今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

復興と文化 狂言「鬼瓦」能「桜川」

2015年03月29日 16時11分48秒 | 芸能/エンターテイメント

2015/03/15@国立能楽堂

狂言「鬼瓦」
シテ 野村万禄 アド 野村太一郎
能「桜川」
シテ 観世銕之丞 子方 馬野訓聡 ワキ 福王和幸 ワキツレ 村瀬提 村瀬慧 人商人 是川正彦 茶屋 矢野昌平 笛 一噌隆之 小鼓 観世新九郎 大鼓 亀井忠雄 地頭 山本順之


え、え~、国立能楽堂企画の「復興と文化」で、前回は講演のことだけ書いて、能や狂言の感想を先延ばしにしておりましたが・・・
あ、あのぉ~、今さら言うのも何ですが、実はわたくし、狂言はともかく、能に関しましては、これを楽しむ素養に欠けておりまして・・・

なぁ~んて、気取っている場合じゃないか(笑)
つまり、能を楽しむには教養が足りないし、感性にしてもお子ちゃますぎて良さがわからずつい意識がふっとんじゃったりするのよね~ 
この日、能楽堂は満席で、能を楽しむ大人たちがこんなに沢山いらっしゃるなんて、もう皆さん、ほんとうに尊敬します!
こういう古典芸能は、歌舞伎もそうだけど、ある程度でも見る者にそれなりの下地がなきゃね~。
とか、もうほんとに、バカでごめんなさい!って感じ。

んで、お目当ての狂言「桜川」を、おバカな私流にさらっと要約すると、だいたいこんなお話。


日向の国(今の宮崎県)で貧乏な母子家庭に育つ桜子ちゃんは、貧しい暮らしを何とかしようと自ら人買い商人に身を売って家出します。その時、近くにいたおじさんに、お母さんへの手紙を託しました。
その手紙には、「最近のうちの貧しさったらひどいものだわ。お母さん、私は人買いに買ってもらってお金を貰うから、そのお金で少しはましな暮らしをしてね。」と書いてあります。
お母さんは、「まあっ、桜子ちゃんったら、なんてバカなことをしてくれたの! 私はどんなに貧乏だって、可愛いあの子がいるから耐えて生きていけたのに。ああ、桜子ちゃん、お母さんはあなたがいなきゃ生きる甲斐がないわ」と、嘆き悲しみ、すぐに桜子ちゃんを探す旅に出かけました。
そして3年の月日がすぎ、桜子ちゃんは、なんと遠い常陸の国(今の茨城県)のお寺の住職に弟子入りしていました。
一方、お母さんは、長い旅の末に、偶然にもそのお寺の近所の桜川のほとりにたどりつきます。
お母さんは、桜川に流される桜の花びらを見て、花びらと桜子ちゃんに想いを重ね、花びらを網ですくいます。はらはらと川に落ちて流れる桜の花びら、それを一心にすくい続けるお母さんの様子は尋常ではありません。
そこへ、住職が通りかかり、わけを聞き、お母さんと桜子ちゃんは無事に再会しました。
よかったね。

ま、そんな感じ(このさい、こまかいことは気にすんなって!) 
いわゆる「狂女物」ですが、この場合、狂うというのは、現代の精神病な感じではないらしんですね。激しく心が乱れている様子。
桜子ちゃんのお母さんは、完全に気が狂ってしまったのではなくて、甚だしく嘆き悲しんで、その様子が尋常でなく、ちょっぴり錯乱している、という感じです。
なので、親子が対面した後は、お母さんも出家して二人は一緒に暮らします。

なわけで、坂口安吾が「桜の森の満開の下」の中で書いた、
「能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足だそく)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。」
というのは事実と全然違うので、無論これはわざとでしょうから、「してやられた」感がありますね。
もちろん能の「桜川」で、桜の花も、桜の木の下も、怖いという印象はどこにもありません。

うん、だけど、脱線しますが、
ちょうど今日、時どき覗いている一般人のブログに、「桜は苦手」というのがあったんですよね。
そのブロガーの男性は、とても繊細で魅力的な人で、文才があり、まめに更新をするので、多くの読者がいるんですけど。
その人が、「僕が苦手だったのは、桜の花じゃなくて、桜の花に集まる騒々しい人の塊だったのか。。。」って。

怖ろしいのは桜の花じゃなくて、人の気配のない桜の下だという安吾とは、全く正反対でもあり・・・でも、なんだろう?すごく共通するものを感じました。
桜の花そのもではなく、どちらも桜の下に集まる人間を想うのは、日本人が持つ特有の感性かもしれません。 
桜の下に人がたくさんいるのが苦手と思うか、桜の下に人がいないと怖いと思うか・・・。
【追記】
ああ、そうか。安吾の小説の、「桜の森の満開の下の秘密」を孤独と解くならば、「誰もいない」も「たった一人」で孤独だけど、「桜の花に集まる騒々しい人の塊」を苦手とする人もまた「たった一人」で、こちらのほうに私は現代らしい孤独を感じます。都に住むようになってからの山賊に共通するものがありますね。このブロガーさんの独特のナイーブさに、ちょっと胸がキュンとします。坂口安吾や山賊にはキュンとしないけど(笑)


