今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

クロムモリブデン「恋する剥製」

2010年06月29日 01時57分28秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
赤坂RED/THEATERで「恋する剥製」というお芝居を観てきました。

最近、小劇場にも足を運ぶようになって改めて思うのは……
「この人達(役者さん達)はみんな、変だ!!」ということね。
だからこれって、褒めてるというか、嬉しいんだけど。
板の上の人達が変な人じゃなかったら面白くなくて、私はなにもわざわざ劇場になんかきっと行かないと思うもの。
家で本を読んでいるか、どっかのカフェの中から道行く人を眺めたり、個性豊かな友人・知人を見たり(笑)…じゃなきゃ自分を見るものね~。
まあ、ひとことに「変」といっても、いろんな方向があるけどね。
絶世の美男美女だって、ある意味「変な人」だし。

そんな話はともかく、この舞台は面白かったです。
この物語は「あなたには中身がないから」なんて、街なかで携帯越しにお手軽に振られちゃった青年が、デタラメ占い師の二人にスカウトされるところから始まります。

心に浮かんだ脈絡もない言葉…それをデタラメと思うか真実と思うか、または神託と思うかは受け取る人次第…ということで、このデタラメ占いはそのデタラメの言葉の中にも勝手に受け取りたいものを受け取る人々によって流行りだします。
そして、その三人の中にもう一人、「恋愛の話が苦手」というエキセントリックな女子高生が加わることになり、その女子高生を祭り上げて次第に怪しい新興宗教のように変化し、やがて反社会的な一団となってしまうんですけどね、もうその様子がハチャメチャで笑えます。

そして、そのグループと同じマンションの別室で事務所を構える男がいて、その男の仕事がまた「恋愛に関することなら何でも請け負います」という胡散臭いもので、この男の被害者だと憤り「金返せ!」を繰り返す女とか、例の家出した女子高生を探しにきたヘンな教師とか、お巡りさんとか、そのお巡りさんに恋する恋愛依存症の女とか、婦人警官とか…まあ、そんな一同が最後にはぐっちゃぐちゃに町の中を追いかけっこしながら駆けずり回って…
って…、それでお終い。

「え? 結末は?」とか、「つまり何が言いたいの?」なんて、無粋な疑問は要らないのよね、きっと。
結局、どんな作品だって、受け取り手が勝手に「何を受け取りたいか」なのよね。

なので、私は最初から最後まで笑いながら観ていたけど、でも実はこの舞台で受け取ったものがあるとしたら、「他人の言葉を鵜呑みにして自らの思考を止めてはならない」という、なぜか大変真面目な感想でした(笑)

この舞台の演出の青木秀樹さんという方は、「恋とか愛とか苦手な人」だそうだけど、そういう人があえて純愛とか描いたらどんな風になるのかしら?
それはそれで、またこの舞台とは別方向の「変」が観られて面白いかもね。
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「SWAN LAKE」マシュー・ボーンの白鳥の湖

2010年06月27日 00時53分47秒 | バレエ/ダンス
「SWAN LAKE」マシュー・ボーンの白鳥の湖

チラシに「世界中が震撼した脅威のバレエ」と書いてあるこのマシュー・ボーンの「白鳥の湖」は普通のバレエのそれとは大きく違います。

なんたって、白鳥が男です。もちろん王子様も男性。
あ、王子の母親、王妃さまや王子のガールフレンドは女性ですよ。
だから全員が男というオールメールの舞台ではなくて、つまりその気(どの気?)
のテイストがあるわけ。
もっとも、今回の「SWAN LAKE」は想像していたほどにはその気(だから、どの気?)は私にはあまり感じられなかったし、白鳥は性別も生き物の種別としてもどこか超越した存在に見えました。
そのわけは、前に来日した時から随分と演出が変わったからだそうな。

ま、それはともかくとして。
古今東西、王子さまだの王族っていうのはほとんど幸せそうじゃないのよね。
この王子は、つまりエリザベートのルドルフ皇太子みたいな人です。
母親の愛情に飢えている孤独な王子さまなんですけどね、もういい加減に大人です。
それで、母親恋し…っていうのも、まだ幼いうちならともかく、あまり大きくなってから母親の愛に飢えすぎて必死に求めると…なんていうか、体が大きいだけにしがみついたりしているうちになんか妙な方向にいきそうで、ちょっと危険な愛の香りがプンプンと匂っている…という、そんな感じね。
それでまた、この王妃さまも王妃さまで、たぶん独身なんだろうけど、まだ充分に若く美しくて次々と若い男とよろしくやっているしで、母親ってよりは女だしで、そんなこんなの設定は元ネタの「白鳥の湖」とはもう全然別物です。
あ、もちろん音楽は例のチャイコフスキーの音楽ですけど。

