Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

「お茶教室」と「お料理教室」と「和綴じ本教室」と

2016-02-29 | 日記・つぶやき

  2/27(土)、久しぶりに野村児童センターの「多文化こども教室」のボランティアの日だった。バングラディッシュのA君の送迎もしたのでやはり少し疲れ、一旦家に帰った。丸1日ぶっ続けはまだ無理なようだ。帰宅すると一休みして昼食をとるので午後のお茶教室は約束より遅くなる。

 この日は、姫さんと二人だけとわかっていたので、いろいろお願い事などする予定だった。茶々姫さん宅へ入った途端、「バッグとコートを置いたらすぐに台所へ来て!」との声。IHコンロの前に先生と姫さんのお二人。フライパンの中に大きなハンバーグとスライスした玉ねぎ。横に調味料の瓶が4品並んでいる。「さァ、今から料理教室ですよ」と姫さんいわく、である。
 この大きな冷凍ハンバーグは姫さんの手作り。それをフライパンに入れ、スライスした玉ねぎを入れ、赤ワイン、ソース、ケチャップ、焼きそば用ソースを混ぜて入れ、水を必ず入れること(茶々姫さんも私も薄味好みなので)。蓋をして蒸し焼きにする。この調味料の中で私が手持ちでもっているのは普通のソースだけ、と言うと、「じゃァ」と小瓶に3種類混ぜて入れて持たせてくださいました。私流なら、冷凍食品はチンで解凍、1種類のソースだけで味をつけるだろうなァと思いながら、家で言われた通りに作ってみると、美味しいのなんのって。焼きそば用ソースは、姫さんが甘い味好きなので入れるそうだが、まさしくその通り甘めの味です。とても大きなハンバーグで半分は明日かな、と思っていたのにぺロリっと食べてしまった。残った美味しいソースの中に、茹でキャベツを浸し翌日ように。今更ながら味付けの大切さを実感しました。お腹の中に入れば同じこと、ではいけませんね。 後で姫さんのブログを見ると、↓のように大量にハンバーグを作ったのだそうだ。    

  次は、本番のお茶。 ↓は、床の間。春らしい「夢」の軸(呉山書)と、菜の花。     

  いつもに増して色とりどりのお菓子。 

 春の花3種のお干菓子。  

 ↓ ボケているが主菓子。 

  最後は「和綴じ本教室」。SAさんのお父さんが使っておられた古い、貴重な謡の本を譲り受けたことを以前書いた。3月の蒼山会では、その本で素謡を謡う。中味はきれいなのだが綴じ糸が切れ切れ。全部外して、姫さんに綴じ直してもらった。魔法のようにあっという間に1冊仕上がり。家で、自分でやってみたが、なかなかこうは行かない。でも、使う本ごとにボチボチやってみよう。  


「城端時報」のこと

2016-02-27 | 富山

 私の生まれ故郷、南砺市城端に90年以上発刊され続けているタブロイド版の地方紙がある。「城端時報」(トップ写真)と言い、月1度の発行だ。我が息子が大学生の頃(その大学では地方出身の学生のため年に1度保護者会が開かれていた)、今は亡き同級生のKAさんと会場で会い、勧められて送付してもらうようになった。理髪店を営むHAさんが、その新聞のお世話をしておられたのもある。

 長年発行に携わり、編集長を務め、コラム欄「地鳴」を執筆しておられるのが山本哲也氏(何度もKI紙などで紹介された)である。氏は、私が中学生の頃青年国語教師だった。2,3日前に送られて来た「城端時報」2月号の「地鳴」を読んで驚いた。我が舅が、戦時中マニラ日本人小学校の校長をしており、終戦時に児童や父兄と一緒にジャングルを逃げ回ったと言う話を、夫や義弟たちから聞いていたが、城端中学校の職員室でも先生方を前に話しておられたのだろう。話好きで、話の上手な校長先生だったから。生徒にとっては週1度の朝礼の話が楽しみ、中3の社会科の授業を週1度受け持ち、チョーク片手に「時事問題」を話されたものだ。

