Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

「あいの風鉄道」で富山へ小旅行

2017-07-19 22:50:23 | 富山

 「草の家」での誕生会・寸劇「かぐや姫」の記事は少し後に回して、今日は久しぶりの「富山への小旅行」について書きます。何年か前、富山市も御多分に漏れず街中の映画館が郊外に移り、辛うじて残っていた小映画館「フォルツア」も閉鎖された。最近「ほとり座」と言うシネマカフェが誕生したと聞いていたが、そこへなはさんとSE子さんに誘われて出かけた。

 映画の紹介はいずれ書きますが、まず久しぶりに電車に乗り珍しかったことをいくつか書きます。
 7/19(水)、なはさんとSE子さんは小杉から、私は高岡から電車に乗ることにしていた。途中「クスリのアオキ」に寄り、院外処方の薬をもらう。それでも駅にはかなり早く着き、待合室で待った。ホームに出ると👇のような乗車口の表示がある。列車の到着時刻を示す掲示板にも”A1" とか、”B2”の文字がある。今までは、電車待ちの高校生に「今度の電車は何両編成?」と聞かなければ、乗車口がわからなかったものだ。2両編成だと”A1”か”A2"、3両編成だと”B1、2、3”で待つと言うことだ。便利になった。 

 富山駅南口へ乗り入れているライトレールに乗り、西町で降りる。「きらり」が目の前にある。中央通りに入ると、通りの閑散としていること。高岡よりひどい。(写真がボケているから尚更寂寥感が漂う。)      

 👇は、「ほとり座」の映画案内。       

     

 👇は館内。20人くらい座れる。この日はほぼ満員だった。

 富山駅構内の「八兆屋 駅の蔵」で早めの夕食をとる。この日は、なはさんと私は高岡でもう一つ用事があった。「演劇鑑賞会」の10月例会「柳橋物語」の打ち合わせである。小杉でSE子さんと別れ、高岡駅で降りて北口へ出た。「クルン」の向かい側に「ソラエ」と言う複合ビルが建った。県看護専門学校、医師会などが入っている。その出口から外へ出ると「演劇鑑賞会事務所」に近いよ、となはさんは慣れたもの。      

 進んでいくと、突き当りが階段だった。「エレベーターもエスカレーターもないのよ」となはさん。私もこの日はなんか足が軽くて、「ふ~ん」と言いながら歩いて降りるのがあまり苦にならなかった。   

 が、帰りによく見ると、医師会の入り口の横に立派なエレベーターがありました。なんでさっきは気づかなかったのだろう?
 👇の右端は、地上へ降りる階段。その左にエレベーター、左端が医師会入り口。

 久しぶりに駅を利用した小旅行を楽しみました。
 👇は、「高岡演劇鑑賞会事務所」で見つけた草の葉っぱのバッタ。     

  

コメント (4)

富山県美術館~高校時代の友人と

2017-05-11 22:02:45 | 富山

  小矢部のNOさんが、今年はよくお出かけだ。ご本人は「もう最後かもしれないから…」などと笑っておられるが。4月に、城端小の東京卯辰会から伊豆へ、その時大学の寮やクラスの友人とも会い、上野で3人の娘さん達と顔を合わせ、5月はご夫婦でクルーズだそうだ。
 連休後に会う約束をしていたと言う、高校の同級生とのランチに私も呼ばれた。昭和30年代の福野高校、城端線上り列車で通学するのは城端中、吉江中、福光中の出身者だ。汽車待ちの時間や汽車の中で話すから自然と仲良くなる。

 5/9(火)、この日集まったのは、城端が2人福光が2人で、今は福光在住のYOさん、小矢部のNOさん、富山のSUさん、高岡の私の4人だ。「あいの風」で富山駅北口に集合し、SUさんの車で富山市内を回った。彼女はいろいろなプランを用意し、富岩運河クルーズ、富山県美術館…、県庁屋上庭園の話も出た。が、皆お喋りが目的なので、結局一番新しい「富山県美術館」へ。駐車場は2時間無料。平日の午前なのでガラガラだった。

  「富山県美術館」…略称は ”タッド”、”Toyama Art & Design”のイニシャルかな? 展覧会のオープンは今夏、今は、館内施設を無料開放、レストランカフェは営業している。

 👇は、ホール。体の動きで光のアートを創りだす「インタラクティブアート」を体験できる。

  👇 若いママさんと子供が、手を動かしていろいろなポーズをすると画面が変わる。

  内装は、杉やアルミ、ガラスなど地元素材を使い、広い空間を作っていた。日本橋「たいめいけん」がオープンしていたが、店の前は行列だった。
 👇は、「オノマトペの屋上」。オノマトペとは擬態語、擬音語のことだから、「ニコニコ」、「サラサラ」などの言葉から連想する子供も大人も遊べる物が置いてあるらしい。この日、私は買ったばかりのスマホで写真を撮っており、ズームの仕方がわからぬままの写真ではっきりしない。遊具で遊ぶより、おしゃべりに夢中でよく見物もして来なかった。が、市内の”いきいきサロン”から来られたようなグループと中学生の校外学習の班行動のグループが楽しそうに過ごしている。

  👇 ポスタータッチパネル。
  かつての県立近代美術館所有のポスターコレクション約13,000点からの3,000点を、大型タッチパネルで見ることができる。タッチすると変わります。

  👇 窓越しに「富岩運河環水公園」が見える。

  SUさんはいろいろ考えたうえ、ランチは呉羽山の「マリーマリー」に決めた、と案内してくださり嬉しい。彼女もよく来るらしい。5月から2階でランチとなっているそうだ。1階はカフェとギャラリー。階段には手すりがついていた。

 👇は普通のランチ。相変わらず器がきれい。私たちの年配者にやさしいメニューだ。

  料理を運んでくる人は知らない人ばかり。え?大坪さんはどうされたのかしら? とよほど尋ねようとした時に顔を見せてくださった。2階は満席だったから、さぞお忙しいのだろう。でも会えてよかった。ちなみにSUさんは、1階のショップでサマーセーターをお買い物。

