今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

リーディングドラマ 「その後のふたり」

2013年04月14日 17時31分41秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

2013/04/09
リーディングドラマ「辻 仁成 その後のふたり」 @天王洲・銀河劇場



【作・演出】辻 仁成
【音楽】Arico
【ステージング・ディレクション】広崎うらん
【出演】中川晃教 / 朝海ひかる / 鈴木陽平・所夏海(ダンサー)

※この感想は盛大にネタバレしている上に、大変まどろっこしいのでご注意ください。

パリのマロニエと聞くと、昔聞いた細川俊之さんの深夜ラジオを思い出してしまう私です。
古い、古すぎるっ
え~、だけどマロニエって何、マカロニじゃないよね?
なんて当たり前よ、マカロニならフランスじゃなくてイタリアだもんね~。 
などと、相変わらずバカでごめん。
はいはい、マロニエとは花、というか木ですよね、↓こういうの。


しかし、話はのっけから脱線したけど、物語にパリの描写が含まれると、いかにも灰色の空がお似合いのアンニュイでオシャレな感じがするけれど、物語の軸としては、パリが北海道でも九州でもさほど変わらなそうな、いわゆる男女の恋愛を中心にした物語。

私はテレビドラマなどはともかくとして、こういう朗読劇でもなければ滅多にこういった現代ものの、いわゆる「恋愛小説」を読むことがないので、なんだかとても珍しい思いで聞き始めましたが、それを言っちゃ、今まで観た舞台のほとんどの原作だって読んでない。
なので、舞台を観るごとに「知らない世界」を見せてもらうことになるわけですね。

それで、この朗読劇は音楽とダンスを融合させたものになっていましたが・・・これもひとつの流行なんでしょうか?
去年観た「100歳の少年と12通の手紙」でも音楽があり、中島周さんのコンテンポラリーダンスもたっぷりで、単なる朗読に留まらず、複合的で見応えのある舞台でしたものね。
でも、あれは演出もダンスも、前もってしっかりと考え抜かれて振付けられた土台があって、予定外の面白さというのは、その範囲内で個々の役者さんやダンサーの個性にゆだねられているという程度。
まあ、ダンスはコンテンポラリーですから即興の部分も多かったのではないかと思いますが、この舞台ほどではなかった筈です。
けれども、この「その後のふたり」には、演出家ですら予測もつかない、その場で表現されるImprovisation(即興)が必要とされていたのだとか。
すると、どうなのでしょう。
出演者の即興によって、話が微妙に違ってしまうのは……。
たぶん毎回この舞台は違うものになっていたのでしょうけど。
微妙にでも役者さんの解釈や芝居が違ってしまうと、物語の軸がぶれるし、この物語の、「そのまた後のふたり」の方向も違って見えるはずです。

私の観たのは、中川晃教さんと 朝海ひかるさんの回のみです。
(最近、平日の夜の予定が立たなくて、ちょっとあきらめ気味でしたが、なんとか間に合いました。)

そして、もちろん(というのもナンですが)原作を読んでませんでしたが、映画を観た友人達の話を聞いて想像していたのとはだいぶ違う話なので、途中で吃驚しました。
二人が異母兄妹だったこと。
脚本にこれがあるのと無いのとでは、まるっきり話が違います。
血のつながり…血が呼び合う運命と、二人の両親への想い…そしてタブーに対面し、この恋が一気にありきたりの普通の恋とは違ってきました。
七海が「神の冒涜」とも思い、畏れていたこの関係をどう乗り越えて「ラストシーンは二人のキスで終わりたい」と思ったのか。
そして、舞踏家との恋で、性愛どころかダンス以外では触れ合うことすらない、いわば「魂の触れ合い」のみの関係(この時のダンスシーンがとても良かった!) を経験したことで、「こういう愛もあるのだと思った」という、七海のその想いの有り様なども、血のつながりがあるかどうかで、まるで違うように感じられます。
恋愛において、切り離せないと思いがちな肉体とは何なのか……?

そのような中、純哉が度々と「やり直そうと思った」ということ、そして、最後にキスをしたのはどんな想いだったのか…。

そう、この回では、突然に演出の予定以外で中川晃教さんが七海にキスをしたんです。

ひと度は越えられぬと別れたにもかかわらず、やはり「愛している」という思いが抑えられず、別れられないと思ったのか。

…う~ん、どうもねぇ、七海がラストでしたかったキスと、純哉がしたキスとでは、なんだか違うもののように思うんですよねぇ…・私には。
七海はフライヤーの言葉のように、『男女の新しい恋のカタチ』を模索していたようにも見えたし。

なのに、あっきーの純哉のあのキスでは、あのまま二人はまた恋愛関係を再開してしまいそうな感じ。
だとしたら、それほどまでに七海の病気は重いものだったのか?? などと私は想像しましたが・・・。
近親恋愛の重みというのは、子供を身ごもる性であるだけに、女性の側のほうの畏れがより大きいと思うんですけど・・・。

まあ、なんというか、この舞台はImprovisation(即興)を見せてくれるという意味で面白いものでしたが、この恋もやはり衝動的な方向に行き、人の人生なんて予測不可能なものなのね。

ってのが、つまり私の感想の結末だったりして(笑)

ところで、長いついでですが、こういった兄と妹の恋愛物語を見ると必ず思い出すのが、私は従兄のこと。
私の従兄のお父さんは私の母の兄で、お母さんは私の父の姉。
というと、なんかややこしいですが、両親がどちらも兄妹なので、二人の祖父母四人は同一人物で、ルーツがまるで一緒です。
このお兄さんと私は、どれだけ血が濃いのかよく解りませんが、この物語の二人・・・異母兄妹よりもずっと血が濃さそうです。
先祖に、他人の血が一滴も混じっていないもの。
けれども、日本では、いとこ婚というのは許されていて、タブーじゃないんですよね。
子供を産むかはどうかは別としても、結婚しても法律的には支障がないんです。
すると私は、タブーとは、つまり人間が勝手に線引きした決まりにすぎないとか思ってしまう。

かなり年上の女性と関係していた純哉に向かって、七海が「一回りも上の女性と付き合っていたの?」と言うくだりがありましたが、近親恋愛をしていた彼女にしても、自分の常識の範囲外の恋愛に眉をひそめていたのが私としては興味深かったりして。

でもまあ、私は従兄と恋愛しなかったので、ひとつも悩まずに過んで良かったと、改めて思いましたけど(笑) 本当に愛したならば、もしかして結婚したかもしれません。
純哉と七海も、いっそパリにでも移り住んで、タブーから逃れ、そ知らぬ顔で生活ができるならば、この二人のその後の恋も続くのかな・・・なんて、そんな感じもした非常識な私は、やっぱり、恋愛小説を読むに向いてないのかも(笑)


朗読劇「100歳の少年と12通の手紙」

2012年09月29日 17時33分21秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

2012/09/20@グローブ座
【演出】鈴木勝秀
【原作】エリック=エマニュエル・シュミット
【翻訳】阪田由美子(河出書房新社)
【出演】ダンス:中島周
朗読(9/20) オスカー 川平慈英 / ローズ 香寿たつき

『余命わずか12日間と宣告された10歳のオスカー少年と、病院ボランティアの老婦人ローズとの心の交流を描く「100歳の少年と12通の手紙」』

今年は朗読劇やイン・コンサート形式の舞台がやけに目立つような気がしますが、やはり世の中が不況なせいでしょうか。
ミュージカルのような総合芸術は、大掛かりな舞台美術、何度も着替える豪華な衣装、オーケストラに指揮者、場面転換のために必要な人員あれこれ、それより何より、出演俳優やダンサーの数だのなんだのと、ちょっと書き出したらきりがないのでやめますけど(笑) もの凄い人員と手間と技術が必要で、そのぶんお金がかかりますものね。

それを思うと、朗読劇とかイン・コンサートなどは今後しばらくは流行るのかもしれませんが……どうなんでしょう?
このところは朗読劇も、この「100歳の少年と12通の手紙」のように音楽やダンスも加わって、より見応えのあるものになってきたとはいえ、そのうちに「またか」と飽きてくる日がやって来るかもしれません。
やっぱり俳優さんたちは、生き生きとその役を演じて生きてくれているほうが観ていて楽しいんだけどな~、とか。

とはいえ、今のところ、まだ私は飽きてません(笑)