 ↓が、そのコラム欄。両陛下のフィリピン公式訪問のニュースに始まり、城端の田原氏が富山県遺族会長として最前列で陛下のお言葉を受けられたこと、最大の激戦地フィリピンでの犠牲者のこと、そして義父が児童や職員と共に「動く生きものと言う生きものを、口に入れて害のない植物と言う植物を食べながら逃げて生き延びた」と言う話が書かれている。

 私は自分の父の慰霊のために、2度フィリピンを訪ねたわけだが、その都度、旧マニラ日本人小学校の跡地の傍までだけでも行ってみたい、いつか個人で来るしかない、と思っていた。どの辺のジャングルを通ったのだろう?マニラ市街戦(昭和20年2~3月)の頃はどうしておられたのだろう?と疑問にも思っていた。
 芦屋に住む2番目の義弟の話では、マニラが陥落する前にマニラを出て北を目指して逃避行が始まったようだ。最後に生きて帰れたのは、児童は800人中40人、教職員は40人中5人だったそうだ。ラワグと言う町は、今はスペイン時代の教会も残る観光都市となっており、国際空港もある。

 このコラム欄のコピーを頼んだ平米公民館のYAさんに「1枚置いて行くから読んでね」と渡したら、その場ですぐ読み、「最後の言葉がいいねッ!」と即座に感想を一言。


私の食欲

2016-02-26 | 食物

 何ヶ月かぶりに、「音訳ボランティアグループあかね」に出席した。”はじめのことば”として、「朝、白白と地面を覆った雪も、日中の暖かい日差しですぐに融け・・・」と書き始め、「いやァ、もう雪じゃないよね~」と、「古城公園の梅も今満開…」と書き変えたのはほんの数日前のことなのだが…。 今日はすっかり冬に逆戻りでしたね。

 フィリピンで体調を崩し、帰国後もなかなか体力が回復しなかったことを前に書いた。食欲が戻らず、友達が届けてくださる食べ物も、一口か二口は美味しいのだがすぐに嫌になる。結局、牛乳と果物、クッキーくらいしか食べられなかった。かかりつけのお医者さんに訴えると、1日3食食べようと思うから食べられない。食べられるだけ少しずつでも10回にわけてでも食べなさい、何もせずに寝ていても治らないよ!と厳しいお言葉。友人の中には「点滴をしてもらえば?」と言う人もいれば、ご主人が胃腸の手術後点滴の生活が続き、最初に食べた食事は水どうようだった、と言う人もいて、よほどのことがない限り点滴を頼むのは無理だろう、と自分なりに納得。

 最初、食欲を感じたのは、真生会眼科の帰りだったか、早川接骨院の帰りだったか、夕方どこかのお宅から夕餉の匂いが漂って来た。それが、なぜか親子どんぶりの匂い。「わァ~美味しそう。食べたい」と思った。で、駅南「万さく」に入った。が、うどんのお店。どんぶりものはない。すき焼き風鍋うどんを注文し、うどんは残してご飯で食べた。けっこう食がすすみ嬉しかった。

 その数日後、saさんと二塚の「ヨネダ珈琲」に入った。2度目だ。若者も年よりもいる不思議な店になっていた。徘徊老人のような人もいるのには驚いた。メニューを見て即座に決めたのが、↓の「大皿・サラダ」。ひれカツは小さいが6個あったように思う。1個だけsaさんにあげ全部ペロッと食べてしまった。この頃から元の食欲い戻ったみたい。

 そして昨日、平米公民館のお稽古の後早川接骨院へ寄るつもりだったのに、お稽古が長引き行けなかった。今日はお寺のお参り、サンコーで仏花を買った。風の冷たい日。急に思いつき「とんかつ柿エ門」に入った。この店はお気に入り。シルバーはポイントを2倍くれるのが嬉しい。
 ↓は、ひれかつ定食(小)。ちょっとボケているが、こちらは味噌汁と漬物がついている。ひれかつは小と言ってもボリュームたっぷり。さて軍配はどちらに?

