今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「アンドゥ家の一夜」…そしてなぜか「エレンディラ」

2009年06月28日 22時52分20秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
作・ケラリーノ・サンドロヴィッチ
演出・蜷川幸雄

これを見る一週間前に「女信長」ボケしていた私は、首をかしげたのでした。
私、なんでこのチケット買ったんだっけ? 
なんで埼玉くんだりまで行くんだったけ?
そうだ!思い出した! これって、ケラだからだ!
ケラと蜷川さんって面白いかも~? でもってチケット安いし!

…ってなことで、初めて観た「さいたまゴールド・シアター」の皆さんは、
全員が55歳以上で平均年齢70歳、最高齢83歳の、「世界で一番過激」な演劇集団です。

詳しいあらすじ書くのなんて面倒だから、極力簡単にいうと、
「ご臨終近い安藤先生(アンドゥ)は50年前に恋した教え子に会いたくて、呼んでくれるように家族に頼むが、手違いで当時の教え子達が集まってしまった。こん睡状態のまま生霊となって妻や弟、既に亡くなっている兄に会う安藤先生。そこに教え子達や昔の愛人の娘や実の娘も絡んでドタバタするが、最後にはかつて恋した教え子の女性に想いを告げ、みんなに挨拶してから予定通りにお亡くなりになる」ってな話(笑)

自慢にもならないけど、この劇のプロローグで私ほど泣いたお客はいないと思う。
…ってか、誰も泣く場面じゃありませんから! なにせ始まってすぐだもの。
それは何故かと言うとね、音楽がかかるのよ。マイケル・ナイマン氏の。
そう!「エレンディラ」で、あれはたしか…ウリセスがオレンジの木に登ったシーンだったと思う。最後のほうでも使われていたかも。
そして、プロローグからオープニングにかけて、続けてナイマン氏のあの歌、「if」がかかります。
↓これよ。



この曲を聴くと、ほぼパブロフの犬状態で涙がこぼれてしまうけど、
私はあの「エレンディラ」の最後の20分にかけたメッセージのひとつを、
蜷川さんは、リアル老人達によって違うアプローチで伝えたかったのだと感じ、
それでもうほとんどこの舞台で受け取るべきものの半分以上を悟ったような気がしたわ。
そして、音楽って、なんて強い力を持っているのだろう!
この舞台に「エレンディラ」を重ねてしまったことで、私はウリセスが恋しくて、
さみしくて、涙がハラハラと止まらないの。
大阪じゃ同じ頃、あっきーファンはメイサ信長と一緒に「みつひでーっ!」と心の中で叫んでいる頃、私は泣きながらエレンディラの心で「ウリセスーーっ!」と呼んでいる。
我ながら阿呆です(笑)

その「エレンディラ」の最後の20分というのはね、
原作にはない、舞台用に付け足されたシーンなわけだけど、
少女の頃、可憐だったエレンディラも、自分のおばあちゃんとそっくりの大きなゴッツイお婆さんとなり、ウリセスはショボイ爺さん(こら!)になって再会するの。
けれども、永遠の恋人たちはたちまちかつての美しい姿に戻り(…って、つまり、みなみちゃんとあっきーなんだけど)綺麗なエレンディラと天使のウリセスの美しいシーンで終ります。
あれは、舞台的に美しく終らせたいのかと私は思ったし、たしかに二人にとってはかつての美しかった思い出の姿が互いの目に映っていたのだろうなとは思ったわよ。
でも、実感としてそれがどういうことなのかというと……やっぱりこの「アンドゥ家」は、よりリアルに胸に届くものがあるのね。

安藤先生は、50年前に恋した教え子が「私ももうお婆ちゃんよ」と言うのに、たしかこう応えます「今でも私の目には、あなたは美しく華やかだ」と。
これは決してお世辞ではなくて、本当に現在の彼女の姿にかつての姿が完全に重なって、そう見えるのだと思ったわ。
そして、一度だけ抱きしめさせて欲しい、「あなたを抱きしめるということは、思い出を抱きしめることなのだ」
その時、やはりマイケル・ナイマン氏の音楽が……そのシーンに「エレンディラ」を重ねて私はまた周囲の目もなんのその、ひとりハンカチで目を押さえます。
が!
そこは、やっぱりケラリーノ・サンドロヴィッチよ!
ここで終っちゃうわけがない!
彼女を抱きしめた安藤先生、やっぱり一度一緒に寝てくれ、もう30年はしてないけど出来ると思う(爆)、このビリヤードの台の上じゃどうだ?……なんて、彼女を無理やり押し倒し、そのドタバタが笑えるのなんの。
最初はロマンチックな気持ちもあった彼女(っていっても、老齢の女優さん)は、「やめて、やめて、誰かぁ~!」と助けを呼び、
…そして、人が来た頃、生霊だった安藤先生は消えてしまいます。
まあ、でも安藤先生、やるだけやって思い残すことはなし。
人生の終わりに、思いを告げられなかった恋しい人にひと目会いたいだなんて、
案外、そんなものかもしれないわね。
たとえ妻がいたとしても、「一分一秒忘れたことはない…とは言えないけれど、何かにつけてあなたを思い出していた」という人がいたこと。
それはやはり「エレンディラ」と同じだと思う。
追憶の美しき恋は永遠なり。

