第1部 VOYAGE-船出-
第2部 SHIPWRECK-難破-
第3部 SALVAGE-漂着-
阿部寛、勝村政信、石丸幹二、池内博之、別所哲也、長谷川博己、村尾敏伸
紺野まひる、京野ことみ、美波、佐藤江梨子、水野美紀、栗山千明、
とよた真帆、毬谷友子、瑳川哲朗、麻美れい 他
ユートピアとは「理想郷」と訳されてはいるけれど、元々は「どこにもない場所」という意味であり政治的空想です。
…なんて、知ったようなことを論じ続けるアタマが私にあるわけはなくて(笑)
ここに登場するロシアの耳慣れない名前のついた男達が朗々と論じる理念だとか哲学は、ところどころ面白いけど基本的にわけ分からないです。
というか、これだけ長い芝居だと、時としてぼぉ~っと聞くことになって、一生懸命聞けば聞くほど右の耳から左の耳へ…ってますますぼぉ~としちゃう場面もありました。
だいたいロシアやヨーロッパの近代史の基本的な知識もなければ、地理さえアヤシイのに、政治論だの思想だの革命だのって、私の理解の範疇を軽~く越えているのよね。
だから私は分けわかんなくても「ま、いっか~」と早めに割り切ってサクサクと観ました。
そういえば、同じロシアの作家ゴーリキの「どん底」に登場する巡礼者ルカが「何を喋るかは問題じゃない、なぜ喋りたいかなんだ」と言ってましたっけ…。
この舞台は三部構成で全部通して9時間もかかるという大作です。
なので、感想もどこからどこをどう書いたものやら悩みます。
要するにこの話の行き着く先は、「ユートピアなんてどこにもない、だから辿り着くことはできないのだ。それでもなお我々は進まなければならない。人が理想を目指して進み続けることが大切なのだ」とまあ、ひと言で言えばそういうことになるんだろうと思います。
最後にそう言ってたし(笑)
そして、理想郷を目指して進み続けた男達がここロシアもいて、その船出や航海はこんな風でしたと、彼らの人生を通して見る大河ドラマなわけで、男がいれば当然女も絡み、夢とか愛や友情もあれば、挫折や失意、別れもあったりとてんこ盛り。
で、ところどころ興味深いと思ったのは、男達はユートピアという遥か遠い場所を夢見て目指し、だけど彼らは治世者でもなく政治家でもないのでそれに語られる言葉はことごとく机上の空論に聞こえなくもないです。なにせペンにより社会を変えようとしているわけですから。
そしてそのプロレタリア(労働者階級)ではないインテリゲンチャ(知識階級)の男たちの脇にいる女達は、どの階級の女たちも大抵そうであるように、目の前の恋人とか子供とか、そういったごく近い場所の現実を見ているのよね。
その近い現実の話がアチコチに絡んで、突然愛人の話になったり奥さんの浮気話に苦悩していたり、子供もいつの間にかボコボコと産まれているし、その子供がまた、いったい父親は誰だ?やっぱコノ人?とか(笑)、ほんと人が生きているとその営みっていろいろとあるもんだなぁ~って感じです。
私が面白いと思ったのは、第2部で、ゲルツェン(阿部寛)の奥さんナタリー(水野美紀)がゲルツェンの友人ゲオルク・ヘルヴォーグ(村尾敏伸)と浮気してバレてしまうところなんだけど、
その時、ロマン主義にかぶれているナタリーが言うには、「私のゲオルクへの愛にはエゴイズムはない、彼を愛することは世界を愛することなのだ」、とかって、何やら彼女の愛の哲学を語ることで夫に言い訳をしているって感じで、言うことは分からなくもないけど、なんか「この男にしてこの女あり」と妙に感心したりして(笑)
それで男が納得するわけはなく、ゲルツェンが「エゴイズムは愛の敵ではないが、愛の糧になる」なんて、ややこしく苦悩しちゃっているのも面白い。
ナタリーは二人の男を同時に愛することは可能だったかもしれないけれど、二人の愛する男を同時に満足させたり救うことはどうやら不可能だったのね。
それで「ゲオルクと別れたら私は病気になってしまうが、ゲルツェンと別れたら私は死んでしまう」と開き直ったナタリーがその後に産んだ子供って誰が父親? って、なんか私は困惑したけど、でも夫婦は愛し合っていて、その後にナタリーが船の事故で亡くなってからは、彼女が妙に神聖化されていたりしてね、…もう、ナタリーってどんだけイイ女だったんだか。
まあ、この長~いお話のたくさんあるエピソードの中で、この話だけを殊更に抽出するのもなんだけど(笑)そんな愛や別れを経験する過程で、ゲルツェンは「現在の幸福も手配できない我々が、未来の幸福を手配しようというのは思い上がりだ」とも言います。