狂言「鬼瓦」のほうは、私でも普通に楽しめました。
狂言は、基本的にコメディ、コントですものね。

これも私流にさくっと、要約すると、
単身赴任でもうすぐ家に帰る男が、その前に立派な神社に立ち寄り、そこの鬼瓦を見て女房を思い出して懐かしさのあまり泣き出しました。鬼瓦の重たい瞼、大きな鼻、耳まで裂けた口元や、黒ずんだ首が妻にそっくりだというのです。その様子に従者が、「もうすぐ奥さんに会えるのですから、泣くことはないじゃありませんか」と言い、「それもそうだな。それでは笑おう。お前も一緒に笑え」と言い、二人は笑いました。


という、突っ込み甲斐のある話です(笑)

ま、なんだかんだと、赤坂教授の講演を含め、とても有意義な一日でした。
 

 

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復興と文化「しなやかにして、したたかに。汝の名は」

2015年03月15日 23時38分21秒 | 芸能/エンターテイメント

2015/03/15 国立能楽堂企画 「復興と文化」
         

今月は11日に東日本大震災から四年が経ったということで、テレビや新聞などの各メディアでは様々なアプローチで特集を組んでいますね。
今日行った国立能楽堂でも、特別に講演が企画され、大変興味深く聞いて参りました。
それで、私の拙いレポートでうまく伝わるかどうか分かりませんが、ぜひご報告させてください。

「復興と文化」
講演「しなやかにして、したたかに。汝の名は」
赤坂 憲雄(学習院大学教授)


この不思議なタイトル、「しなやかにして、したたかに。汝の名は」にしたのは赤坂教授ご自身ですが、今になって後悔して困っていると仰っていました(笑)
「汝の名は」・・・さて、何だったと思いますか? 私は「人間」かと予想していましたが・・・

震災の三ヶ月後から約一年半、赤坂教授は毎週土日になると被災地を歩いてまわったそうです。それは、後になり「自分は巡礼していた」と思うようになったとか。
巡礼とは、聖地や霊場に赴く旅のことです。その一年半は、ひたすら手を合わせることに過ぎていったそうで、その当時の各地の様子を話してくださいました。

赤坂教授は震災直後に、自分の持つ家財道具の全てを被災地に持っていったそうですが、一番喜ばれたのが爪きりだったそうです。何があっても、どのようであっても、人は生きていれば爪が伸びる。この当たり前のことは、当たり前すぎて東京に住む私達には気がつかないことかもしれません。
被災地にいた方にしか分からないこと、その方達だからこそ語れるものがあります。

ある町の主婦は、波に流されて今は見えない家を案内してくれます。「ここに玄関があって、こちらが居間。廊下のその先に台所があった」・・・など、見えない家について語ってくれたそうです。
その主婦がまだ小さい子供だった頃、その地の辺りはまだ海だったそうで、開発により埋め立てられた土地に家を建てたあとは、子供を育てながら「いつかはこんな日が来るのではないか」と恐れていたと言います。
また、ある男性は波に流され、近くに流れたタイヤにやっとつかまり、冷たく暗い一夜を過ごしました。その時、すぐそばで女性の声が聞こえます。「助けて、助けて下さい」と言うその女性には子供がいるようでしたが、男性には為すすべもありません。そのうち声は消え、男性は凍傷を負いながら命からがらで助かりました。。
福島の小高では、住民達が避難した後の町が、まるで「世界の終わり」のように生き物の気配がなく、音もありません。ふと気がつくと波の音が聞こえ、海だけがそこにあります。
津波の被害が大きかった石巻では、それまであった何もかもが根こそぎ波に持っていかれ、赤坂教授がその地で撮ったデジカメの写真が、ある時から色を失くし、モノクロになってしまったという不思議な話もありました。
 
不思議な話といえば、東北で「幽霊を見た」という話が多いそうです。それは決して怖ろしい話ではなく、悲しい話です。
ある処では、海からたくさんの人がやってくるのが見えるそうです。 それがよく見えるという歩道橋には人が大勢訪れるそうです。亡くした人に一目でも会いたいと願うからです。
ある道では、ドライバーが突然現れた人を轢いてしまいます。車から降りるとそこには誰もいません。警察に届けると、「そこでは、あなたが十何人目です」などと言われます。
また、あるタクシーの運転手さんは、「閖上(ゆりあげ)まで行ってください」というお客さんを乗せ、しばらくして振り返ると後ろのシートには誰も乗っていません。運転手さんは、「ああ、閖上に帰りたかったんだな」と思い、そのまま閖上まで運転したそうです。

赤坂教授は、それらの話を聞く旅の間、柳田國男の「遠野物語」を持ち歩いていたそうですが、その中から第99話の「津波で奥さんを失った男の話」を紹介してくれました。
その物語の主人公の男は、津波で亡くした奥さんの幽霊を見ます。奥さんの幽霊は、結婚前に付き合っていた男性と二人で現れ「あの世でこの人と一緒になりました」と言います。それを見た後、男はしばらく病に臥せってしまうそうです。たぶん、ショックだったんでしょうね。けれども、男がこの話を他人に語ったということは、「生ける者が、死者と和解したのではないか」と教授は思うそうです。

