今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「コースト・オブ・ユートピア」2009/9/23 

2009年09月23日 22時33分51秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
第1部 VOYAGE-船出-
第2部 SHIPWRECK-難破-
第3部 SALVAGE-漂着-

阿部寛、勝村政信、石丸幹二、池内博之、別所哲也、長谷川博己、村尾敏伸
紺野まひる、京野ことみ、美波、佐藤江梨子、水野美紀、栗山千明、
とよた真帆、毬谷友子、瑳川哲朗、麻美れい 他


ユートピアとは「理想郷」と訳されてはいるけれど、元々は「どこにもない場所」という意味であり政治的空想です。
…なんて、知ったようなことを論じ続けるアタマが私にあるわけはなくて(笑)
ここに登場するロシアの耳慣れない名前のついた男達が朗々と論じる理念だとか哲学は、ところどころ面白いけど基本的にわけ分からないです。
というか、これだけ長い芝居だと、時としてぼぉ~っと聞くことになって、一生懸命聞けば聞くほど右の耳から左の耳へ…ってますますぼぉ~としちゃう場面もありました。
だいたいロシアやヨーロッパの近代史の基本的な知識もなければ、地理さえアヤシイのに、政治論だの思想だの革命だのって、私の理解の範疇を軽~く越えているのよね。
だから私は分けわかんなくても「ま、いっか~」と早めに割り切ってサクサクと観ました。
そういえば、同じロシアの作家ゴーリキの「どん底」に登場する巡礼者ルカが「何を喋るかは問題じゃない、なぜ喋りたいかなんだ」と言ってましたっけ…。

この舞台は三部構成で全部通して9時間もかかるという大作です。
なので、感想もどこからどこをどう書いたものやら悩みます。
要するにこの話の行き着く先は、「ユートピアなんてどこにもない、だから辿り着くことはできないのだ。それでもなお我々は進まなければならない。人が理想を目指して進み続けることが大切なのだ」とまあ、ひと言で言えばそういうことになるんだろうと思います。
最後にそう言ってたし(笑)
そして、理想郷を目指して進み続けた男達がここロシアもいて、その船出や航海はこんな風でしたと、彼らの人生を通して見る大河ドラマなわけで、男がいれば当然女も絡み、夢とか愛や友情もあれば、挫折や失意、別れもあったりとてんこ盛り。

で、ところどころ興味深いと思ったのは、男達はユートピアという遥か遠い場所を夢見て目指し、だけど彼らは治世者でもなく政治家でもないのでそれに語られる言葉はことごとく机上の空論に聞こえなくもないです。なにせペンにより社会を変えようとしているわけですから。
そしてそのプロレタリア(労働者階級)ではないインテリゲンチャ(知識階級)の男たちの脇にいる女達は、どの階級の女たちも大抵そうであるように、目の前の恋人とか子供とか、そういったごく近い場所の現実を見ているのよね。
その近い現実の話がアチコチに絡んで、突然愛人の話になったり奥さんの浮気話に苦悩していたり、子供もいつの間にかボコボコと産まれているし、その子供がまた、いったい父親は誰だ?やっぱコノ人?とか(笑)、ほんと人が生きているとその営みっていろいろとあるもんだなぁ~って感じです。

私が面白いと思ったのは、第2部で、ゲルツェン(阿部寛)の奥さんナタリー(水野美紀)がゲルツェンの友人ゲオルク・ヘルヴォーグ(村尾敏伸)と浮気してバレてしまうところなんだけど、
その時、ロマン主義にかぶれているナタリーが言うには、「私のゲオルクへの愛にはエゴイズムはない、彼を愛することは世界を愛することなのだ」、とかって、何やら彼女の愛の哲学を語ることで夫に言い訳をしているって感じで、言うことは分からなくもないけど、なんか「この男にしてこの女あり」と妙に感心したりして(笑)
それで男が納得するわけはなく、ゲルツェンが「エゴイズムは愛の敵ではないが、愛の糧になる」なんて、ややこしく苦悩しちゃっているのも面白い。
ナタリーは二人の男を同時に愛することは可能だったかもしれないけれど、二人の愛する男を同時に満足させたり救うことはどうやら不可能だったのね。
それで「ゲオルクと別れたら私は病気になってしまうが、ゲルツェンと別れたら私は死んでしまう」と開き直ったナタリーがその後に産んだ子供って誰が父親? って、なんか私は困惑したけど、でも夫婦は愛し合っていて、その後にナタリーが船の事故で亡くなってからは、彼女が妙に神聖化されていたりしてね、…もう、ナタリーってどんだけイイ女だったんだか。

まあ、この長~いお話のたくさんあるエピソードの中で、この話だけを殊更に抽出するのもなんだけど(笑)そんな愛や別れを経験する過程で、ゲルツェンは「現在の幸福も手配できない我々が、未来の幸福を手配しようというのは思い上がりだ」とも言います。