 この後、新湊大橋を渡り、「きときと市場」はどう? と言われたが、皆、話すだけでいい、何も買わない、などと言うので、小杉まで来て結局「ココス」に入った。白玉アイスを食べながらまたお喋りだ。何度か同窓会では会っているが、そんな時個人的な話はしないので、高校生当時まで遡るので話のタネが尽きない。「~ちゃん」付けで呼び合う友は、小中高までか、そう多くない。この4人のうち2人が「のり(紀)ちゃん」だ。昭和14年、15年生まれ、紀元2600年生まれとなる。そんな話も出た。
 再会を約束して別れ、小杉駅から「あいの風とやま鉄道」に乗ると、高陵中1年生の生徒たちでいっぱいだった。真新しい制服がまぶしい。今は修学旅行シーズン、1,2年生は校外学習だ。「どこへ行って来たの?」と聞くと、「富山です。」 富山市内見学だったのね。

コメント (6)

城端曳山祭 ’17

2017-05-09 22:51:58 | 富山

 

 
城端曳山祭 ’16 ①
 4月初めに「犬山祭」を見てきたら、久しぶりに故郷 城端の曳山祭りが見たくなった。急に思い立ち、提灯山の桟敷席とお弁当を注文した。2,3日前のKi新聞に、一番山「大黒天」の写真と時......
 

 👆は、昨年の城端祭の私のブログです。
 今年は、「ユネスコ無形文化遺産」に指定されて初めての年。5/5日朝、姫ちゃんのプリウスで茶々姫さん、なはさんと共に出かけた。町営グランで車を止め、私の友人宅を2軒訪ね、「桂湯」の小物売り店を覗いてから、大工町へ行く。ちょうど1番山の西上町の竹田山(恵比須さん)が小路から出て来て屋根を直したところ。いつもよりずっと多い人出。(曳山と庵屋台は6町にあり、庵屋台、曳山の順に町を巡行する。)

 次に2番山東下町の大黒様。両側の屋根を折り上げて小路を抜けて来たところ。

 👇 屋根を片方ずつもとへ戻します。まず、右を降ろし…左を降ろします。

 👇 屋根を元に戻してニコニコ顔の大黒様。

 👇 3番山 出丸町の「布袋様」。

  「曳山弁当」を注文していたので、曳山会館横の臨時観光案内所へ取りに行こうとしたが、もう曳山紹介や庵唄披露が始まっている。いつもなら横から抜けていけるのに椅子は満席、隙間もなく、遠回りしてようやく4人分を受け取る。
 別院の広い本堂でゆっくりいただくつもりが、もう法話が始まっている時間。横の欄干下に腰をおろしてお説教を聴きながら食べた。

 ちょうどその頃、別院へ向かって進んできた曳山が右折するところ。👇は、4番山西下町の「尭王」と庵屋台。

 👇 5番山 東上町の「寿老」が香具師の前で待っている、のではなく、庵唄を所望する家の前で待っている。

 👇 5番山 東上町の庵屋台。屋台の中では、若連中が笛、三味線に合わせ端唄「宇治茶」を唄っている。全部の町内の唄を聴いたわけではないが、今年はことさら心に沁みる声色、節回しだった。

 👇 別院前。男性客がけっこう多い。

 👇 最後の6番山、大工町の「関羽・周倉」も庵唄所望の間、交差点の真ん中で待っている。ここで、紋付き袴の同級生のHAくんと長い立ち話をしていて皆さんを待たせてしまった。

 この後、「田村萬盛堂」でコーヒーとケーキで一休み。さあ、出丸坂のUターンを見なくちゃ。去年は別院で法話を聴いていて見そびれたのだった。6基の庵屋台と曳山が通り過ぎた町。正面に袴腰山が見える。

 さて、出丸坂へ向かうと…。ちょうど6番山「寿老」のUターンが始まるところ。拍子木を構えて…。

 U ターンを終えて坂を上ります。

 

  👇 坂を上り帰って行く5番山と最後の6番山、大工町の「関羽・周倉」のすれ違い。道路を広くしたので悠々とすれ違いができる。

 👇 最後の6番山と庵屋台がゆっくり坂を下りてきます。

  👇 庵屋台の中で庵唄を唄っているのを並んで聞いている若連中。

  👇 曳山の皆さんも聞いている。

  👇 所望宿。

  👇 屋台は坂の下でターンをして先に帰って行く。曳山は今から坂の下でターンします。

  踏ん張って、少しずつ下ります。ギューギューと言う音。「ぎゅー山」と言われる所以です。

 

 👇 一気に回ります。

  👇 回り終えて…。

 👇 押しながら坂を上る。

  👇 ホッとした観衆も曳山と一緒に街に戻ります。

  👇 夜の「提灯山」の準備。曳山にも庵屋台にも提灯を下げる。

 

  👇 早い町内は、もう提灯をつけ終わり夕食でしょう。

 私たちも、高岡へ帰る途中で夕食にしましょう。

コメント (4)

城端曳山祭 ’17~祭りの前に 

2017-05-07 10:38:48 | 富山

  昨年は急にSAさんを誘い、城端曳山祭に行った。お弁当を注文し、曳山会館後ろの蔵回廊で食べた。テーブルが用意されちょっとしたカフェのよう。曳山会館前の観覧席も夜の部を予約したが、満席ではなかった。「来年は、ユネスコ無形文化遺産に登録されるかも」と言う話を街で出会った同級生から聞いた。
 👇は、昨年の私のブログです。 (👆のトップ写真はKI新聞の今年のものです)

    http://blog.goo.ne.jp/67kiyoh/d/20160509

    http://blog.goo.ne.jp/67kiyoh/d/20160511

 さて、今年のお祭りはどんなかな~と思っていた4月半ば、姫ちゃんが、私の心を見透かしたように「城端祭に行くなら私も行きたい。」 「連休はちょっと忙しいけど…でも、行くなら多い方がいいね」と私。結局、なはさん、茶々姫さんも「是非!」と仰り、4人で行くことになった。
 5/5日朝、姫ちゃんのプリウスで出かけた。福光で「ささら屋」に寄る。 

 広い売り場には、箱詰め、袋入り、小袋…と各種のかき山のお菓子。種類の多さにビックリ。         

    

 👇 野菜売り場も。   

 👇は、昔からの製法を描いた額。 

 お休み処があり、セルフサービスで飲み物や好きなおかきをつまめるコーナーがありがたい。
 ゆっくり休んで、お土産も買って城端へ向かう。👇 私が買った小袋。皆さん、思い思いに買っておられた。 