そして、最後のシーンでは、安藤先生の奥さんが「私、あなたのお兄さんと寝たことがあります。あなたの親友とも。でもあなたの妻で良かった」という告白を聞きますが、
安藤先生は知っていたのよね。それを最後まですっとぼけてあげることで、奥さんの、
そして安藤先生自身の重荷を下ろして旅立ちます。
「ありがとう、また会おう!」
その最後にもまた「if」が流れ、私はそのシーンに「エレンディラ」…ではなく、
大切な方のことが重なって泣ける泣ける。
もしかして、エンディングでも、私ほどこの劇で泣いた客はいないかと思う。
やっぱり自慢にもならないけどね。

本当に、本当に、この舞台が観られて良かったです。

「炎の人」2009/06/27 

2009年06月27日 22時54分38秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
市村正親/益岡徹/今井朋彦/荻野目慶子

ゴッホは孤独と人間愛に満ちた、悪意のないエゴイストであり、
自分で自分を苦しめ続けた狂気の人でした。
そして、それらの全てが絵に向かって放たれたゆえに天才となったのです。
「私は本当の物が見たいのだ、本当の人間が見たいのだ」と描いた初期の絵は、「汚くて暗いが、そこを卒業せねばならない」。
そして、そこから抜けた時、あるいは飲み込んだ時、
彼には美しい世界、美しい人間が見えたのだと思う。

天才は、大衆からそう認められて天才となるのではないのだと、つくづく思います。
彼の絵は生きているその間には評価されることはなく、その才能を愛したのはわずかばかりの人だったから、生活はいつも貧困であり、作品を通してすら誰かに愛されることもありませんでした。

こんなに苦しい人生があっていいのかと、私も胸が苦しかったです。
彼の才能は、ある意味、自分自身を苦しめる才能といえたかもしれません。
唯一の親友、ゴーギャンが去ってからは、彼を愛するものは弟のテオのみです。
せめて、シャガールのように心から愛し合い理解し合える女性が
たった一人でもいたならば、
あのように狂気の中で孤独に死んでしまうことがなかっただろうに……。

最後に彼への追悼の言葉が語られます。
ゴッホは日本に憧れ、日本に来たかったそうです。初めて聞きました。
色彩感覚豊かで、印象的な輪郭を描く浮世絵画家を生み出した国、日本に。

その日本からゴッホへ
花束を捧げ「飛んできて、受け取れ」と呼びかける哀悼の言葉に涙が出ました。
市村さんは素晴らしかったです。


全ての天才よ、たとえ世に出なくとも、幸せであれ。

「ミー&マイガール」2009/06/13

2009年06月13日 22時59分00秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)
お昼に帝劇へ「ミー&マイガール」を観に行ってきました。

芳雄くんが舞台の上にいるだけで頬が緩む~
癒されるぅ~

前(初演)に観た時は、芳雄くんの一生懸命さが伝わってきて、
「がんばってるよね~」という感想でしたが
今回はね~、なんかその肩の力が培ってきた実力と共に自然と抜けていて、
もう、ほ~んと! 
「楽しませてくれてありがとう!」って感じ。

玲奈ちゃんは今まで「実は苦手かも?」って思っていたのよね
その初演の時は、可愛いんだけど「健気さ」っていうのがあんまり感じられなくて、「そんなにサリーって魅力的かなぁ?」って思ったの。
でもでも!!
今回の玲奈ちゃんは、健気でいじらしくて可愛い
「アゴを引いて、前を向いて、笑顔で」っていうような歌詞があるんだけどね、でも途中でちょっと辛くて涙ぐんじゃう。
だって好きな人をあきらめなきゃならないんだもの。
それでもやっぱり「アゴを引いて…」と明るく歌う彼女はと~っても魅力的。
こんな子だからビル(芳雄くん)は、世界中で彼女ひとりが愛しくて可愛いのよね!! 
わかるわ~!
ほ~んとに、お似合いのカップルの、あの明るさ、一途さに癒されました~

でもって、涼風真世さんはオモロかったです
「МA」でヨッシーと愛人関係をやっていたとは思えないわ。


「女信長」初日を観た翌日の「ヘアスプレー」2009/06/06

2009年06月06日 23時01分22秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)
「女信長」初日のちょこっとした感想も取り混ぜての「ヘアスプレー」の感想です。
※どちらの舞台もネタバレありなので、ご注意を。

「ヘアスプレー」を観ていると笑顔で明るい気持ちになります。
笑顔でいながらなんだか涙も出てしまう。
この作品にはコンプレックスだとか差別だとか、人の変わらぬ深いテーマが盛り込んであるにもかかわらず、というか、だからこそ明るく元気な少女トレイシーの姿に救われて、晴れやかな前向きの気持ちにしてもらえます。

