Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

マーク セフトンの新しい絵

2014-10-30 | 日記・つぶやき

 10月末に娘夫婦が高岡へ来ることになっていた。5月に個展を開いたばかり、そんなに作品がたまったの?と私にしてみれば不思議だが。  
 10/27(月)朝、関空へ到着、比叡山を訪ねそこのホテルに泊まる、高岡へは28日(火)の夜と聞いていた。が、一切連絡がないのでちょっと心配していた。夕方、7時頃に着きます、とケータイにメールが入り、ほぼ定刻に着いた。今回は電車でなく、レンタカーだったので時間の予測ができなかったようだ。

 11/7~9日の個展に向け、これから準備で忙しくなりそうだ。前回で要領がわかるから、今回は自分たちでする、と言い、昨日(10/29)は「七本杉」と「サイゴ堂」はもう回って来たそうだ。

 ↓は、スーツケースから絵の作品を出して広げたところ。これからまだ手直しをして、フレームを決め、作品に仕上げて行く。今回はペンシル画や水彩が多いようだが、油絵も10点ほどある。

              

               

                

              

 いろいろと試みているようで、前回の作品とかなり変わった絵も多い。
 個展は、高岡市末広町 画廊「七本杉」にて、11/7(金)、8(土)、9(日)の3日間だけです。案内状はいずれアップします。ぜひ、予定の中に入れてくださいませ。

 今も、私の横で食卓の上にスケッチブックを広げ、なにかパタパタと叩きつけるように塗っているので、驚いて覗くと紙の上にワックスを塗っているのだそうだ。その上に絵具で描くのかしら?


うおづ散歩②~魚津城の戦い・松倉城址

2014-10-29 | 富山

 10/17(金)、高岡市退公連の研修旅行の日。KA先生の企画で、「うおづ散歩~魚津の史跡めぐり」を楽しんだ。現在も魚津水産(株)の倉庫として使われている「米騒動」(大正7年)発祥の地の米蔵を見学後、いざ、魚津城へ!! と山へ登るのかと思いきや、ここは平城。北陸街道から数分の距離にある「大町小学校」だった。魚津城跡が大町小学校になっているわけだ。  ↓は、校門。 

 ↓ 校門のすぐ傍に「江戸時代の大町の絵図」があり、”魚津城址に輝く大町小学校”とある。

 校門を入ると運動場になり、すぐ横に建っている保育園児の園外保育の時間。園児たちが声をそろえて「こんにちは。よくいらっしゃいました」(だったかな?そのようなご挨拶)で我々を迎えてくれた。見学者が絶えないのだろう。小学校の正門に回ると、前庭に城跡を伺わせる城壁の石や案内板があった。          

 ↓ 案内板の地図。「天地人」のドラマを覚えておられる方もおられよう。謙信の死後家督相続争いが長引く中、織田信長はその機を逃さず、佐々成政を富山城へ入国させ、越中の西部域をほぼ制圧させる。上杉勢は徐々に東部へと追いやられた。魚津城や松倉城は、上杉方にとって越中進出、越後防衛の拠点であった。謙信の後継者となった景勝は、この二つの城を織田に対峙する防衛の要と重要視していた。

 天正10年(1582)3月、柴田、前田、佐々ら織田方の北陸討伐連合の大軍が、中条ら上杉方の魚津城を攻撃し始めた(↑の地図を見ながら読んでください)。景勝の側近の直江兼続宛てに、救援の要請と落城間近で決死の覚悟であることを書状で伝えている。その後、二の丸が落とされ弾薬も尽きた。
 上杉方はすぐに救援に動けなかった。景勝が援軍を率いて天神山城に布陣したのは、6日後だった。が、織田勢の越後攻撃も激化し、さらに6日後、景勝はやむなく天神山城を撤退し春日山城へ戻るのだ。魚津城は孤立無援になる。