 城端では町営グランドの駐車場へ車を入れた。狭い街なので中心街へ行くにはそう遠くない。実は今回の城端行きは、祭りを見がてら友人宅を何軒か訪ねる計画が私にはあった(親類へは寄らない)。グランドのすぐ傍のHOさんは、今冬ご主人を亡くされた。ご自分も足を痛めておられる。玄関でしばらくお話をした。その間、3人は待っていてくださった。

 次に、床屋のMAさん宅へ行き、託け物を渡す。MAさんは合唱をやっておられ、なはさんとコンサートを聴きに行ったこともある。なはさん宅の庭師さんの両親がその合唱団におられると言う縁がある。 次に「桂湯」の小物売り店へ。ここも同級生の奥さんのお店で必ず寄っている。東京にいる同級生SEさんの手作り和紙人形を置いてもらっていたら1体売れていた。なはさんも日本人形を1体買ってくださった。 

 👇 懐かしい「松島のがやまめ」(昔はそう言っていたものだ)の小袋があり、7個で千円を買って来た。とても固いので、湿らせてから食べてね、と注意された。「止められない止まらない」のエビセンと同じで、学生の頃母が送ってくれたのを無くなるまで食べていたっけ。

 👇 珍しい物がかかっていた。男の子のおついこの着物だ。綿入れもあって懐かしい。

  インド人の女性二人連れが「黒の留袖」を買っておられた。キリッと似合いそう。相変わらず可愛らしい小物が所狭しと並んでいた。   

 さて、いよいよ曳山と庵屋台を見に行く。すぐ傍の通りから笛、三味線、端唄の声が聞こえて来た。

コメント (10)

山・鉾・屋台ユネスコ無形文化遺産・立山初冠雪・古城公園雪つり

2016-11-04 19:19:48 | 富山

  11月もはや3日、風邪の引きがけなのに出歩くことが多く(温泉にまで入るものだから)とうとうこじらせてしまった。2日にかかりつけ医から薬をもらい、飲み始めてから少しずつよくなった。が、今日3日は高岡市芸術祭、邦楽公演の部で連調連管「竹生島」に出なくてはならない。朝もなかなか起きられず、頭がぼーっとして午前のリハーサルはさんざん。本番も肝心の個所で間違って、終わった後の爽快感がない。

 さて、故郷を想う友のために、新聞の写真で申し訳ないがいくつかニュースをお知らせします。和倉温泉から帰宅した夜、ネットのニュースで見つけたのが”山・鉾・屋台ユネスコ無形文化遺産”の記事だ。以前から聞いていたのでもしかしてと思ったが、記事には33か所としか書いてない。そのうち千葉matsuさんのコメントに「城端曳山祭りも…」との知らせが入り、ホッとする。和倉でわかればさぞ盛り上がったことだろう。1日違いだった。

 👇は、地方紙KI新聞の11/1付け記事。コンビニへ買いに行った。(トップは5月のKI新聞の写真、ネットから。同じ物らしい)人形は今年の一番山「大黒様」(東下町)と二番山「布袋様」(出丸町)。

 👇は、全国紙A紙の地方版。人形は「寿老」(東上町と「関羽・周倉」(大工町)。 

 👇 11/2、立山初冠雪。例年より2日遅いとか。

  👇 11/2、高岡古城公園の冬支度。雪囲いが始まった。

 

コメント (6)

”富山大空襲を語る” ~ 藤井慶輝先生

2016-08-01 12:59:23 | 富山

 7/30(土)朝、富山市の藤井慶輝先生より電話がかかった。妙福寺の住職さんです。長い間高校で英語を教えておられ、民間教育団体の「新英語教育研究会(略して新英研)」の富山県支部長を務められた。退職された後、「富山大空襲を語り継ぐ会」の会員として地道な活動を続けておられる。
 以下は、先生の電話連絡。知り合いなどに伝えてほしいとのことでした。

 ① 7/30(土)県民会館で、「富山大空襲71周年のつどい」を開くが、その時体験談を語る。
 ② 7/30(土)の富山新聞に、その紹介記事が掲載される。
 ③ 8/1(月)夜6:15のKNBニュースでも、たぶん1,2分だが紹介される。
 ④ 8/5(金)西本願寺高岡教区教務所(八丁道の傍)でパネルディスカッションがあり、パネラーとして参加する。

 「八月二日 天まで焼けた」の本を読まれた方もあろうが、昭和20年8月2日未明の富山大空襲は、広島、長崎の原爆を除けば地方都市では最大の空襲だった。富山市の99.5%が焼けたそうだ。当時私は6歳、防空頭巾を被って家の裏の山田川の土手から真っ赤な東の空を眺めた記憶が鮮明だ。その後どこへ逃げたのか、防空壕に入ったのか、まったく覚えていない。

  藤井先生(89歳)は、当時18歳、旧制富山高校2年生だったそうだ。

 ↓ は、7/30(土)の「富山新聞」記事です。”軍国少年の考え一変”とある。       

  ↓ NHK富山放送局のニュース(ネット版)から。 

 「富山大空襲71年のつどい」:
 およそ3000人が犠牲になったとされる、富山大空襲の記憶を後世に語り継ぐ会が富山市で開かれました。
昭和20年8月2日未明の富山大空襲では、アメリカ軍による爆撃で市外地のほぼ全域が焼失し、およそ3000人が犠牲になったとされています。
それから間もなく71年となる30日、戦争の悲惨さを語り継ぐ活動をしている「富山大空襲を語り継ぐ会」が富山市の富山県民会館で体験者の講演会を開き、参加した約30人が空襲の犠牲者に黙とうをささげました。
このあと、現在の富山大学五福キャンパスにあった旧日本陸軍の富山連隊に大空襲の直前に入隊した、富山市の住職藤井慶輝さん(89)が、みずからの体験を語りました。
藤井さんは、アメリカ軍の焼い弾が落ちる場所が徐々に近づいてきた時の恐怖や、空襲に追い立てられた大勢の人が富山城のお堀で溺れて亡くなったことなどを語りました。
そして「戦争を知らない人には、自分がもし同じ立場になったらどういう気持ちになるか想像することで、戦争の怖さを感じて欲しい」と話し、会場には大きくうなずく人もいました。
講演会に訪れた高齢の女性は「自分も戦争の時代を生きた1人で、空襲の話を聞いてあらためて戦争は怖いと感じました」と話していました。

