今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

映画「モンスター」

2013年04月29日 03時16分02秒 | 映画

「モンスター」
【原作】百田尚樹
【監督】大九明子
【出演】高岡早紀/加藤雅也/村上淳/大杉漣/他

つい一週間前のこと。ふらっと立ち寄った書店で見かけて、何気なく手に取った同名の原作、「モンスター」が面白そうだったので買ってみたら、つい惹きこまれて一気読みしてしまいました。
それでネットで検索したら、これが映画化されて土曜日から封切だとか。
それがね~、R15+の大人向けってこともあるのでしょうが、近所の映画館ではやってないんですよね。
なので、渋谷まで出かけて観てきました。

  

瀬戸内海の古い田舎町。
東京からやってきた町一番の噂の美女は、実はその昔、化け物と呼ばれて蔑まれ、酷く虐げられていた女だったのだ。

という、整形美女の物語。
自分に酷い仕打ちをした男たちへの復讐劇でもあり、それと同時に、初恋の、悲しい純愛物語でもあったけど……。

これね、とにかく小説の、醜い女性に対する世間の男女の、そのあまりにも惨く心無い態度とか、美容整形の凄まじさとか、美女を好む男たちの愚かさとか、それらの描写が本当にリアルに書かれていて胸に迫るし、美についてのバランスとか、男性の本能や心理とか、なんかあちこちと説得力もあるし、切ないし、悲しいし、いろいろと思うところが沢山あるんですけど、まあ、ちょっとこれを書くのって難しい。

何が難しいかっていうと、人の容姿の美醜については、私は子供の頃からいろんなネタがあって、そのせいか美醜についての自分の価値観は、ちょっと他人とは違うような気がするんですよね。
なので、そんな脱線話から語りはじめたら延々と長くなってしまいそう。

って、語ることもないのか(笑)

でも、私にしたって、自分がこの主人公ほどに醜くなくて良かったと、一度も思わなかったかと言うと嘘になってしまいます。
他人の容姿が良いにしろ悪いにしろ、あれこれ噂したことがないなんて言ったら、全くの偽善です。
自分がお化粧するのだって、ダイエットするのだって、やっぱり、少しでも今よりましに見られたいと思うから。
表面上の美の優劣から、決して逃れられないでいます。

本能で、人は美しい者を好きにならずにいられない。

「内面を磨いて内側から美しくなりたい」なんていうのは、まず外見の最低ラインをクリアしている女性たちの贅沢な欲求かもしれません。
そう思うほどに、この物語の主人公は、顔のせいで酷い仕打ちを受けて育ち、多感な少女の頃は、同級生達からはもちろん、家族からも疎まれ、友達すら一人もいなく、ひたすらバカにされて悲しく暗い日々を過ごしていました。
そして、恋をし、ある事件を起こしてしまいます。

などとね、さすがに封切したばかりの映画のストーリーや、ましてや結末をネタバレするのは止めておきますが、整形手術でどんどんと顔を変え続け、しまいに美女となっていく様子を見るのは、ある意味快感でさえありました。
高岡早紀さんは、二時間もかけて特殊メイクで醜い顔を作ったそうですが、鏡でその顔を見ると、辛くて気持ちが暗くなり、自然と俯かずにいられなかったそうです。
うって変わって、本来の顔(映画の中で整形後)の、華やかで、なんと美しいこと!!

けれども、ただ美しくなったからといって幸せになるかといえば、そうはならないのが、この手の物語。
美女は美女で、ただ容姿だけで愛されているのかと思うと満たされません。

ありのままの私を見て、受け入れて欲しい。そして愛して。
それは、恋するすべての女性たちの願いかも。

そして!
私は小説のほうでラストを読んでいましたが、映画ではそれが違うんですよね!
それで、見終わってから本を開いてみたら、なんと! 小説の最後の2ページの「エピローグ」を読んでなかったんです!
ばっかじゃないの?!
その「エピローグ」があるとないとでは、ラストがだいぶ違います。

でも、映画では、「エピローグ」が少し変化していて、更にワンシーンが付け加えられていました。
救いの先が違うので、主人公にとってはどうかわかりませんが、私はこの映画版のラストシーンが好きだと思いました。

エンディングに流れた曲、「君待てども」の、山下洋輔さんのピアノ、高岡早紀さんの甘い声も素敵でやるせなく、この歌を聞きながら、最後には目が潤みました。

  