古来、日本の物語の「物」とは、本来は死者や化け物のことだったそうで、物を語るということは、死者を語ることであり、そして語ることで受け入れ、和解していく意味合いがあったと言います。

南三陸の水戸部という漁村には、数百年伝承の歴史を持つ鹿踊(ししおどり)のリーダーがいらして、その方が震災後すぐに探したものは、まず奥さんに贈った貝の指輪、その次に鹿踊の衣装や道具でした。それらを必死に探し出した後、彼は鹿踊を復興させます。鹿踊は供養の踊りで、それは鹿だけでなく、人間も、草木も、虫も動物も、生きとし生ける物すべての命を供養する、鎮魂の踊りです。東北の各地でそのような芸能がいっせいに復興しているのは、そのように、死者供養のテーマを含んでいるからなのだそうです。

私はこのようなお話を伺うにつれ、被災地の話に耳を傾け、心に留め、記憶し、語り継いでいきたいと思いはじめました。
被災地で悲しみ、苦しんでいる人々の話を聞くことで、その方々の心が癒え、亡くした人々への供養ができるというのならば、私にもできることがまだあるのかもしれません。
拙いながらも、伝承することができればよいと思いました。

さて、この講演のテーマ、「しなやかにして、したたかに。汝の名は」ですが、講演の終わりに、赤坂教授は「汝の名は、文化です」と仰いました。
厳しい状況を乗り越え、人々を支えてくれるものは、文化。
「あるいは、女性であり、あるいは、幽霊」だとも。

文化・・・私はそれを聞いて、かつて元宇宙飛行士の毛利衛さんが、「あらゆる文化は、人類の滅びを止めるために向かっている」と言ったことを思い出しました。
そのことを書いた四年前を思い出しながら、昔から受け継ぐ文化を伝承し、さらに発展させるその意義を改めて思い、「これからの私に何ができるのか」と問う一日となりました。


ほんの少しでも伝われば良いと思い、急いでざっと書いてしまいましたが、なんだか支離滅裂でまとまりのないレポートになってしまってすみません。
この後で観た狂言と能のことは、また別の日に書きます。

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【講談】神田 紅「ねじれた記憶」

2013年08月14日 23時58分08秒 | 芸能/エンターテイメント

2013/08/13 @池袋演芸場
【原作】高橋克彦 「ねじれた記憶」(短編集「緋(あか)い記憶」より)
【出演】女流講談師 神田 紅

夏といえば怪談。
紅師匠の怪談話も、私の中ではすっかり夏の定番の楽しみとなりました。

怪談というと、「牡丹燈籠」や「四谷怪談」「皿屋敷」などの古典が特に有名ですが、これは珍しい現代物。
高橋克彦さんの短編集「緋い記憶」に収められた一編で、「ねじれた記憶」という作品です。

怖い…というよりは、不思議でなんとも言えない面白さ! そして、余韻がありました。

物語を始める前に、「この話は難解で、8割の人が理解できないらしい」という説明あり。
とは言え、SF小説やファンタジー好きの友人と私の二人には案外と分かりやすかったです。

でも、その後の打ち上げ会でお会いした女性は、この物語のメビウスの輪のような構造が最後まで分からなかった模様です。
それでも「とても面白かった」と、楽しんでらしたので、必ずしもわかる必要はないのかも?
なにせ、8割ですものね。

この物語のどこが難解で、どこが面白いかというと、最後に崖から突き落とされる運命の主人公の「私」と、突き落とす少年「僕」が実は同一人物で(つまり、自分に殺されてしまう話)、未来と過去が重なり、事象が事象を呼んでぐるぐると繋がっているところです。

処は岩手県の鄙びた温泉宿。
その宿に不思議な因縁を感じて泊まりに来た「私」と、そこで身を売る貧しい女性が出会います。
そして、「私」はお客としてではなく、男として女性を愛し、一夜を共に過ごします。
この女性には子供がいて、それが「僕」…つまり、過去の「私」なので、これは時空を超えた、思いもかけない近親相姦の話となるわけです。
その真実を知った女性は首をつって死んでしまい、少年の「僕」は母の顔も、その当時の記憶も忘れてしまいます。

小さな宿屋の、ひんやりとした暗い夜の廊下。
ぶらぶらと、ぶらさがった母の足。
海の断崖で、背中で少年の気配を感じながら、「その時」を待つ「私」。

…紅師匠の話には、語りの部分はもちろん、語られていない細かい情景も見えるようで、まるで映画を観るようでした。
講談って、すごい。
ここ数年は舞台のほうでも朗読劇が流行ですが、落語や講談に感じる魅力は、たった一人だけで、しかも座ったままなのに、人物や情景のすべてが、その文の行間すらも、「見えてしまう」こと。
そして、日本語の美しいリズムと抑揚の心地よさです。