 私にとっては、最初に食欲がわきぺロリっと食べたヨネダ珈琲のひれかつの方が美味しかったような。いつかもう一度確かめに行って来よう。


「蒼山会」で「烏帽子折(えぼしおり)」をリレー素謡

2016-02-24 | 能楽

 

 
本番まであと1カ月! 平米公民館「能楽お囃子の会」は頑張っています
 「蒼山会」の発表会まで後1ヶ月。平米公民館のお稽古は月3度なので、残すところ4回となり熱が入って来た。2/1(日)に合唱練習の後片づけの時に足を怪我し、どうなることかと思ったが正...
 

 ↑のブログは、ちょうど昨年の今頃「蒼山会」のお浚い会に向けて練習に励んでいる平米公民館のメンバーの様子だ。記事の中に登場するMAeさんは、昨年初めて舞囃子「鞍馬天狗」に出演すると言うので、平米へ特別練習に来られた。今年は、「西王母」の舞囃子の練習に毎週通って来られる。熱心さに頭が下がる。そして、太鼓を受け持つのが私なのだが、今年は膝痛がとてもひどく、先週は太鼓を持っての立ち座りがまったくできなかった。おまけに間違うわ、合わないわで散々だった。明日もかなり心配。MAeさんの熱心さに報いたいと気持は焦るのだが…。

 さて、今年の「蒼山会」では、素謡の部で「リレー素謡」と言う試みを披露する。演目は「烏帽子折(えぼしおり)」と「朝長(ともなが)」で、両方とも源氏にかかわる演目。「烏帽子折」は牛若丸、「朝長」は、頼朝の兄だそうだ。いずれも50分ほどの曲らしい。
 「烏帽子折」のあらすじを簡単に紹介します。(写真はネットから)

 季節は秋。 場所は前場が近江国鏡宿、後場は美濃国赤坂宿

 三条の吉次が、商売のために東方へ向かおうとしているところに、とある少年が一緒に連れて行ってくれるようにと頼みます。この少年こそ、鞍馬寺を飛び出した(16歳になる)遮那王・牛若丸。
 本来ならば商人と主従となるなど考えられないことですが、何をおいても京都を離れなくてはならない事情がありました。そして、近江鏡の宿に到着します。ここは現在の滋賀県竜王町鏡。宿とした白木屋で、牛若丸は追っ手が来たことを知ります。稚児の姿のままでは、すぐにみつかり捕らえられるであろうと考え、追っ手の目を欺くために元服して髪を切り烏帽子をつけることを思いつきます。
 烏帽子屋で何としても左折のものを所望する牛若丸。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を不審に思う烏帽子屋は、左折の烏帽子について語り始め、そしてまもなく烏帽子が出来上がります。

  

 烏帽子を召す牛若の姿はたいそう気高く立派です。そして烏帽子の代金に、持っていた刀を渡します。あまりに見事なものを賜り驚き、妻を呼び寄せる烏帽子屋。妻はそれを見て落涙します。
 実はこの妻は、源義朝に仕えた鎌田正清の妹であり、その刀は自分が使者として牛若丸が生まれたときに渡したものでした。妻はこの少年が牛若だと察し、牛若もこの女あこやの前を思い出します。再会を果たした二人だが、夜明けとともに牛若は奥州へと旅発ちます。

 (中入り)

 牛若たち一行が赤坂宿に着いた頃、ところの悪党熊坂長範たちが夜討にやってくるらしいと知らされます。そこで吉次たちは早々に宿を発とうとするが、牛若は自分が斬り伏せると言ってとどまらせ、夜襲に備えます。
 そこに熊坂の配下の小盗がやって来て、少々辺りを荒らし様子を伺っているうちに牛若を見つけます。持って来た松明を投げ入れると、宙で切り落とされ、踏み消され、投げ返され・・・尻込みして帰ってしまいます。
 とうとう熊坂と手下達がやって来ます。松明の話を聞いて一度は引き返そうとするが、それも名折れと攻め入ります。まずは手下達。牛若と戦ってはバタバタと切り倒され、熊坂が登場するも・・・やはり、切り倒されるのでした。