そこでまた、それじゃ「人間の幸福とは何か」という問題もあって、第1部に軍隊生活に嫌気が差して除隊したミハイル・バークニン(勝村政信)が言い訳(?)にしていた「人間の真の幸福とは外的(物質、現実世界)な幸福ではなく、内的(内面、精神世界)の幸福にある」なんて哲学を思い出しちゃったりして、でも、それを言ったら政治だの社会だのってどうでも良いことになるんじゃないの?なんて、振り出しに戻って私はお莫迦なりにもぐるぐるして楽しかったです(笑)
だけど私としては、物質世界から切り離された自分の精神世界の完全な幸福なんて狂気に至らなければ行きつけないと思うし、でも人は現実を生きるわけだからそうもいかないしで、哲学は面白いには面白いけれど世の中にも個人の生活にも実質的には役に立たないものなのね、
って、それが最終的な感想という訳じゃないけど、なんかそこが妙に残ったりしてね。
まあそれにつけても、長~い、長~い舞台でしたよ。
そのわりに長くは感じなかったけど。その台詞の膨大な量、言葉の奔流を思うと、この台本の厚さは如何ばかりかと思うし、それを覚えた役者さんたちにはひたすら脱帽するばかりです。
それに、これだけ長く観ていると、役者さんの個々の力量の違いで言葉の力や聞き取りやすさの差を感じずにはいられません。
特に阿部寛さんの台詞の量は半端じゃなくて、その内容も難しいです。
ところが、阿部さんの声はよく響いて聞き取りやすく、そしておそらくその半端じゃない量の台詞をとてもよく理解しているからなのでしょうね、想いが伝わって、難しくても阿部さんの頭の良さからくる理解力と演技力のおかげで、こちらのアタマにもすんなんり入ってくれる感じがしました。
この長くて難しい台詞がいっぱいの舞台を飽きずに観ることができたのも、阿部さんが主演だったからという気もしました。
顔も姿形もカッコ良くて魅力的です。
そして長い航海の果てのカーテンコールでは、充実感と達成感ある笑顔を浮かべる役者さんたちの側から客席に向かっての拍手もあり、互いの健闘を称え合うような、まさに同じ船に乗った者同士の帰港の喜びといった雰囲気もあり、これを経験した者だけが分かる疲労感ありつつの、とても暖かいカーテンコールでした。
第2部 SHIPWRECK-難破-
第3部 SALVAGE-漂着-
阿部寛、勝村政信、石丸幹二、池内博之、別所哲也、長谷川博己、村尾敏伸
紺野まひる、京野ことみ、美波、佐藤江梨子、水野美紀、栗山千明、
とよた真帆、毬谷友子、瑳川哲朗、麻美れい 他
ユートピアとは「理想郷」と訳されてはいるけれど、元々は「どこにもない場所」という意味であり政治的空想です。
…なんて、知ったようなことを論じ続けるアタマが私にあるわけはなくて(笑)
ここに登場するロシアの耳慣れない名前のついた男達が朗々と論じる理念だとか哲学は、ところどころ面白いけど基本的にわけ分からないです。
というか、これだけ長い芝居だと、時としてぼぉ~っと聞くことになって、一生懸命聞けば聞くほど右の耳から左の耳へ…ってますますぼぉ~としちゃう場面もありました。
だいたいロシアやヨーロッパの近代史の基本的な知識もなければ、地理さえアヤシイのに、政治論だの思想だの革命だのって、私の理解の範疇を軽~く越えているのよね。
だから私は分けわかんなくても「ま、いっか~」と早めに割り切ってサクサクと観ました。
そういえば、同じロシアの作家ゴーリキの「どん底」に登場する巡礼者ルカが「何を喋るかは問題じゃない、なぜ喋りたいかなんだ」と言ってましたっけ…。
この舞台は三部構成で全部通して9時間もかかるという大作です。
なので、感想もどこからどこをどう書いたものやら悩みます。
要するにこの話の行き着く先は、「ユートピアなんてどこにもない、だから辿り着くことはできないのだ。それでもなお我々は進まなければならない。人が理想を目指して進み続けることが大切なのだ」とまあ、ひと言で言えばそういうことになるんだろうと思います。
最後にそう言ってたし(笑)
そして、理想郷を目指して進み続けた男達がここロシアもいて、その船出や航海はこんな風でしたと、彼らの人生を通して見る大河ドラマなわけで、男がいれば当然女も絡み、夢とか愛や友情もあれば、挫折や失意、別れもあったりとてんこ盛り。
で、ところどころ興味深いと思ったのは、男達はユートピアという遥か遠い場所を夢見て目指し、だけど彼らは治世者でもなく政治家でもないのでそれに語られる言葉はことごとく机上の空論に聞こえなくもないです。なにせペンにより社会を変えようとしているわけですから。
