今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

舞台芸術創造事業 たいらじょう×宮田大アンサンブル 「サロメ」

2019年04月30日 23時51分13秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

私が平成でやり残していると思っていることは唯ひとつ、これです。
この感想を書くこと。
この舞台は1月に観て以来、ずっと書きたいと思い、でも決して疎かには書いてはいけないと思いあぐね、頭の中で書いては消し、消しては書いているうちに、三ヶ月以上の月日が経ってしまいました。
今、平成31年4月30日22時。あと二時間で何としてでも平成の今日の内に書いてしまわなければと思います。

「サロメ」 2019/01/19 東京文化会館小ホール
【脚本・演出・美術・人形操演】たいらじょう
【音楽監督】宮田大
【演奏】チェロ:宮田大/ハープ:山崎祐介/コントラバス:谷口拓史/オーボエ:若山健太


あなたが今、一番欲しいものは何ですか?

「サロメ」の舞台を初めて観たのは2011年の10月、市川段治郎さんと舘形比呂一さんらが出演していらした舞踏劇「サロメとヨカナーン」です。
それ以後、オベラとストレートプレイの「サロメ」を観て、今回が4度目の「サロメ」。
その感想を書く都度にこのブログで投げかけた言葉です。
「あなたが今、欲しいものは何ですか?」 それは、もちろん自分自身への問いかけでもあります。
あれから7年と6ヶ月。何度も何度も自分へ投げかけた、私の人生
への問い。

あなたが今、一番欲しいものは何ですか?

そして、
その欲しいものは、7
年半前と同じでしょうか?
もし変わってしまったとしたら、何故でしょう?
その欲しいものとは、他の何にも変えがたいものなのでしょうか?

* * * * 

人形劇俳優たいらじょうさんは、俳優さんとして素晴らしい資質をお持ちですが、脚本家や演出家としても改めて素晴らしい才能をお持ちの方だと思いました。
何よりも、原作の受け取り方が本当に奥深く、こういう言い方は図々しいかもしれませんが、本当に「私好み」だと思います。
それでいて、今回の舞台の舞台では「ええっ!!」というような驚きの部分が二つほどありました。
そのひとつは音楽です。

東京文化会館の小ホールは音の響きが良いホールだというのは、いらした事のある方ならばご存知でしょうが、この日の演奏は本当に心地良く、私は特にオーボエの音の伸びやかさに驚きました。
ところが! 終演後にボーっとしていて、この日に使われた曲目リストをいただくのを忘れて帰ってしまったので、どの場面で何の曲が使われていたのか、全部を書けません。
ああ、私って、なんてうっかりなんでしょう!!

けれども、七つのヴェールの踊りの場面がオペラと同じ曲だったことと、サロメが「ヨカナーンの首をください」と行った場面からはシベリウスの交響詩「フィンランディア」が使われていたのだけはリストを見なくてもわかりました。

あの場面で「フィンランディア」とは!! なんという意外なセレクトでしょう!! 
私は中学生の頃、この曲がきっかけですっかりシンコペーション・フェチになってしまったくらい、この曲の魅力にハマりましたが、この曲と「サロメ」が合うなどとはとても思ってもみませんでした。なので、使われるのは重々しい序盤のあたりだけかと思いながら舞台を観ていましたが、アレンジはされていたものの、この曲が最後まで使われて物語が終わったのに驚き、「サロメ」に対して、思ってもみなかった清々しい新鮮な感動を覚えました。



「サロメ」の物語をご存知の方ならわかると思いますが、この話のラストは決して後味の良いものではありません。
美しい少女サロメは、彼女の希望通りにヨカナーンの生首にキスをし、それを見た王は「あれは化け物だ、あの化け物を殺せ!」と兵士達に命じるところで終わります。(台詞はうろ覚えなので正確ではないかもしれませんが)
そして、私はいつも思うのです。
「これでいいのか? 本当にサロメが欲しかったのはそれなのか? サロメは満足なのか?」と。

けれども、「フィンランディア」のラストに重ねられた、たいらじょうさんの動かす人形のサロメを見て、初めて「サロメは満足だったのだ」と思いました。
同時に、初めて、サロメという少女の、これに至る絶望が理解できたような気がしたのです。

この国のこの時代、女性が普通に恋をして好きな人と結婚できるとは思えませんが、ましてや絶世の美少女であるサロメの将来は想像に難くありません。
たぶん、このままでは王様の女にされてしまうか、母親の権勢欲の道具にされるか、良くて政略結婚か。
今まで健全な、暖かい愛を知らずに育ったであろうサロメは、この先の人生が続いたとしても、たぶんずっとそうで、愛に対しての希望もなく、ただ男達の欲望の中にさらされ続ける人生なのでしょう。

