今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

舞台芸術創造事業 たいらじょう×宮田大アンサンブル 「サロメ」

2019年04月30日 23時51分13秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

私が平成でやり残していると思っていることは唯ひとつ、これです。
この感想を書くこと。
この舞台は1月に観て以来、ずっと書きたいと思い、でも決して疎かには書いてはいけないと思いあぐね、頭の中で書いては消し、消しては書いているうちに、三ヶ月以上の月日が経ってしまいました。
今、平成31年4月30日22時。あと二時間で何としてでも平成の今日の内に書いてしまわなければと思います。

「サロメ」 2019/01/19 東京文化会館小ホール
【脚本・演出・美術・人形操演】たいらじょう
【音楽監督】宮田大
【演奏】チェロ:宮田大/ハープ:山崎祐介/コントラバス:谷口拓史/オーボエ:若山健太


あなたが今、一番欲しいものは何ですか?

「サロメ」の舞台を初めて観たのは2011年の10月、市川段治郎さんと舘形比呂一さんらが出演していらした舞踏劇「サロメとヨカナーン」です。
それ以後、オベラとストレートプレイの「サロメ」を観て、今回が4度目の「サロメ」。
その感想を書く都度にこのブログで投げかけた言葉です。
「あなたが今、欲しいものは何ですか?」 それは、もちろん自分自身への問いかけでもあります。
あれから7年と6ヶ月。何度も何度も自分へ投げかけた、私の人生
への問い。

あなたが今、一番欲しいものは何ですか?

そして、
その欲しいものは、7
年半前と同じでしょうか?
もし変わってしまったとしたら、何故でしょう?
その欲しいものとは、他の何にも変えがたいものなのでしょうか?

* * * * 

人形劇俳優たいらじょうさんは、俳優さんとして素晴らしい資質をお持ちですが、脚本家や演出家としても改めて素晴らしい才能をお持ちの方だと思いました。
何よりも、原作の受け取り方が本当に奥深く、こういう言い方は図々しいかもしれませんが、本当に「私好み」だと思います。
それでいて、今回の舞台の舞台では「ええっ!!」というような驚きの部分が二つほどありました。
そのひとつは音楽です。

東京文化会館の小ホールは音の響きが良いホールだというのは、いらした事のある方ならばご存知でしょうが、この日の演奏は本当に心地良く、私は特にオーボエの音の伸びやかさに驚きました。
ところが! 終演後にボーっとしていて、この日に使われた曲目リストをいただくのを忘れて帰ってしまったので、どの場面で何の曲が使われていたのか、全部を書けません。
ああ、私って、なんてうっかりなんでしょう!!

けれども、七つのヴェールの踊りの場面がオペラと同じ曲だったことと、サロメが「ヨカナーンの首をください」と行った場面からはシベリウスの交響詩「フィンランディア」が使われていたのだけはリストを見なくてもわかりました。

あの場面で「フィンランディア」とは!! なんという意外なセレクトでしょう!! 
私は中学生の頃、この曲がきっかけですっかりシンコペーション・フェチになってしまったくらい、この曲の魅力にハマりましたが、この曲と「サロメ」が合うなどとはとても思ってもみませんでした。なので、使われるのは重々しい序盤のあたりだけかと思いながら舞台を観ていましたが、アレンジはされていたものの、この曲が最後まで使われて物語が終わったのに驚き、「サロメ」に対して、思ってもみなかった清々しい新鮮な感動を覚えました。



「サロメ」の物語をご存知の方ならわかると思いますが、この話のラストは決して後味の良いものではありません。
美しい少女サロメは、彼女の希望通りにヨカナーンの生首にキスをし、それを見た王は「あれは化け物だ、あの化け物を殺せ!」と兵士達に命じるところで終わります。(台詞はうろ覚えなので正確ではないかもしれませんが)
そして、私はいつも思うのです。
「これでいいのか? 本当にサロメが欲しかったのはそれなのか? サロメは満足なのか?」と。

けれども、「フィンランディア」のラストに重ねられた、たいらじょうさんの動かす人形のサロメを見て、初めて「サロメは満足だったのだ」と思いました。
同時に、初めて、サロメという少女の、これに至る絶望が理解できたような気がしたのです。

この国のこの時代、女性が普通に恋をして好きな人と結婚できるとは思えませんが、ましてや絶世の美少女であるサロメの将来は想像に難くありません。
たぶん、このままでは王様の女にされてしまうか、母親の権勢欲の道具にされるか、良くて政略結婚か。
今まで健全な、暖かい愛を知らずに育ったであろうサロメは、この先の人生が続いたとしても、たぶんずっとそうで、愛に対しての希望もなく、ただ男達の欲望の中にさらされ続ける人生なのでしょう。

絶望です。
自分で望み、努力しても、決して掴むことのできないもの…愛への、絶望。


宮本亜門さん演出の舞台を見た時に、私は「サロメは、決して自分を愛さない男と愛し合いたかったのではないか?」と書きましたが、その「決して成就しないことで成就する愛」を望んだサロメに、私は深い絶望と、その絶望への挑戦を見たような気がしました。
「フィンランディア」は、たしか反乱と勝利の歌ではなかったか・・・・。

そして、驚きの場面のもうひとつとは、
サロメが「他には何も要らない」と言ったことです。

私はこの原作の文庫本を読んでいますが、サロメはヨカナーンの首を所望してからのちは、ただ「ヨカナーンの首をください」とだけ繰り返していたと記憶しています。「他には何も要らない」とは書いてなかったと思います。
ですが、たいらさんのサロメにこの台詞があったことで、「自分の欲しいもの以外は要らない」という強い意志が伝わりました。
どんな宝石も、地位も、国ですら、自分には価値がない。他人から与えられるものなど興味ない。自分の欲しいもの、掴めるものだけを掴みたい……。

だとすると、サロメはやはり、満足だったのでしょう。

他人には理解し難いものであっても。


さて、平成最後に。

私の欲しいもの。

これは、「サロメ」を始めて観た当時から変わりました。
その当時に欲しかったものが何かは言いたくありませんが、私もやはり「決して手に入らぬもの」を手に入れようと思っていたような気がします。

いえ、違います。

私は、たぶん、今までの人生の中で、欲しいと思ったものを全て一度は手にしてきたように思います。
けれども、どうしてだか、手にしてきたものを、ちゃんと掴み続けていられませんでした。

次の時代、令和で、もし本当に欲しいものが手に入るのであれば、今度は決して離さないようにしたいと思います。

そして、今、私の一番欲しいものは、

「私が、この私であって良かったと心から思える瞬間」です。


この瞬間が掴めるような人生を、令和の世で送りたいと思います。

あ、あと10分ですね。途中でお茶なんか飲んでいたらギリギリになってしまいました。

平和で安らかな時代が来ますように。

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人形劇俳優たいらじょうの世界「ギリシャ悲劇 王女メディアの物語」

2016年02月07日 01時24分04秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

「ギリシャ悲劇 王女メディアの物語」 2016/01/17 @新国立劇場小ホール
【原作】エウリピデス
【脚本・演出・美術・人形操演】 たいらじょう

今年一番最初に観た舞台がこの物語。
人形劇俳優たいらじょうさんの舞台は今までにいくつか観ていますが、この物語は今までで最も余韻ある舞台だったと思います。
はなれ瞽女おりん」や「オペラ座の怪人」のように涙しながら観ていたわけでもないのに、観終わったあとの心には、何時までも染み渡るような悲しみが消えません。
「いったいこの悲しみは何だろう?」と、しばらくは自分でも理解できなくて、数日経ってからようやく「ああ、そうか」と、この物語が自分なりに理解できたような気がしました。
そんなわけで、今になってやっと感想が書けるようになりましたが、例によって物語の解釈や感想は私独自のものであることと、ネタバレが満載であることを先におことわりしておきます。

メディアの話は、今から2500年も前に書かれた戯曲で、ギリシャ悲劇だそうです。
「だそうです」と言うからには、私はこの物語を知りませんでした。
なので、事前にさらっと調べたところ、メディアという女性は、「夫イアソンの不貞に復讐するために、浮気相手とその父親を殺し、果ては自分の二人の息子までも殺してしまう」という、気性激しい女性の、狂気に至る嫉妬の話かと思ったんですよね。


で、今さらご説明するまでもありませんが、たいらじょうさんは人形劇俳優なので、物語のたくさんの登場人物はお人形であったり、またたいらさん自身も演じたりと、たいらさん一人でお話が進められていきます。
物語の前半・・・王子イアソンが自分の国を出て船旅に出るいきさつ、その旅の中で他国の王女メディアと出会い駆け落ちをし、自国に戻るあたりまで・・・は、ストールを被ったたいらさんが王女メディアを育てた乳母に扮し、段ポールクラフトの花を操って「過去を振り返る説明」で語られます。

この段ボールクラフトのセットや小物、人形達は、すごく味があって良かったんですよね~! 色がなくても表情が豊かで、「この花をイアソンといたしましょう」と言われた瞬間から花がちゃんとイアソンの顔に見えます。段ボールでできた花が人の顔や姿に見え、表情までも見えると思うのは、たいらさんの表現力の豊かさと技術があってこそですが、その豊かな表現力によって自然とそれを観る私達(観客)の持つ想像力が引き出されます。この相互から作り出される「目に見えないけれど、鮮やかに見える世界」が観客の数ほどあり、それぞれであることが、たいらさんの舞台の魅力なんだと思います。

二人の出会いから話が進み、船で駆け落ちをする時に、メディアは追っ手から逃れるために、連れてきた弟の王子を殺しバラバラにして海に投げ捨てます。
それだけでなく、イアソンの国に帰ってからも、メディアはイアソンの叔父を人知れず殺してしまいます。 
そのあたりまでが一幕。
休憩時間には、「メディアって、(夫に浮気される前から)もともと悪い女だったのね~」と思った私です。
イアソンと結婚するために弟の命までも捨てるなんて、「さすがギリシャ神話」と言いたくなるような展開で、この「目的のためには手段を選ばない女」メディアには、この後ダンナ様に浮気されようがどうしようが同情できそうにありません。

などと思いつつ、二幕では、二人はイアソンの国を出でコリントスまで逃れます。
コリントスの場面からは、メディア達の姿がもう花ではなくて、それぞれの人形になり、話はいよいよ復讐の物語へなだれ込むわけです。
イアソンはコリントスの王クレオンの娘に浮気(というか、本気の心変わり)をし、邪魔になったメディアと幼い二人の息子達はコリントスから追放されそうになります。

その酷い仕打ちと嫉妬に狂ったメディアが、浮気相手の姫とその父親を殺害するのはわかります。古今東西、この手の話はいくらでもあります。
愛した人から裏切られて、その人を殺すか、または浮気相手を殺すか、それとも自分が死んでしまうのか・・・どちらに走るかの違いはあれど、何百年、何千年と、このような男女の愛憎の場面がどれほど繰り返されてきたことか・・・。
でも、でも!! なぜにメディアは愛する息子達をも殺してしまったのか。

このメディアの二人の幼い息子達は、無邪気でいたいけで、とても可愛らしいです。たいらさん出す声や、お人形の動きのあどけなさは本当に愛らしかったです。
メディアはその息子達を道具にして、恋敵の姫を殺してしまいます。
そう書くと、まるでメディアが息子達を大切に思っていなかったようですが、これがまるで違うんですよね。メディアは子供をとても愛していました。なのに、果ては自分の身を切るように二人の息子を切り殺してしまいます。
なぜ、なぜ?!
「なぜ、こんなことをしたんだ?!」というイアソンに、メディアは言うんですよね。「あなたの苦しむ姿が見たかった」と。
でも私には、イアソンよりもなお、メディアのほうがずっと深く苦しそうに悲しそうに見えました。
メディアの深い苦しみと悲しみを目にすると、「これは復讐なのか?これが復讐といえるのか?」と疑問に思えてしまいます。
浮気した夫を苦しめるためだけなら、嫉妬のあまりの復讐といえるでしょう。でも、これはそれだけじゃない。
フライヤーには「我が子を殺してまでも振り向かせたい夫がいる。」とありますが、振り向かせるだけではまだ足りない。
もしかして、メディアは、この深い苦しみ憎しみと悲しみこそを、イアソンと共有したかったのではないか?

