今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

宝塚花組公演「ファントム」

2011年08月28日 18時20分42秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)
脚本】アーサー・コビット 【作詞・作曲】モーリー・イェストン
【潤色・演出・】中村一徳 【指揮】塩田明弘
【出演】蘭寿とむ/蘭乃はな/壮一帆 
愛音羽麗/桜一花/華形みつる/朝夏まなと/望海風斗 ほか

キラキラの世界を堪能してきました!!

これって、蘭寿さんのトップお披露目公演だったの?
なんて、「今さら何言ってんだ?!状態」の私には随分とお贅沢な舞台だったのかも。

宝塚にはどっぷりハマることはなくて、ほとんど縁遠い私ですが、やっぱりこのキラキラした感じが楽しくて、お約束のラインダンスや大階段を見るにつけても嬉しく、「や~っぱ、宝塚は一年に一度は観ておきたいよね~!」と思うのよね。
だからこそ、これぞという舞台を選びたい。
そんなわけで、人に頼んでゲットしてもらった席は例によって二階席の上のほうだけど、キラキラの夢の世界を眺めるには不足がないし、何よりも元から私はこの「ファントム」という物語が好きで、本当にこの貴重なお披露目公演が観られて嬉しかったです。

でね~!
だからこの物語のストーリーは当然知っていたし(前に大沢たかおさんので観ているから)、どうしたって泣いてしまう場面があって感動しないわけにはいかないけれど、ところどころに宝塚ならではの見所があって、見とれるわ、突っ込みせずにはいられないしで面白すぎ~!

だってぇ~っ!
オペラ座の幽霊のような存在のファントムは、あの劇場の地下で生涯を孤独にすごした人だと思っていたら、彼のところには、「エリザベート」のあのトート・ダンサーズのような付き人たちが、なんと!1ダースほどもいてびっくり!(笑)
十二人もお友達(ってか使用人?)がいるならば、そんなに寂しくないじゃん? とか思うんだけど。
で、そのファントムとその十二人の従者たちはいつもお揃いの色のお洋服を着ていて、もちろん、ファントムのお洋服だけはキラキラなスパンコールで麗しいです。
これって、きっとあの1ダースの彼らがチクチクと縫っていたりするのよね?!

「ねえ、次のスーツはやっぱ紫だよね? ファンちゃん似合うもんね。」
「スパンコールは思いっきりお洒落で派手に、でも趣味は良くしたいよね~!」
「うん、それでさ、ファンちゃんの服につけるスパンコールはいつものように衣装部屋からこっそり盗んでくるとして、生地は今度はどこで調達してくる?」

な~んていう彼らの会話が想像できちゃってやけに楽しい(笑)
しかも、仮面までキラキラにデコってるよ!デコってるし~! あれって、愛だね、愛!
だからさ~、ファンちゃんは結構幸せものなんじゃ??(笑)

…という、脱線的な妄想の見方はともかくとして(笑)

キャリエールがわりと早くに父の名乗りをあげちゃったのは意外でした。
私はこの物語のラストって、やっぱりファントムの孤独な悲しい人生の最後の救いでありハッピーエンドだと思うんですよね。
だから、クリスティーヌとの愛よりも、キャリエールとの父と子の愛をより深く感じるので、親子だとの確信が持てるのは最後の最後であるほうが、よりハッピーエンド感が強いと思うんだけど…。

でもまあ、蘭寿さんと壮一帆さんお二人の、キラキラの花道シーンが見れたからそれはそれで、ま、いっか~! とも思ったりして(笑)

ともあれ、
素顔を見て悲鳴を上げて逃げていったクリスティーヌを恨みもせずに、かえって自分の顔のせいで「怖い思いをさせてしまった。可哀想なことをした」と思うファントムの、悲しみとその心の美しさ。
悲しいけれど、なぜか救われるようなこの物語が私は本当に好きだと思います。
そういや、四季の「オペラ座の怪人」も東京に戻ってきますね!
宝塚もそうだけど、四季の舞台も縁遠い私ですが、次の「オペラ座」は見逃さないように、楽しみに待ちたいと思います。

いつかどこかで(21)夏はまだすっかり終わったわけじゃない

2011年08月28日 16時24分59秒 | いつかどこかで(雑記)

おおるりです。

いつもの方も、初めましての方も、私の感想記をご覧いただきましてありがとうございます。

先週の火曜日、「ゲゲゲのげ」の千秋楽と共に私の夏休みも終わってしまったわけですが、夏休みが終わっても、それですっかりと夏が終わってしまったわけじゃありません。
この週末は宝塚の「ファントム」とバレエの「マノン」を観ましたし、八月の最終日にはいさらいさんの舞台、「向日葵」をもう一度観る予定で、このあたりで私の夏は終わりとしてのひと区切りがつくような気がします。

それにしても、この夏はいつもより観劇記をよく書いているなぁ~、と思う。
でも、私の本当に書きたいのは観劇記のほうじゃなくて、もっと他にたくさんあって、それらが常に頭の中で言葉の奔流となり、出口を探して、けれども出している時間がなくて次々と時の狭間に消えていってしまうのが残念です。
それでも観劇記のほうが優先しているというのは、「なるべく記憶の新しいうちに書いておきたい」というのと、「その新鮮な思いを時間が経ってから自分で読み返してみたい」と思うからなんですよね。
それは時を逃すとできなくなってしまうので。

もっともっと時間が欲しい。
何も言わず、書かずに、ぼぉーっとしている時間も含めて。
もちろん、健康な状態で、それで経済的に成り立つならば。
(と、ちゃんと書き加えておかなきゃ、妙な状態で実現しそうで怖い(笑))

って、なんか愚痴っぽいですけど(笑)

そういや、今年の夏はよくカレーを食べましたよ。
それはカレーの匂いつき舞台だった「ゲゲゲ」のせいじゃないのよね。
たしか八月はカレーを食べていないから。
私がやたらカレーを食べたがっていたのは、7月ごろの話で、これは例の節電対策のクール・ビズのせいか、やたら暑くてスパイシーなものが体を欲しがっていたせいかもしれません。
違う!!「体がスパイシーなものを欲しがっていた」の間違いだ!(笑) 
逆は必ずしも真にならず(笑)(笑)
いつもはあまり外でカレーを食べないのに、私の「カレー食べたい」に付き合ってくれた友人が少なくとも三人はいたかも(笑)。

だから振り返れば、この夏は、カレーの夏。
そして、いつものようにまた歳月を重ねた感じのする、加齢な夏(笑)
ああ、でもまだ夏はすっかり終わったわけじゃない。
最後まで、華麗な夏を夢見よう。

さっさと次の感想記の続きを書いてしまわねば…。


「向日葵」

2011年08月28日 01時04分17秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

A・チェーホフ作「かもめ」より「向日葵」
西荻窪 シアター2+1http://japan-artists.net/kanako/himawari.html
【脚本】いさらい香奈子
【演出】伊藤イサム
【出演】なるせこお/大前智/本島孝美/西村剛士/大金賢治/いさらい香奈子/三原和枝/奈津子。/後藤いくみ

今宵も誰かが書いている。

世界中で、
どこかの国で、
ひとりぼっちの誰かの部屋で…

そんな書き出しだから、いさらい香奈子さん。
いさらいさんはシャンソン歌手であり、女優さんであり、演出もなさるし、作詞や訳詞もやれば前に観た舞台「オセロ」の脚色もしていたので、てっきり脚本も何本か書いているのだろうと思っていました。
けれども、長編の脚本は今回が初挑戦だとか。
このお芝居は「私にとって何かの終わりであり、始まりです」というので、それを見届けに行って来ました。

チェーホフの「かもめ」を現代の日本に置き換えてのこの作品は、まさに今の日本の一番新しい現状を背景にして、なおかつ普遍のものを感じさせてくれる作品だったと思います。