 以上を3グループに分かれて謡いつなぎます。お能で見れば子方も出るし、チャンバラもあり、で長いが変化に富んだ面白い能かもしれませんね。
 さあ、リレーがスムーズにつながるかどうか?ちょっとした見ものかも。

 ↓は、「あかね」のOさんの写真を拝借しました。庄川の土手から見た立山連峰です。

 1/25(木)のお稽古の様子を追加します。↑ に書いた「烏帽子折」の後場で赤坂宿での牛若丸と熊坂長範との対決の場面があるのだが、実は「熊坂」と言うお能もあります。「蒼山会」では、松○さんが「熊坂」を舞囃子で舞われます。↓は、お囃子の先生方との申し合わせ。

 

 ↓は、山崎先生が小矢部で舞われる「岩船」の申し合わせ。お囃子の先生方。左から太鼓、大皷、小鼓、笛の先生方です。


フィリピンへ巡拝の旅⑤~カリラヤにて全戦没者追悼式・マニラ市内

2016-02-20 | 旅行

 1/27(水)夜はバギオとマニラの中間地、カバナツアン市内のホテルに宿泊、市内の学校と病院を訪問(残念ながら私はホテルで寝ていた)。午後、バスでマニラに向け出発し、ひたすら南下、最初に泊まったダイアモンドホテルに入る。
 ↓ の写真ではわからないがトヨタ車がとても多い。フィリピンでは「車間距離を開けて」のルールは通用しない。どんどん割りこまれるからだ。ハイウエイにもさらに上下があるとか…。青い屋根の小型バスは「ジープニー」(10~15人の乗り合い自動車)だと思う。

 この後マニラでの2泊は、個室に移してくださった。

 ↓ マニラ港の夕日。

  いよいよ5日目、1/29(金)カリラヤで両陛下をお出迎えし全戦没者追悼式に参列する日である。前夜団長さんが「2時間ほど立っていなければなりませんがどうされますか?」と私に聞かれた。まだ平熱に戻っていないにもかかわらず「参加させてください」と答えてしまった。
 ラグナ州カリラヤ、日本庭園になっており「比島戦没者の碑」が建っている。バスを降りて驚いた。8年前にはまったく気にならなかったのに、長い長い階段なのだ。半分以上は両手を引かれて登った。息切れはするわ、膝は痛いわ、私の体は8年前とはまったく違っていることに愕然。幸い雨が晴れ、空が明るくなってきた。班ごとに並び待機。ここで急にめまいがして、前の人隣の人に「すみません」と言いながらつかまってしまった。団長さんに椅子席に連れて行かれ、「ここから動いてはいけませんよ。両陛下の姿はなおよく見えるかもしれません。」 厚労省の医務官と言う方が血圧を測ってくださり、いろいろ声かけをしてくださった。血圧は逆に低かったらしい。

 ↓は、産経新聞の両陛下。お元気な姿に感心するばかり。

 

 ↓は、向きが逆だが、毎日新聞のネットから。献花の様子、この後並んでいる遺児や遺族の前列の人たちに話しかけながら移動しておられる模様。端の方まで来られ、お二人の姿が見えた。声は聞こえないが2列目3列目の人にも話しかけておられる様子がよく見えた。

  翌1/30(土)は6日目、最終日である。午前中マニラ市内を観光し、午後空港へと言うスケジュールだ。前回はスペイン時代の教会も回ったが、今回は「リサール公園」と「サンチャゴ要塞」を集中的に回った。