かつて互いに同じ愛情で結ばれた男と、その愛が消え去る今となっては、同じ憎しみと苦しみで結ばれたかったのではないか? 
劇が全て終わったあとの悲しみの余韻の中で、しばらくして、鈍い私はようやく気が付きました。

親を捨て弟を捨て祖国を捨てたメディアは、本当に「手段を選ばない女」で、最後には愛する子供まで殺してしまいました。
その全てが恋した男のため。彼女はイアソンただ一人のために何もかも失い、ひたすらイアソン一直線に生きた女性だったと言えるでしょう。

人生で「本当に欲しいもの」があったとして、それを得て独り占めするために、その他の何もかも失うのだとしたら、果たして私にそれができるのか?
ただ一人への愛のために、他の者への愛を犠牲にできるのだろうか・・・? その愛が憎しみに変わるとしてもなお、最後までブレずに、ただ一人を求めていられるだろうか?
それは、私にはできません。
以前私は宮本亜門さんの「サロメ」を観た後に、「人が一番欲しいと思う、その最たるものとは、決して手に入らないものなのかも・・・」という感想を書いたことがありますが、そのように思いあきらめてしまうのが、私自身の悲しみなのかもしれません。
 私は、メディアのようにも、サロメのようにも、ただひとつの愛に向かい一直線に手を伸ばし、果ては狂気に至ってしまうことなどとてもできない。
できないほうが幸せだ・・・と思いつつも、私の内に潜むどこか激しい一面が、その自分の穏やかさや平凡さを悲しむような気がします。
自分と真逆のような女達の物語に惹かれる理由が、これにあるのかもしれません。

一途といえば一途すぎた王女メディアは、ラストに息子の亡骸を抱え、龍の背に乗り何処かの世界へと旅立って終わりました。
愛の果ての憎しみと苦しみ、深い悲しみを伴って。

さて、話は長くなりましたが、この人形劇のカーテンコールは、悲劇の後とは思えないほどにほのぼのとして温かいものでした。
お人形さん一人ひとりが再登場し、観客達の拍手で迎えられて並びます。
メディアに殺されてしまった若くて美しい姫や、愛らしい息子達、脇役の侍女や爺やなどのお人形さん達、たいらさん自身が演じた乳母やイアソン・など・・全部がたいらじょうさんですがそれぞれの熱演に拍手です。そして、黒子のスタッフの方々へも。
最後に堂々と登場してきた王女メディアには、大女優の姿を見るようでした。
大役を演じ終わり、満足そうに微笑むメディアのお顔がこれ↓


この日の舞台は全国ツアーの初日だったそうなので、これから「王女メディアの物語」を観るチャンスはあると思います。
まだ観てない方は、ぜひ! 

 

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「綺譚 桜の森の満開の下」2014/10/18 いまさら感想記

2015年02月24日 15時03分33秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

藤間勘十郎 文芸シリーズ 其の壱
「綺譚 桜の森の満開の下」 @セルリアンタワー能楽堂 2014/10/18
【原作】坂口安吾
【構成・演出・振付・音楽】藤間 勘十郎
【鳴物】藤間千穂
【笛】鳳聲千晴
【出演】中川晃教 /市川ぼたん / いいむろなおき

去年この舞台を観た頃はとても忙しく、体調も悪くてなかなか感想が書けませんでした。
なのですみません、今更な感想記です。
それにしても、「桜の森の満開の下」って、題名が長すぎますよね! 普段は面倒で「桜のなんちゃら」とか言ってますが(笑)以下の文では適当に略します。

で、この舞台は珍しく能楽堂で行われましたが、渋谷のセルリアンタワーにも能楽堂があったとは知りませんでした。
能楽堂の中って、何故か空気が清浄に澄んでいるように感じられるし、茶室や禅寺のように静かで気持ちが良いですね。
能楽堂といえば、ちょうど3月に国立能楽堂で、「桜の森」にもチラリと関わる「桜川」が上演されます。
坂口安吾はこの「桜川」を例に取り、子供を探す母親が桜の下で狂い死にしたかのように書いてますが、実はそうじゃありません。母も子も死んでません。
私はせっかくですから、来月その「桜川」も観に行ってこようと思います。能や狂言を観るのは随分と久しぶり。
  
そして、まず最初に、私はどうしても、舞台に使われる「生首」の話からさせて頂きたいんですが(笑)
舞台の(あくまでも、舞台の)生首の話を嬉々として始めると、大抵の人から敬遠されますが、この舞台に生首の話題は欠かせません。

この舞台で見た「首」は、原作に相応しく、その意味で今まで私が観た舞台の中で、最も秀逸な「首」だと思いました!  
それは、能楽で使われる能面を風船のような丸い玉に被せただけなので、一見飾り物のようにも見えました。だから全然生々しくはありませんが、どことなくグロテスク。能面はあらゆる感情を表すといいますが、それだけに、この舞台のように「首」のみで見ると、生と死の境界が曖昧に感じられ、物と人の違いや、魂の有るか無しかの違いも判別しがたく思えます。そこがこの作品にぴったりだと思います

能面首を使った、いいむろなおきさんのパントマイムは見ごたえがありました。
翁の首と、それを片手に持ったいいむろさんの戯れるような動きを見ていると、初めは女の首遊びと同じ事かと思っていたのが、だんだんと翁が生きているような気がしてきました。翁が生きているようにも死んでいるようにも、どちらにもとれます。
このシーンは途中でクスリと笑える滑稽な動きもあって面白く、物語全体に漂う閉塞感や緊張感を一時的にふっと抜いてくれました。

市川ぼたんさんは、美しさに説得力がありました。
女は「物」に魔術をかけます。着物と紐を組み合わせ、美を作り上げます。個として意味を持たない物でも、女の手によると完成された美が生まれます。
市川さんはお顔も美しい方ですが、着物の着こなし方から立ち居振る舞い、首の傾げ方も手の先や足の踵やつま先の下ろし方なども、何から何まで美しくて、年月をかけて完成された日本の伝統美を感じました。これは一朝一夕に、簡単に真似できるものじゃないですよね。 都の女ならではの、雅(みやび)な美しさと色気に目が奪われます。お衣装も素敵でお似合いでした!
朗読だけならグロテスクと思う「首遊び」の場面も、市川さんと能面ですから、無邪気な姿が一層に怖くて美しいです。
その時、命を失った「首」は、女の妖しい遊び(空想)の中だけの「魂の宿る物」となります。死んで腐りながら、無理やり生かされています。市川さんが台詞を言わないせいか、不思議な冷たさや静けさが増してぞっとしました。

あっきー(中川晃教さん)は、狂言師の話し方を意識したのか、地声を低くこもらせての不思議な喋り口調 が印象的でした。例えるなら、フルートが尺八の音を意識して邦楽を吹いているような感じ。クライマックスの号泣(というより、慟哭?)のシーンでは、辺りの空気がピーンと張り詰めたようで凄かったです。(喉に負担がかかるんじゃないかと、ちょっと心配になったけど)
私はあっきーの和服姿が特に好きなので、それが見られたのが嬉しかったです。今回の衣装もすごく似合っていて、山賊というよりは都の男のように見えましたが、とてもカッコいい 私的に「あっきービジュアル・ベスト5」に入るかも。

あっきーが演じる「桜の森」の男(山賊)は、生きた人間をまるで「物」のように、無感動に簡単に扱います。
女が殺せと言えば心痛むことなく(少しはためらうけど)元の女房達でも殺し、金品や女のために「大根を斬るのと同じように」人の首を切ります。
罪悪感はもちろん、何も感じていません。むしろ退屈しています。首遊びをする女にも、「首だから」おぞましいとか、怖ろしいとかも思いません。
男には、人間と物の区別とか、他人の心とか、個々の価値が分からないのかもしれません。女房が7人いても、最初から独りだったんですよね。他人は物と大差ないから。
男はその孤独に気付いていません。
私は「こんな男嫌だ!私には絶対無理!」という役を演じる時の、あっきーが好き(爆) ってか、そう思う役が多い

ところで、女は本当に鬼だったのでしょうか?
舞台の予習で初めて小説を読んだ時は、「ああ、女は鬼だったのか」と、素直に納得しましたが、この舞台では市川ぼたんさんが美しいままなので、「鬼に見えたのは、男の幻覚だったんじゃないか?」という気もします。
もしかして、女は亭主を目の前で惨殺され、その首が「物」になってしまった瞬間から、心のどこかが壊れてしまったのかもしれません。しかも、亭主を殺した男に惚れられて、その男がいないと生き延びられない・・・なんて、まともな神経じゃやっていけませんよね  そのせいで狂ってしまい、生と死を弄(もてあそ)ぶ「生首遊び依存症」 になったんだったりしてね?
孤独といえば、この女の孤独も相当なもので、下働きの醜い女も山賊も、まともな話相手にはならないし、自分を慰めてくれるのは「首遊び」の妄想の世界だけ。
うわ~、この女が美人で我がままそうだから強くみえるけど、本当は随分と可愛そうで、孤独な悲しい女じゃないですか (私は基本的にフェミニスト) その自覚が全くなさそうなので鬼っぽいですけど、もし人間ならば、ここまで絶望的だと、私なら死んでほっとするかもしれません。 そう思うせいかどうなのか、血みどろの世界なのに観劇後には不思議と心安らかな気持ちがしたんですよね。開演前に感じた清浄な空気が、終わりに戻ってきた感じです。
能は「無から始まり、無に終わる」と聞いたことがありますが、その「無」は虚無の無ではなく、仏教でいう「空」なんでしょうか?・・・なんて、よく解らないままに適当な事を書いてますけど  「桜の森の満開の下」を能楽堂で観られて、本当に良かったです。

さて!
「桜の森」にハマって、ここまでしつこく書いてしまった原因は、何といってもあっきーがこの劇に参加したせい(笑)
「綺譚 桜の森の満開の下」は、春にバージョンアップして再演されます。
(別に回し者じゃありませんが、成り行きで宣伝)

  
  
綺譚『桜の森の満開の下』

藤間勘十郎の構成・演出で、日本の文学に日本の古典芸能の要素を取り入れエンタテインメントして立体的に作劇していく企画シリーズ第一弾!
2014年、セルリアンタワーの能楽堂で初演、好評を博した本作が2015年”劇場版”としてバージョンアップ!
【原作】坂口安吾
【構成・演出・音楽】藤間勘十郎
【出演】中川晃教 市川ぼたん いいむろなおき 山本一慶 花園直道
【みどころ】
藤間勘十郎の文芸シリーズ其の壱の本作は、坂口安吾の代表的な短編作品「桜の森の満開の下」ー血みどろの世界でありながら、独特の美学や宗教観があり、不思議な透明感の漂う傑作に挑みます!

