「ギリシャ悲劇 王女メディアの物語」 2016/01/17 @新国立劇場小ホール
【原作】エウリピデス
【脚本・演出・美術・人形操演】 たいらじょう
今年一番最初に観た舞台がこの物語。
人形劇俳優たいらじょうさんの舞台は今までにいくつか観ていますが、この物語は今までで最も余韻ある舞台だったと思います。
「はなれ瞽女おりん」や「オペラ座の怪人」のように涙しながら観ていたわけでもないのに、観終わったあとの心には、何時までも染み渡るような悲しみが消えません。
「いったいこの悲しみは何だろう?」と、しばらくは自分でも理解できなくて、数日経ってからようやく「ああ、そうか」と、この物語が自分なりに理解できたような気がしました。
そんなわけで、今になってやっと感想が書けるようになりましたが、例によって物語の解釈や感想は私独自のものであることと、ネタバレが満載であることを先におことわりしておきます。
メディアの話は、今から2500年も前に書かれた戯曲で、ギリシャ悲劇だそうです。
「だそうです」と言うからには、私はこの物語を知りませんでした。
なので、事前にさらっと調べたところ、メディアという女性は、「夫イアソンの不貞に復讐するために、浮気相手とその父親を殺し、果ては自分の二人の息子までも殺してしまう」という、気性激しい女性の、狂気に至る嫉妬の話かと思ったんですよね。
で、今さらご説明するまでもありませんが、たいらじょうさんは人形劇俳優なので、物語のたくさんの登場人物はお人形であったり、またたいらさん自身も演じたりと、たいらさん一人でお話が進められていきます。
物語の前半・・・王子イアソンが自分の国を出て船旅に出るいきさつ、その旅の中で他国の王女メディアと出会い駆け落ちをし、自国に戻るあたりまで・・・は、ストールを被ったたいらさんが王女メディアを育てた乳母に扮し、段ポールクラフトの花を操って「過去を振り返る説明」で語られます。
この段ボールクラフトのセットや小物、人形達は、すごく味があって良かったんですよね~! 色がなくても表情が豊かで、「この花をイアソンといたしましょう」と言われた瞬間から花がちゃんとイアソンの顔に見えます。段ボールでできた花が人の顔や姿に見え、表情までも見えると思うのは、たいらさんの表現力の豊かさと技術があってこそですが、その豊かな表現力によって自然とそれを観る私達(観客)の持つ想像力が引き出されます。この相互から作り出される「目に見えないけれど、鮮やかに見える世界」が観客の数ほどあり、それぞれであることが、たいらさんの舞台の魅力なんだと思います。
二人の出会いから話が進み、船で駆け落ちをする時に、メディアは追っ手から逃れるために、連れてきた弟の王子を殺しバラバラにして海に投げ捨てます。
それだけでなく、イアソンの国に帰ってからも、メディアはイアソンの叔父を人知れず殺してしまいます。
そのあたりまでが一幕。
休憩時間には、「メディアって、(夫に浮気される前から)もともと悪い女だったのね~」と思った私です。
イアソンと結婚するために弟の命までも捨てるなんて、「さすがギリシャ神話」と言いたくなるような展開で、この「目的のためには手段を選ばない女」メディアには、この後ダンナ様に浮気されようがどうしようが同情できそうにありません。
などと思いつつ、二幕では、二人はイアソンの国を出でコリントスまで逃れます。
コリントスの場面からは、メディア達の姿がもう花ではなくて、それぞれの人形になり、話はいよいよ復讐の物語へなだれ込むわけです。
イアソンはコリントスの王クレオンの娘に浮気(というか、本気の心変わり)をし、邪魔になったメディアと幼い二人の息子達はコリントスから追放されそうになります。
その酷い仕打ちと嫉妬に狂ったメディアが、浮気相手の姫とその父親を殺害するのはわかります。古今東西、この手の話はいくらでもあります。
愛した人から裏切られて、その人を殺すか、または浮気相手を殺すか、それとも自分が死んでしまうのか・・・どちらに走るかの違いはあれど、何百年、何千年と、このような男女の愛憎の場面がどれほど繰り返されてきたことか・・・。
でも、でも!! なぜにメディアは愛する息子達をも殺してしまったのか。
このメディアの二人の幼い息子達は、無邪気でいたいけで、とても可愛らしいです。たいらさん出す声や、お人形の動きのあどけなさは本当に愛らしかったです。
メディアはその息子達を道具にして、恋敵の姫を殺してしまいます。
そう書くと、まるでメディアが息子達を大切に思っていなかったようですが、これがまるで違うんですよね。メディアは子供をとても愛していました。なのに、果ては自分の身を切るように二人の息子を切り殺してしまいます。
なぜ、なぜ?!
