今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「春琴」

2009年03月14日 23時08分18秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
谷崎潤一郎の世界といえば…エロでマゾで足フェチで有名。
要するにヘンタイなわけ

「え?うっそ~!」とか思う人は、「痴人の愛」を読んでみましょう。
登場人物と、その作品を描く作者本人の精神世界をですね、どっぷりと味わってみればわかるわよ。
私はその「痴人の愛」と「春琴抄」、あと「卍」は途中までだっけかな?…は高校生の時に読みましたけど、あのマゾっ気たっぷりな異常な愛を、よくもまああれほどに耽美な究極の愛にまで高めちゃったもんだと仰け反ったもんです。
んで、お腹いっぱいになっちゃって「細雪」とか他の作品は読んでませんから、べつに谷崎作品に詳しいってわけでもないですけどね。

でも、だいたいさ~、あの時代のインテリ小説家の皆さんって、ほ~んとおビョーキの人が多いよね~?
芥川にしろ、太宰にしろ、谷崎にしろ、「人間やめますか?小説書きますか?」ってなくらいに生きるのに苦しんで、自殺や心中繰り返して、自分の精神世界に耽溺するから男女関係もめちゃくちゃで破滅的だし…。

え?だからこれ、私が彼らの悪口を言ってるんじゃないってことは、
親愛なる我が友たちならわかるわよね?(笑)
好きよ、こういったむちゃくちゃ不健康でド変態な芸術の世界って(笑)

でもまあ、暖かい普通の幸せを夢見るならば、こういうイっちゃってる愛に出会いたいなんて思っちゃいけません

で、谷崎文学はともかくとして、舞台のほうの「春琴」ですけど。
世田谷パブリックシアターは立ち見客までいっぱいでした。
これは立ち見で観る価値があると思いましたよ! 
私は座りたいですけど(笑)
あのエロでマゾな谷崎の真髄を、どんなふうにうまくベールに隠して美しく描くのかと興味がありましたが、まあ上手かったですね~!
谷崎の異常性をベールに隠すことなく、ストイックさとエロスが同居している。
それは古きよき日本的文化の美の世界とも思えます。

この舞台のその世界は、外側から現代の脚本家、それも中年女性の脚本家が描いたものが演じられている世界、という二重構造の展開です。
ここで、客席で観る者としては、二つの世界を行き来することになるのですが、そのことによって、この物語の閉塞感をフッと抜いてくれるような気がして、私は良かったと思いました。

深津絵里さん演じる盲目の娘、春琴は、その少女と娘時代、つまり舞台の大半は人形、または人形の姿をした別の娘によって演じられます。
深津さんは黒いスーツ姿で、その人形を黒子のように動かしてセリフを言います。高慢な少女の声がぴったりとハマっていて、まるで人形そのものの口から出た声に聞こえました。
人形は春琴だけですが、人形だから、生の男の役者さんを相手にしていても、生々しい性のシーン(例の足フェチも含めて)や嗜虐の有り様までが、まるで文楽を見ているように妖しく美しいと感じました。

ところでね~、
谷崎の「春琴抄」を読んだのは高校生の時だって言いましたけど、まだその頃の私って、今よりももっと浅かったのよね~。
あの時は「なんてマゾ男なんだい!」と思ったものだけど、この舞台を観てみると、谷崎って、その精神世界にはSとMの両面ともあったのよね、きっと。
そうじゃなかったら、春琴側の心が描けないものね。
だけど、たぶん男女関係のお好みとか彼の性的趣味がMだったんでしょうね。
人形役の女性が黒子の深津さんと突然入れ替わり、深津さんその人が春琴となって男を蹴り倒して殴る嗜虐シーンには、私は心痛くて思わず涙が出ました。
「私だけを、私ひとりだけを見てくれなきゃいやだ! 他の人なんかこの世界に誰も入れてはならない!」と叫んでいるような、悲鳴のような怒りが暴力となってしまう。
だから受けるほうは、痛みすらも、それほどまでに強く望まれたという快感になる…ということなんでしょうけど……うぅ~っ
やっぱ、不健康極まりないわ 
本人たちが幸せならそれでいいけど。

でも、たぶん私にも…というか、人にはそういうSだとかMだとかの要素がいくばくかあるんでしょうね、内面の奥深くには。
だから、本来そういう世界とは無縁であっても、こういう作品に心動かされるのかと思うわ。