それにしてもね~、
その怪談を聞くのはもちろんですが、その後の神田一門主催の打ち上げ会が楽しい!!
毎年お決まりの中華料理屋さんで、紅塾の生徒さんである友達の千紅さんと語り合い、しこたま紹興酒で酔っ払うのが楽しみで~!(笑)
今年は特に、紅師匠と作品の話やその周辺のお話ができたので、より一層に味わい深く余韻ある一夜となりました。
この物語の冒頭で印象あるシーン、福助のことや、少年の年齢、思い出を残す家族の写真のこと、「男性は母親が理想の女性かもしれないけれど、母親にとっても息子は理想の恋人かもしれない」……などなど。
どれも興味深く楽しい話で、紅さんの気さくで豊かなお人柄に触れることができて嬉しかったです。
来年もどんな怪談を聞かせてもらえるのか、一年先が楽しみになりました。

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吉本興業創業100周年特別公演78日目2回目

2012年06月25日 15時29分32秒 | 芸能/エンターテイメント

【漫才・落語】中田カウス・ボタン/月亭八方/宮川大助・花子/西川のりお・上方よしお/ダイアン/ハリセンボン
【新喜劇】烏川耕一 /辻本茂雄 /井上竜夫 /未知やすえ
【唄って笑って100周年】ゲスト:ウルトラマンタロウ

大阪のなんばに来たのは、今、この時期、ここだけでしか見られない、お笑いとミュージカルが合体したスペシャルな舞台、「舶来上等、どうでっか?」を観るためですが、せっかくだもの、吉本のお笑いを余すことなく体験してみなきゃもったいない!

というわけで、遠征二日目のお昼に、漫才・落語と吉本新喜劇を見てきました。

この日の舞台は、昔からテレビでもお馴染みのベテランさんや人気の若手芸人さんたちがバランス良くラインナップされていて、テレビ画面の向こうがわに行って来たような楽しさがありました。
私は落語なら何度か生で観たことがありますけれど、漫才を生で見るのは初めて。
音楽のコンサートや、演劇、ミュージカルなどもそうですが、お笑いももちろん、テレビで見るのと生で体験するのとでは面白さが全然違います。
まず、その場の空気が違うもの。

前に落語を聞きに行ったときに、ある落語家さんが、「こういった演芸は、演芸場に来たものにしか体感できない面白さがある。最近じゃ、噺の中身をすぐブログに書いたりするお客さんがいるけど、いやだね~、それはぜんぜん粋じゃない。演芸場の本当の面白さはここに座っているお客さんだけのものだ。」と言ってましたが、確かにこれらを「テレビで見るのと実際にその場で見るのとでは笑いが違うよね?」って感じがします。
なので漫才の内容などは詳しく書きませんので、お笑いがお好きな方は、ぜひ!本場で体験してみてくださいね。

私の印象では、毒とえげつなさと、下ネタ系がテレビよりもぐっと増量されていた感じがしましたけど(笑)、それがこの場にいると、「みんなおんなじやで~!」という笑いになっちゃうんですよね~。
アホやデブだのブスたのと、そういった笑いというのは、他の場所、普通の演劇だと、時として笑ってしまいながらも、笑った後でなんとなくちょっと後味が悪かったりして、時々いや~な気分になってしまうことが私はあるんですけど、それはたぶん、一方的に他人を揶揄した笑いを見せられたからだと思うんですよね。
これがいつでもそう後味が悪いかというと、そういうわけでもなくて、演出家によって、出演者によっては全然そんなふうには感じなくて、あっさり笑っていられたりもするんですけど…。

でも、こうした演芸場で一緒に笑っていると、「ここにいるのは、みんなおんなじアホどうし。みんなアホやし、どこかしらコンプレックスもあるし、しょーもないところもあるけれど、アハハ~と笑っておけばええんやで~!」というお気楽な気分になるから不思議。
このあっけらかんとした明るさが、大阪人特有のラテン系たくましさでもあるのかも。

新喜劇は今はどうなのかわかりませんが、私の子供の頃は関東でもテレビで放送することがありましたので何回か観たことがあります。基本的には笑いの中にもほのぼのとした落ちになる、人情話といった感じです。
これがね~、ほんとにアホくさくて、浅いです(笑)
しかも、役者さん(芸人さん?)が、台詞を忘れてしまい、同じような台詞を二度も三度もぐるぐるとして、先に進まない箇所もあったりして(笑)
もしそんなことが普通の演劇やミュージカルであったなら、役者さんにとっては悪夢のような状況だろうし、客席はハラハラするしで、舞台は一時的に滅茶苦茶になっちゃうと思うんですよね。
でも、そこはさすが吉本! 気転の利いた芸人さんたちの突っ込みで、その滅茶苦茶な状況がまた笑える、笑える! 
どんなハプニングも、お客さん達と一体になって作られる笑いですから、劇場内の全員が参加している感じがまた楽しかったです。


ところで、この「なんばグランド花月」は上演中でも客席で飲食ができるんですよ~!
ああ~、でも「吉本百年物語」の演劇のほうでは、それはどうかと思いますし、漫才・落語の時でも一階席のかなり前のほうに座るのであれば、ちょっと目立ちすぎて飲み食いする気分になれないかもしれませんね。
でも、私の座った二階席は全然大丈夫でしたよ! 
ちょうどお昼時だったこともあり、劇場内でお弁当やたこ焼きを買ってきて、座席で食べながら見ているお客さん達をちらほらと見かけました。
で、私も「この際だ、どうせならばやって良いことはやってみよう!」 と、たこ焼きを食べながら見ました。二日続けて、お昼はたこ焼き(笑)
最初のあたりは前座の若手さん達がいろいろとやってくれていますが、彼らが引っ込むあたりでちょうど食べ終わりました。
ゆるゆると笑ってリラックスしながらお腹も満足したところで、本日出演の人気芸人さん達が登場するので、そのあたりのタイミングも絶妙にできています。
なので、早くに食べ始めれば、一階席の目立つところで飲食してもほとんど気兼ねがないかもしれません。
ちなみに、お席のひじ掛けは映画館のように、ペットボトルや紙コップが置けるようになってます。

あっきーの「舶来上等、どうでっか?」を観に、なんばへ遠征するみなさん、せっかくですから吉本の本場で、ぜひアホの笑いを体験してきましょう !