07/30 17:17

  ↓ は、7/31(日)の北日本新聞の記事。    

 ↓は、BBT富山放送の動画です。語り継ぐ会の様子が映像で見られます。

http://news.bbt.co.jp/topics_detail.phtml?Record_ID=ad3f329c9dfd7727810a416cbc2848bf

 ↓は、「富山中日新聞」のネット版から。

 富山大空襲から71年 死の恐怖 忘れられない      写真     富山大空襲の体験を語る藤井慶輝さん=富山市内で
 空襲前日の一九四五年八月一日、現在の富山大五福キャンパス(同市)にあった旧日本陸軍の富山連隊に入隊。午後十時ごろに空襲警報が鳴り、米軍爆撃機B29の編隊が市の上空を通過した。焼夷(しょうい)弾が雨のように降る中、命からがら逃げ回った-。富山市の妙福寺(みょうふくじ)住職の藤井慶輝(けいき)さん(89)は二日に七十一年を迎える富山大空襲の記憶をたどり、最近の改憲の動きに表情を曇らせる。「戦争を知らない人たちは自分のことに置き換えて戦争の怖さを想像してほしい」と訴える。(伊勢村優樹)

 二日午前零時半ごろにも空襲警報が鳴り、練兵場へ。「タコつぼ」と呼ばれていた、隠れるための穴に入り、ドキドキしながら周囲をうかがっていた時、照明弾が投下された。昼のように明るく、神通川の向こうには黒々とした家並み。そこへ焼夷弾が雨のように落とされ、あちこちに炎が上がった。
 やがて自分の近くに落下するように。生死の境界に立ち、田んぼやあぜ道を走り命からがら山に逃げた。「死の恐怖が骨の髄まで植え付けられ、いまだに忘れられない」
 夜が明けると、隠れようと思った橋の下に背中に直撃弾を受けた兵隊がうつぶせに浮かんでいた。結局、大空襲では三千人近くが死亡、市街地のほぼ全域を焼いた。
 あれから七十一年になる。「富山大空襲を語り継ぐ会」のメンバーでもある藤井さんは空襲の記憶を語り継ごうと、三十日に市内で講演会を開いた。

 市民ら約四十人を前に、空襲の恐怖をはじめ、空襲に追い立てられた大勢の人が富山城の堀で溺れて亡くなったこと、肉親を捜し歩いて黒焦げの死体を見つけた人の気持ち、防火用水に顔を突っ込んだままの男性、妊娠中に亡くなった女性の姿があったことを説明。その上で「戦争を知らない人たちはそのような姿をわが身に置き換えて想像力を働かせて。そうすれば戦争の怖さが分かると思います」と呼び掛けた。

 「今、国会では集団的自衛権の話などが持ち上がり、戦争前夜みたいな状況がある」。だからこそ経験を語り続けなければならないと思っている。「なんとしても七十年の平和が八十、九十年と続いてほしい。そのためには憲法九条を守っていくべきである」

 たくさんのメディアで取り上げられたことがわかります。今日、1日のKNBニュースを見るか、できれば、8月5日(金)のパネルディスカッションにご来場ください。

コメント (8)

森田流笛の会「龍尚会」能楽発表会 ’16

2016-06-26 22:23:17 | 富山

 

 
森田流笛の会「龍尚会」能楽発表会
 6/21(日)、高岡市青年の家能舞台にて、瀬賀尚義先生のお笛の会「龍尚会」能楽発表会があった。私たち平米公民館組は毎年太鼓で出させてもらう。昨年は、合唱団MiTUコンサートと重な......
 

  ↑は、昨年の龍尚会の居囃子の私のブログである。昨年は姫さんの笛と一緒に居囃子に出ている。今年は、6/19(日)に行われた。なはさんが、最初からほとんど最後まで見ておられ、写真もたくさん撮ってくださったのですべてお借りしてアップします。

 ↓は、高岡市青年の家「能楽堂」の玄関の龍尚会の幟。       

 番組最初は、連調連管「舞働き」だ。ウオーミングアップである。特にお笛の会では音出しが大事。続けて、居囃子「胡蝶」で中の舞。

 ↓ 続けて、居囃子「七騎落」で男舞。太鼓はナシ。

 続いて居囃子「西王母」。

 ↓も、居囃子「西王母」。太鼓以外はメンバーが変わった。

 ↓ 連調連管「早笛・働き」。

  途中、昼食をはさみ、見所に戻ると舞囃子が始っていた。↓は、「安宅」。

 私は居囃子と連調連管だけで、舞囃子がなかったので気分的にはリラックスだったのだが、「西王母」はやはりいつものようにどこか合わなかった。考えてみればその都度他のメンバーが変わるのだから合わなくて当たり前なのだ。先生はいつもそう仰るのだが、今回初めてそれを実感。完璧に打ちたかったら全員プロの中に混じり打たせてもらうしかない。これは上田先生のことば。瀬賀先生は「楽しんで打てばいいよ」と言われる。いつもそう言われながら、間違ったことばかりが気になり、ストレスになっていたみたい。自分も間違うけど、他の人も然り、と思うと気楽だ。合わなければ合わないで楽しめばいい。
 舞囃子「須磨源氏」で、徳田先生の太鼓の緩急の変化が激しく、友人のTAさんの小鼓が必死に合わせてついて打っておられる姿に感動した。私なら途中ギブアップかも。アンサンブルは、ハーモニーの美しさが第一だが、合わせる気持も快いものなのに…と思うのだが。合わせてこそのハーモニーなのだろう。一回、一回の体験が大事と言うことだろう。出演料を払ってお稽古させてもらっているわけで、ありがたく思って頑張りましょう。

コメント (2)