 ↓は、ホセ・リサール公園。この記念碑の下にホセ・リサールが埋葬されているそうだ。彼はスペインからの独立のために立ち上がった国民的英雄。

 ↓ 日本の天皇皇后両陛下の訪問中は日の丸も掲揚されたのだろう。

 ↓は、「カレッサ」と言うスペインから伝わったと言う一頭立て2輪馬車。マニラ市内では観光の一つとして走っている。

 ↓ 公園内で見つけた像、高山右近像かとおもって撮ったが違っていた。わからずじまい。

 ↓ 空き地で縄跳びをして遊ぶ子どもたち。             

 次に「サンチャゴ要塞」跡を訪ねる。1571年スペインがフィリピン統治の為に建てた旧城壁都市を「イントラムロス」と言う。”市の中にある市”と呼ばれ7つの門があり、12の教会があったそうだ。太平洋戦争末期にほとんど破壊され現存するのは一つだけ。
 その「イントラムロス」の北の一角に「サンチャゴ要塞跡」がある。 ↓は入り口。

 ↓ 左へと続いている。

 ↓は、地下牢。スペインからの独立に立ちあがったホセ・リサールは2か月間投獄された。
 太平洋戦争末期、日米の戦いが行われた「マニラ市街戦」では、マニラ市民やゲリラが投獄されたと言う。長い歴史を超えてフィリピンは、スペイン、アメリカ、日本といろいろな国に翻弄されたのである。

 ようやくこれだけの日程を終え、ガイドの中村さんと別れ成田空港へ向かった。同行の皆さんに迷惑をかけっ放しの旅だった。皆さん、ホントにありがとうございました。ここまで読んでくださった皆さんもありがとう。


フィリピンへ巡拝の旅④~バギオ・アリタオ・バレテ・サラクサク

2016-02-16 | 旅行

 1/26(火)サンタマリアでの、私の父の慰霊巡拝が終わると、バスはひたすら北上し、バギオへ向かった。バギオは標高1500m、平均気温20℃の高原都市である。人口は約30万人。
 フィリピンは、7107の島からなると言われるが、マゼランが1521年にセブ島に上陸して以来、スペインの植民地だった。1898年米西戦争が起こり、スペインが敗北し、アメリカが統治するようになった。アメリカは暑さに耐えかね、高原のバギオに避暑地を作ろうとした。が、道路工事が難航し遅々として進まない。そこで以前から移民として働いていた日本人の勤勉さに目をつけ、多くの日本人労働者が道路建設に携わったと言う。

 ガイドさんの説明を聞きながら、トロトロしていると急に真っ白な霧の中から町が見えた。道路がクネクネする毎にいろいろな角度から町の様子が見えてきた。(トップのボケ写真は私の撮ったモノ、↓は、ネットから。熊本のKUさんにお願いした写真が届けば入れ替えます) 

 ↓は、バギオのホテル入り口。

 3日目、1/27(水)、バギオ市内で2人の方のお父上の慰霊を行う。バギオ西南20kmのFUさんとサビットと言う所のTOさんである。TOさんは8年前の時は私たちと一緒にサンタマリアでされたので、少しでも戦死された場所に近くて嬉しいと仰った。

     

  ↓は、回りの山々。

 ↓は、バギオまでの道路建設を指揮したケノン大佐の像。ケノン道路と呼ばれている。

  ↓ 日本人労働者が作業をしたからか、松の木が道路沿いにたくさん植えられていた。

  ↓ いくつもの町や村を通りぬけたが、いつもシャッターチャンスを逃し、「後の祭り」みたい写真ばかり。賑やかな祭の風景も終わり、旗だけがひらめいている。

  ↓も、どの辺だっただろう?ダム湖だろう。この3日目の途中から体調を崩し、バスの中で高熱を出し皆さんに迷惑をかけてしまった。

 バギオの次に慰霊を行ったアリタオ市内での3人の方たちの写真がない。また、昭和20年5月以後激戦地だったバレテ峠、サラクサク峠で戦死された3人の方たちの慰霊の場所へはバスの中で待機し、参加できなかった。それがとても残念だ。

 この日、1/27(水)、両陛下は「無名戦士の墓」に参り、フィリピン人戦没者を慰霊した。フィリピンは、太平洋戦争で日米の戦場となり111万人のフィリピン人が犠牲になった。…A紙より(↓も)。

