えて散り行く  【柿本人麻呂歌集/万葉集 第十二巻3129】

「桜が咲いてはすぐ散るように、誰も彼もがこの世に現れては去っていく」 というのは、試しに私が訳してみましたが
和歌にしても小説にしても、能や歌舞伎にしても、桜が登場するものを探したら、まあ~、出てくる、出てくる!、例を挙げたらキリがありません。
中学の授業で「古典において、花といえば即ち桜を指します」と習うくらいですから、日本の文学史上で一番多く現れる花が桜と言って間違いないでしょう。
それは現代まで続いています。そういえば去年、「何故かシンガーソングライターはみんな桜を歌いたがる」とオリジナル・ラブの田島貴男さんも言ってましたっけ(そして田島さんも歌うのですが)(笑) 
桜は単に美しいだけでなく、春の訪れを感じさせてくれますし、花期が短いことから無常を想う日本人特有の美意識を刺激するのだろうと思います。

けれども、桜に「怖ろしさ」を見出すことが昔からあったとすれば、それは何時からどの様だったでしょうか。
調べてみると、桜の木に精霊が宿る話、美女や天女が現れる話、人の散りゆく命や死を重ねる話・・・と、昔から様々にあり、それぞれに桜を儚く妖しく美しいものとしてと見ることができます。けれども、古典の中で、始めから桜の花それ自体が「恐怖」の対象とする物語を、私は見つけることが出来ませんでした。(あったら教えて下さると有り難いです)
すると、桜の花をそもそも「怖ろしいもの」と意識づけてしまった最初の話といえば、やはり坂口安吾と同時代を生きた梶井基次郎の「櫻の樹の下には」かもしれません。

『桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。』(梶井基次郎の「櫻の樹の下には」)

梶井基次郎は安吾よりも五歳年上ですが、早くに亡くなっており、生きている間はあまり評価されていなかったこともあり、安吾達と直接会うことはなかったかもしれません。
しかし、彼の作品は死の直後から多くの作家に影響を与えていたようです。
坂口安吾が「櫻の樹の下には」を知らないとは考えられません。
桜の花が「美しすぎるから」怖ろしいものに違いない、という梶井基次郎の感性は、安吾のそれに似ているように思われます。なので、多少は影響を受けたと想像できます。
でも、安吾が「桜の森」で言わんとするところは違います。作品としてもテーマがまるっきり違いますが、桜の描き方も違います。
決定的に違うのは、「桜の森の満開の下」には、桜の花が「美しい」とは、どこにも、一行も書かれていないところです。

「桜の森の満開の下」の山賊にとって、美しいのは桜の花ではなくて、女のみです。
桜はただ、得たいの知れない恐ろしさと冷たさを表します。
序章からして「桜は怖ろしいもの」と読者を誘導するその手腕は、見事というしかありません。桜の花に、明るくやさしいイメージを持つ私ですら、「桜の木は何だか怖ろしい。そう言えば、桜の樹の下には屍体が埋まっているんだっけ?」などと、普段は忘れている梶井基次郎の一説を思い出して、冷たい風を感じてしまうくらいです。
だが、何故に桜が怖ろしいのか?
「美しすきるから」などとは、最後までどこにも書いてません。
桜は確かに美しいですが、単に、美しいことが、怖ろしいことではないからです。

山賊が、叫び逃げたくなるほど怖ろしく思い、気が変になるという、その桜の正体は何だったのか。


つづく

  

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いつかどこかで(56)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(2) 

2015年02月18日 00時51分33秒 | いつかどこかで(雑記)

期せずして、2月17日は坂口安吾没後60年の命日だとか。
なので、「桜の森の満開の下」から、話はちょっと寄り道。

先週行って来た二つの文学館で、坂口安吾に関連した展示品を見て来ました。
まずは、世田谷文学館。

     
ここに来たのは二度目で、第一のお目当ては「ムットーニのからくり劇場」ですが・・・その話はともかくとして
坂口安吾はじめ、下北沢にゆかりある文学者7人にスポットをあてた「下北沢クロニカル」というコレクションが開催中でした。
  