そしてそのプロレタリア(労働者階級)ではないインテリゲンチャ(知識階級)の男たちの脇にいる女達は、どの階級の女たちも大抵そうであるように、目の前の恋人とか子供とか、そういったごく近い場所の現実を見ているのよね。
その近い現実の話がアチコチに絡んで、突然愛人の話になったり奥さんの浮気話に苦悩していたり、子供もいつの間にかボコボコと産まれているし、その子供がまた、いったい父親は誰だ?やっぱコノ人?とか(笑)、ほんと人が生きているとその営みっていろいろとあるもんだなぁ~って感じです。
私が面白いと思ったのは、第2部で、ゲルツェン(阿部寛)の奥さんナタリー(水野美紀)がゲルツェンの友人ゲオルク・ヘルヴォーグ(村尾敏伸)と浮気してバレてしまうところなんだけど、
その時、ロマン主義にかぶれているナタリーが言うには、「私のゲオルクへの愛にはエゴイズムはない、彼を愛することは世界を愛することなのだ」、とかって、何やら彼女の愛の哲学を語ることで夫に言い訳をしているって感じで、言うことは分からなくもないけど、なんか「この男にしてこの女あり」と妙に感心したりして(笑)
それで男が納得するわけはなく、ゲルツェンが「エゴイズムは愛の敵ではないが、愛の糧になる」なんて、ややこしく苦悩しちゃっているのも面白い。
ナタリーは二人の男を同時に愛することは可能だったかもしれないけれど、二人の愛する男を同時に満足させたり救うことはどうやら不可能だったのね。
それで「ゲオルクと別れたら私は病気になってしまうが、ゲルツェンと別れたら私は死んでしまう」と開き直ったナタリーがその後に産んだ子供って誰が父親? って、なんか私は困惑したけど、でも夫婦は愛し合っていて、その後にナタリーが船の事故で亡くなってからは、彼女が妙に神聖化されていたりしてね、…もう、ナタリーってどんだけイイ女だったんだか。
まあ、この長~いお話のたくさんあるエピソードの中で、この話だけを殊更に抽出するのもなんだけど(笑)そんな愛や別れを経験する過程で、ゲルツェンは「現在の幸福も手配できない我々が、未来の幸福を手配しようというのは思い上がりだ」とも言います。
そこでまた、それじゃ「人間の幸福とは何か」という問題もあって、第1部に軍隊生活に嫌気が差して除隊したミハイル・バークニン(勝村政信)が言い訳(?)にしていた「人間の真の幸福とは外的(物質、現実世界)な幸福ではなく、内的(内面、精神世界)の幸福にある」なんて哲学を思い出しちゃったりして、でも、それを言ったら政治だの社会だのってどうでも良いことになるんじゃないの?なんて、振り出しに戻って私はお莫迦なりにもぐるぐるして楽しかったです(笑)
だけど私としては、物質世界から切り離された自分の精神世界の完全な幸福なんて狂気に至らなければ行きつけないと思うし、でも人は現実を生きるわけだからそうもいかないしで、哲学は面白いには面白いけれど世の中にも個人の生活にも実質的には役に立たないものなのね、
って、それが最終的な感想という訳じゃないけど、なんかそこが妙に残ったりしてね。
まあそれにつけても、長~い、長~い舞台でしたよ。
そのわりに長くは感じなかったけど。その台詞の膨大な量、言葉の奔流を思うと、この台本の厚さは如何ばかりかと思うし、それを覚えた役者さんたちにはひたすら脱帽するばかりです。
それに、これだけ長く観ていると、役者さんの個々の力量の違いで言葉の力や聞き取りやすさの差を感じずにはいられません。
特に阿部寛さんの台詞の量は半端じゃなくて、その内容も難しいです。
ところが、阿部さんの声はよく響いて聞き取りやすく、そしておそらくその半端じゃない量の台詞をとてもよく理解しているからなのでしょうね、想いが伝わって、難しくても阿部さんの頭の良さからくる理解力と演技力のおかげで、こちらのアタマにもすんなんり入ってくれる感じがしました。
この長くて難しい台詞がいっぱいの舞台を飽きずに観ることができたのも、阿部さんが主演だったからという気もしました。
顔も姿形もカッコ良くて魅力的です。
そして長い航海の果てのカーテンコールでは、充実感と達成感ある笑顔を浮かべる役者さんたちの側から客席に向かっての拍手もあり、互いの健闘を称え合うような、まさに同じ船に乗った者同士の帰港の喜びといった雰囲気もあり、これを経験した者だけが分かる疲労感ありつつの、とても暖かいカーテンコールでした。