【日時】2015年4月25日(土)開場14:30 開演 15:00
【会場】芸術文化センター 阪急 中ホール 
発売日:一般 2015年1月17日(土) 

【日時】2015年5月16日(土) 開演 16:00  
【会場】京都芸術劇場 春秋座
発売日:一般 2015年2月18日(水) 

【日時】2015年5月19日(火)~24日(日)
【会場】あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術総合センター)
発売日:一般 2015年3月1日(日)

* * * 

東京公演がなんと9回も!! 山本一慶さんと花園直道さんが加わり、お二人のファンがいらっしゃるにしても、なんだか心配
私は東京を数回観るのが精一杯と思ってましたが、原作を読み込んでいるうちに、ついに京都のチケットを買い足してしまいました。
春の京都で、和装姿のあっきーが花道を歩くところをぜひ見たいです(笑)
世のあっきーファンは次々と公開されるスケジュールに着いていくのが大変ですが、今年の前半、私はこの「桜の森」再演を一押しします。
原作が奥深くて素晴らしいし、演出に信頼できるのは初演を観てわかりました。そのうえ出演者が(新しいお二人を含めて)魅力的ですよね!
大いに期待しています

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「紳士の恋」

2013年08月30日 02時28分50秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2013/08/28 @シアター2+1アトリエ・西荻窪
【原作】「ドン・ジュアン」モリエール作
【作・演出】伊藤イサム
【出演】俵 一/伊藤イサム/三浦和枝/宮ちあき/加藤友海/なるせこお/本島孝美/いさらい香奈子

「いつも
このニシオギの小さな空間で
劇場とも呼べない小さな空間で
お客様と夢を見たいのだ」
(伊藤イサム)


そう。
この小さな空間は、小劇場と呼ぶにももっとずっと小さくて、満席でも50人ほどしか入らなそうな、「芝居小屋」と呼びたくなるような空間です。
劇を観るからには劇場ですけど、「お芝居を観てきた」と、いつもしみじみ思うから。

その小さな空間、シアター2+1アトリエを訪れたのはちょうど二年ぶりです。一昨年はチェーホフ作の「かもめ」を原作にした「向日葵」という劇でした。
二年前は渡辺えりさんの「ゲゲゲのげ」を観た直後で、今年は「あかい壁の家」の直後。
なので、また同じ様に思ったのは、「私にとって難解な作品とは、ストーリー解釈とか、言葉の難しさではないのだな」という事でした。

登場人物が作者を代弁してことさらに何かを訴えたり、主張したり、気持ちを伝えることもなく、ただ誰かの人生を手渡すように見せてそのまま終わるという、こういった作品は、感想を書くのも難しいです。
難しい物語ではないのに、難しい。

これね、一人で見に行きましたが、こういう作品こそ、いつも(というか、時々?)一緒に舞台を観てくれる友達の感想を聞いてみたいわ。
「かもめ」と同様に、観終わったあとで、「で?」とか言いたくなる話だもの。
何も感じず想いもせず、というわけじゃないけれど、もやもやして形にならないこの気持ちを共有してもらいたかったりしてね(笑)

この物語の主人公、いさらい香奈子さんが演じたドノウエ ジュウアン(なんと、男役!)は、女ったらしで、恋愛を一時のゲームのようにしか思わない、実に不誠実な男です。
結婚なんて言葉も、そのゲームの道具にしかすぎません。
一人の女性を真剣に一生愛するなんて、そんな人生なんて詰まらなくて馬鹿げていると思っているような男。
確かに、こういったハンターにとっては、恋なんて成就するまでが面白くて、その先は詰まらないのでしょうね。
だけど、この男は、女性に対してだけじゃなくて、誰に対しても口先うまく人を丸め込むのがお得意で、言葉と本当に思っていることが裏腹の不誠実な男です。
そして神をも恐れぬ男は、最後には天罰が降りたかのように雷(いかずち)に打たれて死んでしまいます。
だからといってこの結末は、人に改心を説くような、そういったラストじゃないんですよねぇ・・・

やっぱ、改心できたら良かったよね? でもそうそうできないし、いつかそのうち出来ればいいけどね。
なんて思っているうちに、人生なんて意外な時点であっという間に終わっちゃうんだよね。

そんな結末。

この男は、幸せそうじゃなかった。
人とのかかわり方は、全て退屈しのぎに見えた。
不誠実で、ろくでなしで、生きる喜びとか充実感なんて、まるで無かったに違いない。

でも・・・

でも、まんざら詰まらない人生でもなかったのだろうな。
これが悪い人生だなんて、私に言う資格があるのかな?

なんて、いまだ消化できず、それだけに後をひく面白さがありました。

それにしても、いさらい香奈子さんが男役!
しかも、女ったらしの男!
女が演じる女の敵というのは面白かったです。
それから、脚本を書いて演出した伊藤イサムさん・・・この方は前に「オセロ」の役を演じた方ですよね?(と、誰に聞く)
この役者さん、好きだな~。
オセロもそうだけど、今回のチンピラといい、主人公の父親役といい、どの役柄を演じても上手いし、なんとも言えない魅力がありました。

こういう役者さんたちが、毎日どこかで幕を開けている。 
名も知れぬ小さな空間で、名も知れぬ観客らと共に夢を見ている。

このささやかなひと時は、本当に、ささやかで、ささやかすぎて、なんだか素敵だ。

このニシオギの、劇場とも言えない小さな空間で、共に夢が見られて良かったです。

またいつか。

コメント (2)
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「エリック~オペラ座の怪人~」1/27千秋楽

2013年02月02日 01時54分20秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2013/01/27 @シアター・ジョウ
人形劇俳優たいらじょうの世界 初演ウィーク千秋楽
「エリック~オペラ座の怪人~」

【原作】ガストン・ルルー
【脚本・演出・美術・人形操演】たいらじょう
【主な登場人物】 エリック・ガルニエ(オペラ座の怪人)/クリスティーヌ・ダーエ/ラウル・ド・シャニー子爵/ダロガ(ペルシャ人)
ドビエンヌ(オペラ座の旧支配人)/ポリニー(オペラ座の旧支配人)/アルマン・モンシャルマン(オペラ座の新支配人)/カルロッタ(オペラ座のスター歌手)/マダム・ジリー(オペラ座の客席案内人)/ソレリ(プリマバレリーナ)/ジャンム(バレリーナ)/メグ・ジリー(バレリーナ)
ヴァレリウス(クリスティーヌの義母)
見世物小屋の人々…客引き係、占い師のディルダ、奇術師のアンドレ、ゴム男のダフル、音楽家のジェームス、腹話術師のリリアン
ペルシャの王様、召使い、街の女たち、仮面舞踏会に来た女性客  ほか


「私は幼いときから、仮面をつけて生きてきた・・・。」

この台詞には、何がしかドキッとさせられるものがあります。

これは生まれながらに容姿に強い・・・と言うにはあまりにも強烈なコンプレックスを抱き、それゆえに深い悲しみや葛藤、孤独、そして狂気にまで至る人間の、「人生の告白」ともいえる物語でした。

この前にも書きましたが、オペラ座の怪人は子供の頃からオペラ座に住み着いていたわけではなかったんですね。
エリックは生まれながらに骸骨のような醜い顔で生まれ、素顔を他人に見せられぬ、どこにも居場所のない子供でした。
この子は歌が上手で、歌を歌っている時だけが唯一心が慰められ、寂しさや悲しみを忘れられる時間でした。

ああ、仮面をつけているのはなんて息苦しい。
自分も素顔でいられたら、どれほどに楽なことか。
それに、自分にも居場所があれば・・・。

そして、エリックは見世物小屋に行き、自分も仲間に入れてほしいと頼みます。



エリックの寂しい姿には、思わず胸が痛みます。
抱きしめたい。

でも、エリック君、歌が上手なだけではなくて、実はとても賢くて器用な子供です。
もし彼の容姿が人並みであったなら、彼の人生は人並み以上に輝かしいものであったに違いありません。
けれども、その賢さが仇(あだ)となってしまいます。
見世物小屋の先輩達、奇術師や腹話術師たちから教わった芸をすぐに覚え、彼ら以上に上達してしまうことから、そのうちに疎まれてしまいます。
見世物小屋でも居場所がなくなったエリックは、建築学を極めます。
ペルシャの王様からお城の建築を頼まれたエリックは、隠し通路や秘密の小部屋を備えた立派なお城を設計したものの、そこでも王の内情を知りすぎたばかりに疎まれ、命までもを奪われそうになり、居場所を追われてしまいます。
そして、パリに辿り着いたのでした。

このエリックの幼少時代の話は原作(小説)の終盤のごくわずか、数ページにのみ語られている、とても短いエピソードなのですが、そこを平(たいら)さんは舞台の前半で丁寧に見せてくれました。
それはやはり、たいらさん自身が小学生の頃、はじめて「オペラ座の怪人」を観た時に、「キャラクターの生い立ちに多くの疑問と興味を抱いた」からで、その生い立ちを描かずにはいられなかったからなんでしょうね。
私も、前々からエリックがどのように大人になったのか興味があったので、この劇を観て改めて彼の孤独、寂しさが深く伝わったような気がしました。

そして、パリに辿り着いてからが、有名なパリの「オペラ座の怪人」の話となり、エリックは運命の女性、クリスティーヌと出会うわけです。
そのお話はミュージカルの「オペラ座の怪人」や「ファントム」とだいたい同じですが、父親であるキャリエールは登場しません。
「ファントム」ではエリックとキャリエールの関係が物語の謎でもあり、重要な鍵となっていて、それがまたラストの救いでもありましたが、どうやら原作にはないみたいなんですよね。
今、原作を買って少しずつページをめくっているんですが、どうもエリックの父親は原作に登場する様子がありません。
それと、あと、もちろんですが、宝塚版のように、キラキラの従者が十数人もいてエリックのそばにはべっていたりもしません(笑)
なので、エリックの人生はもっとずっと孤独で、たったひとりで密やかに幕を閉じることになります。

その顛末は、5月に再演するそうなので、ご興味のある方には是非とも実際に観てもらいたい!
あまり感想を書きすぎてネタバレしたくないのですが、ほぼ原作に近いのだそうです。

で、原作に近いといっても、た
いらさんはこの物語で二つの場面を彼独自の脚色として付け加えていました。
私はその場面がとても好きなので、ネタバレしたくないと言いつつ、やっぱり我慢できずにその一つを書いてしまいますので(笑)、ネタバレが嫌な方は、以下にご注意を。


その一つとは、クリスティーヌの義母・ウ゜ァレリウスの台詞。
エリックを「音楽の天使」と信じていたクリスティーヌは、彼にラウルのことを話してしまい、ラウルに激しく嫉妬したエリックは言葉を失ってしまいます。
その時、どうして天使が黙ってしまったのかと、不安に思うクリスティーヌに、ヴァレリウスが言うのですね、
「天使さんだって、きっと焼きもちを焼くのよ。天使さんの心を惑わしては可哀想だわ」と。
天使にも心はあるのだと。

これは、裏を返せば、骸骨のような醜い怪物にも心はある。心あるものを惑わしては可哀想、とも私には聞こえます。
なんだか、そのやさしさには、不思議とこの私自身も慰められているような気がするのはどういうことか・・・。

どうもね、天使はともかくとして、どういうわけだか、私は酷く醜い者、化け物、異形の者、人外のものなどには、つい心を寄せてしまい、同化したがる癖があるんですよね。
なので、このヴァレリウスのシーンにはウルウルとしました。
そして、その義母の言葉を素直に受け止めたクリスティーヌは、最後まで、彼にも心があることを忘れない、やさしい女性でした。
それは、彼の辛い人生の、唯一の
救いだったと思います。