坂口安吾は20歳の時に下北沢(当時は荏原郡)で小学校の教師をしていました。
安吾の「教員時代の変に充ち足りた一年間」の話は著書「風と光と二十の私と」に記されています。女子生徒を見る目が深い(笑)・・・って、女子だけじゃありませんね。人を観察する目が深いです。
このコレクションでは、その当時の写真や原稿が展示されていました。
安吾の書く字は達筆とは違いますが、案外と小ぢんまりとした真面目そうな文字で、原稿用紙のます目にはみ出さずに一字一字が納まっています。
推敲の跡も、削除した字が読み取れないようにきちんと塗りつぶされていました。あの紙屑だらけの散らかった部屋とは印象が違います。
この「下北沢クロニカル」では、坂口安吾の他には、横光利一・森茉莉・萩原朔太郎・萩原葉子・石川淳・中村汀女のコーナーがあります。
展示期間は4月5日までです。

次に行ったのは、私の地元、横浜にある神奈川近代文学館。
今年は母の誕生日会を元町のレストランにしたので、ついでに足を延ばしてみました。
港の見える丘公園の奥の「大佛次郎記念館」の脇を通って、もう少し奥に歩いた所にあります。
この辺りは比較的人通りが少ないので、恋人達の穴場かも? 近くのベンチで静かに話ができそうです。
     
企画展では、評論家の「寺田透・生誕100年のコレクション展」が開催されています。、非常に興味深いです。
坂口安吾の品は、常設展の「文学の森へ 神奈川の作家たち」展で見られます。
ここには、「桜の森の満開の下」が書かれた当時の雑誌が展示されていました。
確認はできませんでしたが、たぶんあれが昭和22年暁社の雑誌『肉体』の創刊号だろうと思います。
「桜の森」のページが開かれていて、挿絵が裸婦のスケッチなんです!
桜でも山賊でもなく、裸の女性の絵が挿絵・・・・そう来たか?!って感じですね。

常設展には他にも神奈川県ゆかりの作家たちの品がたくさん展示されていて、結構見ごたえがありました。
近代の文豪達はわりと住まいを転々としていたので、神奈川県はゆかりの作家が多いんですよね。
こういう文学館は興味のない人には退屈でしょうが、私はとても面白かったです。

で、「桜の森」から脱線ついでですが
坂口安吾が聞いていたという音楽がエリック・サティだったというのは、すごくわかる気がします。サティは私も好きで時々聴いてます。
アバンギャルドなサティの音楽は、もの悲しく孤独の香り漂う坂口文学にぴったりですよね。
「桜の森」には「グノシエンヌ」あたりですかね~?
いや、この物語にはいっそエンドロールで東京スカパラダイスオーケストラ の「美しく燃える森」とかも似合うと思うんですけど、それは私の趣味(笑)

  

続く

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いつかどこかで(55)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(1)  

2015年02月17日 02時06分27秒 | いつかどこかで(雑記)

こんな大それたタイトルにして、大丈夫なんでしょうか?

私の長~い冬休みも、あっという間に残りあと10日となりました。三月からはまた仕事をしますので忙しくなりますが、それにしても月日が経つのは早いな~。
それで、今はのんびり何をしているのかと言うと、「好奇心の赴くままに好きなことをやっている」という、非常に「いいご身分」を満喫しています。
最近は坂口安吾の小説、「桜の森の満開の下」を一行一行、繰り返し読み解いていくのにハマり、これが楽しくて止まらないんですよね。
ひとつの作品をここまで読み込んでいるのは、初めてかも。 

「桜の森の満開の下」という物語は、本当に、読めば読むほどに奥が深いです。
とは言っても、私は書評をするつもりはありませんし、ここで何らかの結論を出したいわけでもありません。 
解釈は読み込むほどに日々変わり、たとえば「この作品における桜の木は何を象徴しているのか?」などについても、昨日は「タナトス」を感じていましたが、ある時には「美」であり、今日などは、「これは恋だ」と、得心した気分になっていたりします。解釈はいく通りにもなります。
坂口安吾も「一つの小説に無数の解釈があるのだから、一つの解釈が真実ではないといふことだ。」(「私の小説」より)と書いていますしね。
「作品を解釈することは、作品と対話することだ」というのは、昔どこかで読んだ一行ですが、作品と対話しているうちに新しい発見をし、その新しい発見とは自分自身への発見へと繋がります。なので、この先で私がこの「桜の森の(以下、省略)」に対して何らかの感想を書いたとしても、この作品をいまだ読み解いている最中でもあるので、それが最終ではなく、恐らくいずれ変わります。それがたまらなく楽しい、ってのは我ながら暇人ですね~(笑) これも今のうち。