富岩水上ライン

2016-05-31 17:00:08 | 富山

 1年がかりで計画した金沢での同窓会が無事に終わり、久留米のMUさん、川越のTOさんと金沢に2泊した。3日目、TOさんと「富岩水上ライン」に乗って岩瀬へ行き、岩瀬の町を散策した。5/26(木)のことである。
 朝、ホテルを出て金沢駅でMUさんと別れた。彼女は、小松へ行き飛行機に乗る。TOさんと私は富山へ行き富岩水上ラインで岩瀬まで行く予定。名残惜しいが「また、東京でお会いしましょう」と別れる。が、この年齢では、これが最後かも、との心の声がいつも聞こえるのだ。「あいの風」の電車は、金沢始発で、通勤通学時間帯とずれていることもありとても静か。ゆっくり話しながら、景色を楽しみながら乗れた。
 午後の「水上ライン」を予約していたが午後は雨の予報、午前に変更できるか電話をし、タクシーでスタート地点の環水公園へ駆けつけた。息を切らしながら水辺へ降りる。FUGAN号(トップ写真)は満席、SORA号は14,5名、すでにガイドさんの説明が始っていた。駅でスーツケースを預ける暇もなく、引っ張ったままで乗船した。すぐに救命着を渡され、暑いけど上に着込む。千保川クルーズでお馴染み。

 環水公園を出ると両岸は美しい木々の緑、時にはサギやカワウ、鴨が見られる。ガイドさんは、どの辺にどんな木があり、どんな鳥と出会えるかよくご存知で、上手く見つけては教えてくださった。

 

  淡々とした話しぶりだが、わかりやすく可愛らしくすぐ質問したくなってしまう。まず、運河の歴史から…。リタイア直後の頃、県政バスなどでよく呉東地区を回り、その時にもこの歴史は聞いた記憶がある。

 江戸時代から富山湾には多くの船舶が停泊し、岩瀬地区は商業が盛んだった。が、岩瀬から富山城のある中心部まで遠くて不便、水運が不可欠だった。一方、神通川は富山市内で大きく蛇行しており洪水が絶えず、川の流れを変える工事が行われた(当時の川は今の松川)。昭和の初め、運河を造りその土砂で廃川地を埋めたそうだ。流域には多くの工場が建設されて、富山の工業は発達したのだ。
 しかし戦後、流域の工業は衰退し、木材置き場になりつつあり、運河の埋め立ても検討されたが、1984年に、むしろこれをいかして運河を中心とした街づくりを目指すため残すことを県が発表し、現在に至っているとのこと。
 ↓は、「中島閘門(こうもん)」の説明をするガイドさん。

 ↓の図のように、水位を高くするしくみ。流れの低い所から高い所へ船を運行します。

 ↓ 奥に見えるのが「中島閘門」。係の方が、右の建物に待機して門を操作します。

 ↓ 少しずつ、水位が下がります。

 ↓ 開門する両側の柱部分は木材です。

 

  ↓ 少しずつ開いて来ます。橋の上の人たちは見物人?

 

 ↓ 向こうの景色が見えて来ます。

 ↓ 「富岩号」は、ここでUターンして戻ります。

 

 ↓ 富山港へ近づくと、車の山。ウン?ナンバーがない!これは輸出品NO.1の中古車。

 ↓ 永ちゃんのツアートラックも輸出品?

  ↓ 輸出NO.2の金属くず。

 1時間の楽しいクルーズだった。岩瀬の町を歩き、白エビラーメンを食べ、ライトレール(チケット付き)で帰った。Toさんは、富山湾クルーズだと思っていたそうだが、十分満足されたようだ。富山駅でお別れした。

コメント (8)

岩瀬まち歩き

2016-05-29 18:00:16 | 富山

 2月か3月頃から、今年も近所の木々へ(どこのお庭かはわからないのだが)鶯が来て囀るようになった。清水町は緑の多い町だったが、それも最近は伐採される家が多い。でも、朝早く、あるいは9時頃に、別の日は夕方に、どこからともなく鶯がやって来て囀り始める。その声に初夏を感じるこの頃である。3日間、留守にして帰宅したら一層懐かしく感じた。

 1年がかりで計画した金沢での同窓会が無事に終わり、久留米のMUさん、川越のTOさんと金沢に2泊した。3日目、TOさんと「富岩水上ライン」に乗って岩瀬へ行き、岩瀬の町を散策した。5/26(木)のことである。
 パンフによると:江戸初期から日本海を行き来する北前航路が生まれ、江戸期から明治期にかけ日本海沿岸に廻船問屋がたくさん営まれた。岩瀬では江戸前期(約320年前)に港町としての形ができたそうだ。加賀藩の領地で御蔵があり、北前船で米や木材を大阪や江戸へ運んでいた。明治6年の大火で半数以上が焼失したが、当時廻船問屋業は全盛期であり再建された。

 岩瀬カナル会館前で船を降り、スーツケースをゴロゴロ引っ張りながら大町新川町通り(旧北国街道)を歩いた。帰りは東岩瀬駅からライトレールに乗るためである。ちょうど昼頃のせいか通りはとても静か。地図を持って歩いている旅行客にたまに会う程度だ。歩行者天国のようでどこからでも写真が撮れる。↓ まず目に止まった家。        

 ↓ 料理旅館「松月」。

 ↓ 民家? 左の白っぽい格子戸が珍しい。後で聞くと「簀虫籠(すむしこ)」と言い岩瀬独特のものだそうだ。外から中は見えないが、中から外が見える竹製のもの。はるか彼方、黒のスーツケースを引っ張る女性はTOさん。 

 暑い日でもあり、歩き疲れて一休み。↓は、岩瀬大町公園。何人かが一服しておられた。

 ↓ 北前船廻船問屋「森家」(国指定重要文化財)前の「錨」。 

 ↓ 中を見学させてもらう。まず船の模型。

 ↓ 水の流れを表す畳の敷き方。

 ↓ 家紋入り提灯入れ。

 ↓ 大門レストランにもあった「筬欄間」。

 ↓ 左は柱を使わぬ硝子戸。今でも戸に狂いはない。右は、天井板。何の木だったか、龍に見えませんかと言うことだった。

      

 壁に大原総一郎氏の写真が掛けてあり、オヤ?と思っていると説明があった。蓮町に倉レの富山工場があった頃、森家がこの家を手放そうとしたら、大原氏が買い取り社員寮として大切に保存されたと言う。そして富山工場閉鎖の時に富山市に寄贈されたのだそうだ。

