今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

復興と文化 狂言「鬼瓦」能「桜川」

2015年03月29日 16時11分48秒 | 芸能/エンターテイメント

2015/03/15@国立能楽堂

狂言「鬼瓦」
シテ 野村万禄 アド 野村太一郎
能「桜川」
シテ 観世銕之丞 子方 馬野訓聡 ワキ 福王和幸 ワキツレ 村瀬提 村瀬慧 人商人 是川正彦 茶屋 矢野昌平 笛 一噌隆之 小鼓 観世新九郎 大鼓 亀井忠雄 地頭 山本順之


え、え~、国立能楽堂企画の「復興と文化」で、前回は講演のことだけ書いて、能や狂言の感想を先延ばしにしておりましたが・・・
あ、あのぉ~、今さら言うのも何ですが、実はわたくし、狂言はともかく、能に関しましては、これを楽しむ素養に欠けておりまして・・・

なぁ~んて、気取っている場合じゃないか(笑)
つまり、能を楽しむには教養が足りないし、感性にしてもお子ちゃますぎて良さがわからずつい意識がふっとんじゃったりするのよね~ 
この日、能楽堂は満席で、能を楽しむ大人たちがこんなに沢山いらっしゃるなんて、もう皆さん、ほんとうに尊敬します!
こういう古典芸能は、歌舞伎もそうだけど、ある程度でも見る者にそれなりの下地がなきゃね~。
とか、もうほんとに、バカでごめんなさい!って感じ。

んで、お目当ての狂言「桜川」を、おバカな私流にさらっと要約すると、だいたいこんなお話。


日向の国(今の宮崎県)で貧乏な母子家庭に育つ桜子ちゃんは、貧しい暮らしを何とかしようと自ら人買い商人に身を売って家出します。その時、近くにいたおじさんに、お母さんへの手紙を託しました。
その手紙には、「最近のうちの貧しさったらひどいものだわ。お母さん、私は人買いに買ってもらってお金を貰うから、そのお金で少しはましな暮らしをしてね。」と書いてあります。
お母さんは、「まあっ、桜子ちゃんったら、なんてバカなことをしてくれたの! 私はどんなに貧乏だって、可愛いあの子がいるから耐えて生きていけたのに。ああ、桜子ちゃん、お母さんはあなたがいなきゃ生きる甲斐がないわ」と、嘆き悲しみ、すぐに桜子ちゃんを探す旅に出かけました。
そして3年の月日がすぎ、桜子ちゃんは、なんと遠い常陸の国(今の茨城県)のお寺の住職に弟子入りしていました。
一方、お母さんは、長い旅の末に、偶然にもそのお寺の近所の桜川のほとりにたどりつきます。
お母さんは、桜川に流される桜の花びらを見て、花びらと桜子ちゃんに想いを重ね、花びらを網ですくいます。はらはらと川に落ちて流れる桜の花びら、それを一心にすくい続けるお母さんの様子は尋常ではありません。
そこへ、住職が通りかかり、わけを聞き、お母さんと桜子ちゃんは無事に再会しました。
よかったね。

ま、そんな感じ(このさい、こまかいことは気にすんなって!) 
いわゆる「狂女物」ですが、この場合、狂うというのは、現代の精神病な感じではないらしんですね。激しく心が乱れている様子。
桜子ちゃんのお母さんは、完全に気が狂ってしまったのではなくて、甚だしく嘆き悲しんで、その様子が尋常でなく、ちょっぴり錯乱している、という感じです。
なので、親子が対面した後は、お母さんも出家して二人は一緒に暮らします。

なわけで、坂口安吾が「桜の森の満開の下」の中で書いた、
「能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足だそく)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。」
というのは事実と全然違うので、無論これはわざとでしょうから、「してやられた」感がありますね。
もちろん能の「桜川」で、桜の花も、桜の木の下も、怖いという印象はどこにもありません。

うん、だけど、脱線しますが、
ちょうど今日、時どき覗いている一般人のブログに、「桜は苦手」というのがあったんですよね。
そのブロガーの男性は、とても繊細で魅力的な人で、文才があり、まめに更新をするので、多くの読者がいるんですけど。
その人が、「僕が苦手だったのは、桜の花じゃなくて、桜の花に集まる騒々しい人の塊だったのか。。。」って。

怖ろしいのは桜の花じゃなくて、人の気配のない桜の下だという安吾とは、全く正反対でもあり・・・でも、なんだろう?すごく共通するものを感じました。
桜の花そのもではなく、どちらも桜の下に集まる人間を想うのは、日本人が持つ特有の感性かもしれません。 
桜の下に人がたくさんいるのが苦手と思うか、桜の下に人がいないと怖いと思うか・・・。
【追記】
ああ、そうか。安吾の小説の、「桜の森の満開の下の秘密」を孤独と解くならば、「誰もいない」も「たった一人」で孤独だけど、「桜の花に集まる騒々しい人の塊」を苦手とする人もまた「たった一人」で、こちらのほうに私は現代らしい孤独を感じます。都に住むようになってからの山賊に共通するものがありますね。このブロガーさんの独特のナイーブさに、ちょっと胸がキュンとします。坂口安吾や山賊にはキュンとしないけど(笑)