小劇場とも言えぬほどの小さな芝居小屋。
開演間際に入ってきた客がつぶやく。
「客席数40ほどで、三千円か…。赤字だな。」
只者ではない雰囲気をまとった女性が、聞こえよがしに固い椅子に文句を言っている。
場内係りの女性は客席に向かって「携帯の電源をお切りください」と言いながら、手にした携帯電話を床に落とし、ゴロリと派手な音を立て客達の失笑をかった。

…というのはですね、このお芝居の冒頭シーンなんですよ(笑)
人気作家に挨拶する若い女性が「私、ファンなんです。ツイッターでフォローしてます」と言ったり、その女性が大震災の被災地である仙台に行くことを決意するとか、いかにも新作らしい脚本になっていました。
けれども、下敷きはチェーホフの「かもめ」です。

「わたしはかもめ。いいえ女優よ」で有名な「かもめ」は、私は前に藤原竜也さんと美波ちゃんの舞台を観ていましたが、たしかあの時は観劇記を書きそびれたんじゃないかな? 内容をほとんど忘れているから(笑)
書かないと、案外と忘れちゃうんですよね~。ストーリーもだけど、自分の感想とか。
なので、この「向日葵」を観ながら前に観た「かもめ」を思い出していましたが、それでもラストは「え?!、ここで終わるんだっけ?」と思い、前にもそう思ったことを薄っすらと思い出しました。
このラストは、観るものに何かを投げかけたり問いかけるでもなく、「舞台の上の人生をただ手渡される」ような感じで唐突に終わります。
「かもめ」を前に観たときも、どう消化してよいのか戸惑ったのを思い出しました。

こういう作品って、ストーリーは解りやすいんだけど、ある意味、先日まで通っていた「ゲゲゲのげ」よりも私にとっては難解かもしれません。
何がしかの決着も結論も容易には見つからないどころか、それがあるとも思えないこのような作品では、その感想は観る人それぞれの生き様によってまるで違うのでしょうね。

で、今回の私の感想といえば…
「生きるのに一度も辛かったり苦しかったりしたことのない人なんて、一人もいないのかもしれないな」ということ。
それから、
「恋って、要するに一時のときめきであって、ドーパミンが放出された状態よね~。それに対して、愛はつまり受容かな」ということ(笑)

またしても、「「ゲゲゲのげ」の、あの台詞が頭をよぎる。
「何も考えてなくてさ、まるでバカなの」
でへっ!(笑)
でもさ~、バカっていけないことなのかな? 
人間はさ、考えるから余計に苦しくなるのかもしれないじゃない?

とか開き直りつつ、あと一回、千秋楽にもまた観ます。


「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」(七)千秋楽

2011年08月25日 01時32分17秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

かくして私の夏休みは「ゲゲゲのげ」と共に終わってしまったわけですが。
なので、今日からまた日常は始まり、明日も朝は六時起きなのでゆるゆると書きたいと思います。

それにしても、いつもは(特に平日は)ほとんどお酒を飲まない私ですが、この夏休みは毎日飲んでやろうと思いまして(笑)、いや~、ほんとに一日も欠かさず毎日飲みました。
高円寺の居酒屋さんは安くて美味しいですよね~!
でも家に遠いので毎回時計を気にしなきゃならなくて、「今、何時だ?」を何度繰り返したことか。
あんまり時間ばかり気にしているので、しまいに茶あ飲め娘が出てくるかと思ったわ(笑)

なんていう話はともかくとして。
この舞台の初日、噂通りにあまりにも難解だったので、二回目からはどいうふうに見ようかと考えちゃったんですよね。
渡辺えりさんは、こういう難解な舞台をあえて創ったからには、やっぱり「頭をこらして」見て欲しいのかな? とか。

けれども、今年に入って珍しく抽象画を見る機会に何度か恵まれたので、抽象画を見るときのように、「頭じゃなくて心で見たらいいのか」と思ったら、解釈はともかくとして、世界としてすんなりと降りてくるものがありました。
夢の世界って抽象の世界ですものね。

解釈としてはですね~、今だから言うけれど、これを一回や二回観ただけで「全てを正確に理解した」なんて言う人がいたら、かえって胡散臭いですよね~(笑)
この舞台は生きることの意味を問う作品だと思うので、それがすんなりと解るという人こそきっと本当には全然わかってやしなくて、むしろ「ああでもない、こうでもない」ともがいている人のほうがその核心に近づいていたりするのかもしれないな。

そんなこんなで、私は全部で七回観ましたが、七回とも違うふうな見方をしてみたらどの回も面白くて、「当たり前」という自分の常識の壁を蹴り倒して毎回に頭のおかしな人になる快感を味わうことができました(笑)

なので、当然にいまだに謎は残るわけですが、もしかしたら、いつかの日にふと「ああ、あれはそういうことだったのか~!」と気がつくかもしれないし、一生解らないままかもしれません。

なんて、ぐだぐだと書いているうちに今宵も夜は更け、感想らしい感想は書けぬままに時間はさらさらと過ぎていく(笑)
なので、いろいろと中途をすっとばして、最後の最後に感じたことだけを書くならば、
やっぱり、あっきーが好きよ!だから何度も通ったんじゃん!
って、ことだけじゃなくて(笑)

やっぱり、「私は私から逃れられず、私をやめることはできない」ってことかもしれないな。

すっぱいビワの実は決して吐き出せず、けれども今思うと、酸っぱかったけれど食べておいて良かったのかもしれない。
だから今の私がいて、今の私を生きている。

なんて言っている私は、まるで…

「後になって話してみると、何も考えてなくてさ、まるでバカなの」(by 七恵)

そんな感じよね~(笑)

ああ、そうそう、
千秋楽はマキオ君のお仕置き席のそばでした。
初日に「舞台上に小学生がこんなにたくさんいる必要があるのかな? 半分でもいいのに。」と思ったのが、あのマキオ君のそばにいたら、その大人数だからこそ、教室のみんなから除け者にされる気持ちや、透明になって消えてしまいたい気持ちが身にしみてわかるような気がしました。
今回の舞台では、左右や斜め、前方後方と、いろいろな席から観られたのがまた良かったと思います。

とにかく、たくさん感じて、たくさん考えて、本当に面白い舞台でした。

あ、いいかげんにしないと、また四時間睡眠になっちゃう。
大人はこれ以上成長しないけど、寝ないとお肌がぼろぼろになるのよね(笑)

<!-- Szeryng - La Plus Que Lente (Debussy)  -->


「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」(六)前楽

2011年08月23日 13時00分03秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)
茶~飲めシスターズがますます妖しくて、無駄に色っぽくて好きだ!!

じゃないよ、違うよ!
いや、違かないけど(笑)

やっぱ、あっきーでしょ!

あっきー、かっこいい~っ!!
きゃあぁ~~っ!、まじカッコイイ~~!!

果てしなく素敵! 
反則的に歌、良すぎ!
怖いほどに壮絶!
そのうえツユダクで、モリダクで、面白すぎ~!