↓ 土蔵には、竹内源蔵さんのお父さん作の鏝絵。

 ↓ トイレの戸が屋久杉とのこと。

 ↓ 海岸の船着き場まで通り抜けられる通り庭と土蔵。

  ↓ 釣り具店の簀虫籠(すむしこ)。

  ↓ 造り酒屋。

 ↓ なんと「北陸銀行」。出て来られた女性に、「この銀行、営業しているのですか?」と思わず尋ねた。「そうですよ。この通りの建物は全部リフォームしたのです。富信さんもありますよ。」とこともなげに答えられる。

 ↓ ナルホド、富信は簀虫籠だ。 

 ↓は、北日本新聞。

 そうこうするうちに「東岩瀬」駅に着き、近くで昼食。ライトレールに乗り富山駅北口に到着した。この館、TOさんは常に私のずっと先を歩き、しばらく行っては待っていてくださった。私としては前日に続き、ずいぶん長い距離を歩いたものだ。

コメント (4)

城端曳山祭 ’16 ③~提灯山

2016-05-13 22:37:01 | 富山

 5/5日、久しぶりに「城端曳山祭」を見に行った。「蔵回廊」でお弁当を食べた後、見どころポイントの宗林寺町から小路を抜け、大工町へ出る場所で見物。城端別院へ寄ったら、特別法話が始り、出丸町のUターンは見られなかった。最後の曳き山、西上町の恵比寿さんが向きを変え終わったところ。他の山車はもう提灯も付け終え、夕食の時間になっている。
 ここで、やはり紋付き袴姿の中○さんに会い、またまたお喋り。同級生の話も…。 ↓は、6基勢揃いしたところ。曳き山の前に庵屋台が入るから12基並ぶ。提灯にまだ灯は入っていない。       

 ↓ 山に向かい、後ろ向き。      

 ↓ 最後の西上町の屋台に、2人ペアで、一つ一つ提灯をとりつけているところ。夕日の山がきれい。    

 ↓ 各町内の車を撮ってみました。ゆるい出丸坂なので屋台の脚にも、曳き山の車にも、車止めが挟んであります。  

 7時。皆さん、夕食の時刻で町ががらんとした感じ。曳山会館横で庵唄を聴くのが8時。私たちもどこかで夕食を、と「松屋」に入った。行列ができて名前を書く紙が出ている。こんなことは初めて。しばらく待ち、相席でラーメンを注文。隣のご夫婦が富山の方。毎回、「じょうはな座」の「シネマ歌舞伎」を見に来られるそうだ。今日は提灯山が見たくて遅く出かけて来た、とのこと。ひとしきりシネマ歌舞伎の話を聞く。

 8時。招待席の後の3列目に座った。フラッシュを焚いても焚かなくても、夜の曳き山を撮るのは難しい。↓は、雰囲気だけ。まず、若連中の代表が口上を述べます。庵唄が終わるまで提灯を持ち、傍に立ちます。招待客も、人足の人も、近所の人も聞きいっています。

         

 ↓は、提灯。     

 ↓は、大黒天と布袋(今年の1番山と2番山なので、コレばっかり)。

        

 夜風がだんだん冷たくなったので、4番山まで聞いて席を立った。この後、10時に新町で提灯山のUターンがあり、各町内へ解散になるはず。夜の運転も心配だし、充分に満足したし、と高岡へ戻った。久しぶりの提灯山だった。         

コメント (8)

城端曳山祭 ’16 ②~昼の部と別院のお説教

2016-05-11 22:56:42 | 富山

 5/5日、久しぶりに「城端曳山祭」を見に行った。「蔵回廊」でお弁当を食べた後、見どころポイントの宗林寺町から大工町へ出る小路へ行く。ちょうど一番山 東下町の大黒様、二番山 出丸町の布袋さん(↑と↓の写真)が通ったところだ。

 この小路の右角にある大きな家がHO家、見れば格子戸を外してご夫婦揃って曳き山を見物しておられる。若い頃お二人ともにお世話になった私は、挨拶かたがたしばらくお喋りをした。千葉のasaちゃんのお姉さん一家がそろそろ見物に来られることなど伝える。

 ↓は、四番山 東上町の寿老さま。二重の屋根を畳んで狭い小路を通りぬける。                

 屋根を畳む他に、この山車は、台に千鳥が留っていて小路を抜ける時、横に触らないように外し手に抱っこして運びます。↓は、鳥をつけているところです。 

 

 ↓は、五番山 大工町の関羽と周倉。一重だが四方唐破風の大きな屋根です。左右前後に4人の大工さんが乗っておられる。

 ↓ 小路を抜けたところ。

 ↓ 慎重に片方ずつ屋根を降ろします。「指を挟まんように~」と声がかかる。

 ↓ 一人が前に回り完了。

 さて、ここで大工町の同級生 橋○さんと会った。彼も紋付き袴姿。先日の伊豆の温泉の話をして、地元の卯辰会の発足時から今までの話を聞く。フン、フン 納得。コートを取りに車へ戻る途中、桂湯に寄った。これもいつものパターン。↓ 左 お風呂屋さんだった頃のままのたたずまい。 右 奥さんのお名前が山本富士子さん。ご主人は私の同級生だが亡くなられた。その後、浴槽から脱衣場までそのまま利用し、小物づくりを続け展示しておられる。

 短冊に、「女湯に のぞき窓ある 元銭湯。ちょっとのぞいて見ませんか」と書いてある。   

           

 ↓ 水のいらない盆栽。 

 ↓ つまみのブローチ。2個買いました。

 この後、中安美代志堂に寄り「おこわ」を買う。お店は奥さんのお友達や近所の人でいっぱいだった。別院で一休み、と山門をくぐる。ずっと修復工事をしていたはずだ。完成したのだろう(ボケ写真だが)。

 本堂へ入ると椅子が並べてあり、白板にいっぱい何か書いてある。説法されるお坊さんの席もそのままでストーブまで置いてあった(火はついていないが)。次々訪れる参拝者(観光客)の皆さんは、お賽銭を入れ、お参りして帰られる。私たちももちろんそのつもり。そこへ丁度奥からお坊さんが出て来られた。輪番さんだな、と思った。思わず、「ご法話があったのですか」と聞いた。毎日、朝と昼にお説教があり、町の人(私の友人も)や町外からもたくさん聴きに集まると聞いていたからだ。