で、「小説はそこで書いてある事がすべてだ」という読み方もあるでしょうが、「何故この一行がここにあるのだろう?」と思う時、たくさん引き出しがあったほうがより面白く「対話」できると思うんですよね。
たとえば作家の生い立ちを知るのもその一つ。
坂口安吾がどういう生まれ育ちで、何を学び、何に影響され、どういう友達や恋人がいたか・・・というのは、およその事がウィキペディア(Wikipediaに載っています。今は本当に便利な世の中ですね。
これですが→坂口安吾 - Wikipedia
ここで興味深いのは、美人女流作家・矢田津世子との恋愛です。
いろいろな文献を見るにつけても、坂口安吾の女性への肉体的な欲望は強く、その関係を持つにためらわない生活を送っていたように見えます。けれども、矢田津世子だけは特別な女性でした。他の女達とは次々と遊びながら、安吾は世津子の肉体を殊更に拒んでいます。二人はただ一度だけキスをして別れます。
安吾が自ら「狂気の恋」と言ったそのいきさつは、「二十七歳」「三十歳」に書かれていますが、坂口安吾の著書は50年を過ぎて著作権が無くなったせいか、そのほとんどがパソコンから無料で簡単に読むことができます。矢田津世子宛の絶縁状まで読めてしまいます。
それにしても矢田津世子は美人!現代の私から見ても、かなりの美貌です。そのうえ育ちも良くて頭も良く、都会の洗練も身につけており、おまけに小説家としての才能がありました。「才色兼備」とか「高嶺の花」というのはこういう人を言うのでしょうね。そして津世子は未婚のまま37歳の若さでこの世を去っています。「美人薄命」ですね。

   
  
私がなぜ 矢田津世子に拘るかと言うと、この女性との恋愛経験が、その後の坂口安吾の恋愛観に強く影響し、その恋愛観が当然作品にも投影されているからです。
津世子は運命の女(ファム・ファタール)と言えるかもしれない。
安吾は人生と、それを知るための文学にも恋愛は非常に重要だと考えており、「恋愛論」の中で「恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う」と述べています。しかし、「人は恋愛によっても、満たされることはない」といい、人生において、最も人を慰めるものは「苦しみ、悲しみ、せつなさ」であり、それにすら満たされぬ人間の魂は孤独。「孤独こそは、人のふるさと」とも書いてます。
ちょっと「桜の森」に近づきましたね?

「桜の森」はもう何度も読み返していますが、私が未だに結論が出せない問題の一つが、「山賊は女を抱いていたのか?」という点です。
この時代、「女房にする」といえばそういう事だとは思います。山賊がさらった女は炊事洗濯もしないし、主婦にするのとは違います。男だって、家事をさせたいわけじゃありません。
だから「自分の女」にしたかったのでしょうが、けれども、どうもその「抱いている」という気配がこの小説から感じられません。
世間から痴情作家とも呼ばれてしまうくらい、他の作品では閨房の記述に遠慮しなかった安吾が、また、生首遊びをあれだけ生々しく描写する安吾が、二人の契りの場面を一行も書かなかったのは何故なのか?
もしあの女を抱いているとしたら、それこそ恐ろしく孤独な、果てのない欲望の沼であったろうに、そこをスルーする意味は何だろう?(文学的な計算か?)
いや、もしかして、山賊は美女の身体には触れず、家事や身の回りを世話させるビッコの醜い女に、肉欲の面でも世話をさせていたのではないか??
などど想像するとき、矢田津世子を思い、「白痴の女」を思い出したりもするのですが、その他の著書を読んでも謎が深まるばかりです。