って、ああ、なんか書き足りない(笑)
でも、私って、今年は「気楽に、さらっと書く」とか言ってませんでしたっけ?(笑)
あ、ちょっと違うか、「気軽に、短めに書く」って言ったんだった。

う~ん、こんな舞台を観ておいて、そんなのって難しい

だけど、これから先、この「エリック」が全国各地を周ることを思うと、なるべくなら沢山の人にこの舞台から受ける「初めての感動」を体験してもらいたいとも思うので、これ以上はネタバレせずに、続きは再演までに残しておくことにいたします。
なにせ、この初演ウィークは、たいらさんの持つ小さな劇場「シアタージョー」で、たったの五日間でしたから、初演に立ち会った観客は延べにしても200人は至らなかったと思うんですよね。
キャパが小さくて、一公演で35人位しから観られませんから。
だから、これからなんだと思います。

人形劇俳優 たいらじょうの「エリック」は、この先、もっと練り上げられて、もっと感動的に、もっと沢山の人々に愛されるはずです。

と、勝手に断言しちゃう(笑)

なので、感想を書く機会もまた何度かあるでしょうから、書くことを残しておかなくちゃね(笑)

まあだけど、そのシアタージョーは狭いだけに、その空間で観ると凄い迫力! そして濃密でした!
なんといっても、人形の表情が胸に迫ります。

もちろん、人形ですから表情は動きません。
この人形劇は、観客がそれぞれの心により表情をつけて完成されます。
エリックの顔を見るということは、エリックの心を見て、たいらじょうさんの心を見、、そして、自分自身の心を見つめることなのだと思います。

そんなわけで・・・

終演後のお人形撮影会で撮った、↓この一枚の写真、大人のエリック君なんですが。



この、どアップ。会場はもっと明るかったのですが、わざと明るさを絞って写したら、かなり素敵で、たいらさんにお見せしたら、たいらさんは「ああ、イケメン!!」と喜んでくださいました。
骸骨のような醜い顔・・・ではなくて、イケメン・・・ええ、ほんとうにねっ!!
私は、このエリック君が、なんだか嬉しそうに微笑んで見えるのですが、いかがでしょう?
舞台中は苦しそうだったり、悲しそうだったエリック君ですが、この時ばかりは表情が明るく見えました。
きっと、この時、エリック君も、たいらじょうさんも、そして私も、みんなが嬉しかったからなんでしょうね。


そうそう、話が長くなったついでの余談ですが。
私、この日は初めて、初対面の方から「おおるりさんですか?」と聞かれました!
実はいつもは別のニックネームで呼ばれてますので、なんかすごく照れたりして(笑)
でもって、「たしか、あっきーさんがお好きなんですよね?」なんて、改めてそう言われてみると、さらに気恥ずかしい~!
シアター・ジョーに来て、「次はモーツァルトで会いましょう!」なんて言葉を言う事になるとは思いもしませんでしたが、これもまた、とても嬉しかったです!

コメント (2)
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たいらじょう「エリック~オペラ座の怪人~」

2013年01月26日 02時12分12秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

たいらじょうさんの「エリック~オペラ座の怪人~」について熱く語りたい!!

だけど、ごめんなさい!
今日は久しぶりに休暇がとれたので、午前中はゲキシネの「髑髏城の七人」を観に行って、午後は友達と巣鴨の東京染井温泉というところでのんびりし、その後は薩摩地鶏で一杯という、フルコース。
ちなみに、その染井温泉の大画面テレビでフレフレまで見ちゃったしで、一日遊んじゃって、「エリック」の感想がまともに書けそうにありません

で、この「エリック」は日曜日にもう一度観ますので、作品の感想はその後にさせていただくとして、25日はアフタートークがありましたので、そのことなど、ちょっとだけ。

エリックというのは、オペラ座の怪人の名前です。
この主人公は骸骨のような薄い皮膚の、醜い容姿を持って生まれました。
たいらさんは、この魅惑的で謎めいたエリックのビジュアルを表現するのに、人形劇ほど適しているものはないと思ったそうです。

この舞台も例によって登場人物は多数出てきますが、全てたいらさんが一人で演じています。
今回、人形はエリックのみです。
エリックの子供バージョンと、大人バージョンの二体。

下にお写真を載せますが、ですから「骸骨のような」という顔ですから、ちょっとびっくりするかもしれませんが、見ようによっては美しく、あるいは悲しく見えるかもしれません。



もう一枚は、少年のエリック、大人のエリック、たいらじょうさんのスリーショット。



この日はたいらさんの小さな劇場、「シアター・ジョウ」で上演されたので、お人形が大きく感じられました。
舞台の間口が低いため、背の高い大人のエリックは頭がぶつかりそうになります。
アフタートークショーでは頭をぶつけてしまい、彼は「イテッ!」と言ってました(笑)
この大きさにしたのは、いずれ全国のもっと大きな舞台で演じるためだそうで、その時はスモークを焚いて、ライトももっとドラマティックに照らす演出になる予定だとか。楽しみ~!

「オペラ座の怪人」は、たいらさんが小学生の頃から魅了されていたそうです。
私は原作を読んだことがないので知りませんでしたが、あの劇団四季や、宝塚の「ファントム」などは、かなり脚色されたものだったんですね。
たいらさんのこれも、もちろん、たいらさんが脚本を書いているので独自の演出、脚色がなされていますが、ここではエリックの少年時代があります。
オペラ座の怪人は、子供の頃からオペラ座に住み着いていたわけではなかったんですね。

骸骨のように醜く生まれたエリックは、小さい頃から他人に素顔を見せないように仮面をつけさせられます。
その仮面は磁石によって取り外しが自在です。
少年エリックは足まであり、こういった人形では珍しい、ひき足の動きも可能で、たいらさんが動かすと、まるで本当に生きているようです。
というか、生きていました。
また、大人のエリック、つまり、オペラ座の怪人は、マントが重要。
あの黒いマントは、ぜひカッコよく広がってほしいところ。
ですが、表地を黒、裏地を赤にすると、生地が重くなってしまうので、一枚仕立てで半分は黒、半分を赤にするという工夫がしてありましたが、それがなかなか素敵でした。

たいらさんは、オペラ座の怪人は美しくなければならない・・・じゃなくて、ハンサム・・・・・あれ?男前?? ちょっと正確な言葉は忘れましたが、とにかく魅力的でなければならないと思ったそうで、人形制作の方にうんざりされるほどに何度もダメ出しをし、試行錯誤してもらったおかげでこのようなエリックが出来上がったのだとか。
私はこのエリックの瞳に釘付けになりました。

さて、アフタートークでは、ファンからの質問に答えてくれるコーナーがありました。
以下、メモから。

エリックは少年の頃から歌が好きで、大人になってからは「音楽の天使さん」と言われる美声の持ち主です。
登場人物の数だけ、多彩な声を出されるたいらさんですが、エリックの声は去年の「オズの魔法使いでは」ブリキのきこりと似ています。 
これは、腹筋を使い、お腹をつかわなければ出せない声だそうです。
たいらさんの普段のソフトな話し声とはまた味わいの違う、実に二枚目の声でした。

人形を動かしながら全て一人で演じるには大変体力がいるとのことで、普段から体作りを心がけているそうで、二十代の前半は見た目のために体を鍛えている感じだったのが、三十を過ぎたこの頃は舞台をやり遂げるために体作りをしているとか。
特に、寝る前のストレッチは大切なんですって。私も見習わなくちゃ!

これから手がけてみたい作品は、「銀河鉄道の夜」「ブレーメンの音楽隊」「幸福の王子」など。
特に「ピーターパン」を上演するのは夢で、20周年頃にはぜひ!と思っていたけど、これは大掛かりになりそうなので、25周年にはなんとかやりたいそうです。
あと、オリジナルの脚本、構想もいっぱいあるのだとか。それも楽しみですね~!

なんて、質問の全部は覚えていないので書き切れませんが、この日は全ての質問に答えてくださいました。
私が質問したのは、
「エリックは最後に幸せだったと思いますか?」というもので、
これは、前に見たミュージカル「ファントム」とはラストか゜大きく違っていたからです。

「ファントム」では、最後に銃で撃たれるエリックが、クリスティーヌに抱きとめられて死んでいきます。
けれども、原作ではそうでなかったらしく、更に、たいらさん独自の部分が付け足されていました。
その詳しい内容はネタバレになるので次の機会にしたいと思いますが、私がミュージカル「ファントム」で、「このラストはある意味、ハッピーエンドではないか?」と思った終わり方とは違うんですよね。
それで、上記の質問をしたのですが、たいらさんの答えは、とても頷けるものでした。

その答えとは・・・・
少年時代のエリックは歌が好きで、歌を歌っている時だけが、唯一、彼の癒される時間であり、心楽しい時間でした。
音楽がとても好きだったエリック。
人生に好きなものがあったということ、それを思えばエリックは幸せだったかもしれません。
でも、母親に愛された記憶がなく、自分は憎まれていたとずっと思っていたのは、やはり幸せではなかったでしょう。
人生の長い間を、愛された実感がなかったのは、幸せではないでしょうね。
・・・ということでした。

人が幸福を感じるためには、本当に愛されたかどうかより、「愛されている実感」ではないか?
私もそんなふうに思ったりします。
この質問をして、そして、ちゃんと応えてくださって良かったです。

この舞台、まだ発展途上だそうで、日々変化していくそうですが、夜の7時開演で、休憩15分を挟んで終演は9時45分くらい。
アフタートークショーと写真撮影が終わったのは、なんと!11時ごろでした。

この舞台は、お薦めです!!
でも、小さなシアター・ジョウでは、もう満席かな?
当日券を狙う方は連絡をしていったほうがよさそうです。

公演は1月27日(日)まで。詳細はこちら→http://tairajo.com/erick.html

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人形劇俳優たいらじょうの世界「オズの魔法使い」

2012年12月09日 21時59分33秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

20012/12/08 新国立劇場中ホール
人形劇ミュージカル「オズの魔法使い」
【原作】ライマン・フランク・バウム
【脚本・演出・作詞・作曲・美術】たいらじょう
【出演】たいらじょう

たいらさんの公演は、まず、相変わらず場内アナウンスが良いんですよね~。
平さんご本人の声や話し方もさることながら、その内容も。
なんていうか、優しさと愛情が感じられるんですよね。
特に今日の演目は子供向けですから、小さなお子さんがたくさん見に来ていました。
その子ども達へは、「おともだちのみなさんへ」と、演出で場内が暗くなっても恐がらないように呼びかけたり、もし子供が泣いてしまった場合の母様へのお願いなど、優しく細やかな心配りがありました。
たいらさんは、本当にお子さんが好きなんですね~! 
ブログなんか拝見していると、赤ちゃん向けのイベントでは「かわいすぎる~」を連発して、メロメロって感じです。

なにせ、舞台が始まったら、その子ども達の反応が、やっぱ可愛い~!
この物語は面白いし、何よりも、お人形さんたちが活き活きとしていて、とっても面白いし、楽しいものね。
私も子供のような気持ちになって楽しみました。

で、ふと思ったのだけど。
こういうの、…って、こういうふうに、いくつかのお人形さんたちを動かして、それぞれの台詞を言ったりするのって、考えてみれば、自分が子供の頃にやっていた「お人形さん遊び」と同じなんですよね。
お人形さん遊びが好きな女の子なら、きっとみんなやったはず。
もちろん、見せるための舞台に比べたら、技術だとか、ストーリーとか、もう全然別の次元であるにせよ、根本的には同じかも。