 「はい、今終わったところです。」 たぶん片づけに来られたのだろう。が、すぐに「ちょっとサービスで、お話しましょうか」と言われ、「人間とは、生きるとは…」(だったかな?)で話が始まった(ように思う)。とても難しく、ボーっとして見えたらしく「反応が鈍いですね」と何度も言われる。そのうち後ろの方で笑い声も出るようになり、ふり返るととてもたくさんの方が座って聞いておられる。おそらく皆、観光客だろう。仏心のある、いつもの信者の方と違い、緊張して聴いているから反応が少ないのかも。顔を見ながら話の内容も変えていかれたのだろう、私にも少しはわかる話になった。なんと3,40分もの法話でした。お礼を言い、お賽銭を入れてお暇したが、きっと名輪番さんにちがいない。↓ 終わった後、白板の文字を消しておられる。こんな話を毎日聞いておれば、心が穏やかになり、愚痴も悩みもなくなるかも。

 お墓参りをして、出丸町で6基の曳き山と庵屋台がUターンするのを見物するつもりだったのに、、ありゃ~、出丸へ行くとすでに全部Uターンを終え、こちらを向いて並んでいた。

コメント (6)

城端曳山祭 ’16 ①

2016-05-09 22:00:21 | 富山

 4月初めに「犬山祭」を見てきたら、久しぶりに故郷 城端の曳山祭りが見たくなった。急に思い立ち、提灯山の桟敷席とお弁当を注文した。2,3日前のKi新聞に、一番山「大黒天」の写真と時刻や通り道を詳細に書いた全面広告が掲載されたのがきっかけである。雨晴のTEさん訪問をいつにする?とSAさんと相談しているうちに、「私も久しぶりに城端の祭を見たいわ」と言われ、私の気ままなプランに乗ってくださった。

 5/5(木)、11時半近くに出発し、友人宅の前の図書館に駐車させてもらう。すぐ「曳山会館」へ行き、予約のお弁当をもらった。別院の御堂で食べる予定でいたが曳山会館奥の「蔵回廊」に食事スペースをとってあるからそこでどうぞ、と言われた。ここは、同級生のNOさん家(豪商だった)の蔵を町の資料館としていろいろ展示してある場所。↓のなまこ壁の中が蔵(資料館)。

  今日は閉館だが、蔵の前のスペースに彫刻が3点飾ってある。↓は、岩城信嘉氏の「童神像」。私の実家の向かいの石屋さんの息子さんだった。「おら」と言うシリーズの作品を作られた。

 ↓は、村井辰夫氏の「闘魂」と「猫と童子」。この方は、城端町に疎開しておられ、県内美術界に大きな影響を及ぼした方。娘さんが私と同級生だった。

         

 ↓ 「なんと里山からのおくりもの」。南砺のみょうが寿司、利賀そばそうめん、丸山と蕗の煮もの、ゆべし、五箇山豆腐、五箇山産赤蕪の漬物、砺波野ポークの生姜焼、牛乳ヨーグルトの城端シルクパウダーがけ、などなど、他にます寿司、ホタルイカ、白エビ、ぶりなど海の物も…。

  ↓ 「曳山会館」入り口。今日は無料。子どもの絵、むぎや祭やNORIN10のポスターも。中の広い展示場には、常時3基の曳山と庵屋台が展示されている。小原治五右衛門、荒木和助のプロフィールも説明されている。

 ↓ 天井から吊られている獅子頭。

 食事を終え外へ出ると、ちょうど一番山、東下町の「大黒さま」が宗林寺町から狭い小路を抜け、大工町へ出て来たところ。

 ↓ 前には、東下町の庵屋台が所望に応え、庵唄「雪巴」を唄っている。屋台の中から下駄ばきの若連中の三味線、笛、太鼓の音が聞こえそう…

 この後、この見どころポイントでじっくりと曳山と屋台を見物することにしよう。

コメント (10)

「城端時報」のこと

2016-02-27 10:03:13 | 富山

 私の生まれ故郷、南砺市城端に90年以上発刊され続けているタブロイド版の地方紙がある。「城端時報」(トップ写真)と言い、月1度の発行だ。我が息子が大学生の頃(その大学では地方出身の学生のため年に1度保護者会が開かれていた)、今は亡き同級生のKAさんと会場で会い、勧められて送付してもらうようになった。理髪店を営むHAさんが、その新聞のお世話をしておられたのもある。

 長年発行に携わり、編集長を務め、コラム欄「地鳴」を執筆しておられるのが山本哲也氏(何度もKI紙などで紹介された)である。氏は、私が中学生の頃青年国語教師だった。2,3日前に送られて来た「城端時報」2月号の「地鳴」を読んで驚いた。我が舅が、戦時中マニラ日本人小学校の校長をしており、終戦時に児童や父兄と一緒にジャングルを逃げ回ったと言う話を、夫や義弟たちから聞いていたが、城端中学校の職員室でも先生方を前に話しておられたのだろう。話好きで、話の上手な校長先生だったから。生徒にとっては週1度の朝礼の話が楽しみ、中3の社会科の授業を週1度受け持ち、チョーク片手に「時事問題」を話されたものだ。

 ↓が、そのコラム欄。両陛下のフィリピン公式訪問のニュースに始まり、城端の田原氏が富山県遺族会長として最前列で陛下のお言葉を受けられたこと、最大の激戦地フィリピンでの犠牲者のこと、そして義父が児童や職員と共に「動く生きものと言う生きものを、口に入れて害のない植物と言う植物を食べながら逃げて生き延びた」と言う話が書かれている。

 私は自分の父の慰霊のために、2度フィリピンを訪ねたわけだが、その都度、旧マニラ日本人小学校の跡地の傍までだけでも行ってみたい、いつか個人で来るしかない、と思っていた。どの辺のジャングルを通ったのだろう?マニラ市街戦(昭和20年2~3月)の頃はどうしておられたのだろう?と疑問にも思っていた。
 芦屋に住む2番目の義弟の話では、マニラが陥落する前にマニラを出て北を目指して逃避行が始まったようだ。最後に生きて帰れたのは、児童は800人中40人、教職員は40人中5人だったそうだ。ラワグと言う町は、今はスペイン時代の教会も残る観光都市となっており、国際空港もある。

 このコラム欄のコピーを頼んだ平米公民館のYAさんに「1枚置いて行くから読んでね」と渡したら、その場ですぐ読み、「最後の言葉がいいねッ!」と即座に感想を一言。

コメント (12)

今年初めての雪?