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映画「ライフオブパイ」

2013年04月20日 03時46分05秒 | 映画

 ※この記事は私の極めて個人的な感想であり、しかも重大なネタバレを含んでいますのでご注意ください。
また、下記に書く登場人物の台詞はみな私のうろ覚えなので、正確さに欠けることを予めおことわりしておきます。

と、改めて書くのも、なんだかなぁ……いつも、そんなだし(笑)

  

もう一度観たい。
観終わって、すぐにそう思いました。
その気持ちが一ヶ月経ってもまだ消えなかったので、どうしてもと思い、東京でまだ上映されていた池袋の映画館の、最終日に駆け込みで二度目を観てきました。

この映画は他に類を見ないストーリーだったと思います。
海にひとりで漂流する物語といえば、私は昔読んだ小説の「老人と海」(アーネスト・ヘミングウェイ)を思い出しますが、これはトラと共に漂流する少年が主人公ということで、見る前には、獰猛で危険なトラとの、ある意味で友情物語なのかと予想していました。
それが、全くそうでもないとも言い切れないものの、話として全く違うものでした。


で、この映画の最後に、漂流の時から長い時を経て大人になった主人公が言うんですよね、
「これは神の話です。」と。

私は特定の神を信仰してはいませんが、ラストで大きく納得し、心からそうだと思いました。

物語は、あるカナダ人の小説家が書くことに行き詰まり、パイというインド人を訪ねることから始まります。
そしてその語られた奇跡の話は、パイがまだ小学生くらいの、幼い頃からの回想から進みます。
それは漂流生活とは関係ないようで、後から思うと、彼とその物語を理解するのに、とても重要なものでした。

そのひとつは、パイという名の少年は、子供の頃から神という存在や、目に見えないものに対し、とても影響を受けたり感じやすい子供だったということ。
この子は、そのうちにカトリック、ヒンドゥー、イスラム教と、三つの宗教を同時に信仰するようになり、それぞれの神を信じ、殺生を禁じ肉食をしない、ベジタリアン(菜食主義者)となります。

その食卓の会話で、パイの父親が彼に忠言します。
「全てを信じるのは、何も信じないと同じだ」、と。
そして、
「疑いこそが、信仰を強くする」、とも。

私はこの言葉に深く共感します。
なせなら、その逆もまた真なりと思うので。

それは、「何も信じないのは、全てを信じるのと同じ」で、「信じる必要がないのは、何も疑わないから」という気がするからです。
最初から疑う心がなければ、信じるかどうかに意味はなく、「信じる」という言葉は、疑う人のためにあるとさえ思います。

話は違うようですが、思えば、私は誰かから「私の愛を信じて」と言われたことも、「あなたの愛を信じる」と言ったこともないです。
「愛を信じてくれるか?」と聞かれたこともありません。なぜなら、いつの時も、その時々で、愛を一度も疑ったことがないのだから。

「自分を信じろ」という言葉も、では、自分の何を疑うのかとも思う。
今の自分をあるがままに受け入れようとすれば、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
希望も絶望も、どちらもあるといえばあるし、ないといえばない。
目に見えぬ愛も、神も。

なので、どのような神も、「きっと、それぞれの人の中に確かにいるのだろう」と疑わない自分には、殊更にひとつの神を信仰する必要がないのだろうと、時々そんなふうにも思います。
だから、どのような宗教であれ、哲学として興味深いと思い、どこの神社でもお寺でも、教会でも、ある意味節操なく、その時々で、そこにいる神や仏を疑うことなく、いつわりなく手を合わすことができます。

実際に目にしたことがないからといって、その存在を否定することは愚かだと思う。
けれどもまた、目に映らないものを、他人の話で鵜呑みにするのもまた愚かだ。
この現実でさえも、人それぞれの視点が捉えたものに過ぎないのだから、人が思う「真実」とは、人の数ほどあると考えて良いのではないか。
だから、真実とは、そして、神も、それぞれの勝手な(個人的な)ものであり、共通する「絶対なもの」でなくて良いのではないか。

…って、信仰心の深い、どこかの信者が目にしたら怒られそうですけど(笑)

ですから、そんなわけで、誰かと共通に認識する「神」を持たずとも、この私にも神は感じられます。
私の心の中…私だけの真実に。


なんて、これらの話は、「トラと漂流した少年」の話から、大きく脱線しているようでもありますけど、私の中ではそうでもありません。
でも、ストーリーに戻りましょう(笑)