そんなわけで、妙な話から始まってしまいましたが、この「100歳の少年と12通の手紙」はとても良いお話でした。
この本は世界中に愛されているベストセラーだそうですが、今まで私は知りませんでした。
それだけに、主人公の少年、オスカーがどのような12日間を過ごし成長していくのか、それぞれのシーンを新鮮な気持ちで観られることができたし、中島周さんのダンスも見応えがあったのでラストまで飽きることなく感動しました。

この本は、余命短く心を閉ざす少年オスカーと、病院ボランティアの老婦人、ローズさんの二人の心の交流を描いたものです。
サンタクロースも信じられないオスカーがローズと約束したことは二つ。
「一日を10年と考えて生きる」
「神様に一日一通の手紙をかくこと」

そう、
手紙なんですよねぇ…。

もしも私が神様に手紙を書くとしたら、いったいどのようなものになるだろう。
なんて、思わず想像しちゃいましたが、それは先日観た「ダディ・ロング・レッグス(足ながおじさん)」に似て非なるものなんでしょうね。
会ったことのない大きな存在に、読んでもらえることを信じて書く一方的な手紙。
それは自分自身への手紙でもあり、世界に対しての手紙なのかもしれません。

10歳のオスカーは一日を生きるごとに10年の歳をとっていきます。
実際には経験することのない、20歳代、30歳代、40歳代……
10歳の瑞々しい感性はそのままでありながらも、その心の移りようが驚くほど、それぞれの年代にふさわしく思えました。
川平慈英さんは途中で声をつまらせて泣いていました。
それはたしかオスカーが40歳か50歳くらいのところで、「え、この場面で?」と、わりと意外なところでしたが、思えばその辺りは川平さんご自身の年齢ですね。
結末を知っているだけに、胸に迫るものがあったのだろうと思います。

そして、オスカーが80歳代、90歳代と、死に近づくにつれ、そのたった10日間かそこらの人生には深みさえ感じられ、最後には私も涙を流さずにはいられませんでした。
それは決して、死が悲しいとか、そういう涙とは違います。

人は誰でも必ず死ぬ。その時期や順番がどうであれ。
人生は長さに関係なく、人とどのように関わりあうか、どのように愛し合うかで、その充実感が違うのかもしれません。

中島周さんは、少年の心そのもののようでもあり、神様に手紙を渡す「時の精」のような不思議な存在でもあり。
今年はコンテンポラリーダンスを観る機会が多いですが、言葉にならない肉体の表現は、言葉になりませんね。(と言って、感想をこれで済ませてしまうのもなんですけど)

香寿たつきさんは、とても温かく、人間味溢れたローズという女性を好演(好読?)してくださいました。
100歳を生きた少年の人生は、実際にはとても短いものでしたが、このローズという女性との出会いがあったのは、本当に幸せなことだったと思います。
それは、サンタクロースを信じられなかった少年への、神様からの大きなプレゼントだったのかもしれません。

いや、そうじゃないか。
って、そうでも良いんだけど……

生きている人を慰め、癒し、ほんとうに生きるための力を与えられるのは、神様でなく、やっぱり生きている人なのでしょうね。あのローズのように。

そして、その人生の幕を閉じる時こそ、今までのあらゆる出会いと世界を感じ、神に感謝できれば幸せなのかもしれません。

わずか10歳のオスカーの人生は、それでも幸せだったと思います。

この朗読劇も、ほかのキャストで観てみたいと思えるような、そんな素敵な舞台でした。


リーディングドラマ「武士の尾」

2012年09月16日 01時48分07秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

2012/09/15 @紀尾井小ホール
【原作】森村誠一
【構成・演出】市川月乃助 【演出】菅原道則 【音楽】新内剛士
【出演】中川晃教/市川猿琉/貴城けい/鳥越裕貴/市川月乃助

赤穂浪士の生き残りの話といえば、私は去年観た映画「最後の忠臣蔵」の記憶が新しいので、ものすごーくストイックに自己を抑えながら生きる侍の話を想像していたら・・・
あらら、高田郡兵衛さんったら、大石内蔵助に「恥を常食とせよ」との命を受けていたのに、世の中を見届けるまで我慢ができなかったのね~?
ってな、話。(え、それでいいのか?>じぶん)

これはね、いかにも、「いかにも」でござった。

原作者の森村誠一さんの小説は大昔に「人間の証明」を読んだきりなので、他にはよくわからないのですが、この作品は、小説として思うに、テイストはいかにも男性が好みそうな週刊誌とか新聞紙あたりに載っていそうな「連載小説」という感じ。
時々現代的な言い回しや片仮名言葉も使われているし、お色気のある女性キャラだとかが、いかにも大衆向けな切り口で、時代小説の中ではわりと読みやすそうです。(あ、もちろん、朗読としてじゃなくて、黙読での話ね)

とか思ったら、友達に聞いたけど、やっぱり週刊誌の連載小説だったのだとか。
いかにも~。

市川月乃助さんと市川猿琉さんのお二人は、いかにも歌舞伎役者さん的!
時代物の難しい言葉はさすが!よくこなれているのですんなりと耳に入るし、聞きやすくて、いかにもな武士の風格もあり、どの役柄もぴったりでした。

また、貴城けいさんは、いかにも元宝塚のスターさん的!
一幕の終わりの立ち姿の、きりっ!とした佇まいが、な~んとお美しくて素敵だったこと!
郡兵衛の妻のてつ役の時は可愛らしく、おふう役の時は女らしく、それぞれの風情でコケティシュな魅力がありましたが、ト書きの部分ではいかにもな宝塚的な発声と抑揚でキリリとしていて、さぞかしカッコよい男役さんだったのでしょうね!

歌舞伎と宝塚・・・それぞれの言葉に、それぞれ独特の抑揚やリズムがあり、その違った味わいにはとても興味深く、面白く聞かせてもらいました。

それを言うなら、
あっきーは、いかにも中川晃教さん的でした。
台詞の力の込め方とか。抑揚もリズムも。
「か行」が、独特なのよね。 目が覚める感じね。
想像した以上に時代物の、特にこういう血気盛んな役どころはあっていると思いました。

で、鳥越裕貴さんは、いかにも若手さん。
お顔がいかにも若々しくて可愛い~!
なんとなく、アニメの声優さんみたいな、ハンサム声です。
ベテランの役者さん達に混じり、一生懸命に健闘していて好感度高し!

とまあ、あっちこっちと「いかにも」な、この朗読劇は、期待した以上に聴き応えがあって面白かったです。


朗読「宮沢賢治が伝えること」5/19(その二)

2012年05月20日 23時05分50秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

2012/05/19 朗読「宮沢賢治が伝えること」@世田谷パブリックシアター
【演出】栗山民也
【出演】段田安則/小泉今日子/浦井健治
【音楽・マリンバ演奏】中村友子

前述の続きですが。
ああいう話を続けていると、なかなか舞台そのものの感想にいけないので(笑)いつもの調子に戻りますけど。

家に帰って改めて調べてみたら、宮沢賢治さんってやっぱり仏教徒だったんですってね。法華経の。
高校の国語の授業ではそんなことまで習わなかったと思うけど、この方の作品の根底に流れる独特なもの・・・生きとし生けるものへの慈悲の心とか、森羅万象に融合する感覚とか、あらゆる煩悩から逃れられぬ苦悩だとか・・・そういった仏教的な思想が下地にあったことは普通の学校の先生は教えてくれないですよね。

だいたいね~、日本の国語の授業やテストって、大概はほんとにろくでもなかったりするのよね?
みんなが同じ感想に行き着くように教えてる、っていうところがそもそもの間違いで、解釈に丸バツや選択なんかの正解と不正解を作るのはナンセンス。
これは私が中学の時くらいに聞いた事だけど、ある小説家が自分の作品が大学の入試に扱われたと聞いて、それで喜んで自分でその問題を解いてみたんですって。
そしたら、その作者本人が満点を取れない。
それってどーなのよ!
だから私は学生時代、テストの時に(評論文は別として)小説が題材の時には「出題者が求めている答え」を想像しながら読むことにしてましたけど、そのやり方だと実に「学校の先生好みの解釈」になるわけで、そうするとほとんど間違えることはないです。
自分がどう思うかとか、作者本人が何を伝えたいかじゃないのよね。出題者が何を答えさせたいか、なのよ。
なにせ、作者本人が満点取れなかったりするんだもの。
自由に作品を楽しむことを阻むような、そんな現代国語の解釈テストはもう止めちゃえばいいのに。

閑話休題。
宮沢賢治さんといえば、私は学生時代はあまり読んでいませんでしたが、去年の11月にたまたま読んだ「かなしみの哲学」(竹内 整一)に作品が引用されていたりしたので、わりとここ数ヶ月間は気になって本屋さんでちびちびと立ち読みなどをしておりました。
まあ、立ち読みせずに買えよ! ってな話ですけど(笑) でも最近じゃインターネットでほぼ読めちゃいますよね。ありがたいことです。(って、おい!)