なんて浮かれまくった前楽は、
だってぇ~!嬉しいど真ん中の席だったんだもの。

全体的に見応えのあった前楽。
そのわりには短い感想なのは携帯で書いてるから(笑)

ああ、あと一回。
私の夏休みも今日で終わる。

いつかどこかで(20)「ゲゲゲのげ」interval2

2011年08月22日 13時29分39秒 | いつかどこかで(雑記)

※interval(インターバル)=幕間
これは舞台「ゲゲゲのげ」を観て思うことですが、舞台と
はほとんど関係のない、脱線ばかりのおしゃべりです。


実際にはどうだったか知りませんが、舞台「ゲゲゲのげ」を観ていると、たぶんこの戯曲はかつて27歳だった渡辺えりさんが、何かにつき動かされ、背中を押されたように無我夢中の勢いで書いた戯曲だったのだろうな、というように思えます。
もちろん、書き上げたその後で何度か追加・修正したとは思いますけど。

私はこの舞台を「頭をこらして」観て、そして心を自分の魔境と繋げて観ているうちに、舞台のどこにも登場していないが全てに存在している幻の少女、「えりちゃん」の声が聞こえてくるような気がします。
その私の心の魔境に現れた「えりちゃん」はこう言います。

「お母さん、あのね、わたし、ほんとうは学校ですごく苛められているの。
弟もそうなの。弟はもっと苛められているの。
でもわたしだってとても辛くて、悲しくて、友達が憎くて、学校に行くのがもう嫌なの。
ねえ、お母さん、どうして気づいてくれないの? 助けてくれないの?
お母さん、わたし悲しい。わたしをよく見て。そしてわたしがこんなに辛いのに気がついて。
そして可哀想だねと言って、よしよしして、一緒に泣いて。
ねえ、お母さん。」

苛められた子供の母親を見てみると、そのほとんどが子供の実情をよく知らないでいるように思います。
子供は学校であった全てのことを母親には報告しません。
子供を良く見て、心をこらしていれば、ほんのささいな行動や顔色でわかりそうなものですが、実際には子供は母親に心配させたくなくて、または逆に自分が叱られたくなかったり、親をがっかりさせたくなかったりと、様々な理由で、洗いざらい母親に訴えたりはしないので、気がつかないものなのかもしれません。
そこに、一番辛いときに助けて欲しいと言えない親子関係、言えなくても気がつかない親子関係があり、子供はさらに傷を深めていくのだと思います。

というのは、私が自分の経験でたどり着いた思いで、私には集団で苛められた経験はありませんが、誰にでもあるように、子供の頃に「誰かが助けてくれたなら」という経験があったからです。
あるとき、随分と大人になってから、公私共に辛い時期がありました。
たとえば、仕事にミスを連発してとても辛かった、としましょう。
その時に、「どうして自分はこんなにも辛いのか」と思う。
それは、ミスをすると「自分が周りに迷惑をかけ、駄目な人だと思われるからだ」などとつながります。
そしてさらに「どうして駄目な人だと思われると辛いのか」、などど、「どうして」のその先をさらに「どうして」と原因を探り、さらに「どうして」「どうして」と際限なく続けていくと、子供の頃に経験した悲しみに辿りつきました。
その子供の頃の経験がどうもトラウマになっているらしいのです。
けれども、さらにそのずっと奥に深く進んでみたら、思いがけないラス・ボスが登場しました。
母です。
子供の頃の私は、母に向かって「お母さん、わたし今とても辛いの。お母さん、助けて」と素直に言えない親子関係であったことに気がつきました。
そして、それに気がついたと同時に、大人になって仕事のミスやその他で苦しんでいた私は、実は私はもう、とうの昔に母を許していることに気がついたのです。
私と同じく愛情表現の下手な母もまた、私と同じように未熟な女性であったことを、大人になってからようやく理解した私は、母が理想的ではない母であることを許し、また母に可愛く甘えられなかった理想的でない子供の自分をすでに許していたことに気がつきました。
すると、自分を辛くする「どうして」のおおもとの理由が解決されたような気がして、それからの私の人生は、もちろん辛いことや悲しいこともなくなりはしないにせよ、何がしか自分を慰めるすべを知り、以前はいくぶんと楽になったような気がします。
ですから、幻の「えりちゃん」とは、かつての子供の頃の私自身なのかもしれません。

話が舞台と大きく離れて脱線しているようですみません。
けれどもこれを書かなければ先に進まないのです。

以前、出産について、こんな話を聞いたことがあります。
子供を産むとき、母親は未だかつて経験したことのない痛みと苦しみを感じて喘ぎます。
けれども、生まれてくる赤ん坊も痛くて苦しいのだと。

鬼太郎は死んだ母親の腹をぶち破って生まれました。
けれども、私たちは生きた生身の母親に引き裂くような痛みを与え、自らも苦しみながら生まれました。
それがたとえ帝王切開であったとしても、母親に大きな不安を与え、お腹を切らせて生まれるのです。
ですが、 その苦しみを与えた赤ん坊を憎む母親がいるでしょうか。
広く世間を見渡してみると、「全ての子供達が」と言えないのが悲しいことですが、少なくとも私の時は、母は私が無事に生まれたことを憎むどころか喜んでくれただろうと思っています。

私は生まれると同時に、初めて出会う他者を傷つけ苦しめ、自らも苦しみ、そして、許されました。
なぜ許されたかというと、そこには愛があったからです。

人は、私は、誰かを傷つけてしまう自分、誰かにたやすく傷つけられてしまう弱い自分が受け入れがたく、けれども誰かに受け入れて許してもらいたい。
無条件に愛されたいともがき、苦しみますが、自分は少なくとも一度は母親にそれを許されて愛された存在だと私は思うのです。
だから、私は母を許し、人を許し、自分を許さなければなりません。
私はそう思いました。

人は誰しもが未熟です。父や母でさえも未熟で、私などは死ぬまで未熟のままなのでしょう。
けれども、そうは言っても、いえ、それだからこそ、やはり自分をよく見てくれる存在、心に寄り添ってくれる存在が欲しいのに、母はいつまでも子供を胸に抱きしめて、子供だけを見ているわけにはいきません。
彼女にも彼女の、子供には言えない苦しみがあったはずです。

「ゲゲゲのげ」で、マキオの母ちゃんが妖怪の豚の姿のままで死んでしまい、暗闇の隅に運ばれてしまうとき、母ちゃんに愛されたかったマキオの想いが置き去りにされ、なかったことにされているような気がして、私はたまらなく寂しいです。
それを思うと、この戯曲を書いた当時の27歳の渡辺えりさんは、その頃はまだ苦しみにもがく真っ只中にいたのではないかという気がしてなりません。

あの時の「えりちゃん」は、もう人を許し、自分を許し、お母さんを許したでしょうか。
私はどこにもいない、私だけの幻の「えりちゃん」が見えると、
「こわくないよ。私たちの宇宙は愛で出来ているんだから、こわくないから大丈夫なんだよ。
私も一緒だからね。私たち、お友達になろうね。」と言って、手を繋ぎたくなります。
それはきっと、つまり、いつかの私こそがそう言ってくれる存在を求めていたからなのでしょう。
ですから、今はこの友達という宝に感謝せずにいられません。

ああ、そろそろ出かける支度をしなければ…。


「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」(五)8/20

2011年08月22日 04時50分33秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

もう~、笑った、笑った!

この舞台、暗く深い部分を覗こうとするならば、底なし沼のようにどこまでも深~く嵌りこんでしまうのだけど、浅く明るい部分ではほんとに可笑しいのよね~!