私が幼稚園くらいの頃、お隣の家はとても裕福だったので、その家の姉弟はとてもたくさんのお人形さんを持っていました。
リカちゃん、タミーちゃん、バービーちゃん、わたるくん……それに、ジー・アイ・ジョーの兵隊さん人形まで…当時、人気のあったお人形さんがオールキャストで揃っていて、もちろんお洋服や道具もたくさんあり、お部屋は広くて、おままごと等の玩具やブロック、部屋の座布団なども使いたい放題……という、今思えば夢のような玩具屋敷でありました。
そのかわり、最後に広げた玩具を片付けるのが大変でしたけど(笑)
そこに私は入り浸り、三人で毎日のように、その何体かのお人形さんたちを動かして、その時々に思いついた即興のお話をつくり、喋らせていたわけですが、舞台を見ていて、その時のことをふと思い出しました。

たとえば、登場人物が何人もいる。
だから、その人数分に声音を変えて、話し方も変えますが、一つのお人形さんを動かす時には、別のお人形さんを同時に動かすことはできません。

つまり、この舞台に当てはめるならば、ドロシーを動かしている時は、かかしやブリキのきこりの二人はスタンドに立てられたままです。
でも、ドロシーの場所にいながら、動きを止めたかかしの台詞を言ったり、そのすぐ後でライオンの声を出したり……だけど、ちゃんとドロシーも案山子もライオンも、みんな動いて同時に喋っているんですよね。
実際の目にはそう見えなくても、心の目では、それぞれの人形が生きて、ちゃんとそれぞれに喋っているんです。

そういった、子供時代の空想の、夢の世界を、そのままに……いえ、それよりもずっと、もっと、豊かに、楽しく、面白く、生きている世界……そんな舞台を見せてもらい、私は童心に帰りました。

それに、「オズの魔法使い」には、たくさんのメッセージがありますが、推敲を重ねられた脚本に、平さんらしさも感じられました。

ドロシーはライオン達と別れた後は、きっともう二度と会えません。
それでも大切な人が、いつも心の中にいるということ。
また、離れていても、きっと自分のことをそう想い、思い出してくれる人がいるということ。

今、まさに、この時にでも、互いにそう信じ合えるのならば……
過ぎた時の「思い出」は、決して過去のものではないのでしょう。

「一人じゃない」って、たぶん、そういうことなんですね。


それにしても……

ああっ! しまった! よりによって、こんな日に携帯を忘れました!
私のバカ、バカぁ~!

…と、残念だったのは、この終演後に、「舞台上のお人形さん達を自由に撮影しても良い時間」があったんです!
せっかくだったのに、こんな日に限って撮影する道具がないなんて、私って、ほんと!駄目ね~
次に機会があったら、ぜひ!

【追記】
たいらじょうさんのブログに、お人形さんたちのお写真がアップされました!
いただきま~す







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「リチャード三世」

2012年10月09日 01時17分54秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

【作】W.シェイクスピア 
【翻訳】小田島雄志
【演出】鵜山仁
【出演】岡本健一/中嶋朋子/浦井健治 ほか


眼鏡の浦井くんって、ちょー可愛い~なぁ~っ

いやいや、演劇(あくまでも、舞台上の)生首愛好家(爆)としてはですね~、どーして前作と同じ、灰色の生首にしなかったのか疑問だわ。
前作の流れに沿って、ここはリアルな生首じゃなくても良かったのに
ってか、「ヘンリー六世」の時の、あのグレーの生首は個性的で私は結構気に入ってたし、今回あれをオペラグラスで拡大して見るのが楽しみだったのに、ざんね~ん!

という、マニアックな(悪趣味な?)話はともかくとして

信頼には信頼が、愛には愛が返ってくる。
それが「必ず」というほどには、世の中のすべてが甘く出来ているわけじゃないけれど、
裏切りには裏切りが、憎悪には憎悪が必ず返ってくるものなのね。

思い出したわ、リチャード三世を観ると、私は泣いてしまう、ということを。
前に別の舞台で観たときは、彼が死ぬシーンで泣いたっけ。
今度は、戦場の寝床に次々と亡霊が現れるシーンで。
どうしたってあれは泣ける。
まわりの人が泣いてなくても、私は泣きたい。

リチャード三世に殺された亡霊たちが、次々と現れては呪いの言葉を浴びせます。
「絶望して、死ね」

入れ替わり立ち代り、恨みの言葉、呪いの言葉をこれでもかと聞かされるほどにリチャード三世は確かに悪い奴だった。
だけど、私がこの人から何をされたわけじゃないもの。
別に悪い男に惹かれるってわけじゃないけれど、いや、絶対にこんな男は嫌だけど、愛も友情も信頼も安らぎも・・・何も持てなかったこの救いのない人生に泣ける。
醜く歪んだ姿で生まれた運命と、それゆえに心まで歪んでしまった彼自身に、その逃れようのない有様に泣ける。
そして、人間の欲望と、その果ての絶望にも。

その亡霊達が現れるシーンは、舞台の中央が回り、くるりと裏になると、ヘンリー七世が寝ています。
そのヘンリー七世に、亡霊は勝利の祝福を祈ります。
まるで、光と闇ほどにも違う二人です。
周囲に愛され忠誠を尽くされる爽やかなヘンリー七世と、かたや憎まれ恨まれ呪われた醜い姿のリチャード三世。
これも人だ。人の人生なのだ。

ところで、前にも思ったけど、この劇での女性たちの恨み言が凄い!
マーガレット役の中嶋朋子さん、ものすごく存在感あります!
マーガレットは憎悪と悲嘆に狂っているようでいて、その呪いの言葉はとてつもなく知的で詩的です。
そのマーガレット、エリザベス、ヨーク公爵夫人(リチャードの母)の三人の呪い合戦は見応えありました。

それにしても、言葉の力は侮れないですね。
リチャードは舌先三寸で次々と人を謀略に陥れていくわけですが、女性を口説くにもその力を発揮します。
夫と子供の仇でこの世で一番憎いと思う男をですよ、それも美形どころか「ヒキガエルのような」と言われる醜い男に、たとえ一時の迷いでも揺れてしまう女心の複雑さ。というか、単純さ。
これを思うと、世の男性たちはリチャードを見習えば、どんな美女でも落とせるかも?
つまり、「なんてあなたは美しい。あなたほど美しい人はいない。あなたこそが私の心を惑わす。あなたは私の救いであり光だ。私はあなたを幸せにする」・・・と、ですねぇ、延々と繰り返して言えば良いのですね。呪文のように延々と。
たとえ最初は疎まれていても、とにかく「美しい」と褒めあげて、「欲しい」という気持ちを切々と、めげずに繰り返せば、そのうち美女はなびくらしい。

う~ん、ほんとうだろうか。
真心もなく、ただの口先のみで恋の形勢大逆転はありえるのか??


あ、それが感想の最後になると思うと、いくらなんでも情けないので(笑)
最後に、
リチャード三世役の岡本健一さんは良かったです!
「ヘンリー六世」の、あの長丁場のあとに、「このキャストで続きのリチャード三世をぜひ観たい!」と多くの人が思ったはず。
なので、また岡本さんで観られて満足です。
カーテンコールで、背筋を伸ばして笑顔の岡本さんは劇中の彼とギャップがあり、どちらも魅力的でした。

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「ふくすけ」

2012年08月26日 01時30分28秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2012/8/15マチネ
【会場】シアターコクーン
【作・演出・出演】松尾スズキ
【出演】古田新太/阿部サダヲ/多部未華子/皆川猿時/小松和重/江本純子/宍戸美和公/村杉蝉之介/平岩紙/少路勇介/オクイシュージ/大竹しのぶ/ 他

吃音(どもり)の男、妊婦の薬物使用で奇形に生まれた子供、ホテトル嬢、盲目の女にDV男のカップル、レズ、不発弾をコレクションにする風俗営業者、精神障害の女、新興宗教の狂信者たち・・・

エロスとタナトス、狂気と正気、異常と正常、愛と憎しみ・・・その境界線・・・いや、その真逆の変わり目のスイッチはどこにある??

でるわ、でるわ、放送禁止用語のオンパレード。
テレビでは決して見られない、舞台ならではの芝居。
舞台ならではの題材、脚本、演出、キャスティング。

これね~、お席が舞台から遠かったにも関わらず、オペラグラスを忘れたのは、もしかしたら良かったのかも??
毒々しい場面が満載、衝撃の展開の中で、どのシーンも役者さん達の細かい表情がよく見えなかったというのは、残念な一方、この時ばかりは、ある意味ほっとしたりして。
これがもし前の方の席だったりしたら、ずんずんとのめり込んでしまったりするのかな??
それはちょっと、今の私には面倒くさい。
遠目に眺めるに、ちょどよい舞台だった。

そう、私にとっては、あの登場人物たちの全てが遠い存在だ。
けれども、近くに寄れば、近い存在なのかも。

などと、わけのわからないことを言ってみる(笑)


多部未華子ちゃん、良かったな~!

古田さんや、阿部サダヲさん、大竹しのぶさんら、それぞれの狂気を演じるにふさわしい、強烈な個性を持った役者さん達の中にいて、多部未華子ちゃんのあの存在感の強さは見事だわ。

終わってみれば、「純愛だねっ」という、彼女の台詞がやけに心に残った。

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吉本百年物語8月公演「わらわし隊、大陸を行く」

2012年08月22日 02時15分27秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

吉本百年物語「わらわし隊、大陸を行く」
【会場】なんばグランド花月
【脚本】長川千佳子 【演出】佐藤幹夫
【出演】水野真紀/木村祐一/山内圭哉/松尾貴史
里見まさと/河野智宏/藤原光博/水野透/候偉(コウ イ)/尹俊(イン ジュン)/佐藤正宏/逢坂じゅん

8月といえば、たしか去年も一昨年も、やはり戦争を振り返るような作品を観ていました。
今年はこの「わらわし隊、大陸を行く」が観られて良かったです!