まあ、そんなこんなで気になっていた宮沢賢治さんの作品が朗読劇として舞台化されると聞いて、なんてタイムリー! ぜひとも行きたいと思いました。
それにこの舞台には、あの段田安則さんがご出演じゃありませんか!!
段田さんって、本当に良い役者さんですよね~! 
私はストレートプレイは(も?)あまり多くは見ていないので、段田さんも一年に一度くらいしか拝見してないかもしれませんけど、「役者さん」というと、まず初めに段田さんのお顔を思い出しますもの。この朗読劇もぜひ段田さんで観に行きたいと思いましたよ。
段田さんはどのような役で見ても、すっとそれにハマって、しかも味がある。良い人を演じても、悪い人の役でも、どっちだかよく解らない人の役でも(笑)、段田さんって、役に人間の奥行きが感じられて、それでいてちょっとユーモラスなエッセンスが入っていて好きなんですよね~。
この朗読劇でも、いくつかの役柄のそれぞれに味わいがあり、さすが声の通りも良くて、静かな語り口にも耳に心地よくて聞きやすく、とても良かったです。

それから浦井健治くん。
って、え? あっきーじゃないの? って感じですけど、あっきーは平日マチネだったもの。
「プロミセス」のマチソワでこの前休んだばかりだし、月に有給休暇を二回もとるのは今の私じゃ無理。
あっきーは段田安則さんと同じ舞台に立てて良かったね! 私は行けなくて残念だけど、折角だから段田さんの良いところから、何かちゃんと吸収してきてくれるといいな。・・・とまあ、それだけね。

で、今回は浦井くんなわけですが。
「ヘンリー六世」の時にも感じられたことですが、やっぱりこの人には独特の透明感や浮遊感がある。
役を演じるとき、浦井くん本人は無我のように見えて、それでいて浦井くんらしさもちゃんとあるという、そんな不思議な魅力が宮沢賢治の世界にぴったりでした。
あの温かみのある、ふわりとした丸みのある声にも癒されました。

小泉今日子さんは生で拝見するのは初めてでしたが、思ったよりもずっと可愛らしい声です。
少女のようなその声は、よだかの寂しさによく似合っていたと思います。

朗読劇に行くといつも思うことだけど、朗読には読み手の「人」が出る。
できることなら、他の役者さん達の回も観てみたいと思いました。


朗読「宮沢賢治が伝えること」5/19(その一)

2012年05月20日 18時22分01秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

2012/05/19 朗読「宮沢賢治が伝えること」@世田谷パブリックシアター
【演出】栗山民也
【出演】段田安則/小泉今日子/浦井健治
【音楽・マリンバ演奏】中村友子

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を初めて読んだのは何時の頃だったろうか。
たしか高校の教科書にも載っていたような気がする。
その時、たぶん私はこの詩を読んで「なんと心のきれいな人だろう」と思ったに違いない。
けれども、それから歳月をかさねて今これを読むと、宮沢賢治という人は「とても苦しみながら生きてきた人なのだろう」という想いが強い。
「そういうものに わたしはなりたい」と、そこに至る心を思うと、私は時として涙がこぼれる。
なりたくても、未だなりきれていない自分というものがなくしては、このような詩は書けるはずがない。

無私と無欲で自然に混じり、慈悲の心で隔てなく他人に尽くしたいと願う、その想いはまるで修行僧のようであり、そこに重なるのは、たぶん仏教の思想なのだろう。
雨にもまけず、風にもまけないその「理想の姿」とは、まるで悟りを開いたお釈迦様のようではあるまいか。
森羅万象に溶け込みあい、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから」(春と修羅)という宮沢賢治の作品の根底に流れるのは、まさしくブッダのごとき悟りであり、しかしながら、本当の悟りの境地には未だたどり着けず、煩悩に苛まれ修羅に苦しみ、理想には遠く己の未熟に喘ぐ姿がそこに見える。
無私無欲でありたいと望むということは、即ちその望みこそが苦しみの元であったに違いない。
「おれはひとりの修羅なのだ」
その苦しみを思うと、私は思わず勝手に共感の涙がこぼれてしまうのだ。

けれども、この朗読劇の途中で私が涙をこぼすシーンはなかった。
とてもフラットな気持ちで、心静かに聴けたような気がして良かったと思った。
黙読と違いこうして声に出されて味わえば、宮沢賢治の作品はリズミカルで不思議な透明感もあり、とても気持ちの良いものだ。
ところが、最後の一節、「報告」で、「もう一時間もつづいてりんと張つて居ります」と三人の声が合わさった時、止めどもなく目から涙が溢れてどうしようもなくなった。
何かが緩んでしまったのかもしれない。

客達が次々と席を立つ中で、私は涙が止まらずに立てなくなった。
隣の友人は何も言わずに待ってくれている。一緒に座ったまま、そっと静かに待ってくれていた。
それがひどくありがたく感じられた。
けれども、最後に突然生まれた自分の感想とは、この朗読劇に相応しいものだったかどうかは疑わしい。
ごめん、どうやらまた私は自分勝手な想いに捕らわれていたようだ。

「書かなきゃならない。私もまた書かなくてはならない」
私はそれで泣いていた。
最近さっぱり創作文が書けない自分自身の、その欲を思って泣いていた。
誰に褒められずとも、馬鹿にされても、それどころか、誰ひとりの目に入らずとも、それでも下手な自分、未熟な自分の、この逃れがたいあらゆる欲と戦いながら、魂の赴くままに、自分自身へ向かってただ一心に、「書かなくてはならない」と思った。
なぜならば、私もまた修羅のひとりなのだから。

他の誰は知らないけれど、この私が宮沢賢治から一番に伝えられたものとは、つまりそういうことだった。


「60歳のラブレター 絆」

2011年12月16日 01時30分17秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

私に常識的な感想を期待しないでください。

などと、時たま「書いておかなければ」と思うのも、我ながら「何だかなぁ…」と思うけど。
前月に広島の旅行記を書いて以来、半月も感想記を書かずにフリーズしていました。
実はこれをのろのろと書きはじめたのは12月10日ですが、確か14日と15日にもまだ私が見た役者さんたちとは別の方達で上演されることでもあり、万一にでもこれから観る方たちに余計な先入観を抱いてもらっては不本意なので15日の夜を過ぎてアップされるよう、予約発信することにしました。


『60歳のラブレター』は、「長い人生をともに歩む夫から妻へ、妻から夫への素直な気持ち」「感謝の思い」、さらには夫婦だけにとどまらず、家族の絆の大切さをテーマにして、全国から応募された手紙を男女二人の俳優さんが交互に朗読するという舞台でした。
フライヤーには「本公演を鑑賞した方々が、長年一緒に過ごしてきた夫婦・家族について見直す機会ともなり、充実したセカンドライフをお過ごし頂く一助となれば、という思いを込めてお贈り致します。」と書いてあります。

セカンドライフとは、一般的に定年後、つまり現役を退いてのちの「第二の人生」を言いますね?
60歳ですものね。
もっとも、私の周囲では、「自分たちが60歳になる頃には年金受給が先延ばしになるだろうから、たぶん定年も65歳に伸びるだろう」と予想する人が多く、それが現実になるならば、私の「充実したセカンドライフ」とやらはまだまだ先のことになりそうで、そんなに働かなきゃならないのかと思うと、今から頭も体もへろへろな気分で、何だかめまいがしてきたりして(笑)

なんてね、ぽやいている場合じゃないんですけど。
この公募の応募資格は「50歳以上」ですから、必ずしも皆さんがセカンドライフに入っているわけではないですが、それぞれが人生をひと山もふた山も越えていて、改めて振り返ってみれば大切な誰かが傍にいてくれたことに感謝をしています。
また、今は亡き人への愛情を綴る手紙もあり、どれも心あたたまる手紙ばかりでした。