妖怪たちのシーンはどれも面白いけど、あっきーがますます可笑しい人になっちゃってます。
私は鬼太郎が胸から蛇を出すところが、その動きからしてもう笑えるんだけど、マキオに「いいか、もういいか」なんて(笑)(笑) 
ちょっと~! その顔でその言い方で、吹き出しちゃうから、ほんと面白すぎるからどうしましょう、なんて思っていたら、見るたびに妙になってきて、20日のこの日はいつもより執拗で、マキオくんのたじたじな感じもすごく笑えました。

砂かけ婆もなんだか可愛くてすごく好き。
妖怪三身一体状態みたいな広岡さんに、あっきーが「婆、爺、一反木綿」と順番に声をかける場面なんて、初日では鬼太郎ではなくて素のあっきーが間違えたのかと思って笑ったら、何回観ても間違えるのよね。
ってことは、あれは演出なんだろうけど、何度見ても可笑しいです。
あっきーって、ほんと、油断のならない人よね~(笑)

この日は「ゲゲゲ」初観劇の友人が隣にいたので、もう何度も見てだんだん慣れてきた私でも、友人の爆笑につられてしまいました。
鬼太郎の髪が妖気で逆立つシーンや、チョロQ目玉の親父も、何回も観ているのに笑っちゃう。

妖怪シーンは、茶飲め小僧が好きだわ~! その妖怪に従う美人お化けは、私は密かに「茶~飲めシスターズ」と呼んでいるんだけど(笑) 見るごとに妖しくて無駄に色っぽく(笑) 体をくねらせながらブリッジしている姿がすごい!
もっとやって~!って感じ。

そして妖怪シーンもだけど、観る回数を重ねるほどにますます好きになっていくのが、渡辺えりさんの母ちゃん(日出代)です。
毎日毎日働いて、やっと着いた日曜日に好きな歌手を見て、歌を聴くのが楽しみな母ちゃん。
なんか、そこはかとなく共感するんですけど(笑)
この口の悪い母ちゃんは、実は情が深い人だと私は思う。
でも口が悪いだけに、この人のやさしさなんて、なかなか人にはわかってもらえないんだろうな~。
なんて、そんな不器用さにも、そこはかとなく愛を感じちゃったりしてね(笑)
しかもね~、この母ちゃんは、いつの間にか妖怪・耳なし豚になっていて、猟師に撃たれて殺されちゃうのよね。
可哀想~!

……ってか…。

う~ん。

ええと…
この耳なし豚が死んだ場面で、マキオが母ちゃんを思い出して、はっとなって「母ちゃ~ん」と言うんですけど、あっさりと耳なし豚は片付けられてしまうんですよ。
その場面。
それと、杉の木になってしまった佐藤くんが、いつの間にか舞台から消されてしまい、最後の教室にいなかったこと。
この二つを思うと、少なくともこの戯曲を書いた当時の27歳の渡辺えりさんには、まだ人生の半ばで解決できてない問題があったのだなぁ…と思わずにはいられません。

…ってな、深いお話は今日はしないつもりなんだった(笑)

その初観劇だった友人が、「私は一回しか観ないから、面白かった~っ!で済むけど、これは二回観たらヤバイだろうね」って言うんですよ。
そうそう!そうなのよ!、わかってくれてありがとう。
二回観たらヤバくて、三回、四回と観たらもっとヤバくて、感想を書けば書くほどに自分がヤバい人になっちゃってるみたいで、ほんと困るんですけど(笑)

そんなこんなで、残すところあと二回。
この舞台を観て私が思ったことを洗いざらい…とまではいかなくても、そこそこにでも書こうとすると、やっぱり私は8/10の感想(二)で書いた、「ここにはいないけど、ここにいる」「すべてにいて、すべてにいない」存在の幻の「えりちゃん」が出てきて、あさっての方向にいくかも。

あ~、きっとさらにドン引きされそう。
と、予告しておきます(笑)


「青空の休暇」

2011年08月21日 00時16分44秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

イッツフォーリーズ<いずみたく追悼没20年記念公演>
8/14「青空の休暇」千秋楽
【原作】 辻仁成 【脚本】中島敦彦 【演出】鵜山仁
【出演】 駒田一/宮川浩/井上一馬
勝部祐子/ 田上ひろし/グレッグ・デール/米谷美穂/藤森裕美

『真珠湾攻撃から50年後…。
かつて爆撃のため、大空に飛び立った3人の若者たちも、今や75歳。
自分たちが攻撃をしたパールハーバーを見ようと再びハワイへ旅立った。』

これは良作です。
って、秀作と良作の違いはなんぞや? というと、そんな定義は知らないですけど。
見終わったあとで、「良い作品を観たなぁ~」としみじみ思っちゃったんで(笑)
まあ、だけど、こういう作品を良作・佳作と言っていいんじゃないかしら。

75歳に扮した駒田一さん、宮川浩さん、井上一馬さんの三人はいずれも演技と歌に安定した実力を感じさせてくれたし、脇を固める役者さんたちもきっちりと役が入っていて、そしてアンサンブルの誰もが基礎が出来て揃っている。
それぞれに不足がなく、しっかりとしているので安心して物語を楽しめました。
豪華さもなくケレンミもなく、大笑いしたりダダ泣きするようなこともありませんが、ただ本当に「良い作品だな~」と心から思える舞台です。
重いテーマを含みながら、決して強迫的にならず、むしろラストは爽やかで、戦中・戦後を経験したお年寄り、それ以降の戦争を話だけでしか知らない私たちの世代、そして未だほとんど戦争を考えたことのないような若い方たちなどでも、どの世代が観ても感動するだろうと思いました。

などと思っていたら、(感想を書くのが前後してしまったけど)14日に観たこの「青空の休暇」と19日に観た「父と暮せば」の演出はどちらも鵜山仁さんだったのね。
さらに言うならば、2009年に新国立劇場で上演された「ヘンリー六世」の演出も鵜山さんだった。
なるほど、なるほど~! 
いずれも原作が良いということもあるけれど、やっぱり演出家の力は大きいわ。
私は鵜山仁さんの人物の捉え方、描き方がとても好きだと思います。
今後は要チェックだわ。

で、そのお爺さん役に挑戦していた三人ですけど、駒田さんと宮川さんはつい一ヶ月前のライブでは確か、19歳とか二十何歳とかの、実年齢よりもずっと若い役を演じていたんですよね~(笑)
それが一気に75歳になってしまうんだから流石ですよね。
私は特に宮川さんのお爺さん姿って好きだわ。 
すごく似合っていました(笑)

ってか、ここでも三バカトリオなのよね(笑)
今年はトリオをよく見る年みたい。
女性はあんまり三人という単位の仲良しが登場しないけど、男性は「三人」ってわりと多いですよね? 
男性にとって三人というのは、関係にバランスが取りやすくて心地よいのかしらね。

この作品も「父と暮せば」と同様、繰り返し再演されたらいいなぁと思います。
出口付近で井上一馬さんがいらしたのでご挨拶しましたが(って、べつに知り合いではないのでお客さんとしてですが) その際に「また再演したい」と仰っていたのが嬉しかったです。

ぜひとも、この三人がリアル老人になるまで再演してほしいです。
あ、それを観るために、私も長生きしなきゃ(笑)


「父と暮せば」

2011年08月20日 01時46分41秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

【脚本】井上ひさし
【演出】鵜山仁
【出演】辻萬長/ 栗田桃子

舞台は原爆投下から三年後の広島。
父と娘の二人劇です。

秀作です。お薦めです。
こういう舞台を見ると、「もっと自分は真摯に考えるべきこと、真面目にすべきことが他にあるんじゃないか?」 とか、日ごろチャラチャラと遊び歩いている自分を反省したりして。
今は大震災があったので東北のほうに目がいきがちですが、私は今年に入ってからずっと広島が気になっているんですよね。
まだいちども広島の原爆資料館に行ったことがないので、やはりいずれ行ってこなければと改めて思いました。

このお父さんは広島弁で「おとったん」と呼ばれるのですが、おとったんは可愛いです。
娘の恋を一生懸命応援するために現れる「おとったん」は、生真面目な娘と対照的にコミカルで温かいです。
そしてね、おとったんの体は、なんと!娘の「ときめき」で出来ているんですって!
だから娘は幸せにならなきゃだめです。それが親孝行だから。

おとったんの体は「ときめき」で出来、
おとったんの手足は「思い」で出来、
おとったんの心臓は「願い」で出来ている。

いいなぁ…。私もいずれそんな存在になりたいわ(笑)