 ここから「悲劇の籠城戦」が始まる。魚津城内では兵糧も尽き、そこへ織田方は総攻撃を開始する。景勝は城を捨て降伏するよう命じるが、魚津城将たちは敵に降ることを潔しとはせず、各人が耳に穴を開け、自身の姓名を記した木札を鉄線で通し、自害して果てたと言う。城将に限らす老若男女が無念の死を遂げた。80日間に及ぶ籠城戦の末、6月3日に落城した。

 この「魚津城の戦い」で特筆すべきは、すべての将兵が最後まで戦い抜いたこと。籠城戦では、裏切りの発生によって内側から崩壊していくことが多いが、魚津城将は結束を固くし、また、上杉の誇りから、立派に戦い抜いたと言われる。この戦いで果てた上杉方の老将・吉江宗信は、その功績から、山形県米沢市にある上杉家の菩提寺・春日山林泉寺内に墓が建てられ、その側には、上杉景勝夫人や直江兼続夫妻ら上杉家の重要人物の墓が建てられているそうだ。
 とは言え、ドラマの中では吉江宗信を山本圭が演じており、いかにも哀れ、なぜ降伏しないの?景勝はなぜ越後へ戻るの?などと思っていたものだ。

 さて、魚津城の落城が6月3日、本能寺の変が6月2日である。「ケータイ電話があればわかったのにね~」と誰かが呟いていた。

 松倉城は山城である。小型バスで4,50分登っただろうか。狭い駐車場があり、山まではそこからさらに登る。私は下で待った。頑張れば行けそうだったが立山の二の舞は避けないと、と我慢する。     

             

 ↓ 主郭の本丸は、標高413mで富山湾から高岡二上山まで見えるそうだ。   

  たくさんお勉強をした後は、金太郎温泉でお昼の宴会。メンバーの中には初めて会う方もあり、珍しい話題、興味ある話も聞けて楽しかった。日帰りでは入れない「壁画大浴殿」へゆっくり浸かって来た。            

             


うおづ散歩①~米騒動の米倉

2014-10-27 | 富山

 「魚津散策」の研修旅行にかなり前に申し込み、楽しみにしていた。米騒動の跡、魚津城跡、松倉城址巡りなどである。魚津と言えば、子どもたちの幼い頃は、水族館や埋没林へ、勤めていた頃はミラージュホールの吹奏楽コンクールに、リタイア後はまたまた水族館や埋没林へ、と訪ねる機会はちょいちょいとあったが、魚津の歴史はまったく知らず、街中も歩いたことはない。

 数年前の大河ドラマ「天地人」(妻夫木聡が直江兼続を演じ、加藤清四郎が子役で「わしはこんなとこへ来とうはなかった」で人気を博した)で、上杉景勝が織田勢に攻められた時、魚津城や天神山城が舞台となり壮絶な戦いが続く場面があった。当時の「高岡市民歩こう会」でもこのコースを歩いたはず(私は参加していないが)だ。その後ずっと気になっていたお城だ。

 10/17(金)、約20名のメンバーは、高岡駅南より小型バスで出発。魚津市に入り、市の学芸員の方が同乗された。京都出身の青年だが、魚津の歴史を地理を熱心に勉強しておられるらしい。
 まず、「米騒動」発祥の地。旧十二銀行の米倉を訪ねる。ここは、今も魚津水産株式会社により使用されている。左に見える瓦屋根が倉庫(米蔵だった)です。         

  ↓ 倉庫の東面外側に十二銀行のひし形の蔵印がある。鉄板で覆われていたが今回の修繕で見つかった。 

 ↓ 米蔵は7部屋に分かれて1部屋ずつ入り口がついているが、支柱のない部分の屋根が長年の重みで沈んでいた。今回の修繕ではその形をそのまま残した。(右の部分が凹んでいます)  

  ↓ 半間間隔に主要な柱が入る強固な構造。凝灰石の切り石を積み上げ、荷物を傷めないよう板を張ってある。   

 ↓は、7部屋並んだ米蔵の見取り図。             

             