ええ、確かにそうでした。
で、この後、私は少々「常識的でない」感想を書きますが、べつにこの心温まる家族への愛や、それを聞いて感動した方、ましてや役者さんたちや企画した方たちの想いに水を指すつもりは全くありません。
でも、読みようによっては、ひねくれた感想に思えるかもしれません。
せっかくの感動を壊すような、そういうものを書くのはやめようかとも思いましたが、やはり自分のために書いておかないと、どうにも先に進めません。
「何故それを書きたいか」
自分のそれを含め、考えながら書きたいと思いますので、これ以後の文はとてつもなく長くなりそうだし、そんなものまで読んでも良いと了解して頂ける方だけお付き合いください。
そう断っておきますので、うっかり読んでしまって気を悪くされても抗議は受け付けませんので(笑)、悪しからずご了承願います。
一応、十行ほど下がりますね。
では、物好きなあなた、十行後にお会いしましょう(笑)









誰かの書いたラブレターって、たまに目にすることがありますよね?
古今東西の有名人が残したそれが何かのきっかけで発見されて、博物館などに展示されていたりして。
何年か前に、どこかの博物館で、幕末に徳川家に降嫁した和宮の手紙を読んだことがありました。
別の婚約者がいた和宮は周囲の思惑から逃れられず、徳川家茂には泣く泣く嫁いだとは聞きましたが、少なくとも戦場に家茂に宛てた彼女の手紙からにはそのような事情は露ほどにも感じられず、「せめてもの慰みにお菓子を送ります」などと、幼い妻からの思いやりや若い女性らしい可愛らしい愛情が感じられたのは、まんざら側近の下書きがあったとも思えず、その心の込められた手紙と、その後の彼らの運命を思い、私は思わず胸が熱くなりました。

なんて、つい脱線しましたけど(笑)
この「60歳のラブレター」はラブレターなんですけどね、そういった過去に見た生々しい手紙のことを思うにつけても、どうも聞けば聞くほどに、微妙に違和感を感じてしまったのは私だけなんでしょうか?
これはラブレターだけど、投稿したものなんですよね。
ラブレターという、最も個人的な文を、なぜ自ら投稿するんでしょうか?
お相手が亡くなってしまわれたのならばまだ解ります。でも、まだ生きている相手へのごく個人的な愛情と感謝の手紙までもを、なぜ臆面も無く不特定多数の目に入れたいと思うのでしょうか?
妻から夫へ、夫から妻へ、なぜ直接渡さずに公に「投稿」したのか??
決して非難したいのではありません。純粋に、本当に、疑問なんです。
どうしてこれらの素敵な手紙を、それを一番言いたい相手に向かって一直線に出さないのかと。
本当に、本当に、不思議で、でも、そんな余計なことを思う私は、だから人の繊細な心の機微というのが理解できない、自分はがさつな人間なのだろうかと思ったりもします。

この企画の応募要領を見てみたら、投稿された手紙の全ては「作品」として扱われています。その著作権などにも言及してありました。
ですから、自分の手紙が「賞」を取れば、賞金も貰えれるかわりに、どこかで発表されて本になったり、このように舞台化や映画化される可能性があるということは一目瞭然ですよね?
身近にいる大切な人に、日ごろの感謝や愛の言葉が気恥ずかしくてなかなか言えないというのは、そういう気持ちならば私にも解ります。
でも、それならば、その気恥ずかしくて、今まで心の中にしまっておいたそれらの気持ちを、日本国中に広め、そういう形で周りまわって、こういう形でその相手に届くのは恥ずかしくないんでしょうか?
恥ずかしいというのならば、そっちのほうがよっぽと恥ずかしいと思いますけど。
って、だから、重ね重ね言いますが、それに対してどうこうではなくて、それが私にはどうにも不可解で、単純にどういう気持ちなのか教えて欲しいんです。
あなたは、どこに向かって、誰に向かって、何故書くのかと。
それはこういう記事を全体公開で書いている、自分への問いかけでもあります。

ここで読まれた手紙は、どれもこれもが感動に値しました。
その手紙の想いが私たちにまで伝わってきたのには、さすが賞をお取りになっただけはある、その状況が粗方でもこちらに伝わったからなんだと思います。
だからこそ、時々と違和感を感じるのは、手紙なのに、二人だけの出来事に対して状況説明がさりげなく入っていたりするところだったりします。もし私が書くならば、そこいらは省略するだろうという、「あなたならばわかるわね?」という部分にまで説明がされている。
それを思うにつけても、これはその相手というよりは、別の第三者に読ませるために書かれた文章であるというのが解ります。
「あなたへ」と言いながら、あなただけではなく、向かう先は他にもある。
「あなたへ」ならば、何故、あなたにだけそれを書いて贈らないのか??
あえて公募へ書くということは、どのような意味があったのか?

だから、しつこいようですが、それがいけないと言っているのではなく、何故そうしたいのか?  自分のこの記事も含め、なぜそこまでして、見ず知らずの人にまで、誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたいのか? 何ゆえ世界中に愛を叫びたいのか? という疑問に行き着きます。


話は突然変わりますが、ごく最近に「かなしみの哲学」(竹内 整一)という本を読みました。
日本人独特の感性である「かなしみ」には、万葉・古今の昔から、折に触れ和歌などの歌にされ、また近代や現代の小説にでも表現され続けています。
私の拙い解釈で恐縮ですが、ざっと読んだところ、「かなしい」というのには、様々な意味があるようです。

『やまと言葉の「かなし」とは、そのカナが「…しかねる」のカネとされる言葉で、力が及ばずどうしようもない切なさを表す言葉である。』とその本には書いてありました。
大切な人の死や自分のそれを含めて、たとえ手を尽くしてもどうしようもできない、「叶わぬ想い」のその切なさが「かなし」というわけです。
ですから、古代で「かなしい」とは、単なる悲しさだけでなく、愛情表現にも使われていたりします。
「どうしようもなほいどに、愛しく、可愛くてしかたない」とまで思う、その何をしても足りないほど可愛いと思う、「…しかねて」いる様子、力の及ばなさ、切なさが「愛し(かなし)」というわけです。
ですから、かなしみは、「叶わさ」や「届かなさ」でもあります。
そして、その為すすべもない切なさに、人は自ずと体の底から「ああ…」と声をもらします。
その時、それを真に癒すのは、誰かがその嘆息を聞き入れ、共有し、応えることのみなのだそうです。
そもそも、歌というのは、その「ああ…」と漏らされた声が始まりだということですが、つまり、その「ああ…」という想いが、歌と、言葉になるのなら、人は叶わぬほどの切ない想いを持つときには、誰かに向かって歌い、あるいは何かを書くことのみで癒される。

とまあ、私はざっとそう読んだのですが、なので、悲しいに限らず、嬉しいにつけ、愛しいにつけ、自然に沸き起こる自分の素直な感情を歌うということ、そして書くということは、基本的には「誰かのために」ではなく、ただ自分のためで、それで良いのではないかと思ったりもします。
それが自然と誰かに届けば良い。響き合えば良い。
気持ちが自然にこぼれ、誰かに「ああ」と呼びかけ、「あれ」と呼びかけられる「哀れ(あはれ)」と「憐れみ(あはれみ)」は相互につながると、本には書いてありました。。
誰かの想いが自分と響き合った時に、その想いは我が事になり、力づくでは決して作れない、人への、相互への思いやりや、いたわり、慈しみの気持ちが生まれます。

それを思えば、この『60歳のラブレター』は、亡くなった方に対する想いも含め、まだ元気で生きて傍にいてくれる大切な人への、どうしようもないほどの想い、感謝してもし足りない気持ち、言い足りないほどの愛を、誰かに聞いてもらいたい、一緒に共有してもらいたいという文章だったのかもしれません。

ああ、ここまで書きながら、ようやく、ちょっと見えてきました(笑)。

そう。この朗読を聞いて、たくさんの人たちがその書き手の方々の愛情を共有しました。
泣いておられる方もたくさんいました。
心を込めた手紙の、その想いは、たくさんの人に受け取められたことと思います。

このラブレターを書いた方々は、本当に良かったですね。
人生で愛すべき人と出会い、その想いを書けて、良かったですね。

…というのが、この企画への長い感想(?)のオチになるというのも何ですが(笑)

自分勝手に、いろいろなことを考えされられた舞台だったと思います。
その「いろいろなこと」には、まだ心の中に保留にしていることもありますが、それも込みで、私は「何故に書くのか」ということを、折に触れてぐるぐると(笑)考えていくのだろうと思います。
そして、そうしながら、たぶんこれからもずっと、この様な拙くて力の及ばない「かなしい」文を書き続けていくのでしょうね(笑)
それに込められた「ああ…」という何がしかの想いを、いつかどこかで誰かが共有してくださるのなら、やがて私も癒されていくのかもしれません。
って、あれ?、私って、癒されたいのかな? う~ん、それもまた疑問ですけど(笑)