つまりこの物語はまあ面白かったし、ダンスも素晴らしく(バレエを褒めるにはあまりに疎くてボキャ貧な私)、予備知識があったからチラシのうたい文句ほどには「震撼」はしなかったけど、とても貴重な舞台が観られて良かったと思います。

…なんて、あまりに突然すっ飛ばした感想にするのもなんだけどね(笑)

正直言って、この舞台の本当の感想といえば、この前書いた「私の頭の中の消しゴム」じゃないけれど、ラストで死んでしまったのはやっぱりある意味ハッピーエンドな気がしました。
白鳥も王子も、あんまり唐突に死んでしまったので驚いたけど。

なんかね、今までいろいろと舞台を観てきたけれど、つまり「永遠の愛」というのは、愛し合う二人共々か、またはどちらかが亡くなってしまうか、それとも「二人の愛はこれからが最高潮」みたいなその時点で、蛇の生殺しのように引き裂かれて離ればなれになってしまうかの、そのパターンでしか成立しないんじゃないかと思う今日この頃だわ。
なぜなら、愛そのものを壊してしまうのは結局当人たちだもの。
恋愛とは決して普遍ではないらしく、共に生きていれば何がしかの変化がある。
ところが、生き別れにしろ、死に別れにせよ、二人が離ればなれになるとしたら恋愛の想いだけは心に残り続けて、愛を壊すものが何もなくなるからいつまでも愛は続く…という、そういうことかもしれないな……。
もしくは、シラノみたいにずっと片思いとかね。
…というのはもちろん、私の勝手な感想で、この舞台とは直接関係ないです(笑)
だって、恋愛…つまり恋心の入った愛がいつまでも続く物語って、今まで見たことないし……って、あ、そうだ!「春琴」の二人と、「ヘアスプレー」のお父さんお母さんがいたか!
そうだった! いや~、よかった、よかった!、とりあえず(笑)

あとはね、王子の心の空洞を埋めた白鳥が、その逸脱ゆえに仲間の白鳥たちから攻撃されて殺されてしまったのは、衝撃といえば衝撃でした。
王宮で居場所がなくなった王子と、逸脱したがゆえに仲間から排除された白鳥。
死んでしまった白鳥が、やはり突然亡くなってしまった王子を抱いて、二人の世界に逝ってしまったラストは、悲しいというよりはやっぱり私には「ある意味で幸せ」に見えて、でもだから「これはもしかしたら淋しい王子の妄想かもしれないな」とも思いました。
「僕と同じように一人ぼっちで淋しい白鳥が迎えに来てくれて、僕だけのものになりました」…というような、ね。

なんていうか、素敵なバレエを観に行って、そのダンスの見事さや美しさにはもちろん魅せられたにせよ、結局物語を見て余計なことを考えちゃう私って、つくづくと、少なくともバレエに関しては「猫に小判」なのかも。

あ~あ、なんか、脈絡もなくだらだらと書いちゃった
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「キャンディート゜」ジョン・ケアード版

2010年06月20日 22時54分41秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)
出演:市村正親 井上芳雄 新妻聖子 坂元健児 村井国夫 阿知波悟美 安崎求 駒田一 ほか

前に宮本亜門さん演出の「キャンディード」を観た時は(といっても、ごめんねぇ~DVDで、ですけど)、オペラとミュージカルが混ざったあのごちゃ混ぜ感とか、ストーリーのハチャメチャ感、アホくさいほどのユーモアが散りばめられた中での悲壮な運命だの哲学とか、「えっ?!」という唐突な展開やら結末やら…その何でもアリな感じが私はとても面白いと思いました。
で、ジョン・ケアード版のこれはそういった面白さはやや薄いものの、全体的に纏まっていてとてもわかりやすい「キャンディード」だったなぁ…という感じがしました。

でもまあ、そもそも「キャンディード」って、「この世界は何でもアリなんだ、世の中は善きことも悪いこともあって、人は楽しいだけでも悲しいだけでも生きてはなく、そして何もかもがわからなくても良い、あえて考えるな」と言われているような気がするんですよね。
だから「何かご質問は?」という最後の台詞が生きるんだと思います。
聞きようによっちゃ、ごちゃごちゃと考えたがる人達に対しての開き直りとも皮肉とも聞こえます。

だけど、その亜門版のごちゃ混ぜな感じは薄いにしても、この妙に纏まってわかりやすいジョン・ケアード版も私は好きです。
なんたって、バーンスタインの楽曲が良いですよね~!