そこでまた、それじゃ「人間の幸福とは何か」という問題もあって、第1部に軍隊生活に嫌気が差して除隊したミハイル・バークニン(勝村政信)が言い訳(?)にしていた「人間の真の幸福とは外的(物質、現実世界)な幸福ではなく、内的(内面、精神世界)の幸福にある」なんて哲学を思い出しちゃったりして、でも、それを言ったら政治だの社会だのってどうでも良いことになるんじゃないの?なんて、振り出しに戻って私はお莫迦なりにもぐるぐるして楽しかったです(笑)

だけど私としては、物質世界から切り離された自分の精神世界の完全な幸福なんて狂気に至らなければ行きつけないと思うし、でも人は現実を生きるわけだからそうもいかないしで、哲学は面白いには面白いけれど世の中にも個人の生活にも実質的には役に立たないものなのね、
って、それが最終的な感想という訳じゃないけど、なんかそこが妙に残ったりしてね。

まあそれにつけても、長~い、長~い舞台でしたよ。
そのわりに長くは感じなかったけど。その台詞の膨大な量、言葉の奔流を思うと、この台本の厚さは如何ばかりかと思うし、それを覚えた役者さんたちにはひたすら脱帽するばかりです。
それに、これだけ長く観ていると、役者さんの個々の力量の違いで言葉の力や聞き取りやすさの差を感じずにはいられません。
特に阿部寛さんの台詞の量は半端じゃなくて、その内容も難しいです。
ところが、阿部さんの声はよく響いて聞き取りやすく、そしておそらくその半端じゃない量の台詞をとてもよく理解しているからなのでしょうね、想いが伝わって、難しくても阿部さんの頭の良さからくる理解力と演技力のおかげで、こちらのアタマにもすんなんり入ってくれる感じがしました。
この長くて難しい台詞がいっぱいの舞台を飽きずに観ることができたのも、阿部さんが主演だったからという気もしました。
顔も姿形もカッコ良くて魅力的です。

そして長い航海の果てのカーテンコールでは、充実感と達成感ある笑顔を浮かべる役者さんたちの側から客席に向かっての拍手もあり、互いの健闘を称え合うような、まさに同じ船に乗った者同士の帰港の喜びといった雰囲気もあり、これを経験した者だけが分かる疲労感ありつつの、とても暖かいカーテンコールでした。

「ジェーン・エア」2009/9/21 

2009年09月21日 22時35分08秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)
感想が書けません。

今まだネタバレするのが嫌だから。
ネタバレしなきゃ私はちゃんと感想が書けないから。

私が一番見たかった女性、一番望むラブ・ストーリーを観させてもらったような気がしました。
休憩時間にパンフレットを買いに走ったのも、終演後すぐに窓口で次のチケットを買ったのも初めてです。

橋本さとしさんを初めて「超素敵」と思いました。
笑えないくらい素敵でした。

最初のあたりから幾度も涙がこぼれて、またもや一人で鼻をすすってしまっていたのが周りに恥ずかしかったです。
だけど三階席でたった一人でスタオベしたのはちっとも恥ずかしくなかったです。

これはいっそ
「松たか子の」ジェーン・エアと銘打っても良いと思います。
土曜日にまた観ます。今度は一階席です。

「ネジと紙幣」2009/9/19 

2009年09月19日 22時36分46秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
「男はなぜ女を殺さなければならなかったのか?」

正直に言って解りません。
ひとつの地獄を抜け出すために、次の地獄へ行ってしまったということなのかな?
抜け出したことにはならないけど。

答なんかないのでしょうね。
何でもかんでも理解しなきゃならないってわけでもないでしょうし…。

森山未來くん演じる主人公の、
「何処からが始まりか考えているんだ」という台詞が妙に頭に残ります。
始まりを見つけたと思っても、それが始まるきっかけの始まりは何処だったんだろう?と考えるって。

それがわかれば今の自分はこうでなかったかもしれないと思うのかな…。
だから地獄という気もします。(あ、この舞台上で地獄という言葉は出てきません)
始まりが何処であれ、要は無数にある分かれ道で何を選択するかで、人の居場所も有り様も変わると思う私は、それだけ恵まれているのかもしれませんけどね。

だけど、地獄に行く人はしばしば自らと地獄に行きたがっている人のようにも見えるなぁ…。

自分のことを一番心配してくれてそうな幼なじみを、大した理由もなく殺してしまった男が次に見る地獄は、確かにそれまでの地獄を忘れさせてくれるほどのものなんでしょうね。


う~ん、この作品とハコの大きさが合っていなかったような気がするわ。
舞台の両端を切って使っていたし、それこそトラムみたいな小劇場で見たかったかも。
未來くんの集客力を考えたのかもしれないけれど、大きければ良いってわけでもないものね。
それにお子ちゃまな私としては、もう少し話に分かり易い起伏があってガツン!とこなくちゃ、自分が鈍くて今ひとつ感じないな~!
いっそのこと、リアリティのないものが観たくなりました。