日本の戦争の話というと、私はつい第二次世界大戦のことだと思ってしまうのですが、これは昭和13年のことですから日中戦争なんですよね。
その日中戦争のさなか、大阪の吉本の芸人さんたち「わらわし隊」が、軍の慰問隊として危険な中国大陸に派遣されたというのは、当時、実際にあったお話だそうです。
あ、もちろん、脚色はしてあるでしょうけど。

この舞台の目玉は、何と言っても「きれいなお姉さん」の水野真紀さん。
そしてそして!
中国から来た、二人の京劇役者さん!
大阪のなんばで、まさかの本格的な京劇の舞が見られたなんて、京劇に興味ある私には本当にラッキーだった思います。

6月の「舶来上等、どうでっか?」では、ミュージカルの世界から中川晃教さんを、
そして、この8月には中国から京劇役者の候偉(コウ イ)さんと、尹俊(イン ジュン)さんを連れてきたのは、ナイスなチョイスだわ!
やるな~、吉本  さすが、エンターテイメントの西の覇者

特に京劇の女形イン・ジュン君は、ごく短期間で慣れない日本語の台詞を覚えたりと、お芝居のほうも頑張っていましたが、何よりも最後のほうで見せてくれた京劇の踊りが、まあ、たおやかで美しかったこと

そして、美しいといえば、やっぱり水野さん。
近くで見ると、お肌がつるつるで、ほんとうにお綺麗でした。
その美しい頬を、涙でぬらしながらの熱演に、私も涙が止まらなくなりました。
そうそう、そんな時ばかりは、吉本舞台の長~い暗転が、涙を拭くのに丁度良かったりして(笑)

その水野真紀さんと夫婦漫才を組んでいる、旦那様役の木村祐一さんや、バイオリンの弾き語り芸人の松尾高史さん、そのほかのキャストの皆さんも、時々とぼけた笑いを誘いながらも、しっかりとした演技を見せてくれました。
この舞台、どの方が吉本の芸人さんで、どの方が客演の役者さんなのか、実をいえば、私はその全員までには見分けがつかなかったんですけれど、(と言うより、ほとんど意識しないで観ていましたが)、つまりそれくらい演劇として自然に楽しみました。

この物語は「舶来上等」と同じく、吉本百年物語という大河物語の中のひとつのエピソードですから、これひとつだけをみれば、起承転結の起伏とか、ケリのつけ方などは、やや弱いかもしれません。
もちろん、小難しく掘り下げたり、客席にことさら何かを問いかけたりもしていません。
でも、それもまた、「こうして時代は流れて移りゆき、次へとバトンタッチしていくのだろう」と思えば、この次の物語が楽しみでもあり、先を観たくなる面白さがあると思います。
私がもし大阪に住んでいたら、たぶん毎月観に行ってしまうかも。
だって、ミュージカルだの、京劇だのって、何でもお笑いとコラボレーションしちゃうんですから、この先何が飛び出るかと思うとわくわくしたりして。

それにしてもね、この舞台で「笑うことは、生きること」という台詞がありましたが、あのように死と隣り合わせの戦地にいて、実際についさっき大切な人や戦友を失い涙したすぐあとにでも、兵隊さんたちは吉本の芸人さんたちの芸を喜んで、笑うんですよね。

泣くことも、笑うことも、悲しむことも、怒ることも、すべては生きているからこそ、できること。
でも、どうせならば、笑って過ごす時間が少しでも多くあれば良い。
たとえ悲しみの中でも、いや、悲しみの中だからこそ、笑顔がこんなにも心に染みる・・・。

そんな舞台を観させてもらい、今回大阪に来たのは中川晃教さんのライブのためだったので、そのついでだったとはいえ、ふたたびグランド花月を訪れたのは正解だったと思いました。

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「毛皮のマリー」人形劇俳優 たいらじょうの世界

2012年06月15日 22時23分18秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2012/06/13  新国立劇場 小ホール
【原作】寺山修司
【演出・美術・出演・人形操作】平常(たいらじょう)
【登場人物】毛皮のマリー〈花咲ける四十歳の男娼〉/欣也〈美少年〉/紋白〈美少女〉/下男/醜女のマリー/名もない水夫/美女の亡霊×6/快楽の滓〈肉体美の青年〉/鶏姦詩人1&2/ト書き

これは…ああ、そうか。
胡蝶の夢、ね。

たとえば、こうしてみたらどうかしら。
マリーの台詞の、「ウソ」を「幻(まぼろし)」に、「ホント」という言葉を「現実(うつつ)」に置き換えてみたら。
すると、こうなります。

『歴史はみんな幻、去ってゆくものは、みんな幻、あした来る鬼だけが、現実!』

「鬼」という言葉を、災い、憎しみや嫉妬のような「苦しいもの、醜いもの」と置き換えても良いかもしれません。

また、もうひとつの台詞も、「ウソ」を「幻」に変えて書き換えてみると、

『世界は何でできてるか考えたことある? 表面は大抵、みんな幻でできているのよ。』

マリーは表面に見えるものなどは、すべてがウソだと言います。
その「ウソ」を「嘘、偽り」と呼ぶよりは、幻や幻想、夢とすれば、私としては、とてもしっくりときます。
世界はすべてが幻、夢ではないか、と。

最初に書いた「胡蝶の夢」とは、紀元前の中国の宋の国の思想家、荘子の有名な説話ですが、「夢の中で蝶になって飛んでいたが、はたしてそれは夢だったのか。今の自分こそが蝶の夢の中なのではないか。」というお話です。
その中では、「夢が現実なのか、現実が夢なのか、私にはわからない」と言い、「人の姿と蝶の姿の、その形は違うけれど、私という自分には変わりなく、それは表面上の違いにすぎない。」とまあ、だいたいそんなことが書かれてあります。
つまり、「本質は変わらない」と、そういうことなんでしょうけどね、「夢と現実の比重が同じ」という感覚が私には面白いです。
その二つの境界がない、というか、それを区別するのが無意味であるというか。

この「毛皮のマリー」という舞台の始まりと終わりに、蝶がひらひらと飛ぶのを見ていると、どうもこの物語は蝶の夢なんじゃないか、という気がします。

う~ん。
それじゃあね、今回もまた思うのだけれど、マリーの言う、「世界で一番きれい」って何でしょう??
美も醜も、みんな幻想だとして。
つまり、一番きれいなものも幻想なわけで……。

それはきっと、マリーの思う、一番醜いものの、対極にあるもの
もしかすると、
何も知らない存在・・・かな。
表面上の美醜、男と女の違い、抗えない性の衝動も、妬みも憎しみ・・・そういった、マリーを苦しめた、あらゆる醜いもの、それは鬼。そして現実にあるもの。
その現実を何も知らないままの無垢な存在があるとしたら、それは、この世で一番きれいな幻想・・・とか??
幻だから、つまり、たぶんそれはウソであり、夢の存在なんだ・・・とか・・・・・

……う~ん。
まるで酔っ払いよね~。
いや、誰がって、私が(笑) 
今宵も酔ってますけど、ちょっとだけね。

だけど…

え~っと、
あのね、
それ、今わかんなくて、いいです、私。

って、いきなり投げ出すわけじゃないけれど(笑)、きっと、そんなすぐにわからないんですよ、こういう作品は。
というか、わかろうとしなくてもいいんです。
こうやって、この舞台を観る度にちびちびと書いていったら、そのうちに徐々に何かが掴めるかもしれないし、掴めないかもしれない。
それはひらひらと舞う、幻の蝶々を追いかけるようなものですから。
べつに捕まえて、標本にしたいわけじゃなし。
観た舞台、全部にいちいちと何がしかの結論が欲しいわけでもないので。

ところで、今さら言うのもなんですが、寺山修司さんのこの作品、これ自体は、私にとってはそれほど衝撃的でもないような気がします。
もともと、こういったマイノリティーの物語だとか、どこか壊れているような登場人物の、どこからが夢だか現実だかわからないようなお話というのは、わりと得意分野、というと御幣がありますけど、文学の読み手側として言うならば、自分には馴染み深い世界だと思うんですよね。
それに、R15指定のきわどいシーンも、特にドン引きしたりしないし。だって、大人だもん!(笑)

なので、私にとって、この舞台のどこが「衝撃の舞台」なのかというと、ひとえにそれは、たいらじょうさんという役者さんの存在、その演技につきると思います。
複数の人物を同時に演じ、人形とたいらじょうさん自身も瞬きするより早く切り替えられ、目まぐるしいとさえ言える台詞の応酬にも、観ていて決して混乱しません。
いえ、切り替えられるというより、複数の魂が行き来しながら同時に存在しています。
人形は分身であり、たいらじょうさんもまた複数の人物の分身であり、そのものなんですよね。
う~ん、これを言葉で説明するのは難しい…それがどんな様子か、これは本当に観た人にしかわからないと思います。

それに、人物だけじゃありません。
この作中には蝶が出てくるのですが、たいらさんは蝶にもなります。それと同時に蝶を捕まえる少年でもあります。
蝶であるたいらさんが、少年のたいらさんから逃げたり捕まったり。
その手の動き、体の動きも、一体でありながら独立していて、こちらも絶対に見間違えたりしないし、誰の台詞でどこを見るべきなのか、人形なのか、たいらさんなのかも自然と解ります。

ああ、まったく、なんていう人なんだろう!
そして、なんたる才能!!

この「毛皮のマリー」は、たぶん、たいらさんのライフワークになっているのでしょうね。
この先、また機会があれば観に行きたいと思います。

できれば、たいらさんの「サロメ」もぜひぜひ観てみたいな~!
赤ちゃんとその家族のための人形劇、「てるてるじょうくんとあそぼう!」も、いつかきっと潜入するつもりです!
してみせますとも!
いつになるかわからないけどね(笑)

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「サロメ」

2012年06月10日 19時44分36秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

【作】オスカー・ワイルド
【翻訳】平野啓一郎
【演出】宮本亜門
【出演】多部未華子/成河/麻実れい/奥田瑛二/ほか

去年も書きましたが、今回もまたこの一行を最初に書いておきましょうか・・・

あなたが今、欲しいものは何ですか?


『サロメはなぜヨカナーンの首が欲しかったのか?』、いよいよ第三弾!

というのは、去年から私が個人的に興味深く観ている第三弾ってことで(笑)
ちなみに、最初に観たは市川段治郎さんと舘形比呂一の舞踊劇、「サロメとヨカナーン」。
二度目はオペラ、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」です。
そしてここにきて、宮本亜門さん演出の、ストレートプレイの「サロメ」。
同じ原作でありながら、この三つの舞台で自分の感想がこうも変化するのかと、その舞台の違い、表現の違いが面白かったです。

第二弾の感想では、
「サロメは男ならば誰でも自分の魅力には勝てないと自信があったので、そうではなかったヨハナーンが受け入れ難く、自分の姿をしっかりと見たならば絶対に自分に恋したに違いない男とのキスは、ある意味、彼女にとっては当然な「二人の」恋の成就であったのだろう、だから、生首が欲しかった。
そして、サロメの「愛されて当然の私」という我侭なアイデンティティーは守られた。」
というのが一応の結論だったんですよね。

でも、この宮本亜門さんの「サロメ」を観たら、ちょっとどころか全く違います。
べつに私は学校に提出するレポートを書いているわけではないので、一般的な解釈をする気もありませんし、正解かどうかはともかくとして、ただ知りたいんですよねぇ。そして私なりに納得したい。
サロメが欲しかったのはなぜ生身のヨカナーンではなくて、死んだ後の彼の生首なのかを。
それが結論づけられると、私も自分の本当に欲しいものが見えてくるかもしれいない、とか思って・・・。

そして、今回思ったのは、
「サロメは、決して自分を愛さない男と愛し合いたかったのではないか?」ということなんです。
それには矛盾と無理がある。
だから生きたヨカナーンよりもなお、彼の生首が欲しかったのではないだろうか。

この舞台の多部未華子さん演じるサロメは、今まで見たサロメにくらべていかにも少女らしい少女で、官能的でも妖艶でもなく、そういう意味では最も現実味ある若い女性でした。
しかも、あの「七つのヴェール」なんて、官能的どころかまるで踊りにさえなってない、めちゃくちゃなものにしてましたし(笑)、もちろんわざとそういう演出にしたのでしょうが、あれで喜ぶ王様がいっそう愚かに見えました。 

そのサロメは、登場して一番にこう言います。
「これ以上、あんなところにはいられないわ。もうたくさん。どうして王様は私をじっと見続けるの?」
けれども、サロメにはわかっているんですよね、何のつもりで王様が自分を見つめるのかを。

サロメはうんざりしているんです。男たちが自分を欲しがることに。
王様さまの甘い言葉への嫌悪感、若いシリア人への残酷さ、その態度のどれをとっても、それが憧憬にしろ欲情にしろ、自分を欲しがり見つめる男には、その度合いが尋常でなければないほどに、男たちへの評価を下げて見下しているような、傲慢さが感じられます。
それはある意味、少女特有の潔癖さでもあるのかもしれない。
すると、裏を返せば、サロメにとって最高に評価の高い男性とは、自分に興味のない男、決して欲しがらず、欲望で自分を見つめたりしない男ということになると私は思うんですよ。
なので、ヨカナーンはそういう意味で、彼女にとっては最も魅力的な、愛すべき価値のある男ではなかったか。