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舞踊劇「サロメとヨカナーン」

2011年10月13日 00時40分20秒 | 芸能/エンターテイメント

【原案・原作】オスカー・ワイルド
【構成・演出】菅原道則
【音楽】HIROSHI WATANABE
【出演】市川段治郎/舘形比呂一/遼河はるひ/天野裕子/井上晴賀/松本なお
会場:Hakuju Hall

「お前のくちに、口づけするよ」 (サロメ)

この台詞が耳について離れません。

あなたが今、欲しいものは何ですか?


サロメはなぜヨカナーンの首が欲しかったのか?
それが知りたくて観に行ってきました。

凄いものを目にしました。
瞬きをする間も惜しかったです。

「サロメ」の舞台は紀元一世紀のパレスチナ。
主人公のサロメ姫は王妃の近親婚で生まれた美しい少女という設定です。
そのサロメを踊るのは、舘形比呂一さん。
ですから体は男性ですが、性別と体の違いなど何ほどの妨げにもならず、その理由すらも意味のないことだと思いました。
舘形さんの踊りは何て言ったらよいのでしょう。妖艶と言うにもどこか少し違う、まるで、処女の子宮から溢れて滴る赤い血を見るような踊りです。
…そう、言うならば、あれは…

ルナ・ロッサ…まるで、今にも熟れて堕ちそうな赤い月。

狂気の恋とは、無垢な心と飢(かつ)えし欲望に生まれるものかもしれません。
そして官能とは、好奇心をかきたてられる存在から煽られた、想像の世界の中にある。
たぶん、芸術も。
人の体の表現力とは、どこまで奥が深いのでしょう。
踊る舘形さんの姿はサロメそのものだと思いました。

ヨカナーン役の市川段治郎さんもまた圧倒的な存在感でした。
壁に映った影さえも生きているように見えました。

物語の始まりと終わりは、その市川段治郎さんと舘形比呂一さんのお二人が人形として舞台に置かれます。
その人形が命を吹き込まれ、操られる動きも面白く、二人がやがてサロメとヨカナーンとなり人として生きて踊りだし、最後にはまた二体の人形に戻っていくという演出も見応えがあって素晴らしいものでした。

「お前の全てを飲み干したい」と言い、目に見えぬがそこにあるヨカナーンの首から血を啜るサロメの狂気は凄まじく、私は何故か涙がこぼれてしまいました。

秋にふさわしい芸術作品。
それが12日と13日のたった二日間の上演だそうで、私は見逃してしまわずに本当に良かったと思いました。

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講談「牡丹灯籠 お札はがし」池袋演芸場

2011年08月14日 04時08分27秒 | 芸能/エンターテイメント

八月十二日(金)
<お仲入り>後
【落語】三遊亭笑遊/桂歌春 【大神楽】鏡味正二郎
「牡丹燈籠」より-お札はがし-【講談師】神田 紅

真夏といえば、これ!
この時期になると、仕事帰りに池袋の演芸場で女流講談師の神田紅師匠の怪談を聴きに行くのが、ここ何年かの恒例となりました。
でもって、そのあとで紅師匠一門の打ち上げ会に参加させてもらい、しこたま紹興酒を飲んですっかりヘベレケになるというのもまた楽しみなのよね~!

紅さんの怪談は怖いだけじゃなくて、面白い。そして時に悲しいです。
けれども、この牡丹灯籠の「お札はがし」のくだりは前に舞台を観たときにも思ったけれど、恋煩いで死んでしまった「お露(つゆ)」に執りつかれてしまう萩原新三郎という男があまりに情けない奴なんで、私は「なんて往生際の悪い奴なんだ!さっさと死んでやればいいのに~」とか思っちゃうのよね(笑)
だって~、「ロミオとジュリエット」だったら、きっとロミオは喜んでそうするんじゃないの? とか思うし(笑)

夜な夜なお露が会いに来たときは良いようにデートを楽しんでいたくせにさ、お露がこの世の者じゃないと知った瞬間に「俺はもっと生きていたいんだ」なんて、急に拒んじゃうなんて、ほ~んと、これだから親の遺産でぶらぶら遊んでいる男の愛なんて、根性も誠実さも一途さもなくて、てんで性根が座ってないったらありゃしない!