ところで、一番上に載せた写真はもちろん坂口安吾ですが、すごい部屋ですよね~!
ゴミと紙くずだらけのあの部屋は二年間も掃除していなかったと噂されています。
この写真を見たのは、たしか世田谷文学館・・・あれ?神奈川近代文学館だっけかな? 先週たて続けに二つの文学館へ行ってきたので、ちょっと記憶が混乱していますが(←呆けてる)、初めて目にしたときには、その衝撃的な散らかり方に驚きました。他の文豪達の部屋はここまで酷くありません。夏目漱石の部屋などは本がいっぱいなりに整然としてましたし、インク壷などの材質やデザインにも拘って、部屋にもそれぞれの感性が現れていましたが、坂口安吾の部屋は滅茶苦茶です。
この部屋で、ひたすら自分を見つめながら小説を書いていたというのには、鬼気迫るものを感じます。
しかも、あの紙屑って、ただの紙屑ではなくて、小説の没された断片も混じっているのでしょうね。
それらの断片には、登場人物の誰彼の人生が中途半端に記されて、そして捨てられている。
それを見て、ふと、「桜の森」の女の生首遊びを思い出した私です。


この話題、他の人には興味なく面倒くさいだけかもしれませんが、とにかく私が楽しいので続きます(笑)

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映画「悼む人」

2015年02月14日 20時30分36秒 | 映画

映画「悼む人」
【監督】堤幸彦
【原作】天童荒太
【脚本】大森寿美男
【出演】出演:高良健吾、石田ゆり子、井浦新、貫地谷しほり、椎名桔平、大竹しのぶ ほか

   

死者を「悼む」ために旅をする青年、坂築静人(高良健吾)は、自分が何故そうせずにいられないのか説明ができません。
「悼む」ということは、「人の死を悲しみ嘆く」という意味ですが、静人の悼み方は違います。
先ずは「生前に誰を愛したか。誰から愛され、感謝されたか」 を調べ、事故や事件の現場に赴き死者へ語りかけます。
「あなたは****を愛し、*****から愛され、*****により感謝されました。あなたが生きていたことを私はこの胸に刻みます」
見ず知らずの死者に向かってするその行為に、いったい何の意味があるというのか。
この映画にはその答えがありません。 
問いかけるのみです。
その問いかけの中には、観た者自身の人生も含まれます。

私は誰を愛し、誰から愛され、感謝されたのか。
私が死してのち、誰がその死を悼むのだろうか。
いや、その前に、生きている間には誰の死を悼むだろうか。

・・・うん、今、わかった。
この映画を見た直後に、何だかもやもやしていたものが、今これを書きながら晴れた気がする。

私は、悲しみも嘆きも、愛もない「悼み」なんか、いらない。
それがないのなら、私が生きていたことなんか憶えてくれなくても全くかまわないや。

と、思う私は、きっと幸せなのでしょう。

俳優歴10年目という高良くんは、抑えた演技と悼む姿に漂う透明感が良かったです。
石田ゆり子さんの熱演や、その他の脇役達も素晴らしかったですが、なんと言っても大竹しのぶさんには泣かされました。
この母の愛に胸を打たれ、女性としては出来れば最期にこうでありたいと思いました。
残念な点は、ラストの歌です。
歌自体は悪くありませんが、あのシーン、あのタイミングで歌詞のある歌は邪魔です。 
音楽だけでは何故いけないのか。
この作品は結論を出さないだけに、観る者としては言葉なしに「感じる」余地と余韻が必要です。エンドロールまで歌を待てなかった堤監督の文学的センスを疑います。
おかげで、帰りに書店に寄り、原作のラストを立ち読みする羽目になりました。
でもって、そこで初めてラストに泣いたというのは、原作に負けたというしかないですね。

なんて、珍しく辛口を書いてみましたが、舞台と違って映画は観る人の数が桁違いですから、遠慮なく感想書けるところが良いですね~(笑)
全員が褒めちぎる作品なんてありえませんからね。
でもま、天童荒太さんの小説はあまりに重くて、感動した分だけ引きずりますから、私には読むにそれなりの覚悟が必要です。
直木賞を取った「悼む人」は未読だったので、映画で観られて良かったです。