佐渡さんが指揮を振る夏の来日版を前にして、この東宝さんの「キャンディード」は、いかんせんオケの頭数が少なくて楽器の層が薄いからせっかくのバーンスタインの名曲がチャラチャラ~って感じで(だって、ほら、低音少ないし)惜しいけど(東宝さんはオケにもっとお金をかけて欲しかった!)いや、だからこそ佐渡さんが振る夏の「キャンディード」にも大きな期待がかかってワクワクしますよね~!!

…とまあ、なんとなくじわりと辛口を放っている気もしないでもないけど(笑)
だから、このケアード版もこれはこれで好きですから。

それでね、これはこれで面白かったので、いちいち亜門版と比べるつもりはないけれど、このケアード版では、私はなんといってもクネゴンデの捉え方の違いが興味深かったです。
クネゴンデ役の新妻聖子さんは期待していたよりもずっと素晴らしかったし、芳雄くんとのバランスもばっちり! 
高音が続く歌「着飾って浮かれましょう」も、私は聞きやすくて見事だと思いました。

それで、その難曲「着飾って…」ですけど、彼女は不幸な運命に悲嘆にくれている…かと思えば「でも贅沢、嫌いじゃない、はっ、はん!」なんて、突然ゲンキンに浮かれ……でもまた、こんな(宝石の)俗っぽいもので私の落ちた品位が取り戻せるというの?、なんて嘆き……そして、また次の瞬間には明るくなったり…と、まあコロコロと変わる面白さで、その歌い分けがなんとも聞き応えがあるんですが、新妻さんのはこの歌の終わりになるにつれ、明るく振舞っていても不本意なその状況にちょっと精神がおかしくなっているというか、狂気みたいのが混じっています。
でもって、終盤にキャンディードが歌う「人生はこんなもの」の後で、クネゴンテは舞台の前の板にずっと座り込んで俯いてしまうしで、ケアード版のクネゴンデはなんとも痛々しすぎて…なんというか、根がマトモな女性に見えます。

だから、結末でキャンディードが唐突に「庭を育て耕そう、さあ!」とか言い出だしてクネゴンデは彼に付いていったけど、亜門版のときは「まあでも、この女性がそんな生活を長続きできるとは思えない、もって二ヶ月くらい?」という感じだったのに(笑)、この新妻聖子ちゃんのクネゴンデなら何となくそれなりに二人は素朴に幸せに暮らすかも~?という気がしないでもないです。
同じ作品なのに、演出でこれだけキャラの印象が違うのも面白いですね。

で、肝心のキャンディード役の井上芳雄くんですけど、キャンディードらしく、なんか随分と若々しくて、華奢で可愛らしい感じでした。
基本的に私はヨッシーが舞台の上にいるだけで嬉しいですが(笑)好演していましたね!
ヨッシーったら、ちょっとばかり(?)おバカさんキャラのキャンディードもハマるのね~!
私は羊になりたかったです~!!


それにしても、今年は「キャンディード」の当たり年ですね。
実は去年の秋ごろ、友達と何の成り行きだったか、突如「キャンディード」の話題になり、ひとしきり盛り上がったことがあったんですよ。
で、その時に私は「キャンディードの舞台をぜひ生で観たいよぉ~!」とか言ってたのね。
そしたら…って、「そしたら」もなんも、ただの偶然だけど(笑)その数ヵ月後に2010年に佐渡さんが指揮をする「キャンディード」が上演されるとの情報があり、「うわ!願いが叶った!」と思ったら、すぐその後にジョン・ケアード版でやるっていう発表があってビックリ!
なんて、タイムリーだった私たち!! 
やっぱり願いは口に出して言ってみるものよね? 
べつに私のためにそうなったわけでもないのに、なんとなくミューズの女神様が願いを聞いていてくれたような、そんなお目出度い気分になりました(笑)
みなさんも願いはぜひ口に出して言ってみましょうねっ!

コトバ、コトバ、コトバ…にはいろいろあれど、「言霊」って本当にあるかもよ?