「なぜ、こんなことをしたんだ?!」というイアソンに、メディアは言うんですよね。「あなたの苦しむ姿が見たかった」と。
でも私には、イアソンよりもなお、メディアのほうがずっと深く苦しそうに悲しそうに見えました。
メディアの深い苦しみと悲しみを目にすると、「これは復讐なのか?これが復讐といえるのか?」と疑問に思えてしまいます。
浮気した夫を苦しめるためだけなら、嫉妬のあまりの復讐といえるでしょう。でも、これはそれだけじゃない。
フライヤーには「我が子を殺してまでも振り向かせたい夫がいる。」とありますが、振り向かせるだけではまだ足りない。
もしかして、メディアは、この深い苦しみ憎しみと悲しみこそを、イアソンと共有したかったのではないか?
かつて互いに同じ愛情で結ばれた男と、その愛が消え去る今となっては、同じ憎しみと苦しみで結ばれたかったのではないか?
劇が全て終わったあとの悲しみの余韻の中で、しばらくして、鈍い私はようやく気が付きました。
親を捨て弟を捨て祖国を捨てたメディアは、本当に「手段を選ばない女」で、最後には愛する子供まで殺してしまいました。
その全てが恋した男のため。彼女はイアソンただ一人のために何もかも失い、ひたすらイアソン一直線に生きた女性だったと言えるでしょう。
人生で「本当に欲しいもの」があったとして、それを得て独り占めするために、その他の何もかも失うのだとしたら、果たして私にそれができるのか?
ただ一人への愛のために、他の者への愛を犠牲にできるのだろうか・・・? その愛が憎しみに変わるとしてもなお、最後までブレずに、ただ一人を求めていられるだろうか?
それは、私にはできません。
以前私は宮本亜門さんの「サロメ」を観た後に、「人が一番欲しいと思う、その最たるものとは、決して手に入らないものなのかも・・・」という感想を書いたことがありますが、そのように思いあきらめてしまうのが、私自身の悲しみなのかもしれません。
私は、メディアのようにも、サロメのようにも、ただひとつの愛に向かい一直線に手を伸ばし、果ては狂気に至ってしまうことなどとてもできない。
できないほうが幸せだ・・・と思いつつも、私の内に潜むどこか激しい一面が、その自分の穏やかさや平凡さを悲しむような気がします。
自分と真逆のような女達の物語に惹かれる理由が、これにあるのかもしれません。
一途といえば一途すぎた王女メディアは、ラストに息子の亡骸を抱え、龍の背に乗り何処かの世界へと旅立って終わりました。
愛の果ての憎しみと苦しみ、深い悲しみを伴って。
さて、話は長くなりましたが、この人形劇のカーテンコールは、悲劇の後とは思えないほどにほのぼのとして温かいものでした。
お人形さん一人ひとりが再登場し、観客達の拍手で迎えられて並びます。
メディアに殺されてしまった若くて美しい姫や、愛らしい息子達、脇役の侍女や爺やなどのお人形さん達、たいらさん自身が演じた乳母やイアソン・など・・全部がたいらじょうさんですがそれぞれの熱演に拍手です。そして、黒子のスタッフの方々へも。
最後に堂々と登場してきた王女メディアには、大女優の姿を見るようでした。
大役を演じ終わり、満足そうに微笑むメディアのお顔がこれ↓
この日の舞台は全国ツアーの初日だったそうなので、これから「王女メディアの物語」を観るチャンスはあると思います。
まだ観てない方は、ぜひ!