それで、この二人の主従と下僕の異常な愛の世界は、どこまでも二人だけなの。
子供が出来てもまるっきり無関心。
それは、互いに相手しか見てない、見たくないからなのよね。
まさに盲目的。
終盤になり、男も目が見えなくなってからには、ますます二人だけの世界に耽溺しているから、至福といえば至福。
極めて利己的で濃厚なその愛の世界が、なんと春琴が58歳で亡くなるまでの五十年近くも続いたのだそうな…。
そして、彼女が亡くなってからも。

愛って、ほんとに人それぞれ。

とにかく、とても上質な舞台だったと思いました。
しかし、これがホワイトデーに一人で観るにふさわしかったかどうかは謎だわ(笑)
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「ストーン夫人のローマの春」

2009年03月11日 23時06分40秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)
昨日観た「春琴」に前後するけど、11日に観た舞台。
前日に突然お誘いを受けて、パルコ劇場へ「ストーン夫人のローマの春」を観てきました。

なわけで、何も予備知識がない私。
これってどんな話? と、誘ってくれたマイミクさんに聞いたところ…
「いい歳した女が、若い男に入れ込む話だよ」
だって!
きゃはははっ、ちょーウケるぅ~~
いや、ウケなぁ~~い! むしろ、チクっとした痛みが(笑)(笑)
でもって、劇中のセリフでは、
「もともとファンなんて、名もなき人々じゃないか」って…
ここでも、チクリとまた(笑)

でもねぇ、私の周りってそんな人だらけよ
若い男に入れ込む(?)名もなき、そして愛しきファン仲間たち。
幻を愛する幻の集団。だからその愛は幻なのかもしれないけれど、
だったら、幻でない愛ってどんなの?
誰か、愛を具現化して私に見せてよ!! 
「愛してる~!」というファンの想いが幻なら、「みんな愛してるよ~!」っていうスターさんの想いもみな幻よね。
人の心にある目に見えないもの。幻の愛と本当の愛が違うとして、その領域が違うところにあるというのなら、では、本当の愛、偽りの愛をどうやって見分けるわけ?

あ、話がなんかへんな方向に行っちゃった(笑)
もとい、「ストーン夫人のローマの春」ね。

ストーン夫人(麻実れい)は、元はアメリカの女優さん。
その夫は彼女の崇拝者でもあるので、裕福だからお金にまかせて自分の見たい役を彼女に演じさせたりする男だけど、愛情は深くても性的には不能者だったのね。
「いいのよ、大丈夫よ。あなたを愛している」嘆く夫を抱きしめるストーン夫人は、なんだかお母さんみたい。
彼女は50歳になり引退して夫と共にローマに渡り、病気の夫が亡くなった後は孤独な一人暮らしを始め、アメリカには戻りません。
そして、若く美しい男娼を斡旋している堕落した元伯爵夫人・コンテッサ(江波杏子)にパオロという名のジゴロを紹介されるんだけど…。
その時のコンテッサがね、
「私あたり(の歳)になったら、まず肉欲よ。あなたは?」とストーン夫人に聞くわけ。

するとストーン夫人は言うの。
「私は…私は……漂う……。漂う…」

この「漂う」という言葉は劇の終盤でも使われます。
何をどう漂うかは、たぶん彼女の「魂」でしょうね。
たぶん、ストーン夫人は疲れちゃったの、演じることに。
女優としても、多くの名もなきファンに応えることも、妻としても…。

お金目当てのパオロは当てが外れて、ストーン夫人からお金の無心を拒まれた夜、彼女の「ありのままの私がいらないなら、私は誰もいらない」という、つぶやきのような言葉を聞き、それで彼女と寝ます。
その時、確かに、少なくともその時だけは、パオロはストーン夫人を愛したのじゃないかと私は思いました。
漂う魂をこの手に掴んで抱きしめたい、ありのままの彼女を抱きしめたかったのではないか、と。

ところでね、この男娼っていう存在は、その性質が娼婦と違うのね。
だって、身体とその生理が違うもの。
人としてのプライドが捨てきれないのはともかくとして、男のプライドがひねくれて纏いつくからややこしいの。
だから、刹那の愛はやっぱり一瞬の幻で、パオロとストーン夫人は、若く美しい男と、グロテスクに若作りをし始めた金持ちの老婦人との醜悪なカップルとなり、人々の嘲笑を受けてしまい、それがまた二人を傷つけるのよね。

ラストでは、パウロから「50歳の女性と自分のつきあったのは、金のためだけだ」といわれ、ストーン夫人は朦朧としながら言うのです。
漂う……漂う…。
そして、彼女はパウロと別れ、パウロとの一部始終を見詰めてきたストーカーのような、まるで知恵遅れのような乞食同然の若い男に向かい、バルコニーから自分の部屋の鍵を投げ与えます。
そこで終わり。
なんとも余韻のあるラストでした。