絶望です。
自分で望み、努力しても、決して掴むことのできないもの…愛への、絶望。


宮本亜門さん演出の舞台を見た時に、私は「サロメは、決して自分を愛さない男と愛し合いたかったのではないか?」と書きましたが、その「決して成就しないことで成就する愛」を望んだサロメに、私は深い絶望と、その絶望への挑戦を見たような気がしました。
「フィンランディア」は、たしか反乱と勝利の歌ではなかったか・・・・。

そして、驚きの場面のもうひとつとは、
サロメが「他には何も要らない」と言ったことです。

私はこの原作の文庫本を読んでいますが、サロメはヨカナーンの首を所望してからのちは、ただ「ヨカナーンの首をください」とだけ繰り返していたと記憶しています。「他には何も要らない」とは書いてなかったと思います。
ですが、たいらさんのサロメにこの台詞があったことで、「自分の欲しいもの以外は要らない」という強い意志が伝わりました。
どんな宝石も、地位も、国ですら、自分には価値がない。他人から与えられるものなど興味ない。自分の欲しいもの、掴めるものだけを掴みたい……。

だとすると、サロメはやはり、満足だったのでしょう。

他人には理解し難いものであっても。


さて、平成最後に。

私の欲しいもの。

これは、「サロメ」を始めて観た当時から変わりました。
その当時に欲しかったものが何かは言いたくありませんが、私もやはり「決して手に入らぬもの」を手に入れようと思っていたような気がします。

いえ、違います。

私は、たぶん、今までの人生の中で、欲しいと思ったものを全て一度は手にしてきたように思います。
けれども、どうしてだか、手にしてきたものを、ちゃんと掴み続けていられませんでした。

次の時代、令和で、もし本当に欲しいものが手に入るのであれば、今度は決して離さないようにしたいと思います。

そして、今、私の一番欲しいものは、

「私が、この私であって良かったと心から思える瞬間」です。


この瞬間が掴めるような人生を、令和の世で送りたいと思います。

あ、あと10分ですね。途中でお茶なんか飲んでいたらギリギリになってしまいました。

平和で安らかな時代が来ますように。

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舞台「銀河鉄道999」interval

2019年04月29日 03時49分57秒 | 観劇(ミュージカル/音楽劇)

※「interval」=幕間、休憩時間

先日、舞台「銀河鉄道999」を観て来ました。
ですが、これはその感想ではないので、うっかり私の今までの記事を読んだ事がなく来てしまった方、舞台の感想を読みたい方は申し訳ありませんが、がっかりすると思いますのでここでお帰りくださいませ。

それじゃあ何だと言いますと、だからintervalなんですね。
「ゲゲゲのげ」や「あかい壁の家」の時に書いていたような、全く余計なただのお喋りです。
別に舞台が気に入らなかったとか、そういう訳ではなく、書きたいほうを優先しただけなので、そこのところは誤解ないようにお願いしますが、ほんとうに、全く!舞台のアレコレやあっきーの話もしませんし、話が長いので、あしからず。

で、何か?っていうと、
つまり、あっきーがどこだかのインタビューで『2人は最後にキスをします。このキスの向こうにあるものを、お客様に感じていただきたいと思います』と語っていたのが、すごく心に引っかかっていて、舞台を観終わった後にその「向こうにあるもの」が私の中ですごく膨れ上がってしまい、勝手にその先の物語が出来上がってしまったんですよね(笑)
だからそんなお話なんですけど・・・

あ、その前に、『なぜメーテルは無口なのか?』っていうのもどこかで言ってましたっけ?
それは私にとってはすごく簡単なことに思えます。
なぜなら、私にも頑固で気の強い、強烈な性格の母と姉がいますので。
この二人は方向性が違うので互いに認めないとは思いますが、私にとっては同類で、同類だから互いが気に入らないんです。
子供の頃、私は家庭内の平和のために、彼女達が喧嘩したり激昂しないように、それぞれの顔色を見ながら暮らしていて、自分の意見や主張はなるべくひかえて、本音も言わず、
どちらにもほとんど逆らうことはありませんでした。

その結果、私は母から「やさしい子」と言われましたが、姉は「主体性のない、頼りない子」と思っていたでしょうね、たぶん。
だけど、それは違います。私は「御しやすい娘」「言いなりになる妹」の役目を請け負っていただけで、本質は別だと思います。
まあ、それでも私は外では友達がいましたから、学校ではよく喋り、自己主張できるほうでしたが、同世代の友達がいなさそうなメーテルが無口になるのはわかる気がします。
それと、鉄郎に対して無口なのは、言えないことがあったからですよね。
あれこれ喋って
知られてしまえば、それまでの関係が崩れてしまうから。
科学者達は、「大を知るためには、まず小を知れ」と言いますが、「大を隠すためには、小を知られてはならない」わけです。
そのメーテルの大きな秘密は、舞台を観た人や原作を知る人ならわかるはず。