パイ少年が成長し、恋をするお年頃になった頃、この事件は起こります。
家族がインドからカナダへ移住するために乗った船が、大嵐で沈没し、パイだけが、小さなボートに一人で残されてしまいます。
しかしそのボートに乗ったのは、彼だけではありませんでした。

怪我をして、ぐったりと横たわったシマウマ。
船酔いした大きな体のオラウータン。
シマウマを食らおうとして、オラウータンと争うハイエナ。

そして、ハイエナがオラウータンを襲って殺した瞬間に、あたかも怒りの逆襲のようにいいきなり船底から飛び出した、ベンガルトラのリチャード・パーカーです。

ハイエナがシマウマとオラウータンを殺し、トラがハイエナを殺したことで、まもなくトラと二人(?)きりになったパイ少年は、この獰猛なトラと向き合うことをよぎなくされて、トラへの恐怖と戦い、孤独と戦いながら、なんと227日という長い月日を漂流しつづけることになります。

ボートは救命のために道具や食料が装備されていて、ビスケットや水などもありましたが、トラはそれで足りるはずがありません。
パイは上手くトラとの距離を測りながら、トラを飢えさせないために魚を捕り、その合間に延命のための色々な知恵を絞ります。
生き延びるための、そのギリギリの中で、彼もまた魚を食べます。
彼はベジタリアンでした。
それが、どれほどに大きな出来事なのかは、そうでない人には想像を超えるものがあったのでしょうね。
大きな魚を夢中で殺したとき、少年は泣きながら魚に許しを請い、天に向かって叫びます。
「神様、僕を助けるために、魚に姿を変えて(食べられに)来てくれてありがとうございます」、と。

そのあたりからでしょうか、パイの漂流生活…というか、この物語は、やがで衰弱しつつある彼の目に映る出来事が、その美しくも恐ろしい海の映像と共に、どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、その境目がよくわからなくなってきます。
光るくらげや、海面を跳ね上がる大きな鯨の姿、そして、なんとも不思議な、誰も知らぬ肉食の島、その島に住むミーアキャットの群れ……。
まるで、ファンタジーを見るような、3Dの、それはそれは美しい画面に見入っているうちに、私はそれらが真実かどうかという、疑問を持つことすらも忘れていました。

そして、トラとの長い格闘と葛藤の日々の中で、少年は獰猛な肉食獣のトラを受け入れ、そのうちに猛獣使いのように飼いならし、共存し、いつしか心を通わせた……その展開は当初に私が想像した通りで、予想内とも言えたでしょう。
ところが、227日目にようやく陸にたどりつき、力尽きて倒れた少年の目に映ったのは、海辺の森に向かい、振り向きもせずに去っていったトラの後姿でした。
一番悲しいのは「さよなら」も言えずに別れることだ。
それは、家族を失った少年の言葉でしたが、トラとの別れにも少年は号泣します。


さて、これからがクライマックスです。

救助されてベッドに横たわり療養中の少年に、保険会社の日本人がこの顛末を聞いて言うのです。
「そんな話は信じられない。我々は報告書に書けるような、誰もが納得する本当の話を聞きたいのだ」、と。

そこで、少年が話した、この漂流で起こった小さなボートの中での、もう一つの物語……驚くべきアナザー・ストーリーが語られます。
動物も、幻の島も登場しない、現実的な話です。

ボートの中には、動物なんかいなかった。
いたのは、四人の人間です。

足に怪我をした、仏教徒の中国人。
野蛮で悪賢い料理人。
少年の母親。

そして、少年こと、その名は、パイ・パテル。

野蛮な料理人は、中国人の足を切断し、その肉で魚を釣ろうとしました。
それに怒った母親は料理人を殴り、しかし、彼にナイフで刺されます。
それを見たパイは、逆上して料理人を殺してしまう。

シマウマは中国人で、ハイエナは料理人、オラウータンが母親。
そして、トラは……少年。

ああ……

それまで夢中で見ていた、あのトラと少年の日々は何だったのか……。
少年は何と戦い、何を受け入れ、そして、何と別れたのか……。

神とは、真実とは何なのか。

信じることとは、どういうことなのか。

しかし、既に大人になり、今は幸せに暮らすパイは、その長い物語を語った末に、カナダ人に問います。
「動物の話と、人間の話。あなたは、どちらを信じ、どちらを良い話だと思いますか」

