Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

「高岡古城公園400年の歴史」~仁ケ竹亮介さん 講演

2011-06-01 | 高岡

 4、5月は総会ばやりである。5/28(土)は、高岡市ふれあい福祉センターで「市ボランティア連絡協議会」の総会があり、おとぎの森から会場へ回った。
 私達の音訳ボランティア「グループあかね」も、もちろんこの会に所属している。今年は、新しいグループを加えて総数244のボランティアグループとなり、大所帯になっている。東日本大震災の支援物資の仕分けや運搬に携わった時の報告もあった。

 総会後に、仁ヶ竹亮介さんの講演があった。一昨年も「古文書を読む」話を聴いたのだが、今年はその続きで、新しい資料によりわかって来たことなどを話された。今年、博物館から美術館へ移られたようだ。パワーポイントを使って、終始にこやかでわかりやすい語り口だった。
           

 前日の増山城の話にも出たが、中世の富山県内には400もの城があったそうだ。一昨年の開町400年行事で、高岡市民にとっては周知のことだが、高岡城は1609年に前田利長の隠居城として築城された。関ヶ原後、利長(39歳)は最大の外様大名だったが、44歳で利常に家督を譲り富山に隠居した。1609年の富山大火により魚津城に退避したが、すぐ「関野」に築城、城下町建設を始めた。なんとわずか5か月間の突貫工事だったようだ。督促の書状が残されている。なぜ「関野(高岡)」だったか?加賀藩のちょうど中心に位置するからだそうだ。

 1609年9月13日、利長、高岡城入場。二の丸に隅櫓2つと門の建造を指示しているが未完成。1614年5月20日、利長、高岡城にて死去。(瑞龍寺で利長忌・燭光能が催されている) 1615年6月13日、一国一城令により高岡城廃城。家臣団は金沢高岡町へ引き上げる。

 ここまではだいたい知っていることで、この後明治初期の公園指定請願運動のこと、高岡産業博覧会での変革などに興味があったが、時間不足で簡単に進み残念だった。ただ、曲輪(くるわ)や堀(水濠)が”ほぼ100%”築城時のまま残っているのは全国でも珍しいと言う。

 また、高山右近の縄張り伝承に疑問を投げかけられ、いくつかの理由を上げられた。さらに、平成4年の小竹藪の発掘調査に始り、現在も続いている本丸中央部などの発掘に期待を寄せられた。考古学とは楽しいものなのだろう。