それから、最後にメーテルはなぜ鉄郎にキスをしたか? なんですけど・・・
いるんですよね~、たまに。こういう訳のわからないキスをする女が(笑)
私は自分からしませんけどね、大人になってから今まで、3人の女達にキスされました。唇に(笑)
お互い同性愛とは無縁なので、今思えば、魂の触れ合いというか、じゃれあいというか、同類愛っていうか?
でもメーテルのキスは違いますね。恋愛感情ではないのは同じだと思いますが、共に旅をし、共に苦難を乗り越えた同士としての愛情と、少年と少女の季節への別れ…そして、次の旅の中でもし出会うことがあったならば、今度は今までの関係…つまり、鉄郎の母であり理想の恋人のような存在ではなく、共に自立した人間また男と女になるのだ…とか、いろんな感情が混ざり合って、言葉では言い表せない「さようなら」のキスのように見えました。
「さようなら」とは「左様ならば」と、次に続く言葉です。

さて、やっと本題。そのキスの向こう。
つまり、全く私の想像、いえ、妄想の「続きの物語」です。
銀河鉄道999ファンの皆さんは、ムカつくと思いますので、特にご注意ください。と、繰り返し言っておきますので嫌なら読まないでください。
抗議は受け付けませんから(笑)



鉄郎はこの旅で少年時代を終えたかもしれませんが、まだ大人にはなっていません。
少年漫画では、少年が成長する姿を描いても、完全に大人にはならないんですよね。そうすると少年漫画が終わってしまうので。
でも、大人になる旅の入り口で、鉄郎はすぐに知るはずです。機械帝国を壊しただけでは、人間に平和が訪れないことを。
むしろ、帝国の女王プロメシュームを殺してしまったことで、宇宙は統治者を失い、混沌とした時代に突入するはずです。
地球の機械化人たちは全滅したかもしれませんが、その他の機械化人は好き勝手な行動を取るかもしれないし、メンテナンスもされずにあちこちで混乱が起きるかもしれない。
また、人間達は、奴隷から解放されてどうやって生きていけば良いのか。奴隷はつらくとも衣食住は与えられていたのに、自立するとなると新しい社会が必要となり、そこでも争いは絶え間なく、富める者もあれば貧しい者も相変わらずに生まれるわけです。
そうなると、深く考えずに計画性もなく、ただ破壊しただけの鉄郎は、その現実を見て責任を取らねばなるまいと思い始めます。
しかし、新しい世界の主導者となるには、鉄郎はあまりに未熟です。
そこで、人間達の新しい世界、新しい社会を作るために自分に何が足りないのか、必要なのは何なのと考える。
やがて、今の自分では、一人では何もできないのだと知る鉄郎は、指導者や協力者達を探す旅に出ます。壊したら、次は積み上げなければ…
って、だから、私の想像の物語ですよ(笑)

一方、メーテルは母親の言いなりになり、道具となって生きてきた過去を、自分の罪と思います。
やさしい彼女は、人間の少年達を機械帝国のネジにしてしまうため、その時々で少年達の理想の女性…つまり母親に似た姿になっていたと思われますが、そのネジごと帝国を破壊してしまった事に何も思わないわけにはいかないでしょう。
そして、本当の自分の身体を取り戻す旅をする間に、メーテルもまた、鉄郎が見たように、人間達が決して平和を取り戻したわけではなく、むしろ悪化しているという現実を見せられ、二重の罪を背負うわけです。
その贖罪のためにも、メーテルは宇宙を平和にしなければなりません。

みんなが平和に、安らかに生きる世界を作るにはどうしたら良いのか?

そして、ここからが、私の超好みの展開(笑)

本当の自分の身体に戻ったメーテルは、協力者を探す旅をする鉄郎の前に再び現れます。
それは、もちろん鉄郎の母には似ても似つかない意外な姿です。
たとえば、宇宙のあらゆる事情を知り大変頭の良い小生意気な少女とか、口うるさく説教する老婆とか…。
なので、鉄郎は彼女がメーテルだとは気づきません。メーテルは自分の正体を言わずに偽名で鉄郎の作る協力者のメンバーに加わります。
メーテルはそれまでの自分の旅の中で、自分で考え、自分で行動を起こす、自立した女性に成長したので、鉄郎とは以前のような関係にはならず、新しい平和な世界を模索するメンバーとなり、時に鉄郎と喧嘩をしたり、時には反発し合います。
でもいざという時には、何故か二人は互いを守らなければと思うわけです。それは何故なのか。
鉄郎は、かつての姿とは全く違うメーテルに、「この人はどこかで出会っていたのではないか?知っている人にどこか似ている」と思い、ふとした場面で、かつてのメーテルの影を感じます。
というか、魂ですね。彼女の身体の中にメーテルの魂を見て、次第にどうしようもなく惹かれていく鉄郎です。