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「あらはん」ACファクトリー15周年特別記念公演

2010年06月18日 23時44分48秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
「ACファクトリー15周年特別記念公演第一弾 ARAHAN」


「あらはん」とは、声なき声を聞く者、人々が胸の奥に隠し持つ百八つの‘煩悩’の声を聞いてしまう、ある種の特殊能力者達なんだそうな。

そして人々の煩悩が膨れ上がり肥大化し、遂には制御しきれなくなった時、「あらはん」は剣を持つ。
「あらはん」は人を斬らず、煩悩を斬る。

『煩悩滅却!』

そして、その斬られた煩悩の正体、その姿とは、己の孤独な心が生み出しだ「もうひとりの自分」であり、子供の頃からの慰めであった架空の、あるいは精神世界の「友達」であった。

…ってな、お芝居を今夜は観てきました。

まあ、こう書くと、なんか重そうですが(笑)
実はこのお芝居の四分の三くらいはドタバタ混じりのコメディあり、アクションありで、「あははっ」と笑って見てましたけど、半分ほどしたところで「なんだかな~、こんな緩く笑っているうちに終っちゃうのかな~?」とか思っていたら、やっと「着地で逆転しました」って感じね。

なにせ、この劇の途中にあった「海原幸代リサイタル」が私のツボで!!
この大物もどきの演歌歌手、海原幸代が踊り…歌いだすかと思いきや…いきなり付き人だと思った「ユミちゃん」が歌いだしたときは、私は例によって周囲よりも一拍か二泊早くに爆笑していましたよ!
あまりのアホらしさに、そりゃ~、ご老人じゃなくても元気でるさ!

でも、まあその例の「あらはん」ですけどね、
煩悩…これは欲望と言い換えても良いかもしれないけど…は、いくら制御不能になったからといって、何も跡形もなく滅却してしまうほど罪深くはないんじゃないかと私は思うわけですよ。

欲望というのは全てが人の心に害をなすわけでもあるまいに。
現に、煩悩を引き出された老人達は元気になり、体は動くし恋愛はするしで、それがあまりに突然で強烈だったから「これでいいわけがない」ということになったけど、ほどほどならば「元気溌剌になった!良かったね~」ということになるじゃない?
欲望のカテゴリーの中には夢とか希望も含まれるわけだし、生きるエネルギーにもなる。
それに、淋しくて、自分の孤独を慰めるために空想の世界を持つのも、べつに悪いこととは思わないし、全部を否定することもないと思うんだけどなぁ……。

とはいえ、それがあまりに肥大化すると、現実に生きる自分を侵食して現実と精神世界の折り合いがつかなくなって妄想に取り付かれ、心の病気になってしまったり、寂しさを癒すつもりが一層自分自身を孤独にしたりするわけで、やっぱり現実を見なくてはだめだ…ということかな。

でもね、
最後にあらはんが剣で「友達」をぐさっと刺した時、思わずジワっと涙が滲んでしまった私です。
子どもの頃からずっと友達にしてきた者を、いくらそれが架空の、煩悩が生み出した目に見えないものだからといって、何も殺してしまうことはなかろうに…。
でもでも、人の煩悩は消しても消してもまた後から湧いてくるものだから、いつかはまた刺されて消されたはずのその彼も復活するのかもね。
…なんて言うと、まるで私が煩悩肯定派みたいだけど(笑)


まあ、とにもかくにも、心の友達も私は悪くないと思うけど、目に見える現実の友達こそを大切にしたい。
目に見えないものには悪いものも良いものもあるけれど、まずは目に見えるものをしっかりと見て、時には煩悩を斬りながら生きていきたいと思いました。

っていうか、やっぱ、海原幸代&ユミちゃんは好きだ!(笑)
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いつか、どこかで〈2〉&蜷川「ヘンリー六世」と「薔薇とサムライ」ちょこっと観劇記 

2010年06月07日 23時03分02秒 | いつかどこかで(雑記)
こんばんは、おおるりです。

いつもの方も、初めましての方も、私の観劇記をご覧いただきまして
ありがとうございます。

あ~、それにしても、久しぶりに書いた、書いた!
「私の頭の中の消しゴム」観劇記ですけどね、
こんなに長くなると思わなかった(笑)
あんまりゴチャゴチャ言うのって、嫌いな人もいると思うんですよね。
だいたい、長いと読むの面倒くさいですもんね
私も書くのは本当を言うと面倒くさい
だけど、頭の中ではわりといつも「書き言葉」で感想を言っている自分がいて、
それが自動的に出力されたらいいのにな~、そしたら楽なのにな~…とか思います。
「私の頭の中の自動書記」とかあったらいいな。誰かが口述筆記してくれるみたいに。

なんて、バカ言ってますけど。

そういや、蜷川「ヘンリー六世」と、新感線の「薔薇とサムライ」の観劇記はとうとう書きそびれた気配。
ここで、ついでにちょこっと書くけど…

「ヘンリー六世」はね、蜷川さんお得意の、上からアレやコレや降ってくる演出が面白かったです。
…にしても、あ~んなものが降ってくるとは思わなんだ!
大きな肉片がね、「ペタッ!」「ペタッ!」と降ってくる。
その生々しい様子が、凄惨な血の戦いを時の流れとともにブチ示しているって感じ。
そして、時の流れは白い薔薇と赤い薔薇が降るにもあらわされて、その薔薇の花が落ちる速度が一秒を示しているようで…とか思ったら、次々と速くなったりして、場面の流れに時代の流れを感じるようで面白かったです。