 その日の夜は、アキノ大統領主催の晩さん会に出席された。天皇陛下は、先の大戦でフィリピンが日米の戦場になったことに触れ、「貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。」と言及、「私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」と述べられた。


フィリピンへ巡拝の旅③~追悼のことば

2016-02-15 | 旅行

 1/26(火)、平成27年度戦没者遺児による慰霊友好親善事業(2次) 「フィリピン慰霊友好親善訪問団」の我々B班15名は、団長さん、添乗員さん、現地のガイドさん(日本人女性)、ドライバーさんとで、バスでマニラから北上し、まずクラークで4名の方の父上の慰霊を行ったことをすでに書いた。
 さらに北上し、「サンタマリア東北山地」と言うのが私の父が戦没したと言う地名である。次に、私の読んだ「追悼文」を、少し長いですが載せますのでどうか読んでください。 

 「追悼のことば」  富山県  ○○ ○○   (前回、馴染みのある「とうちゃん」で呼びかけたら胸がつまり言葉が続かなかったので、今回は改まった言葉で、「お父さん」と呼びかける)

 「お父さん、再びフィリピンの地でお会いできた事をたいへん嬉しく思います。また感謝の気持ちで一杯です。八年前に弟と二人で、あなたが亡くなられたこの地を初めて踏みました。あれが最後と思っていましたが、今年天皇皇后両陛下が訪問される、美智子妃殿下がスロージョギングで身体を鍛えておられると知り、心を打たれました。私も安穏としてはおられぬと心を奮い立たせました。愛媛のTOさんが何度も誘ってくださり決心をしました。八年前は、あなたが私宛にカタカナで書いて下さった毛筆の手紙を読ませてもらい、弟と二人で涙を流しました。今日は百々枝おばちゃんが私達姉弟のために記して下さった手紙を読み、お父さんの短い人生を振り返りたいと思います。

 あなたは福野町の農家の次男として生まれ、勉強も運動も優れ、よく人を笑わせる人気者で誰からも信頼される少年だったと、おばちゃんは書いておられます。勉強したくてもできない農家の’おっじゃ’、東京の魚屋へ奉公に出たが仕事はきちんとするけど時間があれば本を読んでいる、聞けば学問をしたくて東京へ来たと言うので、戻されてしまったのですね。その後城端町で働くようになり、一人娘だった母の所へ婿に入られた、私達が生まれ、召集令状が来ました。「いよいよ俺も国のために働いてくれとの事や。皆諸共に一生懸命やって来る。子ども達は宜しく頼む」と実家で言って帰って行かれたこと、出発の日が迫り二人の子供を膝に乗せて「こんな小さな者二人置いて行くから頼むよ、どんな事があっても学問だけは進ませてやってくれ、これが俺の最後の頼みやぞ」、と目頭を拭きながら言われた言葉、それから出征兵士の方々と一緒にお宮参りをして駅に着き歓呼の声に送られて出立されたとのこと、父母の顔もわかったか、妻子の姿も人波に隠れ見えなかったろうと、おばちゃんは書いておられます。「今振り返ってみるに、啓兄さんの人生とは何だったのかなあと思い出します。これを私の命のある間に一筆書きたかったのです。亡き父の面影を贈る、○子さまへ 叔母より」で便箋16枚の記録は終わっています。百々枝叔母さんは3年前に96歳で亡くなられましたが、今の私の年齢でこの記録を書かれたのです。

 昭和14年生まれの私にとって当時戦争は当たり前の世の中、父の戦死も自然に受け止めていました。が、戦後70年が経ち、調査や証言などでいろいろな事がわかってきました。なぜ戦争が起きたか、なぜよその国で戦わなければならなかったか、なぜもっと早く終わらせられなかったか、疑問が次々と湧きあがります。そして日本はまた同じ道を辿るのではと心配されます。私が再び巡拝の旅に参加したのは、娘や息子、また回りの人たちに少しでも体験を伝え、日本の将来をももう1度考えたいと思ったからです・・・(後略)。」