狂言「鬼瓦」のほうは、私でも普通に楽しめました。
狂言は、基本的にコメディ、コントですものね。

これも私流にさくっと、要約すると、
単身赴任でもうすぐ家に帰る男が、その前に立派な神社に立ち寄り、そこの鬼瓦を見て女房を思い出して懐かしさのあまり泣き出しました。鬼瓦の重たい瞼、大きな鼻、耳まで裂けた口元や、黒ずんだ首が妻にそっくりだというのです。その様子に従者が、「もうすぐ奥さんに会えるのですから、泣くことはないじゃありませんか」と言い、「それもそうだな。それでは笑おう。お前も一緒に笑え」と言い、二人は笑いました。


という、突っ込み甲斐のある話です(笑)

ま、なんだかんだと、赤坂教授の講演を含め、とても有意義な一日でした。
 

 


復興と文化「しなやかにして、したたかに。汝の名は」

2015年03月15日 23時38分21秒 | 芸能/エンターテイメント

2015/03/15 国立能楽堂企画 「復興と文化」
         

今月は11日に東日本大震災から四年が経ったということで、テレビや新聞などの各メディアでは様々なアプローチで特集を組んでいますね。
今日行った国立能楽堂でも、特別に講演が企画され、大変興味深く聞いて参りました。
それで、私の拙いレポートでうまく伝わるかどうか分かりませんが、ぜひご報告させてください。

「復興と文化」
講演「しなやかにして、したたかに。汝の名は」
赤坂 憲雄(学習院大学教授)


この不思議なタイトル、「しなやかにして、したたかに。汝の名は」にしたのは赤坂教授ご自身ですが、今になって後悔して困っていると仰っていました(笑)
「汝の名は」・・・さて、何だったと思いますか? 私は「人間」かと予想していましたが・・・

震災の三ヶ月後から約一年半、赤坂教授は毎週土日になると被災地を歩いてまわったそうです。それは、後になり「自分は巡礼していた」と思うようになったとか。
巡礼とは、聖地や霊場に赴く旅のことです。その一年半は、ひたすら手を合わせることに過ぎていったそうで、その当時の各地の様子を話してくださいました。

赤坂教授は震災直後に、自分の持つ家財道具の全てを被災地に持っていったそうですが、一番喜ばれたのが爪きりだったそうです。何があっても、どのようであっても、人は生きていれば爪が伸びる。この当たり前のことは、当たり前すぎて東京に住む私達には気がつかないことかもしれません。
被災地にいた方にしか分からないこと、その方達だからこそ語れるものがあります。

ある町の主婦は、波に流されて今は見えない家を案内してくれます。「ここに玄関があって、こちらが居間。廊下のその先に台所があった」・・・など、見えない家について語ってくれたそうです。
その主婦がまだ小さい子供だった頃、その地の辺りはまだ海だったそうで、開発により埋め立てられた土地に家を建てたあとは、子供を育てながら「いつかはこんな日が来るのではないか」と恐れていたと言います。
また、ある男性は波に流され、近くに流れたタイヤにやっとつかまり、冷たく暗い一夜を過ごしました。その時、すぐそばで女性の声が聞こえます。「助けて、助けて下さい」と言うその女性には子供がいるようでしたが、男性には為すすべもありません。そのうち声は消え、男性は凍傷を負いながら命からがらで助かりました。。
福島の小高では、住民達が避難した後の町が、まるで「世界の終わり」のように生き物の気配がなく、音もありません。ふと気がつくと波の音が聞こえ、海だけがそこにあります。
津波の被害が大きかった石巻では、それまであった何もかもが根こそぎ波に持っていかれ、赤坂教授がその地で撮ったデジカメの写真が、ある時から色を失くし、モノクロになってしまったという不思議な話もありました。
 
不思議な話といえば、東北で「幽霊を見た」という話が多いそうです。それは決して怖ろしい話ではなく、悲しい話です。
ある処では、海からたくさんの人がやってくるのが見えるそうです。 それがよく見えるという歩道橋には人が大勢訪れるそうです。亡くした人に一目でも会いたいと願うからです。
ある道では、ドライバーが突然現れた人を轢いてしまいます。車から降りるとそこには誰もいません。警察に届けると、「そこでは、あなたが十何人目です」などと言われます。
また、あるタクシーの運転手さんは、「閖上(ゆりあげ)まで行ってください」というお客さんを乗せ、しばらくして振り返ると後ろのシートには誰も乗っていません。運転手さんは、「ああ、閖上に帰りたかったんだな」と思い、そのまま閖上まで運転したそうです。