でもねぇ~、
やっぱり、このヘンリー六世より、私は去年の浦井くんが出ていたあの「ヘンリー六世」のほうがずっと好き!!
上川さんは好きだけど、「アナタはやればできる男でしょーに!」と言いたくなるし(笑)
浦井くんのヘンリーは浮世離れしていて、欲にまみれた裏切りだらけの王権争いの中、ひとり別の世界に漂う人みたいなのが本当に良かった……なんて、蜷川ヘンリーの感想になってないじゃん?!!
ってなことで、だから、蜷川さんのほうの観劇記を書きそびれたんだったけ(笑)

「薔薇とサムライ」は天海さんがとってもカッコ良かったです
でもって、浦井くんが良かった可愛かったぁ~っ
…って、また浦井くん褒めになっちゃう。
だって、あの「いちいち」な決めポーズは笑えるし、何気に誠実で使える好青年だし。
なによりも、癒されるわよね~!
それから、それから、アチコチのミュージカルのパクリ寸前な音楽やあれこれの振りとか…何もかもが、いかにも新感線らしくて楽しくて、良い意味で後にはな~んも残らずサッパリした!、あー面白かった~! という舞台でした。
いのうえさんの作る舞台は、女性を「可愛そうな存在」にしてしまわないのが好きです。
たとえ「篭の中の鳥」のような王宮のお姫様であっても、「私はそれを自ら選んで生きてゆくわ!」というなら、見ていていっそ気持ちいい。
そして、古田さん演じる五右衛門も、惚れた女を助けるだけ助けてあっさりと旅立つってところがまるで寅さんみたいに小気味良くて、カッコイイ男じゃないですか!
薔薇サムはチケット入手が難しかったけど、新感線が年々チケットとり辛くなるのも分かるわ。

……とまあ、ちょこっと観劇記でした~!

さて、
今後の観劇予定は、
来週に「キャンデード」。
あと、バレエ「白鳥の湖」を一本観ます。
来月はシカオちゃんから始まり、野田МAPへ行き、
その後はやっぱ「地球ゴージャス」ですね。

そんなこんなで、
いつかどこかの劇場で、もしかするとあなたの隣にいるかもしれませんね。


では、では、次にお会いしましょう。

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朗読劇「私の頭の中の消しゴム」感想その四

2010年06月05日 18時45分05秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

「私の頭の中の消しゴム」中川・内山ペア
感想その三の続きです。


このペアは内山理名さんがお姉さんっぽい感じがして、殊に恋愛に関しては女性のほうがリードしているような、そんな恋だったような気がします。
あっきーは、その私生活においての恋愛事情は私らファンが知る由もないので(笑)彼自身はともかくとして、あの彼が作り上げた浩介のキャラというのは、崎本さんが演じた以上に、いかにも恋愛には初心者で不器用な様子で「可愛い男」という感じです。
「本人は大真面目だけど女の子の扱い方がわからずに墓穴を掘ってしまい、だけどそこが女性にとっては愛おしい」という、非常にお得な愛すべき青年でありました(笑)
なので、前半に「クスッ!」と笑える箇所がいくつかあるんですけど、これは、あっきーの浩介のときのほうが笑いが多く、その観客の笑いの中に暖かさが混じります。
それはまあ、あっきーのファンがたくさん観に来ていたからというのもあるんでしょけどね、もしかしたら内山理名さんがわりと落ち着いている感じで、受け止めるタイプの女性だったので、あっきーが演じた「恋愛に慣れていない男、感情を上手く出すことが出来ない人」の役が余計に際立ったのかもしれません。

そして、時に可愛く時には激しい、いささか幼いところもある直情型とも見える中川・浩介は、彼が幼い頃に母親から捨てられたことについて、いかに深くトラウマがあり傷ついているのかということが痛いほどに伝わり、その痛さに私は泣いている場合じゃなくなってしまいます。