するとカナダ人のライターは言うんですよね。
「今はこの話をどう受け止めていいのか、僕にはわからないが、けれども、僕はトラの話のほうが良い物語だと思います」

この時、「良い」というのに、「better」ではなく、「best」と言っていたのが印象的でした。
話はそこで終わりましたが、私は、そのカナダ人のライターには、この後、彼の最も良いと思う、彼の「真実」の物語が、きっと書けるに違いないだろうと、そう思いました。
そして、どのような物語も、真実でなければ感動に値しない、……とも。

ほんとうに、
やはり、これは、「神の話」だったと思いました。

いつか忘れた頃、またもう一度見たい映画です。

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リーディングドラマ 「その後のふたり」

2013年04月14日 17時31分41秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

2013/04/09
リーディングドラマ「辻 仁成 その後のふたり」 @天王洲・銀河劇場



【作・演出】辻 仁成
【音楽】Arico
【ステージング・ディレクション】広崎うらん
【出演】中川晃教 / 朝海ひかる / 鈴木陽平・所夏海(ダンサー)

※この感想は盛大にネタバレしている上に、大変まどろっこしいのでご注意ください。

パリのマロニエと聞くと、昔聞いた細川俊之さんの深夜ラジオを思い出してしまう私です。
古い、古すぎるっ
え~、だけどマロニエって何、マカロニじゃないよね?
なんて当たり前よ、マカロニならフランスじゃなくてイタリアだもんね~。 
などと、相変わらずバカでごめん。
はいはい、マロニエとは花、というか木ですよね、↓こういうの。


しかし、話はのっけから脱線したけど、物語にパリの描写が含まれると、いかにも灰色の空がお似合いのアンニュイでオシャレな感じがするけれど、物語の軸としては、パリが北海道でも九州でもさほど変わらなそうな、いわゆる男女の恋愛を中心にした物語。

私はテレビドラマなどはともかくとして、こういう朗読劇でもなければ滅多にこういった現代ものの、いわゆる「恋愛小説」を読むことがないので、なんだかとても珍しい思いで聞き始めましたが、それを言っちゃ、今まで観た舞台のほとんどの原作だって読んでない。
なので、舞台を観るごとに「知らない世界」を見せてもらうことになるわけですね。

それで、この朗読劇は音楽とダンスを融合させたものになっていましたが・・・これもひとつの流行なんでしょうか?
去年観た「100歳の少年と12通の手紙」でも音楽があり、中島周さんのコンテンポラリーダンスもたっぷりで、単なる朗読に留まらず、複合的で見応えのある舞台でしたものね。
でも、あれは演出もダンスも、前もってしっかりと考え抜かれて振付けられた土台があって、予定外の面白さというのは、その範囲内で個々の役者さんやダンサーの個性にゆだねられているという程度。
まあ、ダンスはコンテンポラリーですから即興の部分も多かったのではないかと思いますが、この舞台ほどではなかった筈です。
けれども、この「その後のふたり」には、演出家ですら予測もつかない、その場で表現されるImprovisation(即興)が必要とされていたのだとか。
すると、どうなのでしょう。
出演者の即興によって、話が微妙に違ってしまうのは……。
たぶん毎回この舞台は違うものになっていたのでしょうけど。
微妙にでも役者さんの解釈や芝居が違ってしまうと、物語の軸がぶれるし、この物語の、「そのまた後のふたり」の方向も違って見えるはずです。

私の観たのは、中川晃教さんと 朝海ひかるさんの回のみです。
(最近、平日の夜の予定が立たなくて、ちょっとあきらめ気味でしたが、なんとか間に合いました。)

そして、もちろん(というのもナンですが)原作を読んでませんでしたが、映画を観た友人達の話を聞いて想像していたのとはだいぶ違う話なので、途中で吃驚しました。
二人が異母兄妹だったこと。
脚本にこれがあるのと無いのとでは、まるっきり話が違います。
血のつながり…血が呼び合う運命と、二人の両親への想い…そしてタブーに対面し、この恋が一気にありきたりの普通の恋とは違ってきました。
七海が「神の冒涜」とも思い、畏れていたこの関係をどう乗り越えて「ラストシーンは二人のキスで終わりたい」と思ったのか。
そして、舞踏家との恋で、性愛どころかダンス以外では触れ合うことすらない、いわば「魂の触れ合い」のみの関係(この時のダンスシーンがとても良かった!) を経験したことで、「こういう愛もあるのだと思った」という、七海のその想いの有り様なども、血のつながりがあるかどうかで、まるで違うように感じられます。
恋愛において、切り離せないと思いがちな肉体とは何なのか……?