 大正7年(1918)7月23日、北海道への米の輸送船「伊吹丸」が魚津町に寄港した時、米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら(陸仲仕)数十人が、米の積み出しを行っていた大町海岸に集まり、「積み出しを止めてほしい」と懇願した。そして積み出しが中止された。この事件が各地に広がり「米騒動」となり、当時の寺内内閣は総辞職し、原敬内閣が誕生したと言われる。米騒動~打ちこわし発祥の地、魚津のおっかちゃんらは気が荒い…と言われるのは困ると言うニュアンス。海岸には↓のモニュメントがあり、当時を語る詳しい資料が掲示してあった…。    

  ↓ 海に沿って北陸街道が通っている。ここから、魚津城跡へ向かいます。              


千住真理子 ヴァイオリン・リサイタル

2014-10-24 | 音楽

 10/20(月)、朝から小雨だが、シルバー人材センターから予定通り庭の木の剪定に来られた。お隣のMAさん宅とセットで1日来てもらっている。いつものお馴染みの方が3人だ。雲龍柳の枝払い、今年枯れてしまったコニファーと、ただただ伸び放題のスモーキングツリーを根元から切ってもらうことにした。花水木、ムクゲ、金木犀などその他の木はお任せだ。昼前には我が家の分はもう終わった。お茶とお菓子の準備だけして私は出かけた。

 午後は、演劇鑑賞会の運営サークルの打ち合わせ。、私のサークルから根分けされたなはさんのサークルと一緒に、12月の「くにこ」例会の運営を担当する。なはさんと待ち合わせランチをした後、演劇事務所へ。この日はシール作りをして、前例会の「島」の感想を話しあった。いろいろな感想が出るので、この時間は楽しい。
 終わる頃、SI子ちゃんが来られ、「急にお通夜に行かねばならなくなった。千住真理子さんのコンサートの券があるけど誰かもらって」と言われる。「いつ?」 「今夜」 「もらってもいいの?」 と言うわけで、急に千住真理子さんのヴァイオリンソロリサイタルに行くことにした。音楽友の会の例会だそうで満員だった。          

 ヴァイオリンソロなんて何年ぶりだろう?昔、堀正文さんのを聴いたな~。寺井尚子さんのジャズヴァイオリンソロもチケットをもらい聴いたっけ。そう言えば、3年前にブリストルで、マゼール指揮のコンサートを聴いた時、諏訪内晶子さんのヴァイオリン協奏曲を聴いたのが一番新しい、など懐かしく思い出される。↓は、その時のブログです。http://blog.goo.ne.jp/67kiyoh/d/20110508

 千住さんのヴァイオリンは、300年前に作られたストラディバリウス「デュランティ」。湿気と温度が合わないといい音色が出ない。先日、高岡文化ホールへ来られたと言う兄の千住明さんが「とても良いホールだよ」と言っておられたとか。「さっきリハーサルをしたら、とてもいい感じでご機嫌な音色を出します」とのこと。クラシック音楽はマイクを使わないのが特徴。ホールの環境ー壁、天井、床により音色が違うそうだ。また、ピアニスト、山洞智さんのピアノはスタンウエイ(運んで来られるのですね)。

 プログラムは、休憩を入れて16曲。4曲ずつ解説しながら一気に演奏される。最初の音色を聴いて驚いた。弦と弓の間に隙間(膜)があり、広がったりくっついたり、ふるえて共鳴しているのが感じられるような音。深みのある不思議な音色だ。
 まず、「グリーンスリーブス」、「ホフマンの舟歌」、チャイコフスキーの「センチメンタルワルツ」、ドビュッシーの「小舟にて」と4曲。「小舟にて」は静かな海に小舟を浮かべまどろんでいるような曲…などと優しい語り口のわかりやすい解説に引き込まれる。