前に「中川晃教さんは熱く、崎本大海さんは深かった」と書きましたが、あっきーの浩介は、「愛する人に捨てられること、去っていかれること」に対してとても強い拒否反応を示し、その感情の発露は恋人の薫に対して、時にとても強い激情となって向けられます。
薫が倒れた姿を見て、その体を抱いて大声で叫んだ場面もそうでしたが、私が特にそれを感じたのは、最期のほうで薫がとうとう行方を隠して施設に入ってしまったその時です。
浩介は「なぜ俺を捨てていったんだ!」と叫びます。
もちろん、薫は浩介を捨てたわけじゃない。たぶんそれは薫の両親が二人のためにそうして娘を連れていったのだろうし、薫自身も愛する人のために身を引いたのだろうということは、たぶん浩介だってわかっているはずなんです。
それでもなお、あのように大きな声で怒りに叫ばずにはいられない、その強い悲しみと痛み。
たとえ薫がどのようであれ、たとえ記憶が無くなって数々の失敗を繰り返し、手がかかったとしても、自分を忘れてしまっても、「ただそばにいて欲しかったのに」という想い。
…そうして「愛した人は誰も彼もが自分を捨てて置いて行ってしまう」と云わんばかりの叫びに私は泣いてるどころではなく、この人に「何とかそうでないことを教えてあげたい」とか思ってしまうのです。

だからこそ。
この二人の舞台のラストは、感動というよりは私にとってはとても感慨深く、涙がじわりと滲みました。
浩介の顔もわからず何もかも記憶を失った薫は、でも初めて出会った頃の浩介の姿を毎日絵描き続けていました。
彼女の心の中では浩介はまるで彼女の「愛の象徴」のように、いつも寄り添っているのです。
彼女はその心において、もう浩介から決して離れず、浩介は彼女の心から置き去りにされることはありません。
そしてまた浩介も、たとえ彼女がこの世を去ったとしても、いつまでも彼の心の中には彼女の姿と愛は消えず、いつでもどんな時でもずっと二人は寄り添いながら生きていくに違いありません。

それ故に、
私はこの悲しい物語を、それでもなお、一人の男が永遠の愛を手に入れた「幸せの物語」と思うのです。


長い観劇記にお付き合いいただいて、どうもありがとうございました。

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朗読劇「私の頭の中の消しゴム」感想その三

2010年06月05日 10時35分34秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

「私の頭の中の消しゴム」感想の続きのそのまた続きです。

この朗読劇は日替わりで出演者が変わり、全八組の役者さん達が演じています。
私が「中川晃教/内山理名」ペアの舞台を二回観たのは予定通り。
「崎本大海/鈴木亜美」ペアは予定外で、急遽に当日券を買っての観劇でしたが、
同じ演目で二組のお芝居が観られたのはとっても良かったです!

どっちが良いとか上手いとか、そういう見比べ方ではなくて、役者さんが違うとたとえ演出が同じでもそれぞれに趣も違ってくるので、受け取る側としても心の動きが微妙に変わります。
それは、役者さんの実力や解釈の違いでもあるんでしょうけれど……なんていうかね…「人」が出るんですよ、それぞれの役者さんの、その人本来の人柄みたいなものがその解釈や感情の露出に表れているような気がします。
この世に同じ人がひとりもいないように、もし誰かが誰かと同じような運命を辿り、同じような人生を送ったとしても、人の心の中は決して誰ともピタリと同じになることなどは有り得ないのだということがよくわかります。
もし私がもっとお金持ちだったら、ぜひとも他のペアの舞台も観てみたかったです!

というわけで、前回の「感想その二」で、崎本さんと亜美ちゃんで泣かせてもらった感動の場面について書きましたけど、その「おいで」の場面は中川ペアでは泣きませんでした。
それを言えば、私はあっきーこと中川晃教さんは特別に好きでずっと見続けていますが、今回の舞台に限らず、今までに彼の演技を「泣きながら観た」ということは、ほとんどないような気がします。
「泣かせてなんぼ」のような今回の劇で、それはどうよ? と思うかもしれませんが、劇場内の他のお客さんたちは皆さん泣いていましたし、終演後も涙が止まらずに席を立てない人まで何人もいたくらいですから、べつにあっきー達の回が良くなかったわけではありません。
ただ、「感動」=「泣く」という図式が、私はあっきーの時には自分の中で成り立たないのだろうという気がします。
泣かなかったけれど、だからと言って感動してないわけではなく、むしろ余計に多くのものを感じ取るので、それだけに想うことや心を重ねることが多く、ただ「悲しい」とか「可愛そう」に終始することができないのかもしれません。

そんなわけで、
「ええ~~っっ! まだ続くのか?!」って我ながら思うけど、これからがやっと「中川・内山」ペアへの感想です。

…って、ごめんなさい!
この続きを書いたのですが、文字数が多すぎたせいか最後までアップされませんでした。
なので、さらにさらに「感想その四」に続きます。

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朗読劇「私の頭の中の消しゴム」感想その二

2010年06月05日 00時14分47秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

ということで、前回の「私の頭の中の消しゴム」感想の続きです。
今から何も考えずに書きますが、たぶん話は長いですよ~(笑)