一人生き残ったことが辛く、幸せになることを申し訳なく思う娘と、その娘の幸せをひたすらに願う父。
両親への感謝と、生きていることへの感謝を思わずにはいられないそのラストに、じんと胸が熱くなり涙が静かにこぼれました。
今だから、そして今だけでなくずっと先の時代までも語り続けてほしい作品だと思いました。

新宿の紀伊国屋サザンシアターで、今月の24日(水)まで上演されています。


「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」(四)8/17ソワレ

2011年08月18日 02時58分51秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

泣くことはない、と思った。
初日を観た限りでは。

書いておきたい観劇記がたまっている。
先日観た、良作の「青空の休暇」も、東宝ミュージカルのオールスター祭りのような「三銃士」も、ほんとうなら先に書いておかなければと思う。
でも、「ゲゲゲのげ」を四回目で観た今日(といっても、日付は変わってしまったが)、どうしてもこちらを書かずにはいられない。
前回はじわりと涙がにじんだが、今日は涙が溢れてどうしようもなかった。

思えば二回目からして、実を言うなら「こんなに解りやすい世界はない」と思った。
それはこの物語の解釈うんぬんではなくて、世界感の話だ。
私には境界線というものがあまりよくわからない。
あちらとこちら、彼岸と此岸、男と女、大人と子供、先生と生徒、優等生と不良、有名人と一般人…そして、夢と現実。
ありとあらゆる境界線に、なぜそれが必要なのかわからない人なのだ。

子供の頃から、時おり他人には滅多にないだろうという珍しい経験をすることがあった。
それは「幽霊を見た」とか「UFOと遭遇した」とかいう類ではなくて、もっと現実的な話で、その気になれば証拠や証人を連れてこられるような、本当の経験だ。
けれども、大人になって、その話を珍しいからと面白おかしく話していたら、ある時、私と気の合わない女性からこう言われた。
「わたし、あなたの話って、ぜんぶ嘘じゃないかと思う」

彼女は自分の想像できないような、珍しい経験談を話す私を、「それを自慢にして、自分は特別だと言いたいがために作り話の嘘をついている」と思ったようだ。

ああ、そうだったのだ。だから私は子供の頃から周囲に逸脱してしまわぬように、とても注意を払って、ごく普通に、中庸であるように生きてきたのに、大人になって平凡であることに上手く成功して長くなり、すっかりその注意を忘れていた。
たとえ良い方向であるにしろ、逸脱してはいけない。
なぜなら逸脱者は、それがたとえ人から褒められるような良いことであっても、逸脱することこそに慣れてしまい、たやすくその対極、つまり悪い方向にも逸脱することをためらわないだろうから。
異端者とは、両極のどちらにも転じられるものなのだ。

けれども、人間の本質的な幸せとはその両極のどちらにもなく、特別ではないごく普通の日常にこそあるに違いないだろう。
というのは、私が小学校を卒業するくらいの時期に思ったことだ。
私は堕ちないために、飛ばないことにした。それで良いと思っていた。
そして私の世界は常にどちらでもない中間の、薄暮の中をさまよっていたような気がする。
そうか、それは醜悪なことだったのか…。
だからなのだろう、私はここ何年もずっと、時々あちらとこちらを行ったり来たりしているような、まるで幽霊のような存在になってしまった。
いつも心の半分ほどが「ここではないどこか」に飛んでいる。
その「どこか」とはいつも同じ場所というわけではなく、このゲゲゲのようにあちこちに行ったり来たりを繰り返し、または重なり合っている。
それでいて、ごく普通に会社勤めをし、ごくまともに会話をし、いまだかつて精神科医の世話にもならずに暮らしていられるのは、子供の頃からの年季が入っているのと、常に自分の立ち位置が「こちら側」であると意識して過ごしているからだろう。
それでもやはり、この劇の冒頭の老婆、そして押入れの向こう側の一葉を見ると、まるで自分のような気がするのだ。

もしかすると、このような話を公にするならば、これについても私は証拠を見せなければならないのだろうか。
白いベッドの上で重ねの夢を見たことがあると書いたのは先日だが、そのずっと前に、狂った老婆が重ねの白昼夢を見るという妄想入りの感想記を書いたことがある。
二年前の話だ。http://blog.goo.ne.jp/a2836285/e/5c4f1d814030f9d38600326b213bf1e3
この舞台、「ゲゲゲのげ」の開演まえに、ベッドの上の老婆がシャンソンを聞いてるその姿に、つい自分が重なってしまう。
あのシーンは会話も動きもないが、開演前の準備の時間のようにしてしまうのはとても勿体ないと思う。
静かな、良いシーンだ。
見れば老婆は泣いている。それを見ると、私もいつかの日を思い涙したくなる。

感想とも言えないような、頭のおかしいこの文のついでに、さらに頭のおかしいことを書いてしまおう。
この舞台は八月から始まったが、その前の七月に、私はこの脚本も内容も全く知らないのに、まるでこの舞台に影響されたかのような創作文を書いていた。
それは、「あちらとこちらを、行ったり来たり」という彼岸と此岸を彷徨う詩とか、「私はあなただ、あなたは私だ」といい、二つの体が一体になって別のものへと変化するような詩だ。
それはもう一つの細々としたブログ「重ねの夢 重ねの世界」に書いてあるのだから、これも証拠になるだろう。

「だから何?」 という話だが、つまりはこの舞台に無理に追従しようとしているのではなく、元々自分には共鳴する要素が備わっていたらしく、ところどころシンクロせずにはいられず、そのたびに涙か溢れてどうしようもない。
そして、前回はとうとうこの戯曲までも買ってしまい、全部ではないが今は確かめたい場所を拾いながら読んでいる。
渡辺えりさんは、よくぞこのような、自分を丸裸にするような戯曲を書いたものだと思う。

冒頭の姉妹たちが言った「私たちが血を流しながら我慢しているもの」とは何か。
また、「俺達の最後の妖怪」とは、どんな存在か。

私の思うそれが正解かどうかなんて関係ない。
けれども、それを思うと、私はいろいろなことを感じ、泣けて泣けて、どうしようもなかった。
ついにはハンカチで涙を拭くことも忘れていたら、マキオの姿をした一葉が目の前を通り、彼女のその頬にも滂沱の涙が流れていたのが目に焼きついてしまった。

少々酔っ払っているので(それはいつものことだが)、今日は殊更に余計なことを書いてしまったような気がする。
明日には後悔するのだろうか。
これを読んで、何がしか気を悪くする方もいるかもしれない。

次回は口調も変えて、もう少し感想らしい感想にしようと思う。


追記:収益が大震災復興の義援金となるTシャツは、女性の9号サイズを着ている方ならXSサイズで丁度良いです。
せっかくなので私は渡辺えりさんのサイン入りを買いましたが、数が限られているようなのでこれから購入される方はお早めに!