そのような中、純哉が度々と「やり直そうと思った」ということ、そして、最後にキスをしたのはどんな想いだったのか…。

そう、この回では、突然に演出の予定以外で中川晃教さんが七海にキスをしたんです。

ひと度は越えられぬと別れたにもかかわらず、やはり「愛している」という思いが抑えられず、別れられないと思ったのか。

…う~ん、どうもねぇ、七海がラストでしたかったキスと、純哉がしたキスとでは、なんだか違うもののように思うんですよねぇ…・私には。
七海はフライヤーの言葉のように、『男女の新しい恋のカタチ』を模索していたようにも見えたし。

なのに、あっきーの純哉のあのキスでは、あのまま二人はまた恋愛関係を再開してしまいそうな感じ。
だとしたら、それほどまでに七海の病気は重いものだったのか?? などと私は想像しましたが・・・。
近親恋愛の重みというのは、子供を身ごもる性であるだけに、女性の側のほうの畏れがより大きいと思うんですけど・・・。

まあ、なんというか、この舞台はImprovisation(即興)を見せてくれるという意味で面白いものでしたが、この恋もやはり衝動的な方向に行き、人の人生なんて予測不可能なものなのね。

ってのが、つまり私の感想の結末だったりして(笑)

ところで、長いついでですが、こういった兄と妹の恋愛物語を見ると必ず思い出すのが、私は従兄のこと。
私の従兄のお父さんは私の母の兄で、お母さんは私の父の姉。
というと、なんかややこしいですが、両親がどちらも兄妹なので、二人の祖父母四人は同一人物で、ルーツがまるで一緒です。
このお兄さんと私は、どれだけ血が濃いのかよく解りませんが、この物語の二人・・・異母兄妹よりもずっと血が濃さそうです。
先祖に、他人の血が一滴も混じっていないもの。
けれども、日本では、いとこ婚というのは許されていて、タブーじゃないんですよね。
子供を産むかはどうかは別としても、結婚しても法律的には支障がないんです。
すると私は、タブーとは、つまり人間が勝手に線引きした決まりにすぎないとか思ってしまう。

かなり年上の女性と関係していた純哉に向かって、七海が「一回りも上の女性と付き合っていたの?」と言うくだりがありましたが、近親恋愛をしていた彼女にしても、自分の常識の範囲外の恋愛に眉をひそめていたのが私としては興味深かったりして。

でもまあ、私は従兄と恋愛しなかったので、ひとつも悩まずに過んで良かったと、改めて思いましたけど(笑) 本当に愛したならば、もしかして結婚したかもしれません。
純哉と七海も、いっそパリにでも移り住んで、タブーから逃れ、そ知らぬ顔で生活ができるならば、この二人のその後の恋も続くのかな・・・なんて、そんな感じもした非常識な私は、やっぱり、恋愛小説を読むに向いてないのかも(笑)

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かめもとみのり 木版画展

2013年04月07日 02時57分19秒 | 美術館/博物館/展覧会

浦安の小さなギャラリー「どんぐりころころ」で開催中の、「かめもとみのり 木版画展」に行ってきました。

亀本さんとは、もう6年くらい前になるのかな? 私がmixiに感想記を書き始めてしばらくしたころ、舞台の話をきっかけに知り合いになった方です。
たしかその当時は画家として活動休止中だったようで、私は彼女がこういった作品を創る方だとは知りませんでした。
どこでどんな人と出会うかって、わからないものですね~。

浦安の小さなギャラリー「どんぐりころころ」に行くのは二回目。
前は「鬼」をテーマにした、たくさんの作家さんたちの共同展でしたが、今回は個展ですから彼女の作品のみ。
ブログなどで拝見していた作品の実物が見られて、写真ではわからなかった版画独特の刷りの風合いがよくわかりました。



彼女の作品は版画なので、同じ作品でも、一枚一枚に乗せる色合いにより世界が変わって見えたりします。
わりと原色が多く、黒い線とともにインパクトのあるそれは、まるでステンドグラスのようだと言われることもあるそうです。
モチーフも天使などがあり、そう思えばキリスト教的なテイストもありますが、私はどちらかというと仏教の要素を感じます。
この↑上の写真の右の青い絵などは、中央が天使のモチーフで、背景はどことなく曼荼羅を思い出させます。
めずらしく原色ではなく全体的に淡い青を乗せた作品で、これはこれで素敵ですが、これなども違う色合いで刷れば、もっと曼荼羅ふうにも、またステンドグラスっぽくもなりそう。
それを思うと、版画って面白いですね。
彫り上った時点で、色によるイマジネーションの幅だとか、さらに進化する可能性を残しているところが面白いと思います。

