1年がかりで計画した金沢での同窓会が無事に終わり、久留米のMUさん、川越のTOさんと金沢に2泊した。3日目、TOさんと「富岩水上ライン」に乗って岩瀬へ行き、岩瀬の町を散策した。5/26(木)のことである。
朝、ホテルを出て金沢駅でMUさんと別れた。彼女は、小松へ行き飛行機に乗る。TOさんと私は富山へ行き富岩水上ラインで岩瀬まで行く予定。名残惜しいが「また、東京でお会いしましょう」と別れる。が、この年齢では、これが最後かも、との心の声がいつも聞こえるのだ。「あいの風」の電車は、金沢始発で、通勤通学時間帯とずれていることもありとても静か。ゆっくり話しながら、景色を楽しみながら乗れた。
午後の「水上ライン」を予約していたが午後は雨の予報、午前に変更できるか電話をし、タクシーでスタート地点の環水公園へ駆けつけた。息を切らしながら水辺へ降りる。FUGAN号(トップ写真)は満席、SORA号は14,5名、すでにガイドさんの説明が始っていた。駅でスーツケースを預ける暇もなく、引っ張ったままで乗船した。すぐに救命着を渡され、暑いけど上に着込む。千保川クルーズでお馴染み。
環水公園を出ると両岸は美しい木々の緑、時にはサギやカワウ、鴨が見られる。ガイドさんは、どの辺にどんな木があり、どんな鳥と出会えるかよくご存知で、上手く見つけては教えてくださった。
淡々とした話しぶりだが、わかりやすく可愛らしくすぐ質問したくなってしまう。まず、運河の歴史から…。リタイア直後の頃、県政バスなどでよく呉東地区を回り、その時にもこの歴史は聞いた記憶がある。
江戸時代から富山湾には多くの船舶が停泊し、岩瀬地区は商業が盛んだった。が、岩瀬から富山城のある中心部まで遠くて不便、水運が不可欠だった。一方、神通川は富山市内で大きく蛇行しており洪水が絶えず、川の流れを変える工事が行われた(当時の川は今の松川)。昭和の初め、運河を造りその土砂で廃川地を埋めたそうだ。流域には多くの工場が建設されて、富山の工業は発達したのだ。
しかし戦後、流域の工業は衰退し、木材置き場になりつつあり、運河の埋め立ても検討されたが、1984年に、むしろこれをいかして運河を中心とした街づくりを目指すため残すことを県が発表し、現在に至っているとのこと。
↓は、「中島閘門(こうもん)」の説明をするガイドさん。
↓の図のように、水位を高くするしくみ。流れの低い所から高い所へ船を運行します。
↓ 奥に見えるのが「中島閘門」。係の方が、右の建物に待機して門を操作します。
↓ 少しずつ、水位が下がります。
↓ 開門する両側の柱部分は木材です。
↓ 少しずつ開いて来ます。橋の上の人たちは見物人?
↓ 向こうの景色が見えて来ます。
↓ 「富岩号」は、ここでUターンして戻ります。
↓ 富山港へ近づくと、車の山。ウン?ナンバーがない!これは輸出品NO.1の中古車。
↓ 永ちゃんのツアートラックも輸出品?
↓ 輸出NO.2の金属くず。
1時間の楽しいクルーズだった。岩瀬の町を歩き、白エビラーメンを食べ、ライトレール(チケット付き)で帰った。Toさんは、富山湾クルーズだと思っていたそうだが、十分満足されたようだ。富山駅でお別れした。