いつかどこかで(19)「ゲゲゲのげ」interval

2011年08月16日 23時59分17秒 | いつかどこかで(雑記)

これは劇とは直接関係のないおしゃべりです※interval(インターバル)=幕間 
 

こんばんは、おおるりです。

いつもの方も、初めましての方も、私の感想記をご覧いただきましてありがとうございます。

ちょうど今の時期はお盆で夏休みに入っていた方も多いと思われますが、私はいよいよ明日からです。
今年は「ゲゲゲのげ」の千秋楽に行きたかったので、その日をカバーするためにいつもより遅めの夏休み入りとなりました。
わ~いっ! 遊ぶぞぉ~っ!!
って、いつもの劇場通いなんですけど(笑)
でも、やっぱりお墓参りにはいかなきゃですね~。

ところで、先月から私は原因不明で背中が痛みだし、昼間は大丈夫なんですが、夜になって横になるととたんに背中が痛くて眠れないという日々が続いてました。
やっと寝付いても三時間か四時間もすれば痛みで目が覚め、起き上がるのにも苦しい。
これは長年の肩こりのせいか、それとも腰が悪いのか? 
整体やマッサージにも行きましたが、全然効果がないので、もしやこれは腎臓だとか膵臓あたりの内臓が悪いのかとも疑いました。
そんな折もおり、人間ドックの検査で「要再検査」の結果が出るし。

実はこの「要再検査」は去年もそうで、でも、あっけらかんと無視して放っておいたんですよ。
だってぇ~(笑) 今までこの「再検査」でどんだけ酷い目にあってきたことか…。
それでいつもどこにも異常がないんですから、一年くらい放っておいて様子を見ようかとつい思いたくもなるもんですよ。

けれども、今回の背中の異常は只事で済まないかも? と、思っていた矢先、先日食中毒のような症状で酷い目にあいまして、これは先日の「奥様お尻をどうぞ」の感想記でも書きましたが、胃も腸も大変なことになり、結局翌日に近所の内科で点滴を打ってもらい、とうとう「奥様~」や「ゲゲゲのげ」のワンシーンそっくりの姿で白いベッドに寝ることになってしまいました。

そうしたらですね~、驚いたことに、その食中毒になった日あたりから、くだんの背中の痛みがすっかりと消えてしまったんですよ!!
三週間くらい、ずーっと痛み続けた背中なのに、突然治ってしまったんです。
お腹の中がすっかり空っぽになって、デトックスされたとか???
そんなことってあるんでしょうか?

しかも、その食中毒というのも、実は私がそう言っているだけで、一緒に同じメニューを食べていた同僚は何ともなかったし、いったい何が原因かわからない。
その原因を調べるためにはお昼を食べたお店の厨房を調べる騒ぎになってしまうので、悪くすると営業妨害になりますからそうしませんでしたけど、いったい何だったんでしょう?
夏場で胃と腸が同時に弱っていて、もしかしてそれが背中を痛めたりしたんだとしたら、「胃・十二指腸潰瘍」の可能性も考えられますけど、そこは人間ドッグで何も見つからなかったし、だいいち、たった一回の食あたりで潰瘍がすっかり消えたなんてことは、聞いたこともないし考えられないですよね?

まあ、でも、とにかく「転んでもただじゃ起き上がらない」というか、
「災いは、必ず転じて福にします、してみせます!」というか(笑)
時々こういう不思議なことって、あるもんですよね~。
ちなみに、その点滴をした際に改めて尿を検査してもらい、腎臓悪いんじゃない?疑惑の数値もマイナスに転じていて、こちらもほっとしました。
腎臓は、大昔に従兄(いとこ)がそれで早世しているので、けっこう侮れないんですよね~。

それでね、こういう不思議なことがあった時、私はたいてい心の中で言うんです。
「お姉さん、ありがとう」
この「お姉さん」とは、いま横浜の実家の近くに元気で暮らしている姉ではなくて…いるんですよ、私にもひとり、「ゲゲゲのげ」の一葉(かずよ)のような「お姉さん」が。
実はその横浜の姉が産まれた一年ほど前に、母はもうひとり女の子を産んでいて、その子は生まれたと同時にこの世から去りました。
「血液型不適合」という病気で、これは父と母の血液の相性が悪かったのでしょうね、今でしたら血液交換で助かったでしょうが、当時は今ほどには医療が整っていなかったのかもしれません。
それでも、子供がなかなか出来なくてやっと授かった赤ちゃんが、十月十日を経て、やっと生まれたと喜んだ同時に亡くなってしまったのは、両親にとってはさぞかしショックだったろうと思います。

死産は人として生まれているのですから、その「お姉さん」には戒名がつけられて位牌もあり、何かにつけて母はお供えやお線香をあげていました。
ひな祭りになると私はそれを見て、もうひとりの姉の存在を意識しながら育ちました。
横浜の姉に言わせると、妊娠・出産のたびに入院するほどお産の重い母でしたから、その「お姉さん」が生まれていたら、次の出産を計画する時期を考えると、たぶん私たち姉妹はこの世に授からなかっただろうとのことです。(その姉の言葉を聞いて、母は否定しませんでした)
というか、横浜の姉や私が同じ両親で「血液型不適合」にならずに無事に生まれたのも、そもそもその前に、何億何千という精子がたったひとつの卵子と出会ってこの体が出来たのも、何もかもが、気の遠くなるような偶然の重なりのなせるわざだったと思います。

なので、何でも都合の良いように考える私は、いつしかその一度も会ったことのない「お姉さん」に自分は守られているのだと思うようになりました。
何故かと言うと、私にはこの世の人生を全うし、味わうべき喜怒哀楽を味わい、あの世に辿りついたあかつきには、真っ先にそれをその「お姉さん」に報告する義務があるのだろうと思うんです。
「お姉さん、人生って、辛いことや悲しいこともたくさんあるけれど、嬉しいことや楽しいこともいっぱいあって素晴らしいよ。本当に生まれてきて良かった。ありがとう。」と言いたい。
そして私が何を経験し、どんな人達と出会ってきたか、どんなふうに感じながら生きてきたのか、そのすべてを、まるで一編の物語を語るように、面白く「お姉さん」に報告できたらどんなにか楽しいでしょう。
それをけっこう本気で楽しみにしているので、それもあって私は死の世界が怖くないのかもしれません。

そんなことを考える二人姉妹の妹、実は幻の三姉妹の末っ子の妹キャラの私は、実は人生のどの時期においても、必ずしっかりとした年上の女性たちに指導されたり親切にされる巡り合わせになっていて、実はこの歳(どの歳?)になってもまだ職場のフロアでは、三人いる女性社員の一番年下です。(って、まったく何なんだ、この文は?!「実は」の三連発(笑)←後記突っ込み)
思えば一昨年に転勤する前もそうでしたが。
いつでも必ず年上のお姉さんたちに助けられ、守られている人生です。
あの世のお姉さんと、この世のお姉さん。
血が繋がっていても、そうでなくても、たとえ年下でも(笑)、姉のように時に厳しく、時に優しいお姉さんたちと出会えて私は幸せです。

この夏は「ゲゲゲのげ」に通っているせいか、いつもよりもずっと、彼岸で待っていてくれる「お姉さん」を意識しながら毎日を過ごしているような気がします。

お盆は今日あたりで終わりでも、やっぱりお墓参りには行かなくちゃね!


「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」(三)8/13ソワレ

2011年08月14日 21時45分26秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

【作・演出】渡辺えり
【出演】中川晃教/馬渕英俚可/松村武/若松力/広岡由里子/渡辺えり
友寄有司/土屋良太/奥山隆/吉田裕貴/多賀健祐/谷口幸穂/川崎侑芽子/加藤亜依…ほか
【演奏】近藤達郎/竹井誠/高橋香織/小林武文

本当に面白い舞台だと思う。

この話が難解だと思う人は、たぶんこの物語の何が現実で、「起点は何処にあるのか?」と考えるからこんがらがるのかと思う。
この前私は「すべてが老婆の夢」と書いたかもしれないが、そうであって、そうではないかもしれないと思えてきた。

たとえば、この物語は「すべてがマキオの夢(妄想)」として見てもいいと思う。
それも、苛められっ子だった子供の頃のマキオではなく、予備校の先生になったあたりの大人のマキオだ。
マキオは子供の頃からの自分の現実があまりにずっと辛すぎて、「こんな辛いばかりの人生はきっと現実ではないのだ。きっと夢なのだ」と思い込みたかったかもしれない。
そして、「自分のせいで死んだと思っていた双子の姉のほうこそが本当は現実に生きていて、自分はこの世の人間ではなく、この人生はお姉さんの見ている夢なのだ。」…と思い込みたいマキオの現実逃避ドリームとも見える。
だとすると、現実はこの舞台のどこにもなく、マキオの「妄想の起点」が老婆という姿をとった幻のお姉さんということなるだろう。