「HOUSE!」(阿呆漢字日記)

2009年09月06日 21時27分09秒 | ライブ/コンサート
出演 中川晃教/上村貴子(ピアノ)

1. 「HOUSE ぼくの部屋へようこそ」(即興) 2.「僕こそ音楽」(モーツアルト!)
3.「サンクチュアリ」(PURE LOVE) 4.「人生とはこんなもの」(キャンディード)
5.「人のツバサ」(SHIROH)
6.「The Sun and the Rain~Tomorrow' Just Another Day」(OUR HOUSE)
7.「愛に生きる~Desert Rose」(女信長) 8.「Go to Heaven」(himself)
9.「Without You Girl」(himself) 10. 「チャイナガール」
11.「ツァラトゥストラはかく語りき」
12. Oh People1 3. ありがとう(アドリブ)

一刻千金に値するステージであった。
まるで「ガラスの仮面」だと思った。いや、顧みると、寧ろ「天狼星」の竜崎晶だ。
ビアノの前奏が始まると同時に、其の人は脱力した両腕を伸ばし身体半分を前に折り曲げる。または舞台の隅まで歩きじっと貌を伏せる。
固唾を呑み、私達は待つ
短時間のうちに気持ちを作り上げる。魂を入れている。下ろしている? 
そして、マイクの前に顔を上げたその瞬間、其の人は彼で在りながら彼でなく、別人へと忽ちに変貌していたのである。
嗚呼! 憑依ではなく蓋し、メタモルフォーゼだ!! だから竜崎晶のようなのだ!
否。
やはり違う!これが紛れもなく中川晃教なのだ!

嘗てコンサートで其の様な姿を一度でも見せたことがあったろうか?
以前に見た時はその様なことはしていなかった様に思う。
この日はまるで「そうしなければこの歌は歌えないのだ、歌ってはいけないのだ」というが如く、全ての曲を舞台に立つ時と同様に其々にその主人公と成り切っていた。
そこに彼の真髄があった。
歌に、彼が生きている。歌に、世界が活きている。
私もまた、そこ生きて感じた。
其々の舞台の楽曲に思い出がある人へは、その世界に再び連れ戻すように、
また、初めて聴く人へはその世界の初めての扉を開けて誘うようにと。
どの曲も圧巻だった!
その声は筆舌に尽くしがたく、どのような美辞麗句を並べたところで、とても適いはしないだろう。音、声というものを文章では本当には伝えきれないのは無念だ。
それぞれの世界、その歌のシーンに、悉く魅了され瞬く間に惹き込まれた。
それだけに、歌い終わった後に必ず見せる微笑には、その都度に彼自身に戻った合図の様な気がして、何処かしら安堵の思いすら感じさせられた。

この日、日頃は中川晃教氏を特に贔屓にしていなくとも、彼の舞台を早くから観ていた朋友達にも是非とも聴いて貰いたかった。
二十六歳の中川晃教氏の歌うキャンディードやSHIROHを聞かせたかった。

思えば波乱のうちに幕開けた今年ではあったが、その数多の試練が彼を大きくさせたのだろう。
どのような時も怯まず、驕らず、常に謙虚な心で切磋琢磨の精進の日々は、彼を急速に大人に成長させてしまったようにも見えた。

又、瞠目すべきは、リーヴァイ、バーンスタイン、マッドネス…など、各音楽分野の錚々たる作曲家達の楽曲を歌う直後にして、臆せず衒いもせずに氏自らの曲を投入してきた処だ。
然しそれが何の違和感もないどころか、そこに居合わせた全ての聴衆を唸らせてしまったのには流石に驚かされた。
「チャイナガール」にはト書きのような台詞も入り、聴く者たちは皆、彼の音楽によって作り上げられた同じ幻影を胸に宿し、その泡沫の夢のような歌の世界に恍惚とさせられた。

かくして夜は更け、何時の如何なる時にも楽しき目眩く時間の流れというものへは抗いようもなく、それを止める術があるならば何を以っても代え難いものだと思う。

兎に角、真に天晴れなライブだった!
既に二週間近く経つというのに、時折思い出しては未だに夢現を彷徨っている。

※因みに此の日記はアプリの「漢字テスト」に嵌っているので、折角だから漢字を多用してみたものである。
何事も無駄にしてはいけないと思ったのだが、我慢して此処まで読んでくださった方へはさぞかし読み辛い思いをさせてしまっただろう。其処のところは何卒ご容赦願いたい。
でも、これらは所謂「阿呆レベル」の漢字ばかり。「ヘンタイレベル」の漢字は容易に使えるものではないと痛感した。
それにしても不束な私が不心得に漢字を使っても、文章が支離滅裂になり、徒に硬くなってしまうばかりだ。
然も疲労困憊した割には面白味のない文章になってしまったのには忸怩たる思いである。