もしかしたら、本当に書くべき相手にストレートな想いが書けないばかりに、こうして寄り道しているのかもしれません……。


このような脱線ばかりの長い文を最後までお付き合いしてくださった方、本当にありがとうございました。


朗読劇「私の頭の中の消しゴム」3rd letter

2011年05月10日 23時27分23秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

朗読劇「私の頭の中の消しゴム」3rd letter
【出演】中川晃教/村川絵梨

ゴールデンウィーク、終わっちゃいましたね~。
今週末までの五日間が長く感じませんか?
ゴールデンウィークといえば、ここ数年はそのほとんどの日を観劇にあてて、あちこちの劇場をハシゴしていたというのに、今年は5月1日にコットンクラブのチャリティコンサートに行った後は、この「私の頭の中の消しゴム」を二回見たきり。
なんと! それだけ! たったそれたけなのよ!
あっきーだけ。
「もうあなたしか見えない状態!」(笑)、っつーか、マジ他には観てないし!聴いてないし!
というより、ほかを観たくても観れませんでしたぁ~!!って感じだわ。
まあ、良いんですけどね、好きでそうしたんだから。

なのに、何日も家の中に閉じこもっていたわりには、そのコットンクラブのライブもその前の「Underground Parade」の感想もアップしていないのは、ひとえにこの使い慣れていないノートPCのせい…ばかりじゃなくて、あまりに書きたいことがいっぱいたまりすぎて頭の中が飽和状態でフリーズしちゃっていたせいなのよね。

ああ、だけど、今さらアンパレやライブの感想なんて、書いても遅いです。
…という声が私の頭の中でこだまするぅ~。
私も友人たちの書いた感想をいくつか読んで「そう、そう!そうだったわね~!」とすっかり満足しちゃったし。
なので、アンパレやライブの感想は気が向けばいつか書くかもしれないし、書かないかもしれない、ってことで、取りあえずは記憶の新しいこっちを先に書きます。

とはいってもねぇ…、この舞台は去年の五月以来、六回も観ているんですよ。
2010年の5月に「中川晃教×内山理名」二回、
「崎本大海×鈴木亜美」一回、
9月には「別所哲也×紫吹淳」一回、
そして、先日の「中川晃教×村川絵梨」を二回だから、合計で6回。
そして、その都度、しつこく感想を書いていたのでした。
そりゃ~、我ながらくどいほどにね。
同じ物語だから、今回の感想がそんなに大きく変わることはないです。
今回もやはり、この悲しい物語を、私は「それでもなお、一人の男が永遠の愛を手に入れた幸せの物語」だと思いました。
愛を知らなかった浩介が薫と知り合うことで愛を知り、最後には彼女の記憶は消えてしまったけれど、彼女の心は決して消えず、その中で「僕は永遠に愛されて幸せになりました」というお話だと思うんですよね。

それにしても…
そんなわけで、同じ舞台を月日をはさみながら男性三人女性四人の俳優さんで観たわけですが、さすが女優さんはどの方も感心しました。
何がかっていうと、物語が進み認知症が進むにつれてヒロインの薫の顔つきが変わるのですが、ボードのメモを読むところでは可愛らしく、海辺の施設のシーンまで来ると、ほんとうに神々しいくらい皆さん美しくて、その美しさとは現世から離れた者のみが持ちうるような、とにかく穢れのない、純粋な美しさだったと思います。
この舞台は休憩もないですし、ヘア・メークも全く変えていませんので、彼女らは表情と内面からそのお顔を造るのですよね。それぞれに素敵な薫でした。
今回見た村川絵梨さんは、どこにでもいそうなお嬢さん育ちの、その世代の等身大な感じが良かったです。

私はあのボード前で二人がメモを読むシーンと海辺の施設のシーンがとても好きなんです。
今回のあっきー(中川晃教さん)では特にそう思いました。
なにせ、その二つのシーンではあっきーの浩介は決して声を荒げたり怒鳴ったりせずに、とても穏やかで愛情深く優しいです。
ここで声を荒げると病気になった薫が脅えてしまいますものね。
だから、浩介は愛する薫のために優しいのですけど、私もその二つの場面では脅えなくてすみ、心穏やかな幸せな気持ちになりました(笑)

というのも、
一年前にも書きましたけど、もともと私は「怒鳴る男」というのがとても苦手で、物語に全く関係なく、ほぼ反射的に「あっきーが怒鳴るのってヤだ~!」とか思うので。
そもそも普段から男性の怒鳴り声と女性の金切り声は「声の暴力」だと思っているので、それに近い激しく強い声をあっきー浩介から繰り返し何度も聞かされて、好きな人の声だけに(ん? 好きな声の人だけに?)胸が痛くて辛かったです。
声には力があるんですよね。良くも悪くも。
それでも、叫ぶべきシーンは納得するし、ぜんぶが嫌だというのではないのですが、この舞台のあっきーはガテン系のぶっきらぼうさを演じるためなのか、明るいにしろ、暗いにしろ、やたら声を荒げるので、何度も観ておいてなんですが、この期に及んで私のような者にはいささか不向きな方向へ進化していたような気がします。  

ああ、でもそれを感じない人のほうが圧倒的に多数派なのかもしれません。
今回も劇場内では鼻をすすりながら涙を拭いている人が多数いらしたし、友人たちも「泣けた」「とても感動した」と口々に言ってましたよ。
「素直に涙が溢れて、見終わったあとに爽快感すら感じた」という方もいましたし、情感豊かなあっきー浩介の評判は良かったです。
ですから私のほうがずっと少数派なんでしょうね。
私のような者には、同じ台詞でも、あっきーには「ぶっきらぼうなガテン系のキャラ」にこだわらず、「愛情表現がやや苦手な普通の青年」程度に声を出してもらうくらいで丁度良いように思いますが、なんでもかんでも好みの問題ですからね。

この舞台と「ラブレターズ」の二つの朗読劇は、これからもあっきーが定期的に出演してくれると面白いですよね。
何年か後に…たとえば、あっきーが三十代、四十代になってからも演じ続けてくれたら、私はその時にはこの自分の感想を振り返って読んでみたいと思います。

そうか、
だから私の頭の中にあるうちに、今度からはもっと早くにせっせと書かねば(笑)


「ラブ・レターズ」中川晃教×神田沙也加 (追記あり)

2010年12月11日 11時24分43秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

この感想を書くのは危険です(笑)
余計なことばかり書いてしまいそうで。

たとえば、昔に私が書いたかもしれないラブ・レターのこととか……
貰ったかもしれないラブ・レターのことー…とか?
だけど、というか、だから私自身のあれやこれやはともかくとして(笑)

こんなふうに二人で交互に読まれてみると、手紙というものは、向き合っているようで実はピタリと向き合ってなどはいないのだ、ということがよくわかります。
時間と空間を隔て、その向こう側に見る相手とは、メリッサのいうように現実のその人ではなく、手紙の中に生きている「もうひとりの相手」、それもこちら側の勝手なイメージを重ねて作り出した、幻に近い「もうひとりの魂」の姿なのかもしれません。
けれども、その「もうひとりの相手」へ手紙を書いている自分もまた、現実のほんとうの自分ではなかったり、逆に、現実には出せない「ほんとうの自分」であるのかもしれません。

だから現実と「手紙の中の世界」との違いに違和感を感じたメリッサが「電話をして」「会いたい」と言うのに、アンディーはひたすら「手紙を書くこと」「貰うこと」に固執して、いつまでもその世界において彼女の手を離そうとしません。
生の声や生身の姿を求めたメリッサのほうが、よりしっかりと人を認識して実感しようとしていたい人だったのではないか…

ああ、そうか…彼こそが……。

これは舞台を観ながらではなくて、今思ったのですが…
長い年月のほとんどをメリッサと離れて暮らしていたアンディーが、社会的な地位や理想的な家庭を脅かすと知りながらも、メリッサと会い関係を結んでしまったのは……もしかしたら、アンディーこそが、彼こそが、彼女の手紙…現実の彼女自身ではなく…彼女の「手紙」が欲しくて、または彼女に手紙を書き続けたくて、そのためにメリッサを繋ぎとめるための手段として関係を結んだのかもしれません。
もちろん、無意識に。

だとしたら、そういう視点で捉えるのだとしたら、それはどうなのでしょう。
手紙はたしかに口では言えないような深いことを書くことも、本音を出すこともできるかもしれないけれど、それはほんとうにコミュニケーションと言えるのでしょうか?