だから、これは私の中でも様々な解釈で観られて面白いと思うが、たとえば上記の解釈が正しいのかどうかと作者に問うならば、その答えこそが「逆もまた真なり」と返ってくるのではないだろうか。
「可であって、否である」もしくは「可ではなく、否でもない」。
つまり「逆もまた真なり」だ。
そのように思えば本当に面白い舞台だと思うので、私は観る回数分に違うアプローチで観たくなってしまう。

そんな話はともかくとして。
今回、私は彼の話がしたい。
彼は集団の中で交じり合うことができず、常に逸脱している、いわば異端者だ。
周囲の者が無邪気に騒いでいたり遊んでいたりする中で、一人だけそのどれもが楽しいとは思えないので、自分がいつも人知れず孤独な存在であることを知っている。
彼は周囲からなるべく反感を買わぬように上手く立ち回ってはいるものの、異端者という意味では苛められっ子のマキオとなんら変わることはないだろう。
だからこそ彼、つまり優等生の佐藤君はマキオが気にかかり、マキオに苛立ち、マキオを助けたかったり苛め抜いてみたくなったりするのだろうと私は思う。
佐藤君とマキオは表裏一体であり、鏡の中の両極だ。
だからこれは、両極と、両極のどちらかに行きたくても行けない者の、苦しみの物語でもあるのだと思った。

私は佐藤君が可哀想でしかたない。
まだ彼はたったの十歳だ。
十歳にして、自分の心の闇や光を知り、、その狭間に苦しみ身悶えするほどに聡明だ。
けれども、清濁を飲み込んで、中庸であることが自分を楽にするとは割り切れないほどにまだ子供なのだ。
もしも彼が、もう少し賢いか、もう少し愚かであるならば、彼はあのように孤独ではないのかもしれないとも思う。
どうして自分はマキオに苛立つのか理解できない佐藤君は、マキオをひたすら見ている。
彼の言うように、何もせずにただ見ているだけは随分と苦しかろう。
いつの間にか、私は佐藤君から目が離せなくなった。
佐藤君がマキオを見ているのと同じくらい、真剣に佐藤君を見た。
そして、そして……

けれども、
鬼太郎が登場したところで、私の佐藤君に対する集中力は完全に切れてしまった(笑)(笑)

終演後、佐藤君役の奥山隆さんが物販の所でТシャツを売っていたので、「とても良かったです。また観に来ます」と挨拶したら、とても恥ずかしそうに握手をしてくださった。
その後、「それでは私も」と友人が握手をしてもらいに行ったら、私の時よりも美人の友人の時のほうがずっと嬉しそうなのが可笑しかった。

奥山さん、あっきーの出番でない限り、私はあなたを見ているのでご用心です(笑)


講談「牡丹灯籠 お札はがし」池袋演芸場

2011年08月14日 04時08分27秒 | 芸能/エンターテイメント

八月十二日(金)
<お仲入り>後
【落語】三遊亭笑遊/桂歌春 【大神楽】鏡味正二郎
「牡丹燈籠」より-お札はがし-【講談師】神田 紅

真夏といえば、これ!
この時期になると、仕事帰りに池袋の演芸場で女流講談師の神田紅師匠の怪談を聴きに行くのが、ここ何年かの恒例となりました。
でもって、そのあとで紅師匠一門の打ち上げ会に参加させてもらい、しこたま紹興酒を飲んですっかりヘベレケになるというのもまた楽しみなのよね~!

紅さんの怪談は怖いだけじゃなくて、面白い。そして時に悲しいです。
けれども、この牡丹灯籠の「お札はがし」のくだりは前に舞台を観たときにも思ったけれど、恋煩いで死んでしまった「お露(つゆ)」に執りつかれてしまう萩原新三郎という男があまりに情けない奴なんで、私は「なんて往生際の悪い奴なんだ!さっさと死んでやればいいのに~」とか思っちゃうのよね(笑)
だって~、「ロミオとジュリエット」だったら、きっとロミオは喜んでそうするんじゃないの? とか思うし(笑)

夜な夜なお露が会いに来たときは良いようにデートを楽しんでいたくせにさ、お露がこの世の者じゃないと知った瞬間に「俺はもっと生きていたいんだ」なんて、急に拒んじゃうなんて、ほ~んと、これだから親の遺産でぶらぶら遊んでいる男の愛なんて、根性も誠実さも一途さもなくて、てんで性根が座ってないったらありゃしない!

なんて言うとね、いろいろと反論のある人はあるだろうけど、だからいま私が話をしているのは「牡丹灯籠」の、あの情けない新三郎のことなんで、もちろん世間一般に当てはめて心中を奨励しているわけじゃありませんよ?(笑)
もし新三郎が、あの世で一緒になれるのなら、それもまた「永遠の愛」だと覚悟するくらいの愛情深い男なら、もしかしてお露はその愛に満足して成仏したのではないかと思うんだけどな。

怪談の怖さとは、お化けよりも、むしろ生きた人間の煩悩だと私は思う。
人の自己中心的な欲望や執着、嫉妬や怨恨からくる裏切りや殺戮こそが怖いのよね。
その煩悩に負けるのは弱さなのかな、やっぱり。
そして人を強くするのは、きっと愛。それも恋愛ではなくて、慈愛のほうだと思う。

そうだ、そろそろ両親に顔を見せて、お墓参りもしてこよう。

 


「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」(二)8/10ソワレ

2011年08月11日 01時17分42秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

初日に観て以来、十日ぶり二度目の観劇。
俄然面白くなってきた!!

私は初日、なんでこれを難解な劇だと思ったのだろう?
そうと聞いていたので先入観が邪魔をしていたのかもしれないが、まずは下手の席で冒頭の大事なシーンが白い薄布でよく見えなかったからだと思った。

あの赤い魂がキューンと上に向かって飛んだとき、あれが合図だ。
あそこから先ず私は自分の「当たり前」、つまり「常識の壁」を蹴り倒せば良かったのだった。
そうすれば、あの母親と姉妹たちのシーンが既にベッドの上で眠る彼女の夢、もしくは幻、妄想…といった、彼岸であることに気づいたのに…。

人は白い髪の女性を見ると、それは老婆だと思う。
けれども、あの姉妹たちに囲まれた「この子」は既に老婆であって老婆に非ず。


話は変わるようだが、テレビをつけっぱなしにしてそのままうたた寝をしたことは誰でもあるだろう。
そんな時の眠りはたいていが浅く、テレビの音を聞きながら半分覚醒して半分寝ている状態だったりする。
そして見る夢は、たとえばそのテレビ番組がアニメだったらアニメとシンクロしたり、悲惨なニュースを交えた猥雑なワイドショーならば、その猥雑な話題とシンクロしてしまい、わけのわかならい悪夢にうなされてしまったりもするだろう。
この劇はそんな夢に少し似ている。
そう思うと、何もかもが辻褄など合わなくて良いのだと納得できる。

そして、この劇に出てくる登場人物はすべて老婆であり、渡辺えりさんであり、私だ。
「私」という個人は個人でありながら、ひとつの世界だ。
世界は常に混沌とし、美しきものも醜悪なものも、悲しいものも、楽しいものも、すべてを内包している。
自分の世界の光も闇も、そのすべてを直視することはほとんど狂気の淵に立たされることだと知るものならば、この世界は宇宙であり、曼荼羅のようだと感じることができだろう。
その世界の「ゲゲゲのげ」は、つまり自分という宇宙の「下下下の下」。
最も卑小で、最も醜く、最も恐ろしい、自分の中の一番の暗闇を見ることになる。

だからこそだ、あの終盤の中川晃教さんの凄まじさはどうだ!