で、このラストの先を想像すると……
や~っぱ、「真っ先に、あの若い男をお風呂に入れるよね~!」
「だよね~! 絶対にあれは臭いよね~!」
と言い合った私達(笑)
私達ってほんと現実的ね!
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「禅 ZEN」~春は花 2009/03/07

2009年03月07日 23時10分02秒 | 映画

高橋伴明監督、大谷哲夫原作、中村勘太郎、内田有紀、藤原竜也、村上淳

映画「禅 ZEN」」

  

無我であること。
あるがままであること。
ひたすら座り続けること。

これほど私にとって難しいものはない! 無理! 絶対に無理!
第一まずジッと座っているのって本当に苦手。
特に狭いところでじっと座っていたりすると、足がね、エコノミー症候群みたいに辛くなって、ついモゾモゾしちゃう。
およそ堪え性のない奴です。

そして私は、無我どころか「多我」な人だし、「あるがままでないこと」がそもそも自分の本質であり、それを受け入れてみたら、かえって色々と悟るものがあって楽しいので(笑)
頭の中でごちゃごちゃ何か意見を言う「もう一人の自分」だとか、視点を次々と変えてチャチャを入れたり、主題を離れて勝手に別のことを考え始めたり、泣き出したり笑ったりする自分を、これからもう私は煩く思ったりするのはやめようと思う。
無我になんかなれない。たくさん想い、たくさん感じる自分であっていい。
そのうえで「無我」とは何かと問う。

「私」を消して、世界を感じること…なのかな。
全てと混じること…? 全てを感じること…?
それとも、何も想わず感じないこと…? 

まあちょっと、この映画観ただけで、そんな禅の境地を簡単に教えてもらおうっていうのは、図々しいか(笑)

この物語は、中村勘太郎さん演じる道元が、中国へ渡り禅の悟りを開き、その後日本に帰り教えをひろめ、その生涯を閉じるまでのお話です。
勘太郎くんは清浄な空気を纏い、ストイックな感じが自然体で表現できる人だと思いました。
この中で重要な役割を持つのは内田有紀さんですが、彼女のくだりはどこも涙が止まりませんでした。

足が悪いのを理由に働かないろくでなしの夫のせいで、赤ん坊を育てるために、家族のために身を売る女。名は、おりん。
このね~、遊女とか娼婦とか、売女(ばいた)のネタって、ものすごく私のツボなのよね~!
しかも、こういう物語に登場する女達というのは、たいてい体と心が剥離している。
穢れた身体の中に、聖女の心を持つ哀しい女。
男を憎みながら、女を忌み、何かに赦しを請い、誰かに救いを求め、人を乞いうる。

おりんが身体を売って得たお金を道元に差し出した時。
その挑むような姿には、彼女の心が痛いほどに胸にせまって涙が止まりませんでした。
そのお金を受け取る時の道元は、静かに頭を下げてこう言うのです。
「命の次に大切なお金を、ありがとうございます」
もう泣ける、泣ける(笑) 今思い出しても泣けます。
彼女にとっての、お金とはどんなものか。それを得るためにどれだけのものを削るのか。
おりんの生活を具体的に想像はできないであろうけど、それでも道元にはわかるんですね。
人を、万物を慈しむ気持ち、人と万物と共に生きること。
それが「悟る」ということなのかな……。
「あなたは穢れてなどいない。清らかな人です」と道元に言われて、どれだけ彼女が救われたことか…。

人は誰でも内面に仏・菩薩を持ち、それは神と言い換えてもいいけど、
その姿を見出し、向き合えたとき、この世で自分がどう在るべきかを悟るのかもしれない。
そんなふうに思ったりもします。
とにかく、おりんさんの場面は最後のシーンまで、どこもいろいろと思うところが満載で感動しました。

ところで、藤原竜也さんが登場する鎌倉のくだりは、ちょっと映画の雰囲気が変わります。
この役者さんって、ほんとうに狂気を演じるのが上手よね~!
だけど、そのあたりは藤原くんが持っていってしまうから、空気が違ってしまうのよ。
それに、藤原くん演じる北条時頼が道元によって、また禅によってどのように救われたかというのが今ひとつ深く感じられなくて、そこはちょっと物足りなかったです。

もうひとつ、ところで、
話は変わりますけど。
この映画の最初のほうで、道元が中国で、ある僧に額の眉間の上あたりを触られるシーンがあるのね。
指で何かを広げてあげるようなしぐさ。
それは「第三の目」を開ける行為に違いないのだけど、この説明がされずに物語が進んでいきます。わからない人はわからないかも。

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