メリッサという女性は複雑な家庭に育ったせいもあるのでしょうが、よく言えばグラス・ハートな芸術家タイプの、かなりエキセントリックな性格で、若いうちからずっと精神的に病んでいたりします。
こういった女性は魅力的かもしれませんが、穏やかで暖かな家庭を作るのには向いていないのかもしれません。
アンディーは、たぶんメリッサとは正反対な性格の妻…つまり自分と同じような種類の奥さんが守る、理想的とも言える家庭を持ちながら、その一方で決してメリッサとの関係を完全には切らしません。
メリッサが怒ればなだめます。
奥さんに隠れてでも手紙を続けようとします。
アンディーの保身とそのズルさは見ていると時々本当にムカつきます。

愛し合っていたのは、現実の二人ではなくて、ずっと「手紙の世界」の二人であり、アンディーはその世界に生き続けた、いわば二重生活をしていた人です。
それに付き合わされたメリッサは、それに耐えられずに一層と繊細な心が病んでしまったのかもしれません。

…などと、今思えば、そういう視点で見ることもできなくもない(笑)

それなのに……

実際に一番強く伝わってきたのは、アンディーがどんなにかメリッサを必要として愛していたか。
その想いでした。

私はこの朗読が続いている間にはなんとか堪えていたのに、舞台が暗くなってからは涙が止まらなくてどうしようもありませんでした。
もし、そのあとすぐにトークショーがなければ、ずっとずっとそのまま一人で泣かせておいて欲しかったです。

おりしもこの12月10日という日は、私が初めて中川晃教さんの舞台を生で見た日で、ちょうど六年になりました。
六年目にこんなアッキーを見せてもらえるとは思いませんでした。
私は二年前のこの舞台のときは仕事が忙しくて都合がつかず、「ラブ・レターズ」は今回初めてみました。
あの時はとても残念に思いましたが、もしかしたらそれは必ずしも残念ではなかったのかもしれません。
二年前にこの舞台を観ていたらどうだったのか…。

「すべてのわざには時がある」
もし、ほんとうに私の傍らにもミューズの女神様がいるのだとしたら……彼女は今回の舞台で私に何を見せようとしてくれたのでしょうか…。
本当に、本当に、いつまでもいろいろと考えずにはいられない舞台でした。


ところで、そのトークショーですが、神田沙也加さんは可愛らしい人ですけど、なかなか男前な女性ですね~!
実は去年、私は彼女の出た「AKURO」という舞台でダダ泣きさせてもらったのですが、この「ラブ・レターズ」でますます気に入りました。
レ・ミゼのコゼットがとても楽しみです!

(追記)
トークショーではアッキーがこの役を演じながら感じたことを、いつものように拙いながら(って、私が言うな!)一生懸命に説明してくれました。

アンディーを演じながらその奥に中川晃教という自分がいて、その自分自身の感情がアンディーに呼応したかのようにぐっと重なろうとしている。その自分をまた別の自分がいてぐいっ!と引き止めて抑えようとしていたりする……なんて、そんなふうには言ってませんが(笑)
たぶん、だいたいはそんな事を言っていたように私は思いました。

そういえば、先日ある女優さんとお話ししていたときに、私が彼女に「自分に全くない感情を演じることができるのか」と質問したところ、彼女はこう言いました。
「できない。無からは何も生まれてこない」
たとえ自分の中にやっと見つけたほんの僅かな感情を引き出すのだとしても、「役というのはつまりデフォルメなのだから」、ということです。
これはその女優さんの話なので、だからみんながそうだとは言えないのかもしれませんが、演劇以外の芸術も、自分の世界を実生活以外の行いとして何らかの形で表現することはある意味デフォルメの世界なのかもしれないと私は思いました。
けれども、その世界を冷静に見るまた別の視点というものがなければ、全くの他人にそれを伝えるには至らないのではないか。

中川晃教さんという人は、役者さんとしてはよく「憑依型」と言われるようですし、私もそう思いますが、憑依されながら決して中川晃教さん自身を消さずにむしろ彼自身を表現し、その上でなおかつ別の「もうひとり」が冷静に検証し、歯止めをかけたり逆に煽ったりしているような…、そんな、もしかしたら、生まれながらの役者さんなのではないかと思いました。
その多重の精神構造に少なからず共感を持つ私は、この舞台をやはり観る側としてもいくつかの視点で観ることができ、多重な感想を持ち、この舞台を、そして受け取り手としてのこの自分もまた興味深く感じることができたように思います。


朗読劇「私の頭の中の消しゴム」

2010年09月12日 12時19分47秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

出演:別所哲也/紫吹淳


12月はなんと「RENТ」のあの二人、アダム・パスカル&アンソニー・ラップのライブがあるって

…なんて、話はともかくとして(笑)

「私の頭の中の消しゴム」の感想は前にしつこいほど書いたのでなるべくサラっと書こうかしらね。
それにしても、この再演は早かったですね~!
今度は銀河劇場ですが、セットや演出は基本的に同じです。
脚本は多少手直しされていたような…たぶんね。
なんたって、私の頭の中のハードがまず怪しいそしてソフトも粗悪品なんでゴシゴシ消さなくても勝手に記憶が消える…ならまだしもよ! 時どき間違えて記憶されちゃうのでどこがどうとは言えないけど、台詞が少し違っていたような…気がするんだけど、気のせいかしら??
まあ、でもそうだったとしても、話はもちろん同じです。

別所さんと紫吹さんのお二人は、予想通りな大人のカップルでした。
だから前半はさすがに前に観た若手二組のような、あの天然な若々しさや初々しさはないものの、後半…つまり薫の病気が判明したあたりからがとても感動的で、たくさん泣かしてもらいました。
やっぱりこの病気は辛いですね。もちろんどんな病気でも辛いですけど。
この病は進むほどに当人の自覚がなくなるという特殊な病気ですから、そのぶん傍にいる人のほうが辛いかもしれません。
愛する人の記憶が日増しに消えてゆく辛さに加わって、錯乱したり徘徊する病人の介護の辛さはいかばかりか…。
別所さん浩介の「……疲れた」という台詞が重かったです。
それでもやっぱり「ただそばにいてくれるだけで幸せなんだ」という浩介の愛情の深さ…。

けれども、これを観ていると「私が私であることはどういうことなんだろう?」と考えずにはいられません。
私が私であること……それを表すものは、もともと遺伝的に持って生まれた資質に加えて、でもやはり何といっても記憶と経験の積み重ねから生み出されたもの……それは能力や考え方もそうかもしれないけれど……とどのつまりは生まれてこの方、ずっと培われ続けて養ってきた「感性」かもしれないなぁ…。
とか思いますけど、その感性というのもやっぱり記憶されたものだから、記憶がすっかり消えてしまうのなら、薫が言ったように「私が私でなくなってしまう」わけでしょ?

では、浩介は薫の何を愛し続けるのだろう。
この愛が「永遠の愛」というのならば、愛し続けるためには必ずしも「実体」というものは必要ではないのかもしれないわね。
「僕の知っている」薫ではなくなってしまった薫は愛の象徴的存在となり大切には違いないけれど、本当に浩介が愛し続けるのは「僕の記憶の中で生き続ける」薫で、だからこそ「永遠」なんじゃないかな。

すると「そばにいること」の意味合いも変化していくわけで……
愛し合う二人が一緒に同時に亡くなることは珍しく、大概はどちらかが遺されるものだし……死に別れるにしても、生き別れにしても、その「実体はどうであれ心はいつもにそばにある」という、ある種の悟りの境地に辿り着いた人のみが「永遠の愛」にひたれるのかも……。
追憶の中で生き続ける妄想の愛、というか。
ああ、だからエレンディラ…ね。

なんて、ぐるぐるしてますけど(笑)
実はこの手の話を聞くと、私は必ず自分の親戚の叔父を思い出します。
叔父は若くして妻を病気で亡くし、その後何十年も後妻をもらわず、二人の息子を独立させた後はずっと一人暮らしをしていました。
そして、自分がもうすっかりお爺さんになった頃大病をし、死期を悟ると仕立ての良いスーツを一着、そして靴と帽子まで新調し、周囲の者へ「自分が死んだらこれを着せてお棺に入れてくれ」と頼んだんです。
若い頃はなかなかのハンサムでダンディーだった叔父ですが、歳をとってもオシャレをすれば素敵な人でした。