 休憩後には、お兄さんの千住明さん作曲のものを2曲。ひとつは海外の貧しい子どもたちにランドセルを贈るボランティアがあり、真理子さんはたくさん集めていたぬいぐるみを全部贈った。その時のお母さんとのやりとりや想い出を曲にした「海を越えた贈り物」。もう一つは、そのお母さんが昨年亡くなられ、3日目にお母さんのために作った曲「アンダンテ」…歩くような速度で、人生を終えて遠ざかって行くイメージで。
 次にショパンの「ノクターン 遺作」と「別れの曲」、最後はクライスラーの「ウイーン奇想曲」と「ジプシーの女」。クライスラーの曲は、ヴァイオリンのためのもの。よくわからない私にも、ヴァイオリンの音色と表情が充分に楽しめた。お二人とも笑顔を絶やさず、息もピッタリ。技巧的なポーズがなくて好感が持てた。
 拍手が鳴りやまない中、アンコール曲を3曲も。最後は「チャルダッシュ」。前の席だったので指の動きもよく見えてあの速い弓づかいに感動。

 ↓は、ロビーでのサイン会。CDを買った人たちの行列がすごい。一人ひとりと言葉を交わしておられた。 

 

 SI子ちゃんのおかげでいい演奏会を聴かせてもらった。


おしっこの色に一喜一憂

2014-10-22 | 健康

 久しぶりに「簡易人間ドック」を受けたことを前に書いた。治療中のもの(高血圧と心房細動)以外で新たにコメントされたのが「腎機能が少し低下していますね。かかりつけのお医者さんと相談してください」だった。1週間後に送られて来たリポートには、血清クレアチニンの量が標準値よりちょっと上とあり、ま、次回の診察日に相談しよう、と軽く考えて、「立山行き」を決めた。大観峰の展望台まで上り、室堂ではみくりが池まで往復した。昨年よりよけい歩き、嬉しかったのだが…。

 翌日はボランティアと観劇の日。そのことも先日書いた。そしてその日の夕方、自分の尿を見て驚いた。赤褐色なのだ。え?いつから?翌朝も同じ。朝1番の尿の色など少し濃いめになるものだが、そんなものではない。もっと濃いのだ。連休の日・月曜日、ずっとそのまま。毎回毎回茶褐色だった。見る度にショック。よほど救急センターへ、と思ったがひたすら水分を摂り、安静にしていた。連休明けの4日目昼、ようやく薄くなった。

 いつも行くSU医院の先生によると・・・、
 まず、水分不足。ペットボトルのお茶500mlと牛乳では足りない。汗をかいていないように思っても風に飛んでいるだけ。
 次に、急に激しい運動をした後、筋肉が痛んだときに筋肉内の成分が血中から尿中に出て、茶色っぽい尿になることがある。(剣道で踏み込む時など)

 ドックのリポートでは、蛋白も血尿もマイナスだから腎臓機能とは関係ない。念のため、血液検査をして、ドックの時と比べましょう、 と仰った。
 たまたま、その日の新聞に「慢性腎臓病」の大きな記事が載り、”沈黙の臓器・腎臓”などとあったものだから、もしかして透析!とまで心配をしたのだ。大事なくてよかった。

 何人もの友人からアドバイスをもらった。森のくまさんから「元気の出る歌と踊りを教えま~す」と電話があり、YAさんと出かけた。まめさんも付き合ってくださった。この日はカメラを忘れ、↓とトップの「くまさんガーデン」の写真はくまさんのブログから拝借しました。↓はオオセンナリの花。トップは、中庭の千日紅とコリウス。            

 まず、気功の「八段錦」にトライする。DVDを見ながら音楽に合わせて10分近く。以前、4段までやったが今回は最後まで。なかなかの運動量だ。使う筋肉は、ラジオ体操によく似ている、と思った。
 コーヒーにお菓子、漬物をつまみ、間に雑談も入れながら、次は、「惜別の歌」を歌う。私がブログで、知らない歌と書いたので、いつか一緒に歌いましょう、との約束だったのだ。くまさん宅には、歌集やコピーした歌のプリントがたくさん入っている引き出しがある。ピアノ伴奏はもちろんくまさんだ。小林旭の他に賠償千恵子の歌もYouTubeで聴けるよ、とまめさん。↓に、千恵子さんの歌をコピーした。しばし、美しい歌声をどうぞ。 

http://www.uta-net.com/movie/96759/

 では、最後に、メインの歌と踊りを紹介します。

 ♪ ふにゃ ふにゃ   私はお休みしているの  
   ふにゃ ふにゃ   何があっても気にしない   
   ふにゃ ふにゃ   私はお休みしているの  ふにゃ ふにゃ  ♪