けれども、ここが矛盾しているところですが、サロメはヨカナーンに自分を見つめて欲しいんです。
なぜなら、彼女は恋をしたのだから。

そこで話はヨカナーンのほうですが。
この舞台で私が新たに気づいたのは、ヨカナーンも実はサロメに惹かれ、だからこそ、それが厭わしくて、わざとサロメから目を逸らしていたのではないか。
預言者であり聖職者であるヨカナーンにとって、最も蔑むべき女性は、サロメの母親ヘロディアだったのですが、つまり王に近親婚をさせてしまうほどの魅力的な女性なわけです。
ヨカナーンにとって、女として最高に魅力的な女性が、もっとも忌むべき存在なのだとも言えそうです。
「私は汝を見たくない。汝を見ない。」とサロメをなぜ拒むかというと、見てしまうと心が乱されてしまうから。

この世で最も魅力的な男性は自分を見つめない男であるサロメと、最も魅力的な女性を見つめるわけにはいかないヨカナーン。
だからヨカナーンは生きてサロメを見つめることはできません。
サロメが生首に言った言葉、「もしわたしを見ていれば、きっと、わたしを好きになったはず。」というのは本当にそうだったのかもしれません。
その台詞、オペラの「サロメ」を観た時には、私は「よほど自分の容姿に自信があって、男なら誰でも自分に恋をすると思い込んでいるのだな」とあきれたものですが、たぶん、ヨカナーンが生きてサロメを見ていたら、本当に彼女に恋をしただろうと、今ではそんな気がします。
サロメが「わたしにはよくわかっている」と言ったのも、本当にそうだという気がしてきました。
サロメとヨカナーンは、もしかしたら、鏡のような、左右真逆の、アシンメトリーな一対であったのかもしれません。

決して成就しないことで成就する愛。

もしかしたら、人が一番欲しいと思う、その最たるものとは、決して手に入らないものなのかも・・・。

と、いうのが、『サロメはなぜヨカナーンの首が欲しかったのか?』、感想・第三弾の結論ですね、とりあえず。

って、ええ、「とりあえず」なんですよ。
まだ、たった三度しか観てないこの作品に、すぐに結論出せるわけないですもの(笑)
この「サロメ」というお話、本当に興味深いので、今後もどこかで上演されることがあれば、できるだけ観に行きたいと思います。

というわけで、いつになるかわかりませんが、この先はいずれ、「サロメはなぜヨハナーンの首が欲しかったのか」第四弾へ、To Be Continued です(笑)

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「ヒメハル~ヒメジヨン・ハルジヨン~」

2012年05月28日 01時52分47秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2012/05/17 @紀伊国屋ホール
【作】スエヒロケイスケ
【演出】 眞鍋卓嗣
【出演】 阿部百合子/荘司肇/遠藤剛/中吉卓郎/河内浩/塩山誠司/ほか

このお芝居、観に行ってからもう十日も経ってしまったけど、やっぱり書いておこうかな。

久しぶりに、「芝居を観た」という感じがした舞台でした。
俳優さんでもなく、演出でもなく、なんだか本当に「お芝居を観たなぁ~」と、しみじみと思いましたよ。
それにはやはり、まず脚本が良かった。
そして、役者さんたち全員がそれぞれの役を、しっかりと演じてくれていたからなのだと思います。

これは近未来、2040年の日本の話。
「少子高齢化で人口が激減し、九千万人を割ったころの日本、地方都市郊外の集落が舞台・・・」というわけですが、セットは「昭和時代??」と思ったような木造家屋が並んでいました。
上手側には粗末な長屋風の平屋。下手側には、まるでゴミ屋敷のような木造二階建ての家です。
そこに住むのは、 自治体が崩壊し、地縁血縁ともに見放された独居老人たちです。
そこへ、思春期から30年も外界と接触を断っていた中年引きこもり男がやってきます。

…とまあ、ストーリーを詳しく書くつもりはないんですけど、この舞台が進むにつれて、スマホやパソコンで流行しているネット・ゲームの世界が現実世界にリンクして、次第に仮想世界と現実が入り混じるところなど、この脚本、私はかなり面白いと思いました。
それに、ところどころ妙にツボに嵌まる台詞があるんですよねぇ…。
架空の世界と現実世界を融合させてみたら、(思いがけなく)精神世界が破壊されてしまった…みたいな。

あと、140歳の老婆が出てくるのですが、実はとっくに亡くなっていて、その体に別の魂が宿っていたというのも面白く、その老婆と中年引きこもり男性に、淡い恋愛感情のようなものが生まれます。
その魂の存在と現実の人との交流だとか、描き方がなかなか私好みであり、ある場面で思わず涙がこぼれました。
「こんな場面で泣く人なんて、私くらいか、他にいるとしたらこの舞台に誘ってくれた隣の友人くらかなぁ…」なんて思っていたら、本当に隣でも泣いていましたけど(笑)

ところで、その友人、我が愛しの某カオリン嬢(←匿名になってない?)ですが(笑)、出演者にお知り合いがいて、終演後にその方にご挨拶をするというのでご一緒させてもらったんですけどね、彼女はちょっと特殊な職業をしているので、その出演者の方がとてもありがたがっていらしたのが私には珍しくて興味深かったです。
友人の彼女が「面白かったです」というと、すごく嬉しそうで、演出家さんを呼び止めて紹介までしていたり。
それで、「今日はお芝居好きの友達と一緒に来ました」と私のことも言ってくれたので、私もちょっとは感想とか聞かれるかしら? とか、少し身構えていたら…、まぁ~、見事に何も聞かれなかったですねぇ~(笑)
当たり前ですけど。
そりゃあね、知りもしない、いかにも地味な一般人の私に興味持たれても困っちゃうんですけどね、気の利いたことも言えないし。だから全然構わないんですけど、あまりにすご~くわかりやすい方だなぁと、私、この一幕がすごく面白かったです。
このお芝居、期待以上に面白かったんだけど、この時の印象があんまり強くて、これだけがいつまでも記憶に残りそうだわ(笑)

まあ、そう言いつつも、「そんじゃ、私の感想はぜんぜん聞きたくないのよね?」って、ここで詳しい感想をほとんど省略しちゃったのは、私もまだまだ人間修業が足りないってことかしらね?(笑)

 

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「乙女の祈り」

2011年12月25日 20時00分46秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2011/12/21 座・高円寺
【構成・演出】渡辺えり
【音楽】coba
【作】「日曜日の花ハナ」サリngROCK /「はるか」 石原燃 /「両の手に」 芳崎洋子 /「街角歌子」「Blue moon」 樋口ミユ / 二木麻里(オンディーヌ翻訳)
【出演】渡辺えり

今年最後の観劇は、渡辺えりさんの一人芝居です。
今年は何故か一年中、ひとつの舞台で同じ役者さんが複数の役柄を演じ分けるような作品を観ることがとても多かったように思いますが、その締めくくりにふさわしいような舞台でした。
女性四人の劇作家が書いた作品のオムニバスと言えるかもしれませんが、その作品と作品との合間を「オンディーヌ」という、これまた独立した作品で繋ぎ合わせた構成によって、舞台全体がオムニバスというよりはひとつの作品として、より面白く観る事ができたと思います。

これね、帰り道で「よく解らなかったね」と話し合うお客さんの声が耳に聞こえて、私は思わず一人でクスリと笑っちゃったんですけど、夏の「ゲゲゲのげ」に比べたら、まあ解りやすいですよ(笑)。 
オムニバスの五つの作品をバラバラに観るにしても、「オンディーヌ」で繋がった一つの作品として観るにしてもね。
何せ、「別に無理に解ろうとしなくても良い」ということが、解りやすいかったです(笑)
ゲゲゲの場合は、「頭をこらして考えなくては」と思い、必死に考えさせられた挙句に袋小路に入ってぐるぐるしたのが私にはある意味楽しかったですが、この「乙女の祈り」という舞台は、もっと感覚的に、気楽にスーっと心に軽く入り込み、何かを考える前に何の負担も無く染みこんでいったような気がします。
それは、もしかしたら私がこの舞台の脚本家たちや出演者の渡辺えりさんと同じ女性だからかも。
そして、「オンディーヌ」を軸として繋ぎ合わされた五つの作品の、全てがひっるめて、まるで一人の女性が見た夢というように見るならば、私は「私自身が日常的に、まさにこの様な感じなんです」と言えなくも無いです。

オンディーヌは三度名前を呼ばれると記憶をなくしてしまう。
人間の男・ハンスに恋をした水の精・オンディーヌは、彼への愛を貫き水界の掟(おきて)に背いたことで、水界の王様から、「ハンスの愛が醒めて裏切るならば、彼の命は尽き、オンディーヌの記憶は永遠に失われてしまう」という契約を結ばされます。

「ハンス、あたし今日のこと、ほんとはわかっていたの。記憶が消えて、水の底に帰るしかない日が来るって…」

そしてもうじき記憶を無くす運命のオンディーヌは、彼との思い出の品や家具を水の底の部屋に沈めます。
その思い出の品々の大切な記憶を失ったとしても、水の底に作られた「あたしたちの部屋」に暮すならば、彼女は記憶の失ったままに…いえ、記憶を失うからこそ、ハンスは彼女のすべてとなり、オンディーヌは二人の永遠の愛の中に生き続けるのかもしれません。
永遠に向かうオンディーヌ。

「(名前を)三度呼ばれると記憶をなくしてしまう。ハンス、お願い、最後の時間を無駄にしたくない!」

そうしたオンディーヌの作る「水の底の部屋」には、いつかどこかの、誰かが見た夢の断片が散らばっていました。

◆「日曜日の花ハナ」(サリngROCK・作)では、道端に転がる小石を拾い、そのいくつもの小石のそれぞれに人の顔を描いた作品を、路上に並べる老婆がいました。
路商のアーティストのようでもありますが、値段はついていないようなので、小石の作品を売っているのかどうかもわかりません。
通りかかる子どもに「石おばば」などと馬鹿にされて石を投げつけられる老婆の姿はボロボロで、髪もボサボサ。まるで乞食のようです。
けれども老婆がニコニコと幸せそうなのは、やはり頭がおかしいのでしょう、自分の描いた石の顔を眺めながら、彼女は昔のことを思い出します。
その思い出にはいささか荒唐無稽な展開もあり、もしかしたらそれらは全てが本当の思い出ではなくて、彼女の作った夢が入り混じっていたかもしれません。

そのボロボロの老婆、花江はこう言います。
「わたしはね、今、楽しいよ。…ドキドキしたりね、するよ。やっと、…たどり着いたなって感じ」
私はこの老婆にすごく共感するものがあるんですよねぇ…。ってか、まだそこにまでに行き着いてないので、羨ましいとも思ったり(笑)
ほとんど狂いながら、他人に理解されず、お金にもならない作品を作り続けながら、自分にしかわからない夢を見続けている老婆は、哀れなようでもあり、でも私には、これも「ある意味幸せな人なのだ」と思えます。