果たして叔父が亡くなったとき、叔父は望みどおりにその用意したスーツを纏い、右手には新しい帽子を、左の胸には若くて美しい妻(叔母)の写真を持って棺に横たわりました。
叔母に会いに行ったんですね。
私はこの時、生まれて初めて本当の「永遠の愛」を見せてもらったような気がしました。
叔父はすっかり老人になってしまいましたが相変わらずダンディーでしたから、あの世で叔母は間違いなく叔父を見つけたでしょうし、きっと惚れ直したことでしょうね。

叔父の人生の半分ほどは一人ぼっちで淋しいものだったのかもしれませんが、決して愛には貧しくなく、かえって豊かだったのかもしれません。

今日この舞台を観てふと、別所さんの演じた浩介のその後の人生とは、もしかして私の叔父のようであるのだろうなぁ、と思いました。

話が脱線しまくり(笑)


朗読劇「私の頭の中の消しゴム」感想その四

2010年06月05日 18時45分05秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

「私の頭の中の消しゴム」中川・内山ペア
感想その三の続きです。


このペアは内山理名さんがお姉さんっぽい感じがして、殊に恋愛に関しては女性のほうがリードしているような、そんな恋だったような気がします。
あっきーは、その私生活においての恋愛事情は私らファンが知る由もないので(笑)彼自身はともかくとして、あの彼が作り上げた浩介のキャラというのは、崎本さんが演じた以上に、いかにも恋愛には初心者で不器用な様子で「可愛い男」という感じです。
「本人は大真面目だけど女の子の扱い方がわからずに墓穴を掘ってしまい、だけどそこが女性にとっては愛おしい」という、非常にお得な愛すべき青年でありました(笑)
なので、前半に「クスッ!」と笑える箇所がいくつかあるんですけど、これは、あっきーの浩介のときのほうが笑いが多く、その観客の笑いの中に暖かさが混じります。
それはまあ、あっきーのファンがたくさん観に来ていたからというのもあるんでしょけどね、もしかしたら内山理名さんがわりと落ち着いている感じで、受け止めるタイプの女性だったので、あっきーが演じた「恋愛に慣れていない男、感情を上手く出すことが出来ない人」の役が余計に際立ったのかもしれません。

そして、時に可愛く時には激しい、いささか幼いところもある直情型とも見える中川・浩介は、彼が幼い頃に母親から捨てられたことについて、いかに深くトラウマがあり傷ついているのかということが痛いほどに伝わり、その痛さに私は泣いている場合じゃなくなってしまいます。

前に「中川晃教さんは熱く、崎本大海さんは深かった」と書きましたが、あっきーの浩介は、「愛する人に捨てられること、去っていかれること」に対してとても強い拒否反応を示し、その感情の発露は恋人の薫に対して、時にとても強い激情となって向けられます。
薫が倒れた姿を見て、その体を抱いて大声で叫んだ場面もそうでしたが、私が特にそれを感じたのは、最期のほうで薫がとうとう行方を隠して施設に入ってしまったその時です。
浩介は「なぜ俺を捨てていったんだ!」と叫びます。
もちろん、薫は浩介を捨てたわけじゃない。たぶんそれは薫の両親が二人のためにそうして娘を連れていったのだろうし、薫自身も愛する人のために身を引いたのだろうということは、たぶん浩介だってわかっているはずなんです。
それでもなお、あのように大きな声で怒りに叫ばずにはいられない、その強い悲しみと痛み。
たとえ薫がどのようであれ、たとえ記憶が無くなって数々の失敗を繰り返し、手がかかったとしても、自分を忘れてしまっても、「ただそばにいて欲しかったのに」という想い。
…そうして「愛した人は誰も彼もが自分を捨てて置いて行ってしまう」と云わんばかりの叫びに私は泣いてるどころではなく、この人に「何とかそうでないことを教えてあげたい」とか思ってしまうのです。

だからこそ。
この二人の舞台のラストは、感動というよりは私にとってはとても感慨深く、涙がじわりと滲みました。
浩介の顔もわからず何もかも記憶を失った薫は、でも初めて出会った頃の浩介の姿を毎日絵描き続けていました。
彼女の心の中では浩介はまるで彼女の「愛の象徴」のように、いつも寄り添っているのです。
彼女はその心において、もう浩介から決して離れず、浩介は彼女の心から置き去りにされることはありません。
そしてまた浩介も、たとえ彼女がこの世を去ったとしても、いつまでも彼の心の中には彼女の姿と愛は消えず、いつでもどんな時でもずっと二人は寄り添いながら生きていくに違いありません。

それ故に、
私はこの悲しい物語を、それでもなお、一人の男が永遠の愛を手に入れた「幸せの物語」と思うのです。


長い観劇記にお付き合いいただいて、どうもありがとうございました。


朗読劇「私の頭の中の消しゴム」感想その三

2010年06月05日 10時35分34秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

「私の頭の中の消しゴム」感想の続きのそのまた続きです。

この朗読劇は日替わりで出演者が変わり、全八組の役者さん達が演じています。
私が「中川晃教/内山理名」ペアの舞台を二回観たのは予定通り。
「崎本大海/鈴木亜美」ペアは予定外で、急遽に当日券を買っての観劇でしたが、
同じ演目で二組のお芝居が観られたのはとっても良かったです!

どっちが良いとか上手いとか、そういう見比べ方ではなくて、役者さんが違うとたとえ演出が同じでもそれぞれに趣も違ってくるので、受け取る側としても心の動きが微妙に変わります。
それは、役者さんの実力や解釈の違いでもあるんでしょうけれど……なんていうかね…「人」が出るんですよ、それぞれの役者さんの、その人本来の人柄みたいなものがその解釈や感情の露出に表れているような気がします。
この世に同じ人がひとりもいないように、もし誰かが誰かと同じような運命を辿り、同じような人生を送ったとしても、人の心の中は決して誰ともピタリと同じになることなどは有り得ないのだということがよくわかります。
もし私がもっとお金持ちだったら、ぜひとも他のペアの舞台も観てみたかったです!

というわけで、前回の「感想その二」で、崎本さんと亜美ちゃんで泣かせてもらった感動の場面について書きましたけど、その「おいで」の場面は中川ペアでは泣きませんでした。
それを言えば、私はあっきーこと中川晃教さんは特別に好きでずっと見続けていますが、今回の舞台に限らず、今までに彼の演技を「泣きながら観た」ということは、ほとんどないような気がします。
「泣かせてなんぼ」のような今回の劇で、それはどうよ? と思うかもしれませんが、劇場内の他のお客さんたちは皆さん泣いていましたし、終演後も涙が止まらずに席を立てない人まで何人もいたくらいですから、べつにあっきー達の回が良くなかったわけではありません。
ただ、「感動」=「泣く」という図式が、私はあっきーの時には自分の中で成り立たないのだろうという気がします。
泣かなかったけれど、だからと言って感動してないわけではなく、むしろ余計に多くのものを感じ取るので、それだけに想うことや心を重ねることが多く、ただ「悲しい」とか「可愛そう」に終始することができないのかもしれません。

そんなわけで、
「ええ~~っっ! まだ続くのか?!」って我ながら思うけど、これからがやっと「中川・内山」ペアへの感想です。

…って、ごめんなさい!
この続きを書いたのですが、文字数が多すぎたせいか最後までアップされませんでした。
なので、さらにさらに「感想その四」に続きます。


朗読劇「私の頭の中の消しゴム」感想その二

2010年06月05日 00時14分47秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

ということで、前回の「私の頭の中の消しゴム」感想の続きです。
今から何も考えずに書きますが、たぶん話は長いですよ~(笑)

私は子供の頃はあまり泣かないほうだったと思うんですが、今になって、特にここ二、三年くらいはかなり涙腺がゆるくなったような気がします。
でも、その泣きのツボっていうのがどうも周囲とズレているんですよねぇ(笑)
映画館や劇場では、周りが泣いてない場面でダダ泣きしていたり。
かと思うと、みんなが泣いているところで、わりとシレっとしていたりしてね。