って、このあたり、映画「君の名は」がきっかけでひと頃流行った、ツインソウルとかツインレイの要素が絡むと、面白いので。
メーテルの身体が少女ならば、そのうち大人の身体に成長して鉄郎と結ばれるかもしれないし、老婆ならば別の深い愛の、泣ける
話になるかもしれません。(いや、違う!ハウルだ!「ハウルの動く城」みたいな、ちょっと切ないプラトニックな愛になるかも?)
その正体がばれてのちは、この際メーテルは鉄郎より先に死んでもらいましょう。
「さようなら、愛した人よ。次の世でまた会おう」

そうこうしているうちに、多くの人間と出会い(このあたり省略)数々の冒険の後、学び、やがて成長し大人になった鉄郎は、30歳を超えたあたりで、宇宙の統治者となり、平和の礎を築き、真の伝説の男となりましたとさ。
めでたし、めでたし。


・・・・・
ってな感じで。

やっぱり私、頭おかしいなあ、最近ますます(笑)

だからね~、「感じてください」とか言われると、過敏に、というか、余計なものを感じすぎちゃうので困るんだけど。

 

とりあえず、

松本零士先生、ごめんなさい

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いつかどこかで(70)あくがるる心はさてもやまざくら

2019年04月06日 02時09分16秒 | いつかどこかで(雑記)

すっかり春めいてきましたね~!もうお花見はしましたか?

私は相変わらず、週に一度は実家に帰って掃除・洗濯など両親の生活介助をしておりますが、おかげで魚料理が上達しました
父は歯茎が弱くなってきて、そうなるとやっぱりお魚を喜ぶんですよね。鯛や赤魚、カレイの煮付けとか、ぶり大根、サバの味噌煮、鮭のムニエル……ああ、明日は何にしようかしら…塩焼きや照り焼きも何度かやったし・・・なんて、一見して地味な日々を送っておりますが。


実は今、中身は軽く(?)発狂しております

まあそれは別段、季節が木の芽どきだからって訳じゃなくてですね、2月と3月はあっきー(中川晃教さん)のコンサートやインストアライブに立て続けに出かけ、その勢いで予定外にプリズムホールのイベントにも参加し、そのまま同じ日の午後に田島貴男さんのコンサートに行ったら一気にドーパミン過剰で頭がおかしくなって、もう充分にアブナイ人になっているのに、4月は舞台「銀河鉄道999」の幕が空いて、更にスガシカオさんのツアーも始まるという・・・シクシク・・・う、嬉しい・・・・嬉しいんですけど、な、なんか、精神的トライアスロン状態で 


いや、それは良いんですよ!もともとアタマ変だし。
大変なのは、その3人がそれぞれにテレビだのラジオだの雑誌の取材だのって宣伝活動を繰り広げるので、苦手なツイッターをまた見始めることになったら、あまりの情報の多さに目が回る 
もともと好奇心が旺盛すぎて、ツイッターとか見ちゃうと雑念がぐるぐるしちゃうんですよね
そのうえ、いろいろと敏感になり過ぎてしまって、点と点を結んで妙な線や物語が見えてしまったり、シンクロしたり、引き寄せたりで、ついでに過去のあんな事やこんな事の数々を思い出すと……
もうちょっと、自分が面白すぎる!!

も、もしかして、私ってば、実はとても珍しい人間なのかも??? 
というのは、ある意味、禅でいうところの魔境に入った状態ですけど、それを人は妄想と言う(笑)

そんなこんなで、
ちょっと花見がてら落ち着こうと思い、先週の土曜日に北鎌倉に行ってきました。
北鎌倉は実家から8キロくらいの距離ですから、寄り道(電車だけど)するのに丁度良いんです。
それに、北かまの駅から歩いて10分くらいの建長寺には、私の好きな龍の天井絵も見られます。
先週は桜が8分咲きくらいでしたから、今週末はちょうど満開になるでしょうね。
下の写真は午前中で、たまたま人が途切れた時に撮影しましたが、明日はもっと賑わうと思います。

あ、そうそう、タイトルの「あくがるる・・・」というのは西行の歌です。

 「あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき」

桜を見ると、憧れ惹かれるあまりに心が身体を離れてしまう。花が散ればこの心は我に帰るだろうか。

ってな感じかな。帰れないですね、その様子では(笑)
この歌からしても、やはり私は「西行は桜を愛しい人と重ねていた説」に一票だわ!

 

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