版画絵は大きめのものですと、一枚を彫るのに三ヶ月かかり、刷るのにも体力がいるそうで、何度か重ね刷りもし、一日に三枚も刷ったらかなり疲れるのだとか。




最近では、生演奏の音楽とコラボレーションしながら製作過程を見せるイベントをしたりと、意欲的に創作活動を続けている亀本みのりさん。
彼女の作品は個性的で、その「亀本ワールド」ともいえる独特の世界には、暗さと鮮やかさが同居しています。

それにしても、私の写真の撮り方が下手
これじゃあ作品がよくわかりませんよね~。
一枚にたくさんの作品を写して欲張りすぎでした(反省)

ところで、亀本さんはここ数年で絵本なども創作していらして、この個展では去年の作品で「雲姫」という作品が見られます。
物語の文も彼女の創作で、雲のお姫さまが太陽に恋をするという、可愛らしいお話です。

そして、今年はなんと! 新しく作成する絵本は、文章のほうを私が書かせてもらうことになりました。
私が書くと文字数が多い(笑)
去年書き上げたそれは、小学校の低学年用にと、なるべく削って削って削り倒しましたが(笑) 個展が終わったら、その私の書いた物語にいよいよ絵を彫ってくださるそうで、11シーンと表紙をあわせて、全部で12枚の絵で出来上がります。
とっても楽しみ!!


この個展は、東西線の浦安駅から五分ほど歩いた、民家の合間にある小さなギャラリー「どんぐりころころ」で、4月8日まで開催しています。
作品はその場で購入することができますが、もちろん見るだけでも!
お近くの方は、ぜひともお気軽にご覧になってみてください。

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映画「ストロベリーナイト」2013/02

2013年04月05日 23時38分29秒 | 映画

いまさら感想記その3

今年に入って観た映画 「ストロベリーナイト」

  


教訓。

上司からの部下への褒め言葉は、短いほうがぐっとくる。

志(こころざし)の高い仕事をしたければ、まず下から尊敬される人物であれ。

男が多少は強引でないと、恋愛は進まない。


…って、上司になる予定もなければ、ましてや男に性転換する予定もないので、私には関係ないけど
姫川玲子は何気に部下を嬉しがらせるのが上手。
「**、よくやった!」
みたいに、的確なタイミングでスパっ!と言われると、ぐっとくるかも。
言われた人に照れたり恐縮したりする間を与えないのもナイスだわ!
褒めるのって、だらだら長々と言えばいいってもんじゃないのよね。
尊敬する人や慕っている人の言うことならば、短いひと言で充分に嬉しいだろうと思う。


竹内結子さんは、まじカッコよくて魅力的でした!
翌日は思わず私もグレーのスーツを着て出社しちゃったわ(笑)
ちょうど去年の暮れに、ビジネス用にと、ハーフ・オーダーで濃いグレーのスーツを作っておいたのね。
おかげで、「ストロベリーナイトごっこ」ができました(笑)

そして、
「こんなの、絶対おかしいです!!」
とか、
「なめてんじゃないわよっ!!」 
などと言ってみる。

ただし、胸の中だけで、ね

いや~、ハマッたなぁ~!
テレビドラマを見ていた時は、「西島秀俊さん、素敵。こんな男にそばにいてほしい」とか思ったのに、映画ではやっぱり、「大沢たかお、素敵~っ」なんて、あっさり寝返りました。

うん、なので、今度もまた言っとかなきゃね。

きゃあ~~っ! たかお~!、素敵~!
どんな役でも、何しても、だんぜんカッコイイ~! 素敵~~っ!

大沢たかおさんを見てこれ言うの、なにせお約束だから(笑)
でも、ほんとに大沢たかおさんって、どんな役で見ても魅力的!
ラストに泣けたわ。


そうそう、これを観たのは二月だから、もう二ヶ月も前のこと。
でもまだ劇場でやっているんですって?
やっぱり人気のある映画は続くなぁ……
テレビでも映画でもどちらでもいいから、ぜひ続編が観たいです。


今年は一月からわりと映画を観ています。
ざっと数えて6本…かな。
これからどれだけ「いまさら感想記」が書けるかわからないけれど、ぼちぼちと思い出して書いておこうかしら。
例年にくらべて観劇数も少ないしね

なので、「いまさら感想」は続く。

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