私は子供の頃はあまり泣かないほうだったと思うんですが、今になって、特にここ二、三年くらいはかなり涙腺がゆるくなったような気がします。
でも、その泣きのツボっていうのがどうも周囲とズレているんですよねぇ(笑)
映画館や劇場では、周りが泣いてない場面でダダ泣きしていたり。
かと思うと、みんなが泣いているところで、わりとシレっとしていたりしてね。

それでちょっと思い出したんですが、この朗読劇の映画版を観た時に、私が特に印象深く、たぶん一番泣いた場面って、この舞台では登場しなかった場面なんです。
ヒロインの薫がすっかり記憶を失ったある日、彼女は街のコンビニに連れて行かれます。
そのコンビニは実は貸切状態になっていて、店内には彼女がかつて大切に想っていた人々…両親などの家族や友達が店内にいて、コンビニのお客さんを装って普通に買い物をしていたりします。
薫はその店内にいる人達の顔も名前もすっかり忘れているわけですが、「なんだかここは暖かくて気持ちが良い場所だ、まるで天国にいるみたいだ」と思うわけです。

記憶は亡くしても、目に見えない愛に包まれ、満ち足りたその表情、そして彼女を愛する人たちの暖かい顔を見ていると、私はたまらなく涙があふれてどうしようもない。
そして、ひとたび涙腺が緩んでしまうと心がとても敏感になって、その後は何度も涙か出てしまいます。
たしか、浩介が施設に入院している薫に会いに行くところで、ひとりで車を運転している、その何でもないような道すがらの場面も、それが泣かさせるような場面ではなかったのに泣きながら見ていたように記憶しています。

で、その私の最大の「泣きのツボ」だった場面がなかったこの朗読劇で、今回私が堰を切ったように涙があふれたのは、崎本大海さんが薫に声をかける台詞で「おいで」と言った場面です。

これは朗読劇なので、基本的に台詞は本を読んで進みます。けれども一箇所、二人が本を置いて立ち、普通に台詞を言って芝居をする場面がありました。
記憶が薄れゆく薫に、浩介が壁に貼り付けたメモを見せながら、二人でそのメモをひとつひとつ読んでいくところです。
「困ったときは浩介に連絡する」とか、「浩介はこの(写真)の人」とか…。

その場面に入る前に、浩介が日記を閉じて薫に向かって「おいで」と促すんですよね。
その時の崎本さんは、静かに日記を閉じて立ち上がり、数歩を歩きながら、とてもやさしく「おいで」と声をかけるんです。
日記を書いて(読んで)いる時の「想い」から、リアルなその場面の「気持ち」にシフトした瞬間のようにも見えました。

その声はまるで、小さな女の子に言うように、とても慈愛に満ちていて、彼女をどんなにか大切で愛おしく可愛く想っているかが、そのたった一言でわかる響きでした。
ただいてくれるだけでいいんです。彼女がいるだけでただ幸せなのだということが伝わり、ほんとうに胸が熱く、切なくなりました。
それで、鈴木亜美さんが演じたの薫もこのときにはもう、あどけないほどにとても可愛くて、素直で、彼を無条件に信じきって頼っているのがよくわかります。
けれども、この幸せな二人の時間はもうあと僅かで、いずれ思い出となる時間。
いつでも幸福は、そして愛も悲しみも、その思い出に止まりながら、けれどもさらさらと時は流れていきます。
一瞬、一瞬は惜別の繰り返しで、その流れる時の愛おしさに私は泣けてしまいます。
わりと明るい場面だったかもしれませんが、涙があふれてどうしようもありませんでした。

この崎本・鈴木ペアの終演後、会場内全体がスタオベしたのには納得です。
私ももちろん、すぐに立ち上がって拍手させてもらいました。

あ~、やっぱり話が長くなりましたね(笑)
でも、まだ続きがあるんです。
だって、中川・内山ペアを見て思ったことが書けてないし。

なので、またしても次回に続きます。

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朗読劇「私の頭の中の消しゴム」

2010年06月03日 23時51分24秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

※私に常識的な観劇記を期待しないでください(笑)

朗読劇「私の頭の中の消しゴム」三舞台連続!