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ロベール・クートラス展「夜を包む色彩」松濤美術館

2015年02月12日 21時20分55秒 | 美術館/博物館/展覧会

『パリ・モンパルナスで生まれたロベール・クートラス(1930-1985)は、苦学しリヨンの美術学校で学んだ。画廊と契約を結び幾つかの個展を開いたが、それはどれも彼の理想とかけはなれていた。画廊と決別したあとは、ひたすら一人だけの孤独な作業にのめりこむしかなかった。-中略- 
 沸き起こる物語を夜ごと描いたカルト(タロットカード様の絵)、それを彼は「僕の夜」と呼んでいた。どこで発表するでもない6000枚にも及ぶこのアトリエでの密室の作業は、クートラスの孤独な夢想のなかから生まれた、人生そのものである。』
  

6000もの夜を、彼は何を想い過ごしてきたのだろう。

・・・というわけで、渋谷区にある松濤美術館へ行って来ました。

    

松濤美術館へは初めて来ましたが、とても素敵な美術館です。
建物のデザインも素敵ですが、中も落ち着いた雰囲気でゆっくり見ることができ、大変居心地の良い空間でした。 
      

クートラスは幾つかの賞もとり、画廊と契約した時期もあったそうです。
しかし、自分の望む絵を描かせてもらえないことや、「早く描け」と言われることが次第に耐えがたくなりました。
昼間は画廊に出す絵を、夜には自分の描きたい絵を描き続ける二重の生活は、クートラスの心身を疲れさせ、彼は自らその契約を解除したといいます。
そして、55歳でこの世を去るまでの17年間は、極貧生活のなかで夜ごとにお金にもならぬカルト作りに没頭しました。
毎夜一枚作るそれらの作品を、クートラスはお金に換えるのを嫌ったそうです。

という、自分を貫いたクートラスの人生は、遺作管理人の岸真理子さんが書いた「クートラスの思い出」という本に記されていますが、そのサンプルは展示室でふかふかのソファーに座りながら自由に目にすることができます。
で、今更言うのもなんですが、私は絵を見るよりも本を読むほうがずっと好きなんですよね、やっぱり。
それで思わず「クートラスの思い出」を長々と読みふけってしまいましたが、 クートラスの人生をこれほどまでに詳細に知り、深く理解していた岸真理子さんと彼とは、常人に計り知れない濃密な関わりがあったようで、それは「恋人」と言うにもどこか違います。
クートラスは岸さんへ「僕は君を愛していない」と言ったそうですが、最後に自分の人生そのものである作品の全てを彼女に託したということは、、岸さんを「魂の理解者」として位置づけて大切に思っていたことに間違いはないでしょう。

      

クートラスの人生は非常に興味深く、彼の作品が天才的であるかどうかは私にはわかりませんが、少なくとも彼の人生とその精神世界は天才のそれであったように思います。
彼はアーティストでなければ生きられない人で、そうであり続けることは、評価や賞賛、お金なとの何にも代えられぬ必須であったわけです。
その孤独な世界に興味を惹かれるのか、平日の昼間なのに、展示室には次々と人が絶えずに訪れていました。

それで、クートラスの人生はともかくとして、肝心の絵なんですけどね、
拾ってきたダンボールなどを材料にしたという沢山のカルトには、まるで子供が作ったような素朴さを感じました。
ひとつひとつに技巧の良し悪しとか、「上手いか下手か」とか、そういうのを推し量る見方は意味ないと思いますが、この作品を「好きか嫌いか」で見ようとしても、あんまり面白くないんですよね。
ただ、「なんだか面白いなぁ」と、私の感想はそれだけなんですけど。

ここに展示されているのは遺された6000点もの作品のうちのほんの一部でしょうけど、全部が違うデザインかと思えばそうでもありません。
クートラスにはお気に入りのモチーフが幾つかあったようで、「股間から覗く顔}とか「蛇の絡みついた木」、聖母子、メデューサ、人面の蝶や鳥など・・・同じような図案のものがたくさんあります。
なかには、「私にも描けるかも?」と思うような、波線や渦巻きや水玉もあるし、文字だけのカルトも多数ありました。
同じモチーフを使い、少しずつ変化させた、その繰り返しを見るのも面白いです。 しかもこれ、ひとつの夜に一枚なんですよね。
私は多少調べてから見に行ったので、「この一枚のカルトが、ひとつの夜なのか」と興味深く思いましたが、何の予備知識もなく見たら古代絵を見る面白さを感じたかもしれません。