赤坂教授は、それらの話を聞く旅の間、柳田國男の「遠野物語」を持ち歩いていたそうですが、その中から第99話の「津波で奥さんを失った男の話」を紹介してくれました。
その物語の主人公の男は、津波で亡くした奥さんの幽霊を見ます。奥さんの幽霊は、結婚前に付き合っていた男性と二人で現れ「あの世でこの人と一緒になりました」と言います。それを見た後、男はしばらく病に臥せってしまうそうです。たぶん、ショックだったんでしょうね。けれども、男がこの話を他人に語ったということは、「生ける者が、死者と和解したのではないか」と教授は思うそうです。

古来、日本の物語の「物」とは、本来は死者や化け物のことだったそうで、物を語るということは、死者を語ることであり、そして語ることで受け入れ、和解していく意味合いがあったと言います。

南三陸の水戸部という漁村には、数百年伝承の歴史を持つ鹿踊(ししおどり)のリーダーがいらして、その方が震災後すぐに探したものは、まず奥さんに贈った貝の指輪、その次に鹿踊の衣装や道具でした。それらを必死に探し出した後、彼は鹿踊を復興させます。鹿踊は供養の踊りで、それは鹿だけでなく、人間も、草木も、虫も動物も、生きとし生ける物すべての命を供養する、鎮魂の踊りです。東北の各地でそのような芸能がいっせいに復興しているのは、そのように、死者供養のテーマを含んでいるからなのだそうです。

私はこのようなお話を伺うにつれ、被災地の話に耳を傾け、心に留め、記憶し、語り継いでいきたいと思いはじめました。
被災地で悲しみ、苦しんでいる人々の話を聞くことで、その方々の心が癒え、亡くした人々への供養ができるというのならば、私にもできることがまだあるのかもしれません。
拙いながらも、伝承することができればよいと思いました。

さて、この講演のテーマ、「しなやかにして、したたかに。汝の名は」ですが、講演の終わりに、赤坂教授は「汝の名は、文化です」と仰いました。
厳しい状況を乗り越え、人々を支えてくれるものは、文化。
「あるいは、女性であり、あるいは、幽霊」だとも。

文化・・・私はそれを聞いて、かつて元宇宙飛行士の毛利衛さんが、「あらゆる文化は、人類の滅びを止めるために向かっている」と言ったことを思い出しました。
そのことを書いた四年前を思い出しながら、昔から受け継ぐ文化を伝承し、さらに発展させるその意義を改めて思い、「これからの私に何ができるのか」と問う一日となりました。


ほんの少しでも伝われば良いと思い、急いでざっと書いてしまいましたが、なんだか支離滅裂でまとまりのないレポートになってしまってすみません。
この後で観た狂言と能のことは、また別の日に書きます。


青い文学シリーズ「桜の森の満開の下」(アニメDVD)

2015年03月07日 00時20分02秒 | 映画

一人でこのネタを続けていると、しんしんと救いのない孤独に犯されていくような気がしますが 
その勢いで(って、どんなっ?)、日テレの文学アニメ、青い文学シリーズ「桜の森の満開の下」DVDを買ってみました。

こういうの↓
   

青い文学シリーズ「桜の森の満開の下」
【原作】坂口安吾『桜の森の満開の下』
【スタッフ】キャラクター原案 - 久保帯人/脚本 - 飯塚健/キャラクターデザイン - 香月邦夫/美術監督 - 一色美緒/色彩設計 - 橋本賢/
撮影監督 - 山田和弘/色彩設計 - 橋本賢/音響監督 - 本田保則/音楽 - タニウチヒデキ/監督 - 荒木哲郎/アニメーション制作 - マッドハウス
【登場人物】繁丸 - 堺雅人/彰子 - 水樹奈々/千代 - 川田妙子

このアニメでは、男(山賊)の名を繁丸(しげまる)といいます。絵はごっつい大男ですが、声は堺雅人さん。 
どうせなら、絵も堺さんのイメージで良かったのにな~、と思う私です。
女は、都の女といっても、やんごとなきお姫様ではなくて、なんとなく遊女のように婀娜(あだ)っぽいです。我がままで妖艶だけど、あんまり怖くない。
狂ってもいないし、鬼にも見えないのは、時々きゃぴきゃぴしてるから・・・かな。アニメだから、暗いだけじゃ駄目なのね、きっと。
首遊びのシーンは、蝋人形の首が美しく飾られているようなファンタジックな映像になっていて、ほとんど血生臭くなかったです。

繁丸が恐れていたのは、美しい「桜の花」そのものという解釈みたいね。満開の「下」でなくて、「花」。
美しさに心惑わされ、狂わされた男の話、って感じです。
それに、最後にまるで唐突に「孤独」という言葉がででくるけど、この男はあんまり孤独そうに見えない。
7人の女房達と暮らしていた頃は、それなりに賑やかで楽い毎日だったのかも??

まあ、これはこれでアニメとして面白かったけど、私の一番好きなワンシーンが省かれていたのは残念。
「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました」という一行なんだけど。
ここ、難しいのかな。

・・・ってか、

やっぱり、分かり易くなければ、駄目なんだろうか・・・