なんて言うとね、いろいろと反論のある人はあるだろうけど、だからいま私が話をしているのは「牡丹灯籠」の、あの情けない新三郎のことなんで、もちろん世間一般に当てはめて心中を奨励しているわけじゃありませんよ?(笑)
もし新三郎が、あの世で一緒になれるのなら、それもまた「永遠の愛」だと覚悟するくらいの愛情深い男なら、もしかしてお露はその愛に満足して成仏したのではないかと思うんだけどな。

怪談の怖さとは、お化けよりも、むしろ生きた人間の煩悩だと私は思う。
人の自己中心的な欲望や執着、嫉妬や怨恨からくる裏切りや殺戮こそが怖いのよね。
その煩悩に負けるのは弱さなのかな、やっぱり。
そして人を強くするのは、きっと愛。それも恋愛ではなくて、慈愛のほうだと思う。

そうだ、そろそろ両親に顔を見せて、お墓参りもしてこよう。

 

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講談師・神田紅「牡丹燈籠」

2009年08月20日 21時32分02秒 | 芸能/エンターテイメント
前髪がイイ感じに伸びてきました。

鏡の前に右肩を少し前にして斜めに立ちます。
自分は和服の似合う女だと思い込みましょう。
なで肩のつもりで、右肩をさらになだらかに下に落とします。
両腕のひじから下はぶらぶらと力を抜きます。
ひじ下の腕から手首、指先まで脱力です。
そのぶらぶらした右手の手首を心持ち上げますが、
ひじよりも上に上げてはいけません。
手首がわき腹とおへその間で少し下の位置にいく感じ。
左腕はやはり脱力し手先を下に垂らしたまま手首を少し上げ、
その手は右手のそばのやや上にもっていきましょう。
この左手もひじから上にいくことのないように!

頭を豪快に振ってみて、前髪はワイルドに顔を覆います。
そしてうつむき、上目遣いに顔を少し上げて、
気になる人の名前を呼んでみましょう。

「○○さまぁ~、お会いしとうございましたぁ~~」

はい、これで正しい幽霊のポーズが出来上がりです

……な、はずなのに……う~~ん、やっぱり難しい
上手にできないわぁ~~

足りないのは色気? それとも愛?
っつーより、恨みか(笑)


え~と
一体なにごとかと言いますと、
昨日、池袋演芸場で、講談師・神田紅さんの「牡丹燈籠」を聴きにいきました
紅さんの講談は本当に楽しくて、面白くて、そして怪談が盛り上がる場面では哀しく怖いです。

その講談の前の落語も太神楽もとても楽しかったです。
せっかく粋な日本の古典文化に触れてきたので、内容を詳しく語るような無粋な真似はいたしません。
この面白さを知りたい方はぜひ演芸場へ! 
…って、なんでアタシが宣伝してんだか?

劇場で見る怪談も良いけど、講談は想像力が刺激されて面白いです!
来年もまたぜひ行きたいと思いました。


あ、上記に書いた幽霊のポーズはもちろん紅師匠の真似っこです。
家に帰るなり最初にこれを鏡の前でやってみた私は、紹興酒ですっかり出来上がっていた阿呆です。

いや~、夏もまだまだよね~!
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脳天直撃!「STOMP」

2008年07月12日 20時47分20秒 | 芸能/エンターテイメント
東京芸術劇場へ「STOMP」を見に、聴きに、楽しみに行ってきました!

いや~、それにしても、午後三時頃の東京都下は凄かった!
バケツをひっくり返した、というのはこのことか!って感じの豪雨
横殴りでひっちゃかめっちゃか。雷も轟いて、風神雷神大暴れ!
そんな中を二キロも歩けばジーンズは絞ったほうがいいんじゃないかってくらいに水を含むし、傘はオチョコでシャワー浴びたように髪も濡れるしで、とーんでもない有様よ
それでも歩くしかないってのは…、やっちゃった時間を一時間間違えて、のんびり仕度して時計を見てあわてて家を出たからなのね
この辺りって、本当に雷が落ちやすい場所なんで、もしかして雷に打たれて死ぬんじゃないかとスリリング~っ
まあ、その時は、その時ってことで。

「STOMP」は、モップやドラム缶、新聞紙、ライターなど、身近なものでリズムを表現するエキサイティングなパフォーマンスです。
私は二列目だったから、砂埃っぽいわ、水は被るわ、迫力のある舞台を楽しみました
あれね~、見ているとやりたくなっちゃう!そう簡単にはできないけどね。
でも、体全体とそこらにある物全てが打楽器になるって楽しいじゃない?
だから、最後のほうで手拍子入れる客席参加は、みんながみんなウズウズしていたと思う
私も待ってました!のノリで楽しみました。

本当にカッコよくて興奮しました!
私もまたパーカッションやりたいな。
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DVD「今昔桃太郎」

2008年02月03日 21時59分44秒 | 芸能/エンターテイメント

友人から借りたDVD「今昔桃太郎」(いまはむかしももたろう)を観ました。
これは、現在十八代目中村勘三郎が勘九郎の名称で務めた最後の舞台です。
歌舞伎には馴染みのない私ですが、渡辺えり子さん作ですから、解り易くて本当に面白い舞台でした。

