「静寂の音が、聞きたい」
確か一年前に、そう書いた。
その少し前から耳鳴りが続くせいでもあったが、それだけでもない。
2014/09/23 「大いなる沈黙」
【監督・脚本・撮影・編集】フィリップ・グレーニング
「カトリック教会の中でも特に戒律が厳しいカルトジオ会に属するフランスの男子修道院、グランド・シャルトルーズの内部を、初めて詳細にとらえたドキュメンタリー。ドイツ人監督フィリップ・グレーニングが1984年に撮影を申請、それから16年の歳月を経て許可がおり、音楽・ナレーション・照明なしという条件のもと、監督ひとりだけが中に入ることを許された。」
この映画はどこの映画館でも上演しているような、そういう大人気のエンターテイメント作品ではない。
誰もが観るに向いているとも思えない。
一番向いてないのは子どもだろう。
次に向いていないのは、疲れている人、睡眠不足の人かもしれない。
それからもちろん、はなからこういうものに興味のない人だ。
これを観るにあたり、日々に疲れている私は前日にいつもより早く就寝し、映画を観る前にコーヒーを飲み、ご丁寧に眠気防止の錠剤まで飲んだ。
そうまでしてでも観たかった。
自然の中に静かに立つ修道院の内外と、そこでひたすら祈りを捧げ生活する修道士達の姿が延々と流れる三時間弱。
彼らの一日のほとんどは沈黙で過ごされる。
ストーリーも音楽もない、台詞さえもないドキュメンタリー映画だ。
けれども全く音がないわけではない。
風や木々の揺れる音、小さな虫の羽の音、修道士の頭をまるめるバリカンの機械音、布地に入れる鋏の音や、野菜を刻む音・・・
日常で何気なく聞き流す音の、なんと豊かなことか。
そして、神に捧げる詠唱の声。
静謐であるがゆえに耳と心が研ぎ澄まされていく。
淡々とした時の流れを感じながら、少しも退屈ではなかった。
観る前に「三時間は長いだろう」と思ったが、何故か終盤に近づくにつれて「もっとずっと観ていたい」と、この清浄な時間の終わりが惜しまれた。
この映画のHPには、こう書いてある。
「音がないからこそ、聴こえてくるものがある。
言葉がないからこそ、見えてくるものがある。」
沈黙の中で、修道士は、そして私は何を聴き、何を見たか・・・
最初と最後に聖書からの引用がある。
「主の前で大風が起こり、山を裂き、岩を砕いたが、主はおられなかった。
風のあと、地震が起こったが主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かなやさしいさざめきがあった」
魂に聖域があり、それを見出し呼ぶ者だけに、神は現れるという。
全身全霊で耳を傾ける者には、神の声が聞こえるらしい。
それは、無宗教の私にとって、禅と同じように思われた。
神も仏も同じようだ、と言ったら双方に叱られるだろうか。
けれども、いずれにしても、欲のない清らかな魂こそへ慈悲の救いがあるに違いない
最後のほうで静かに語りだした盲目の修道士は、「死は怖くない」と言った。
死は神の元へ行くことだからだ。
そもそも宗教の興りとは、死の苦しみや恐れから逃れるために始まったと、聞いたことがある。
修行を極めた修道士に死の恐れがないのは、当然といえば当然だ。
彼は神の「静かなささやき」を聞くのだろう。
俗世から離れ、長い年月を自然と共にゆっくりと静かに老いてゆく彼らが、少しだけ羨ましかった。
興味のない人へ、この淡々とした映画のどこが良いのか説明するには難しいが、私は観て本当に良かった。
物語も音楽もないこの映画を、いつかもう一度観てみたい。
静寂と旅する映画「大いなる沈黙へ」