トレイシーは背が低くてふくよかな少女です。つまり、チビでデブって言われちゃう。
そのママはそれよりもさらに迫力の大きな人で、既製の服が着られなくなって以降はそのコンプレックスゆえに外にでることもありません。
このママの強いコンプレックスはね、太っているということはもちろんだけど、歳もとってしまって、それも合わせて「自分は醜くてみっともない、だから女性として恥ずかしい」というコンプレックスなのよね。
この物語は、トレイシーとその恋する彼、ママとパパ、トレイシーの親友と黒人の友人、という三つのカップルが登場しますが、このママとパパの愛というのは感動的なくらい深くて私は理想の夫婦だと思うの。
年月を経たチーズのように熟成された君、ヴィンテージ・ワインのように味わい深いあなた。
見かけではなく、年を経てますます内面が素敵なあなたは永遠の恋人だと歌う二人のナンバーは、楽しくて心温まり感動してしまいます。

話は転じて「女信長」ですけど(笑)
女の信長(御長)に嫁いで親友のように寄り添ってきた御濃が、後半で言うのよ。
「女は歳をとってしまえば、どんな才気も磨かれた知恵も、結局若い女のすべらかな肌にはかなわない、歳をとるほどに手を伸ばしても男は遠のいていく」
これはね~、もう私のような世代からすると身に沁みる言葉よね~(笑)
まあそれはでも、自分が才気もあって心豊かであると自負している女性ほどそういった理不尽さや寂寥感がつのると思うし、また若い頃は美しく、かつてのその黄金時代が忘れられない人ならなおさらなんでしょうね。
だけどそうじゃない私にだって共感はできますよ。
それなりに当社比ってのがあるじゃない?(笑)

それで御長は、自分も既に女としての力が無くなりかけた歳となり、男にも裏切られ、改めて自分が女であること、女として愛されたいことに苦悶するわけですが……。
この「女信長」の女二人(御長と御濃)というのは、年齢だとか子供が産めないとか、そういった位置で男達に失望したり苛立ったり嘆いたりしてジクジクして、そのままに「愛されたい」という切望がぬぐえない人たち。

それが良いとか悪いとか、そういうことを言いたいわけじゃないし、女信長はそれだけじゃなくて、信長として生きた御長が「私は女なのだ、女として生きたいのだ」という葛藤、むしろそっちのほうが話の中心だし、時代や社会も違うので、そこらへんをひっくるめて一概には言えないけど、それら全ての救いが最終的に光秀に愛されることであるというのは、どうも私としてはそれが本当の救いになるのかどうか、なんだか釈然としない…というか、私の中ではまだ消化できていない気がするのね。
これについては、あと4回観る中で自分の想いがどう変化するのか、しないのか、興味があります。

というわけなので、
その消化しきれなかった舞台の後に「ヘアスプレー」を観るとね、
この「ヘアスプレー」というのは、コンプレックスの場所で立ち止まっている自分に、スターターのピストルをパンッ!と鳴らし、さあ自分の力で走ってみよう!!とエールを贈ってくれるような、とても救われた気持ちにさせてくれる舞台だったと思います。

たとえば「ヘアスプレー」の台詞に「(何であれ)ふさわしくない自分なんてない」という言葉がありましたけど、私はこの言葉がとても好きなの。
自分は「愛されるにふさわしい人間だ」と思って生きればそうなるのかと思ったりします。
本当に愛されるかどうかは別としてもね。
人が自分に誇りを感じるのに、他人と比べて、または大勢の中に抜きん出て、
決して何かに「秀でていなければならぬ」必要はないのだとも気づかされます。
誇りを持って生きたいと思えば誇り高き人となっていく。
美しく生きたいと思えば人は自然とそういうふうに生き、内面から美しい人となり、何かに、誰かに、ふさわしい人でありたいと願えばふさわしくなるのかもしれません。
「人は僕の肌の黒さを見る。でもチョコレートにはコクがある。僕の中身を見てほしい」と歌う黒人の青年はとても魅力的でした。

マイノリティであることは辛いことではあるけれど、容姿であれ、年齢であれ、性差であれ、人種であれ、学歴であれ……あらゆる差別が人を貶(おとし)めたとしても、それを理由に自分で自分自身を貶め苦しめる必要はない。
人生を明るくするのは自分次第。
「暗闇に光が照らされる。それはたどって来た道を知るから」という黒人ママの歌にそのメッセージを感じて胸を打たれました。

それで最後にまったくの余談だけど
私はどうも赤い薔薇を愛する人を愛する性分らしいけど(笑)
私自身はどちらかというと、白い薔薇のほうが好き。
花言葉は「私はあなたにふさわしい」
この言葉を聞いたとき、最初「ずいぶんと自信に満ちた言葉ね?」と思って引いてしまったものだけど、この言葉はそういう自信家のものじゃないのだと最近思います。
それは、ある意味とても奥深いのかもしれないわ。