ああ、残念だ。今日は書いている時間がない。持ち時間は三十分。
リミットはあと十分くらいか。

まずは、あの冒頭の老婆だ。
押入れの奥から現れた裸の一葉は特にストレートに彼女以外の何者でもないだろうと私は思った。
そして、誰も彼もが。

けれども、その老婆を含めてこの舞台そのものが、渡辺えりさんだ。
というより、私には「えりちゃん」という少女の存在を感じる。
これは「えりちゃん」の夢を一緒に見ているのだ。

ああ、えりちゃんは、きっと、怖かったのね?
と、私の中の少女が言った。
私の少女は、「怖くないからね。あちらの世界は怖くないんだよ。宇宙はちゃんと混じるんだから大丈夫だよ」と言って、えりちゃんの手を繋いで歩き、「また今度来るね」と言った。

ああ、あと五分。

だから、この劇を愛せば、渡辺えりさんを愛さずにはいられないだろうと思う。
そして、渡辺えりさんが愛せるのだから、私は私を愛しているのだろうと思う。

すみません。
わけのわからない感想ですみません。
何分今日は時間制限をもって書いているので。
明日も仕事なんで、わかりやすく書いている暇がないので。

でも、とにかく書かずにはいられなかったので、思いつくままに書きました。

次に見るのは土曜日。
次回はわかりやすく書きます。

それにしても、たぶんこれは見るたびに面白い劇だと思う。
私が想像するに、これを二十七歳で書いた渡辺えりさんも、上演するたびに、いや、その後に人生を重ねて経験をつむごとに、自分の書いた戯曲について新しい発見をしてきたのではないかと思う。
生きることはそういうことだと思うから。
時々、「なんでこんなことを自分は書いたのだろうか?」と思うことがある。
後から、「そうか、あれはこういうことだったのか」と後付けで新しい発見をすることがある。
もしかすると、この大急ぎで書く感想もそうなるかもしれない。

ああ、タイムリミット。三十分たった。


「奥様お尻をどうぞ」~そして「ゲゲゲのげ」

2011年08月06日 13時37分39秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

【作・演出】 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
【出演】 古田新太 八嶋智人 犬山イヌコ 大倉孝二 入江雅人 八十田勇一 平岩 紙 山西 惇 山路和弘

《こんなふうに錯乱しているのは、たぶん私のほうこそかなり悪い。
寝なくてはいけない。
白い壁。白いベッド。白い布団をかぶる。
そして夢の中で夢を見た。重ねの夢。
いろいろな場所を彷徨い、旅をするように歩く。》

というのは、昨日観た「奥様お尻をどうぞ」(なんて題名だ!!)の話ではなくて、月曜日に観た 「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~」でもなく、 この私が本当に見た夢を書いた「夢日記」の一文です。(笑)
一週間の始めと終わりに、別々の小劇場の違う演劇で、まさか同じようなシーンを見るとは思わなかったわ。

昨日、私はどうやら食中毒をおこした模様です。
原因はたぶん、お昼に食べたお刺身かと思われます。夏場の生ものは要注意!。
客席に座っているうちにだんだん胸がムカムカして吐き気がするし、胃の辺りはしくしくと痛んで腸はごろごろとしてきました。
上着を着ているのに冷や汗は出てくるわで、かなりやばい状況です。
この状態に有効なのは、たぶん点滴だと思うけど、ここは劇場。
舞台上で点滴につながれながら白いベッドに寝かされている人を羨ましいと思ったりして(笑)

そんなわけで、途中で席を立ったのは、決して詰まらなくて腹を立てたのではなくて、もう耐えられないくらいにひどく具合が悪かったんです~。
それで家に帰れるものなら良いけれど、あまりに具合が悪すぎて、駅まで歩き電車に乗る自信がありません。
それで、劇場のロビーのソファーで大胆にも寝っころがらせてもらいました。
本多劇場のお姉さん、ひざ掛けを貸してくれてありがとうございました。

ああ、だけどつくづくと残念だわ! 私はケラの舞台が大好きなんだもの。
ケラの創る笑いは私のツボに嵌る。「犯さん哉」のバカバカしてく可笑しかったこと…!
ブリーフ姿の古田さんのめちゃくちゃさも、大倉さんの持つ妙な間だとか意外な反応も、みんな面白くて大好きなのに、それが半分しか観られなかったなんて残念すぎました。
客席に座っていた前半は具合が悪くて笑う気になれず、後半はロビーで流される声や音を頼りにどんな場面か想像するも、やっぱりあれは観なきゃ笑えませんよね。

「えっ?! これは夢だったんですか?
これだけいろいろあって、夢落ちでいいんですか?」
一人で苦しんでいたら、役者さんのそんな台詞がロビーに響きました。
こういう台詞をわざと入れちゃうから、だからケラって好きなのよ。
「理屈じゃない、理屈じゃないのよ!」と繰り返すのは、あれは大倉さんの声かしら?

そう。これはいわば「禁断の夢落ち」です。
さんざんいろいろあって、むちゃくちゃな展開をして理解不能になったりご都合主義になったりしたときに、最後の最後で「これは何もかも夢だったんです」と言えば済む、作者にとって禁断の甘い果実といわれる夢落ちの展開。
それにしても、「病院の白いベッドで白い布団を被って寝ながら夢を見て、その寝ている自分も夢だった」というのは、案外とありがちな夢なのかしらね?

私はこの「奥様お尻をどうぞ」も「ゲゲゲのげ」も、どちらも今週初めて観たけれど、渡辺えりさんもケラも、この発想の根っ子はどこから来ているのかな?
たとえば三十年前とかそれくらい昔に、テレビドラマか何かでそういう白いベッドのシーンがあったりしたとかで、それが知らず知らずに刷り込まれていたということもあるかもしれない。
それですっかり忘れた頃に私は本当にそんな重ねの夢を見てしまい、渡辺えりさんやケラリーノ・サンドロヴィッチは舞台の一場面として無意識に再現させた…とかね。
そして、どの話も堂々とした夢落ちで、「夢落ちですが、それが何?」という開き直りがあり、最初から最後まで「理屈じゃないのよ、理屈じゃ!」と言っているようなのが面白いなぁ(笑)

とはいえ!
むろんこの「奥様」と「ゲゲゲ」は全く違います。
どちらも怪しいキャラと「なぞなぞ」をする場面があるのだけど、「ゲゲゲのげ」は「可か否か?」という質問で、これは人を迷わせ考えさせる質問で、答えを聞いてさえまだ考えさせられます。
けれども、この「奥様」のなぞなぞで出される質問は、答える人が必ず正解しなくてはならず、「迷わせない、考えさせない」ために作られた質問です。
なにせ解答者が莫迦だからね~(笑)
ほんとうに、ひたすら馬鹿馬鹿しくて、めちゃくちゃで、可笑しくて、「笑っているうちに、やがて涙がこぼれる」とか、「最後には感動した」なんてことは、うっかりにでもありません(笑)
…のはずです。
だって、私はロビーで寝ながら聞いていただけだから。

ああ、それにしても体調が悪くてほんとうに残念だったわ~。

この舞台は大震災後に台本が書かれたのが明らかで、あてにならない政治家やマスコミなどへの揶揄もたっぷり。
笑いはシュールであり、ところどころブラックです。なのにどこか明るい。
ロビーのソファーで小耳に挟んだところでは、原子力発電の代わりに「おなら」をエネルギーにしたらどうか? ってな展開になっていたようだけど、あれはどうなったのかしら?

まあ、どうなっても結局は夢なんだけどね(笑)