◆「はるか」 (石原燃・作)はかつての秋田連続児童殺害事件を題材にした作品でした。
自分の子と近所の子、二人の子供を殺害しておきながら、悲劇の母を装い、マスコミにも大きく取り上げられた事件です。
その母親を石原燃さんはパンフレットのコメントで、「どこにでも存在しうる一人の女性を描きたかった。もしかしたら私自身かもしれないこの女性を」と書いていました。
その想い、よくわかります。
度々に起きる児童虐待事件を耳にするごとに、その痛ましさが酷く心悲しく苦しくて、そしてたまらない怒りを感じながらも、「もしかしたら、これは私の人生にも起こり得ることだったかもしれない」などと思います。
「あそこにいるのは、女。女がひとりで泣いている」
何故こんなことになってしまったのか…、自分でも訳のわからない苛立ちと衝動の結末は、あまりに苦しく悲惨です。
「ああ、この女は私だ。見て、あそこ。」

◆「両の手に」 (芳崎洋子・作)
子供を産めば子供を持つ苦しみがあり、子供のない者には、子供のない苦しみがある。
子宮を備えて生まれた女性だけが、そのどちらか片方の苦しみから逃れることができず、けれども、そうでなかった片方だけが掴める幸せもあるには違いない。
女ゆえに、女だけが、女だからこそ、それぞれに思う、「母」という重要なキーワード。
題名の「両の手に」とは、何を意味しているのか…。
説明も結末もつけないこの短い作品に、理屈はともかく、何がしかを感じない女性はいないだろうと思います。

◆「街角歌子」(樋口ミユ・作)
街角歌子をさがすのは誰だったか。
たくさんの聴衆を感動させた歌子は観客だけのために歌い、「その歌い続けた歌の中には彼女を表す歌はなかった」と、町の駅員は言い、また、歌子の幼馴染は、「歌子はみんなが見たい歌子を演じて歌っていたのだから、あれじゃ自分が何なのかわからなくなって失踪するのはしょうがないんじゃない?」と言います。
そして一方、当の歌子は「私の歌」をさがしています。
私はこれを見ながら何とはなしに、ダウンタウンブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を思い出しました。
「私の歌はどこ…」とさがして彷徨う歌子と、その歌子をさがす誰か。
歌子が自分の歌をさがすのは、つまり自分自身をさがしているのでしょうね。
…ああ、そうか(笑)
今これを書きながら思いましたが、歌子をさがしていた「誰か」とは歌子だったのですね、きっと。

そして、オンディーヌは既に二度、名前を呼ばれました。
あと一度名前を呼ばれたら、あの二人の愛の記憶は失われてしまいます。

「三度目には忘れるしかない! もう、すぐに消えてなくなる。
はやく! 何か訊いて! もっと訊いて! もう頭の中がぐしゃぐしゃ。助けて!助けて!」

オンディーヌの記憶は消され、目覚まし時計のベルは鳴り響きます。

◆「Blue moon」 (樋口ミユ・作)
これは一番インパクトのある作品でした!
なんたって、渡辺えりさんの女子高生姿ですものね~!
朝、目覚まし時計の音で目が覚めると、女子高生・夢子の姿は変わり果てた中年女性のそれになっています。
中身は女子高生の自分なのに、顔もスタイルも母親そっくりのこの状況に、びっくりして焦ったり、いきなり笑い出して、ちょーウケたりしているのが面白いです。
「ブログに書いておこうかな」とか言ってみたり、携帯で友達に学校を欠席する連絡をお願いしたりしている、女子高生姿の渡辺えりさんが可笑しくてかわいい(笑)

ああ、だけども、この、「中身は女子高生のはずだったのに、鏡に映ったこの現実はいったい何??」という愕然とする想いって、なんか、今の私自身と大差ないんじゃないか?という気もします(笑)
「ええっ!、いったいなんなの?!この変わり果てたオバサン姿の私は?!」 って、鏡や写真を見るたびに驚きますから(笑)
鏡に映っているのは、これは本当の自分の姿なのか??

最後は鏡からたくさんの「自分」が飛び出して、たくさんの夢子がいました。


…なんて、私にしては、いつになく順を追って真面目に感想を書いてしまいましたが(笑)
渡辺えりさんの舞台は、この夏の「ゲゲゲのげ」も、この「乙女の祈り」も、結構気楽に見られる面白い作品だったと思いますが、いざ感想を書こうとすると、私はものすご~くエネルギーを使うんですよねぇ…ええ、この程度のものでさえも、もうクタクタです(笑)
「ゲゲゲ」以来、こんなに書くとは思わなかったけど、これはもちろん、「ゲゲゲのげ」に出演したあっきー(中川晃教さん)がきっかけでこういうことになっちゃったわけですから、あっきーのせいですよね(笑)
ああ、ほんとうに疲れた! 今日は大掃除しようと思ってたのに、それも全然やってないし。
いったい、どうしてくれるんだ~っ!

って、はいはい、掃除が苦手なのは、あっきーのせいに出来ませんか。そうですか(笑)

ああ、それにしても、私がこれまでに書き続けているこの感想記の数々は、もしかしたら、オンディーヌの水の底の部屋と一緒かもしれないな、などと、これを書きながら、私はふと思ったりもしました。

いつの日にか、三度目に名前を呼ばれてしまったら、私のすべての記憶は消えてしまい、今まで書いてきた感想記だけが残り、ここで私は永遠に生きるのかもしれません。
あの老婆の小石と同じように、他人からすれば何の価値もないこれら数々の思い出の感想記だの創作の文が、いつしか私だけの永遠に向かう夢になるのなら、それも「ある意味、幸せ」なのかもしれませんね。

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「アマデウス」

2011年11月13日 16時31分03秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

2011/11/12 ソワレ
【作】ピーター・シェファー
【演出】松本幸四郎
【出演】松本幸四郎/武田真治/内山理名

昨日はなんとも濃ゆい一日! 
昼が市村正親さんで、夜が松本幸四郎さんのマチソワだなんて、どんだけぇ~っ?!ってくらい(笑)
しかも天才ネタ続きです。

まあね~、確かにね~、モーツァルトは天才だと思うわよ。
まず、ひとつのことに無我夢中で没頭する集中力、なおかつ執拗にやり続けるしつこさ、際限なく沸き起こるイマジネーション、その尋常でない在りようこそが天才を天才たらしめるのではないかと、、凡人の私なんかは思うんだけど。
だけれども、モーツァルトなんかを見ると、やっぱり生まれながらに持って生まれた資質というのが、凡人とは圧倒的に違うわよね~?

私の学生時代でも、一族がみな優秀ぞろいで、親戚の中には東大出が何人もいて、彼女自身のIQなども高くて何でも良くでき、それは勉強だけでなく音楽・美術・書道などのあらゆる芸術にも秀でていたという友人がいました。
その一族の中では「東大よりも芸大に入るほうが尊敬される」とかも言ってましたけどね、もうほんとに、そういう人達って遺伝子からして違うから、ごく小さい頃から周りの子とは別ものなのよね、圧倒的に。
私は子供の頃から大人になるまでずっとそういう子が親友の中にいたので慣れちゃったせいか、自分より優れた人を羨ましいとか妬ましいとかいう気持ちすらもいっそ起り難くなりましたが、まあ、だから基本的に人間って平等じゃないのね。
あたり前だけど。あたり前だから、そこに不平を感じるのは馬鹿らしいじゃない。
というか、よけいに悔しくなったりするので損するし。
なんて…あ、そうか。やっぱ、私も悔しいのか(笑)
でもねぇ、他人に嫉妬して憎んでも、きっと不幸になるばかりよね? だいいち、それじゃあ仲良しになれない。

容姿の美しさにしてもね、小さい頃によく遊んだ隣の幼馴染は、私立の中学に入ったとたんに「ミスなんとか学園」とかえらい騒がれて、「あ、そうか~、そういえば、あの子って、すごい美人だったんだ~?」なんて改めて感心しちゃったりして(笑) レベル的には「おらが村では」みたいな、世界的レベルではないにしろ、みんなが羨ましがったり憧れたりする子達と普通に遊んでいたせいか、いいかげんに、凡人とそうでない人の違いとか、ましてや自分との差にどこか麻痺しちゃってるのね(笑)
麻痺しちゃって良かったわよ。下手にトラウマにならなくて。
だから、私は天才だろうが何だろうが、やっぱり…というか、むしろ一人の人間としては皆「同じ」だし、まず中身がどのような人か?と、そっちに目が行くのかもしれないな。

武田真治さんのアマデウスは、帝劇でみる「モーツァルト!」のヴォルフガングとはだいぶ違いました。
まあ、あの「モーツァルト!」がそもそも、彼の人となりを美化しちゃっている感じがするんですが、どちらにしろ、歴史的に実在した偉人たちが実際のところどんな人だか正確に再現できるわけがないので、これもまたパラレル・ワールドのような物語なんですけどね…
それにしても、モーツァルトって、過去の文献にもありますけど、どーして、ああいった、まるで「クレヨンしんちゃん」みたいな、幼稚園児のような下ネタが好きだったんでしょうね~??(笑)
大きくなっても、いつまでもたっても飽きもせずに「お尻」とか「オシッコ」とかはしゃいでいられる、その幼児性というか、莫迦さ加減が天才であるゆえんでもあったりして(笑)
しかし、こんな幼稚で下品な男に、なぜあのような美しい音楽が創れるのか?
なぜ、彼だけが、そこまで神に愛されるのか??

ってね~、だけど、サリエルだって、あの当時の宮廷音楽家の長だったし、数々の作曲もしていたのですから、もちろん才能はあったのだろうと思いますよね。
それが後世に長く語られるほどの大きな才能ではなかったにしてもね。
それに、地位も名誉もお金も、そしてたくさんの賞賛も弟子達の数さえも、すべてがモーツァルトよりもサリエルのほうが勝っていたじゃないですか。
それって、充分幸せでしょ?
なのに、音楽で越えられないというのが、そんなにも悔しくて苦しいというのは、人間ってほんとうに強欲で嫉妬したがりの生き物なのね。

そもそも芸術家なんて、ある意味みな欲張りな人たちで、自分の世界こそが絶対で、だからどこかしら「過多」で、いつでも自分の最高峰がまだずっと先に必ずあると思っていたいのではないかしら?。
そして、選ばれし者の恍惚は、その感が強ければ強いほどに不安も大きくて、それを繰り返しているから心の振り幅も大きく不安定で、才能が多ければ多いほどに、孤独ではないだろうかと思う。
そのうえ、凡人の凡人たるゆえんの苦しみには無頓着だし、だから人として欠落した部分もあるし、…って、べつに悪口言ってるわけじゃありませんけど(笑) 要するに気難しくて、ややこしいんですよね。モーツァルトにしても、ゴッホにしても、このサリエルにしたってね。

なんだかな~、
天才ものを立て続けに見ちゃったせいか、どうもこの天才達に振り回される普通の人達のご苦労に目がいっちやって(笑)、天才肌の芸術家達は多くの人々を感動させたかもしれないけれど、ごく身近にいる者にとってはその影響力がありすぎて、えらくしんどいだろうなぁ…などと思ったりしてね。
これね、「天才達の被害者の会」みたいな、気の毒な人達の話をいくつか集めて、いっそオムニバス形式の舞台を創ってみたら、面白いかも。
すると、もしかすると、かえって天才たちが一層に愛しく思えるかもしれないな。
そんな気もしてきた(笑)

神様は人間に、具体的な何かを平等に与えたりは決してしない。
けれども、神や仏の慈愛とは、そしてその愛から得られる安らぎとは、そこにあるのではないと思う。
モーツァルトも、サリエルも、そしてゴッホも、私からすると、良くも悪くもみな強欲な人たちに見え、そこが苦しそうで、しかし愛しいとも思いました。

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