5/30マチネ 中川晃教/内山理名
5/30ソワレ 崎本大海/鈴木亜美
5/31ソワレ 中川晃教/内山理名

…と、なんとまあ、連続して3回も見てしまいました。
で、1回目を見終わる頃、ふと思い出した言葉がありました。
「蜘蛛女のキス」の冒頭で見たものです。

「違うわ、ヴァレンティン。心配しないで。
この夢は短いけれど、幸せの物語なのだから」

だから、この物語はある側面から見ると、私は「これは随分と幸せな状態だなぁ」と思わずにいられません。
あ、だけどそう言ったからといって、私はもちろん「この状況」の話をしているのではないので、
「おまえはこの病気の苦しさや悲しさも想像できずに病気に憧れているのか!」とか「命を軽く見ているのか?」とか、そういう突っ込みはやめてくださいね。
それじゃあお互いにバカな人みたいですものね。
そういう次元の話なら、私はかつて末期癌を予告されたりしたので、死と直面することがどういうことかを多少はわかると思うんですよ。
「…どういうこと……?」「……なんで?…?」という、あの呆然とした思い。
癌も「かなり進行しているだろう」という末期ならば、カウントダウンは下手したら月単位なもので。
街なかを歩きながら、なんだか体が妙にふわふわして、それでツーっと涙がこぼれたりして…。

とかね。でも今はそんな話をしたいんじゃないので、それ以上は詳しく話しませんけど、私の場合は、最初の検査自体は間違いじゃなかったけれど、何日もかけて体中を検査しているうちに何時の間にやら「何処にもなかったことに」なって、「これが何かの間違いだったら良かったのに」と望んでいたらそうなった、という嘘みたいな本当の話なんですけど、結局最後にお医者様から「白に近いグレー」と言われ、もう十二年も経ちました。
今は概ね健康みたいです。
そんな「ありそうでなさそうなこと」って時々ほんとうにあるんですよね、人生って。

それでやっと話は元に戻りますが(笑)
これは出演者がたった二人の、濃密な恋愛の物語です。
朗読劇だから二人とも台本を見ていますが、心は互いを見詰め合っています。
二人なんですよ、ほんとうに。
そのひたすらな見詰め合い方は、一昨年前に観た深津絵里さんの「春琴」の舞台にも匹敵するかと思ったくらいです。
これがもし、その二人の結婚生活に子供でも出来ていたら、話はかなり広がり変化していただろうと思います。
だけど、ほんとうに二人きりに終始するので、愛であり、ずっと恋なんですよね。

若年性アルツハイマーに侵され、次第に記憶が無くなるヒロインのカオルは、終いには愛しい人の名前も顔も忘れてしまいますが、その愛の「核」のようなものは彼女の心の中で生き続け、だから純粋な愛の結晶のような存在のように私には見えました。
「むしろ前より綺麗になった」というその神々しい美しさは、汚れのない純化された愛の美しさかもしれません。
そして、彼女から生まれて初めて「愛すること」と「愛されること」、そして「愛し合うこと」を教わった浩介は、たぶん、稀に見る「永遠の愛」を手に入れたのだろうと思います。
それは、今年の二月に中川晃教さんがライブで歌ってくれた、あの「タイタニック」のテーマ曲、「My heart will go on」のような愛なのでしょうね、きっと。
だから、私には「この夢は短いけれど」実は永遠の「幸せの物語なのだ」であり、悲しいけれど、決して不幸ではないと思うのです。

ところで、せっかく二つのペアを観たのだから、どこが同じでどう違ったのか?というと…
演出はたぶんほとんど同じだったと思います。
私は実は「怒鳴る男」というのが苦手で(笑)、物語に全く関係なく、ほぼ反射的に「あっきーが怒鳴るのってヤだ~!」とか思っちゃったんですけど(笑)
でも、崎本さんも同じところで怒鳴ってましたから、あれってやっぱり演出だったんでしょうね。
自分の感情を上手に出すことができない不器用なガテン系の、でも繊細で、しかも「やるときゃやる」、やったら出来る、君のためになら…みたいな男よね。
あっきーはなんだか去年の「死神の精度」の阿久津くんが更正して、社会復帰してそこそこ真面目にガテンしてたら生まれてはじめて恋をして、そんで「やってみたら勉強だって出来るじゃん!俺!」ってな感じ(笑)

崎本さんの浩介は、「本当は賢い少年なのだけれど、母親に捨てられ貧しくて進学もできず勉強する機会を逃していた。希望もなく肉体労働していたけど、なんか世の中って不条理~!」 みたいな、心の奥に怒りと孤独を抱く、影のある青年のイメージでした。

どっちの浩介も良かったけれど、中川晃教さんは熱く、崎本大海さんは深かった。
なんとなく、あっきーは日記の場面のその時の浩介の気持ちで演じ、崎本さんは日記を書いている時の浩介の想いを表していたような感じがしました。


ああ、なんか長くなりましたね。
まだ続きはあるんですけど、今日は遅いから続きは書けたらまた次回ね。

コメント
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