 ↓は、8年前のサンタマリアでの慰霊祭の模様です。この時はサンタマリア近郊の畑地で行いました。弟、愛媛のTOさんと3人ででした。(今回、TOさんはもう少しバギオに近い方と同じ地でされました)         

            

           


フィリピンへ巡拝の旅②~クラーク・サンタマリア

2016-02-08 | 旅行

 1/25(土)、夜遅くマニラ空港に到着、国花”サンパギーナ”のレイをかけてもらった。
 1泊めは「ダイアモンドホテル、(8年前はマニラホテル)。↓は、玄関の花。時間が遅いのですぐ就寝タイム。  

    

  今回は小規模の班編成で、マニラ周辺を回るA班、クラークやバギオなどルソン北部を回るB班、セブ島やダバオなど南を回るC班、全員で45名ほどの小編成である。

 26日(日)、私のB班は、まずクラークで慰霊を行った。前回クラークは最終日だった。ここは米軍基地のあった所広い敷地を残している。この立派な観音像の前で4人の方の父上の慰霊を行う。↓の方は5年前は弟さんと一緒だったが亡くなられたのだそうだ。献歌「ふるさと」のハーモニカ伴奏を通してしてくださった。

 次は、私の番である。前回はトップバッターだったが、弟がいて豊○さんがおられ心強かった。今度は一人。緊張する。場所は、サンタマリア。ここはスペインの植民地だった頃に栄えた町らしい。町の中ではできず、国道の傍に良い場所がない。あっちこっち探してくださった。大きな川(アグノー川)の傍で遥かに山が見える場所に慰霊碑を設営する。

 ↓ 両国の国旗を立て、祭壇を作る。花、日本の水、故郷のお米、父が好きっだ物、思い出の品などを、祭壇にお供えする。前回童謡、父が書き残した私へのカタカナの手紙と、父が母を連れて里帰りをした時のッーショットの写真を持参した。 まず、追悼の言葉を読む。

 ↓ お参り、焼香をし、他の方も次々と。

 ↓ 全員で「ふるさと」を献歌。

 ↓ 記念撮影。

  ↓ 終了後、お花や水、酒などは川に撒いた。

  ↓ 平生は、コンクリ^とブロックを作る工事現場なのかもし

 この日、26日(日)午後、天皇皇后両陛下はニノイ・アキノ国際空港に到着された。右手前はアキノ大統領。ホテル到着後1時間後には青年海外協力隊員らと懇談。予定時間を超え一人ひとりに丁寧に声をかけられた。…A紙より


フィリピンへ巡拝の旅①~出発

2016-02-01 | 旅行

 1/25(月)出発予定、朝7時にタクシーを呼んでいた。前の日に降った分と新雪とで50cm以上はありそう。玄関から道路までの4,5mを除雪し、後は靴を履き替えてとも思ったが、そんな余裕はない。射水から来られた運転手さんも、自分の車を出すのも会社の車を出すのも大変だったそう。靴くらいどうにかするわ、と 長靴で乗りこむ。

 ↓は、帰宅後の地方新聞から。金屋町通りだそうです。                 

 新高岡駅のコインロッカーは、城端線側の外にあるのですね~。雪の中の履き替え作業は面倒で、結局長靴のまま東京駅へ。新幹線の中は快適。丸の内口からタクシーに乗る。運転手さんに地図を見せ、「広い神社内を歩きたくないから遠回りでもいいから、近くまで乗せてください」とお願いした。とても親切な運転手さんで、車止めを越えて中に入りほぼ正面に横付けし、「足に障害のある方です。」大助かりだった。毛皮つきライナーを着ている私には、この青空はあまりにもちぐはぐ。空港で希望者はコートを段ボールに詰めて預け、代金はカット割りするそうだ。 2階で結団式。             

 8年前は「九段会館」でゴッタカエシていた。A~E班まで150名ほどだったか? 今回は、少人数編成で、A~Cまで45名だ。私たち、B班は男性7名、女性6名。8年前に同じ班で巡拝した仲間が私を含め3名。その他の方もそれ複数回参加、初参加は2人だけとか。無事に帰れますように願ってやみません。