松濤美術館のロベール・クートラス展「夜を包む色彩」は3月15日まで。
http://www.shoto-museum.jp/

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映画「マエストロ」

2015年02月02日 03時30分47秒 | 映画

映画「マエストロ」
【監督】小林聖太郎
【脚本】奥寺佐渡子 【原作】さそうあきら「マエストロ」
【指揮指導・指揮演技監修】佐渡裕  【演奏】ベルリン・ドイツ交響楽団(指揮:佐渡裕) 
【エンディングテーマ】辻井伸行
【出演】松坂桃李/miwa/古舘寛治/大石吾朗/濱田マリ/河井青葉/池田鉄洋/モロ師岡/村杉蝉之介/小林且弥/中村倫也/斉藤暁嶋田久作/宮下順子/淵上泰史/木下半太/中村ゆり/綾田俊樹/石井正則/でんでん/松重豊/西田敏行

今年に入って、映画を観るのは5本目。 それも(自分の好みに)外れなし!
映画は予告編を見てから選べるのが良いですよね~! 
「マエストロ」はネタがオーケストラで、指揮者が西田敏行さんで、その指揮演技監修が佐渡裕さん!というからにはツボにはまらないわけがない。
松坂桃李くんは初めて見ましたが、超イケメンでっす~

ストーリーは、 不況で解散したオーケストラの再結成に謎の指揮者が現れて・・・というもので、笑いありに涙あり。
最初のへなちょこ演奏が次第に進化していき、ラストでバーン!と素晴らしい演奏で感動に至るというのは予測通りですが、実際に佐渡裕さんが指揮するベルリン・ドイツ交響楽団のベートーベン交響曲第五番「運命」が流れ出した時にはマジで感動しました。
なので音楽はプロの吹き替えですが、一年間バイオリンの練習をしてきた松坂桃李くんをはじめ、演奏者役の皆さんが全曲を弾けるほどに猛特訓をしたそうです。
それだけに本気度(必死度?)がひしひしと感じられ、クライマックスには私も観客となって「ブラヴォ~!」と言いたくなりました。 
第五は中学の時に吹奏楽部で第4楽章だけをやりましたけど、第4楽章は聴いているだけでも何か達成感があって気持ちいいですよね!(予告動画の後半で流れる曲がそれです) 生で聴きたかった~!!

  

ところで、この映画は物語としても面白かったですが、謎の指揮者・天道徹三郎の台詞は、ところどころで興味深いものがありました。 
去年・・・いや、二年くらい前からか、 「静寂の音が聴きたい」と書き、ずっとそう思ってきましたが、音に聞こえぬその音を、この映画では「天籟(てんらい)」と言います。
奏者らの心がある域に到達した時、その音楽が鳴り終えた瞬間に宇宙から降りてくる「音なき音」。
そうなんです! それ、それ! 私はその音を聴きたいんです。
「天籟」は辞書ではちょっと意味が違うようですが、この映画で使われる意味でならば、音楽に限らないですよね? 
演劇、美術や文学にも、自らの域を超えた者には天から何かが降りてくるのでしょう。
満足感とか達成感といった言葉だけでは表しきれない、その何とも言えない、何かが天から降りて来た時の感動と恍惚感は、当事者だけが味わえるものかもしれません。
私は今回珍しくパンフレットまで買いましたが、それを読むと、たとえば西田敏行さんは役者としての「天籟」を、監督の小林聖太郎さんは監督なりの「天籟」を求めているようでした。

その他にも、「誰かと響きあえたら、一瞬が永遠になんねん」とかの台詞もすごく共感できますし、今まで思い続けてきた事をこの映画が代わりに整理してくれたような気がして、ちょっと頭がすっきりしました(笑)
それやこれやを含めて、今この作品と出会えて良かったです。

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