お話は、鬼が島で見事鬼を退治したかつての桃太郎が45年の月日を経てすっかり怠惰な中年男に成り下がってしまったところから始まります。
せっかく手にした財宝も、飲む打つ買うの生活で失ってしまい、身体もでっぷり太っています。かつてのヒーローはどこへやら。
いつの間にか日本全国鬼だらけ。弱きをいじめ、強きを救う世の中になっています。。
それはまさしく今の日本ですね。
毎日ニュースを見る度に人殺しやいじめや汚職の話ばかり。

我に返った桃太郎が「大丈夫かとか、ありがとうとか、そんな簡単なこと忘れるようじゃおいらあ人間じゃねえ」という言葉には重みがありました。
ほんとうに人間に必要なのは簡単なことなのに、この世の中、なんでこんなにおかしくなってしまったのだろう。

その太った桃太郎が鬼から騙された「躍りが止まらない薬」を飲んで、次々と踊るのですが、これは勘九郎さんがこれまでの舞台で踊ってきた名場面をコミカルな動きも加えて再現したもので、これが素晴らしい!
ここだけでも充分見ごたえがあります。
それですっかり痩せてしまうのですから、「痩せ薬」と騙されたといっても、まんざら騙されたわけではないのね(^^;) 
動きがシャープでハードなことといったら‥‥やっぱり並みの中年とはわけが違いますねぇ‥‥。
そしてなにより積み重ねた芸の見事さに感動します。

この舞台は中年桃太郎がすっかり改心して再び鬼退治にいざゆかん!という場面で終わるのですが、最後の
「良き人々と巡り会うて、わしゃ果報者だなぁ」と深々と頭をさげるところでは、この人の心からの感謝の気持ちと万感の思いが伝わり、その深さに涙がこぼれました。
勘九郎さん、いや勘三郎さんが今までどんな心持ちでどのように生き、芸に向かってきたのか‥‥。
これまでの舞台を観ていなかった私でさえ、この一言で察することができるような感動の場面でした。

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歌舞伎「俊寛」「うぐいす塚」

2007年10月06日 22時57分04秒 | 芸能/エンターテイメント
国立劇場で歌舞伎を観てきました。
「平家女護島」「昔語黄鳥墳(むかしがたりうぐいすづか)」
(出演)松本幸四郎 市川染五郎 坂東彦三郎 市川段四郎 中村芝雀 澤村宗之助 ほか

な~んか、久しぶりに日記を書いてますが
10月1日に男性社員の人事異動があって、その余波でとんでもなく忙しいです。
この忙しさが解消する見込みがないわ~
もう平日の夜に観劇するのは難しいかも……とか言って、来週の平日は二日分のチケットがあるのよねぇ。
だってチケットって、何ヶ月も前に買うから先がわかんないんだもん。

という愚痴はさておき。

歌舞伎ですが。
お安い二等席なのに何故六列目なのか謎が解けましたよ
役者さんは良く見えていいんだけど、首が痛い~
端から6番目でも横を向きっぱなし。国立劇場って横に広いのね。
でもまあ私は、同じ二等でも三階席よりはこっちのほうが表情が見えていいけどね。

「平家女護島」は松本幸四郎さんの俊寛が、船を見送る最後の場面に見ごたえがありました。
こういう有名な演目はやっぱ一度は観ておいて正解だよね~……なんて言いつつ時々意識が飛ぶ私
それで、ミーハーな私には「昔語黄鳥墳」のほうが楽しめました。
染さまが二枚目の王道をいってます
で、悪役ありで早代わりありで、女形の方々も若くて美しいし(若いと声も美しいのね)、言葉も比較的わかりやすく、初心者には向いているかもしれません。
途中で「おしりかじりむし~」があったりして笑えました。
染五郎さんは二枚も素敵だけど、私は悪役も好きだわ
テレビでちょっと披露していた鼓も聴けて良かったです。

それにしても、古典には自信があったんだけど、あの独特な抑揚やリズム感のセリフはなかなか聞き取りにくいわね。やっと慣れたころに終わってしまいましたよ
読むのはなんとかまだできても聞き取れないって、我ながら歯がゆいわ。
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「戦争わんだー」

2007年09月01日 00時01分53秒 | 芸能/エンターテイメント
北千住まで、森山未來 作・演出 モダンミリィの「戦争わんだー」を観てきました。

凄まじい爆音に銃音、眩しく交差する閃光、禍々しい兵隊に踏みにじられる民衆……冒頭のシーンでこの舞台の方向が……ん?まてよ。
そのすぐあとに幕が下ろされ、出てきたのはお笑いトリオのような三人
「戦争ワンダー」は間違いで「センス・オブ・ワンダー」ですと?
空耳アワーなネタを披露しつつ、これは戦争ものじゃないと訂正が入り、その後の舞台はまるで戦争と関係ないものでした(笑)

で、内容は簡単に言えば、父と母と女子高生と祖父の四人家族、それぞれの今を中心に、セリフなしの、ダンスのみで表現される舞台です。未來くんは「案内人」ね。

この舞台はね~、「血の婚礼」で「もっと未來くんのダンスを見たい!!」と思って行ったんですけどね。「エレンディラ」の前楽と引き換えにしてまで。
その結果、やっぱり未來くんのダンスを観に行ったのよね、私。
だってほかのダンサーさん達には申し訳ないけど、未來くんのダンスは際立ってカッコよかったんだもの!
結局私って、何を見てもミーハーなのよねぇ…
ある程度上手ければ、誰がどのくらい歌や演技が上手いとか、どれだけダンスの技術が優れているとか、どのスピンやジャンプの難易度がより高いとか……まるでわかってないの。
でも、目を惹きつける力とか華とか、その役者さんたちやダンサー、選手らの魅力ってそういう尺度で測れないものがあると思う。
そこだけ纏う空気が違うって凄いことよね。