2016-01-13 22:16:26 | 富山

 日記の順から言えば、「初釜」と「金沢1月定例能」が先、しかもお正月らしい話題なのだが…。その前に、ちょっとビックリした雪の話を…。

 年暮れに「戦争遺児のフィリピン巡拝」の旅に申し込み、参加決定の通知が1/5日に届き、その後書類の準備や旅費の振り込み、パスポート申請にテンヤワンヤしている(今もまだ)。1/13(水)は県遺族会館で参加者の顔合わせと、打ち合わせがあり補助金もいただいた。今回は役員も含め富山県から5名の参加だそうだ。

 帰りに久しぶりに婦中の「カンポの湯」に寄ろうかと、準備をして行った。行きは呉羽経由の道で行ったのだが、昼前でもあり、とてもいい天気だった。帰りに古沢から黒河へ出ると、急に道路脇に雪が積もっているのに気づいてビックリ。カンポの湯へ行く途中、池多郵便局に寄り(ときどきこの郵便局を利用する)、思わず「この雪昨夜降ったのですか?」と聞いた。

 そうすると、局員さんもお客さんも声を揃えて「この一帯だけ降ったのですよ。一昨日の夜降ったらしく昨日(12日)朝起きたら10センチも積っていたのです…」 とのこと。池多一帯と言うか太閤山の回りと言うか…、だそうだ。新年になって初めての雪。
 ”雪のないお正月”なんて喜んでいたが、そろそろ降り出す前触れだろうか。外へ出て写真を撮っていると、先ほど話した人が出て来られ、この辺一面真っ白だった、と言われる。もう融けてしまって…と。            

           

 カンポの湯の坂道を上るとやはりまだたくさん雪が残っていた。が、ランチとセットのつもりだったのに、ランチのラストオーダーは1時半、「空腹でお風呂もまずかろう、また今度、今夜は家で柚子風呂に入ろう」と心の中で呟き、素戻りした。田尻池でも、と覗いてみたが、白鳥はお出かけ。でも、4,5台の車が止まっている。帰宅を待っているのかしら。

 私は、ココスでお腹を満たし、遺族会でもらって来た「両陛下が慰霊の旅に」の記事を眺め、ゆっくりと過ごして来た。↓は、 “鉄板ジュージュー・中華海鮮あんかけご飯 ランチ”。 新メニューかな?美味しかったですよ。ホタテ、あさり、エビなどが入っています。ご飯にかけて食べます。 

コメント (7)

鶴瓶の家族に乾杯・射水編~松原酒店

2015-12-11 23:33:15 | 富山

  かなり前の「能楽お囃子の会」のお稽古日、Maさんが「ウチへ鶴瓶さんと江口さんが訪ねてきたよ」と言われ、「え?あの古いチラシを見に?」と聞いたものです。「鶴瓶の家族に乾杯」の番組で偶然立ち寄られたとか。11/30(月)に放送と聞き、楽しみにしていました。「いろいろ話したけどカットされているかも」と、と言うことでした。早くから録画予約をして、ゆっくり見ました。

 1年前に、新湊祭りを背景にした映画の撮影があったそうです。江口洋介が漁師に扮して出演し、それから1年、懐かしい新湊へ鶴瓶の番組のゲストとして再び訪れた、と言うわけです。

 テレビでは、小野文恵アナが射水市新湊を紹介します。左から 海、 漁港、下は、シロエビ、紅ズワイガニ。 

                  

                

 さて、江口さんはバスから降りる時、ちょっとこけて降りなおしをしていました。 ↓、内川の橋を渡りながら、船を見つけ、「定置網漁をする役でした。」 と懐かしげ。   

 ↓ 町のあちこちに映画のポスターが貼ってあります。町総あげの出演だったとか。主役の竹野内豊さん。     

 放生津八幡社にお参りの後、’いつでも買える’ 古いたばこ自販機を見つけました。錆びたコイン入れに100円玉を試しに入れる鶴瓶さん。たばこもお金も戻って来ません。「その店、空き家ですよ。大家さんもいない。」と、現れたのが、酒屋の松原さんと魚屋の片口さん。「お宅もやってないんですか?」 「やってますよ。」

  

 ↓が、Maさんこと、松原さんのご主人。鶴瓶さんとのかけあいが、漫才みたいに軽妙です。

 ↓ 江口さんが、「酒屋も見たくないですか?」と鶴瓶さんを誘って…。

 ↓ 松原酒店の玄関口。由緒ある酒店らしい店構えです。

 ↓ 奥さん登場です。「あっ 江口さんも!」 この方が、謡、仕舞、太鼓、大皷を見事にこなしておられる私の大先輩(年は下ですが)松原さん。

  ↓ 店に飾ってある、江戸時代のチラシです。7月頃かKi新聞に大きく掲載されましたが、京都の骨董市で見つけたものを上市のお寺の住職が保管しておられたようです。名前の「次吉郎」で、新湊の松原酒店とわかったとか。屋号も書いてありますね。

 「○にかがうちの屋号なんですね。よっぽど裕福な家しか…」  

  

  次に、東町の山蔵に案内してもらいます。これは100年前の曳山だそうです。

  一年に一度の曳山なのに、「今年は、映画のおかげで8回ほど出しましたけど。夜中3千人くらい集まってもらって…。飯食わして あとは一杯も飲ませなきゃ。」と笑う松原さん。

 ↓ 祝儀をもらうとこのパンフを、と東町の曳山のパンフを見せてもらい、「さっきの100年前の凝ったチラシを見ると、このチラシはちょっとアレですわな。」と鶴瓶さん。「これは、10年前に私がパソコンで作ったやつだ」と松原さん。大笑いでした。

  最後に祭の映像です。 

  

 この他に専念寺の傘松、そのお寺の住職さん一家、小杉高校柔道部などなど…楽しい番組でした。松原家にはあちこちの知人から電話がたくさんかかったそうです。

コメント (4)