それでちょっと思い出したんですが、この朗読劇の映画版を観た時に、私が特に印象深く、たぶん一番泣いた場面って、この舞台では登場しなかった場面なんです。
ヒロインの薫がすっかり記憶を失ったある日、彼女は街のコンビニに連れて行かれます。
そのコンビニは実は貸切状態になっていて、店内には彼女がかつて大切に想っていた人々…両親などの家族や友達が店内にいて、コンビニのお客さんを装って普通に買い物をしていたりします。
薫はその店内にいる人達の顔も名前もすっかり忘れているわけですが、「なんだかここは暖かくて気持ちが良い場所だ、まるで天国にいるみたいだ」と思うわけです。

記憶は亡くしても、目に見えない愛に包まれ、満ち足りたその表情、そして彼女を愛する人たちの暖かい顔を見ていると、私はたまらなく涙があふれてどうしようもない。
そして、ひとたび涙腺が緩んでしまうと心がとても敏感になって、その後は何度も涙か出てしまいます。
たしか、浩介が施設に入院している薫に会いに行くところで、ひとりで車を運転している、その何でもないような道すがらの場面も、それが泣かさせるような場面ではなかったのに泣きながら見ていたように記憶しています。

で、その私の最大の「泣きのツボ」だった場面がなかったこの朗読劇で、今回私が堰を切ったように涙があふれたのは、崎本大海さんが薫に声をかける台詞で「おいで」と言った場面です。

これは朗読劇なので、基本的に台詞は本を読んで進みます。けれども一箇所、二人が本を置いて立ち、普通に台詞を言って芝居をする場面がありました。
記憶が薄れゆく薫に、浩介が壁に貼り付けたメモを見せながら、二人でそのメモをひとつひとつ読んでいくところです。
「困ったときは浩介に連絡する」とか、「浩介はこの(写真)の人」とか…。

その場面に入る前に、浩介が日記を閉じて薫に向かって「おいで」と促すんですよね。
その時の崎本さんは、静かに日記を閉じて立ち上がり、数歩を歩きながら、とてもやさしく「おいで」と声をかけるんです。
日記を書いて(読んで)いる時の「想い」から、リアルなその場面の「気持ち」にシフトした瞬間のようにも見えました。

その声はまるで、小さな女の子に言うように、とても慈愛に満ちていて、彼女をどんなにか大切で愛おしく可愛く想っているかが、そのたった一言でわかる響きでした。
ただいてくれるだけでいいんです。彼女がいるだけでただ幸せなのだということが伝わり、ほんとうに胸が熱く、切なくなりました。
それで、鈴木亜美さんが演じたの薫もこのときにはもう、あどけないほどにとても可愛くて、素直で、彼を無条件に信じきって頼っているのがよくわかります。
けれども、この幸せな二人の時間はもうあと僅かで、いずれ思い出となる時間。
いつでも幸福は、そして愛も悲しみも、その思い出に止まりながら、けれどもさらさらと時は流れていきます。
一瞬、一瞬は惜別の繰り返しで、その流れる時の愛おしさに私は泣けてしまいます。
わりと明るい場面だったかもしれませんが、涙があふれてどうしようもありませんでした。

この崎本・鈴木ペアの終演後、会場内全体がスタオベしたのには納得です。
私ももちろん、すぐに立ち上がって拍手させてもらいました。

あ~、やっぱり話が長くなりましたね(笑)
でも、まだ続きがあるんです。
だって、中川・内山ペアを見て思ったことが書けてないし。

なので、またしても次回に続きます。


朗読劇「私の頭の中の消しゴム」

2010年06月03日 23時51分24秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

※私に常識的な観劇記を期待しないでください(笑)

朗読劇「私の頭の中の消しゴム」三舞台連続!

5/30マチネ 中川晃教/内山理名
5/30ソワレ 崎本大海/鈴木亜美
5/31ソワレ 中川晃教/内山理名

…と、なんとまあ、連続して3回も見てしまいました。
で、1回目を見終わる頃、ふと思い出した言葉がありました。
「蜘蛛女のキス」の冒頭で見たものです。

「違うわ、ヴァレンティン。心配しないで。
この夢は短いけれど、幸せの物語なのだから」

だから、この物語はある側面から見ると、私は「これは随分と幸せな状態だなぁ」と思わずにいられません。
あ、だけどそう言ったからといって、私はもちろん「この状況」の話をしているのではないので、
「おまえはこの病気の苦しさや悲しさも想像できずに病気に憧れているのか!」とか「命を軽く見ているのか?」とか、そういう突っ込みはやめてくださいね。
それじゃあお互いにバカな人みたいですものね。
そういう次元の話なら、私はかつて末期癌を予告されたりしたので、死と直面することがどういうことかを多少はわかると思うんですよ。
「…どういうこと……?」「……なんで?…?」という、あの呆然とした思い。
癌も「かなり進行しているだろう」という末期ならば、カウントダウンは下手したら月単位なもので。
街なかを歩きながら、なんだか体が妙にふわふわして、それでツーっと涙がこぼれたりして…。

とかね。でも今はそんな話をしたいんじゃないので、それ以上は詳しく話しませんけど、私の場合は、最初の検査自体は間違いじゃなかったけれど、何日もかけて体中を検査しているうちに何時の間にやら「何処にもなかったことに」なって、「これが何かの間違いだったら良かったのに」と望んでいたらそうなった、という嘘みたいな本当の話なんですけど、結局最後にお医者様から「白に近いグレー」と言われ、もう十二年も経ちました。
今は概ね健康みたいです。
そんな「ありそうでなさそうなこと」って時々ほんとうにあるんですよね、人生って。

それでやっと話は元に戻りますが(笑)
これは出演者がたった二人の、濃密な恋愛の物語です。
朗読劇だから二人とも台本を見ていますが、心は互いを見詰め合っています。
二人なんですよ、ほんとうに。
そのひたすらな見詰め合い方は、一昨年前に観た深津絵里さんの「春琴」の舞台にも匹敵するかと思ったくらいです。
これがもし、その二人の結婚生活に子供でも出来ていたら、話はかなり広がり変化していただろうと思います。
だけど、ほんとうに二人きりに終始するので、愛であり、ずっと恋なんですよね。

若年性アルツハイマーに侵され、次第に記憶が無くなるヒロインのカオルは、終いには愛しい人の名前も顔も忘れてしまいますが、その愛の「核」のようなものは彼女の心の中で生き続け、だから純粋な愛の結晶のような存在のように私には見えました。
「むしろ前より綺麗になった」というその神々しい美しさは、汚れのない純化された愛の美しさかもしれません。
そして、彼女から生まれて初めて「愛すること」と「愛されること」、そして「愛し合うこと」を教わった浩介は、たぶん、稀に見る「永遠の愛」を手に入れたのだろうと思います。
それは、今年の二月に中川晃教さんがライブで歌ってくれた、あの「タイタニック」のテーマ曲、「My heart will go on」のような愛なのでしょうね、きっと。
だから、私には「この夢は短いけれど」実は永遠の「幸せの物語なのだ」であり、悲しいけれど、決して不幸ではないと思うのです。

ところで、せっかく二つのペアを観たのだから、どこが同じでどう違ったのか?というと…
演出はたぶんほとんど同じだったと思います。
私は実は「怒鳴る男」というのが苦手で(笑)、物語に全く関係なく、ほぼ反射的に「あっきーが怒鳴るのってヤだ~!」とか思っちゃったんですけど(笑)
でも、崎本さんも同じところで怒鳴ってましたから、あれってやっぱり演出だったんでしょうね。
自分の感情を上手に出すことができない不器用なガテン系の、でも繊細で、しかも「やるときゃやる」、やったら出来る、君のためになら…みたいな男よね。
あっきーはなんだか去年の「死神の精度」の阿久津くんが更正して、社会復帰してそこそこ真面目にガテンしてたら生まれてはじめて恋をして、そんで「やってみたら勉強だって出来るじゃん!俺!」ってな感じ(笑)

崎本さんの浩介は、「本当は賢い少年なのだけれど、母親に捨てられ貧しくて進学もできず勉強する機会を逃していた。希望もなく肉体労働していたけど、なんか世の中って不条理~!」 みたいな、心の奥に怒りと孤独を抱く、影のある青年のイメージでした。

どっちの浩介も良かったけれど、中川晃教さんは熱く、崎本大海さんは深かった。
なんとなく、あっきーは日記の場面のその時の浩介の気持ちで演じ、崎本さんは日記を書いている時の浩介の想いを表していたような感じがしました。


ああ、なんか長くなりましたね。
まだ続きはあるんですけど、今日は遅いから続きは書けたらまた次回ね。