で、未來くんは素敵でした~~
なんか頬がげっそりしてましたけど、ダンスのちょっとしたポーズも跳躍もなんて美しいのかしら。タップダンスも興奮するほど良かったです
なので、この舞台の私的見所は未來くんが踊っている場面全部ですが、あんなにカッコいい野球拳は初めて見たわ
BlueDreamさん、私も未來くんに脱いでほしかった!
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DVD「今昔桃太郎」

2007年02月03日 21時56分55秒 | 芸能/エンターテイメント

友人から借りたDVD「今昔桃太郎」(いまはむかしももたろう)を観ました。
これは、現在十八代目中村勘三郎が勘九郎の名称で務めた最後の舞台です。
歌舞伎には馴染みのない私ですが、渡辺えり子さん作ですから、解り易くて本当に面白い舞台でした。

お話は、鬼が島で見事鬼を退治したかつての桃太郎が45年の月日を経てすっかり怠惰な中年男に成り下がってしまったところから始まります。
せっかく手にした財宝も、飲む打つ買うの生活で失ってしまい、身体もでっぷり太っています。かつてのヒーローはどこへやら。
いつの間にか日本全国鬼だらけ。弱きをいじめ、強きを救う世の中になっています。。
それはまさしく今の日本ですね。
毎日ニュースを見る度に人殺しやいじめや汚職の話ばかり。

我に返った桃太郎が「大丈夫かとか、ありがとうとか、そんな簡単なこと忘れるようじゃおいらあ人間じゃねえ」という言葉には重みがありました。
ほんとうに人間に必要なのは簡単なことなのに、この世の中、なんでこんなにおかしくなってしまったのだろう。

その太った桃太郎が鬼から騙された「躍りが止まらない薬」を飲んで、次々と踊るのですが、これは勘九郎さんがこれまでの舞台で踊ってきた名場面をコミカルな動きも加えて再現したもので、これが素晴らしい!
ここだけでも充分見ごたえがあります。
それですっかり痩せてしまうのですから、「痩せ薬」と騙されたといっても、まんざら騙されたわけではないのね(^^;) 
動きがシャープでハードなことといったら‥‥やっぱり並みの中年とはわけが違いますねぇ‥‥。
そしてなにより積み重ねた芸の見事さに感動します。

この舞台は中年桃太郎がすっかり改心して再び鬼退治にいざゆかん!という場面で終わるのですが、最後の
「良き人々と巡り会うて、わしゃ果報者だなぁ」と深々と頭をさげるところでは、この人の心からの感謝の気持ちと万感の思いが伝わり、その深さに涙がこぼれました。
勘九郎さん、いや勘三郎さんが今までどんな心持ちでどのように生き、芸に向かってきたのか‥‥。
これまでの舞台を観ていなかった私でさえ、この一言で察することができるような感動の場面でした。

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パフォーマンス 「タリエ(Terje)」

2006年11月18日 21時41分25秒 | 芸能/エンターテイメント
横浜のみなとみらい21、新港埠頭の特設会場で上映された、
イプセンの「タリエ」を見てきました。

5面の巨大スクリーンに映し出される映像と、生身のダンサー達とが作り出すパフォーマンス。
ナレーターは伊武雅刀さんです。

海に向かって設置された巨大スクリーンに映し出される大海原に囲まれると、あたかもノルウェーの海に漕ぎ出でた船の上に立っているかのような錯覚を覚えました。
かと思えば、灼熱の炎、港の人々の姿、草や浜辺の石、荒波や渦‥‥数々の映像が、時にダンサー達の姿や影と絡み合い、見る者を幻想の世界へ導き、現実に吹く海風すらもこの世界の中から生まれ出でたように感じられました。

物語は、「妻と娘を死なせるに至った主人公タリエは、ある日その元凶の大英帝国人に再会し、復讐を果たす機会を得る。
しかし、あることによってその復讐心は解き放たれ、タリエは元の誠実さと心の平穏を取り戻す」といった話ですが、それは伊武さんの力強くも淡々とした朗読ですすみます。
スクリーンのなかに俳優さんが登場して演技したり台詞を言ったりするわけではないので、いっそう観る者の想像を引き出すような演出でした。

凄く感動するようなものではなかったと思いますが、
大掛かりで珍しいパフォーマンスでした。
大人のためのイベントですね、これは。
でも、野外で立ち見は疲れたな。
じっとしていた足が棒のようになってしまったわ。
それに、今日は風が少なくて助かったけど、もっと寒い日だと厳しいと思う。この季節がギリギリだわね。

帰りには、インドネシア料理を食べました。
特に美味しいとは思えなかったけど、これまた珍しかったので、
まあ、珍しいずくしの夜でした。
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