 メロディは好きなようにつけます。両手両足、体全体をクラゲのように揺らします。コレ、くまさんの自作かしら?元気が出て、翌日のMiTUの特別練習、翌翌日の演劇鑑賞会の打ち合わせと突然もらった「千住真理子コンサート」に立て続けに出かけたら、またまた寒気と発熱、次の2日間はクラゲになってゆらゆらと寝ていました。   


演劇 「島」~青年劇場

2014-10-20 | 映画・テレビ・演劇・芸能

 立山大観峰まで、出かけた翌日が演劇鑑賞会のお芝居の日だった。しかも、午前は野村の多文化児童勉教室の当番の日。ちょっとつらいが、その予定で動く日は、体も気持もそうなるのは長年の習慣からだろう。

 野村児童文化センターから直接、文化ホールへ行き、和庵でランチをとる。私が終わる頃、近くで聞き覚えのある声がする、と思ったら同じサークルのSUさんだった。2階で「切り絵展」をしており、当番なのでお芝居は見られない、ご主人だけ見に来られると言う。「もったいない、ちょっと抜けて来れば?」と言うが、代わりの人がいないとか…。

 1951年、瀬戸内海の小島、呉市倉橋島。20歳の時に広島で原爆に遭い、九死に一生を得た栗原学は故郷の島に戻り教師をしている。島は、前年に始まった朝鮮戦争の特需によって支えられ、学の妹の史(ふみ)は米軍の進駐軍の臨時雇いで働き、叔父の大浦は「魚雷ばらし」で儲けている。隣人の川下家も大浦の仕事を請け負って生活している。
 学の教え子である川下家の二男・邦夫は高校への入学が決まり、かつての教え子・玲子も学を慕い、よくやって来る。のんびりした発動機の音とハンマーの音が交錯する島…。舞台は、そんな場面から始まった。↓は、倉橋島。              

 主人公の栗原学のモデルは、日本原水爆被害者団体・代表委員の坪井直(すなお)さんです。原作者の堀田清美さんが、弟の幼なじみだった坪井さんの壮絶な被爆体験を聞き書くことを決めたそうだ。被爆者の現実を初めて描いた演劇として高く評価され、岸田国士戯曲賞を受賞し大反響を呼んだ舞台だったが、ここ数十年はプロの劇団が演じていなかった。それを「青年劇場」が再演したわけだ。

 演劇には、実際の話がそのまま盛り込まれている。被爆直後に死を意識し、地球に生きた証を残したいと、地面に石で名前を書いたこと…。重体で広島の救護所にいたところを、母親の必死の呼びかけに応え、発見されたこと…。教師を辞めて島を出ようかと悩んだこと…。原爆にあったことが原因で、結婚に苦労したこと…など、戦後間もない、坪井さんの苦しかった日々が描かれる。↓は、2010年の舞台写真から、母親(上甲まち子)、教え子の玲子(伊藤めぐみ)、学(清原達之)。            
  ↓ ある日、東京で働いている学の同級生・清水が現れ、特需により成り立つ”島”の経済と閉鎖性を批判する。自力で人生を切り開いているかつてのライバルに、学は複雑な思いを抱く。            

 そんな中、解体作業中の魚雷が爆発する大事故が起きる。隣家の川下家では父は死亡、長男は逮捕され、二男の邦夫は荒れる。母親のきんは原爆の日に妹を探しまわった時の2次被爆のため高熱を出して死んでしまう…。    
 物語は原爆投下から6年後の設定。放射能の影響による白血病を発症する者が出てきても、原爆との因果関係もわからず、きびしい情報統制がしかれていた当時の日本の、瀬戸内海の小さな島では、治療法もその危険性も、原爆に関する全ての情報が不足していた。ただ、ピカ”を浴びた人に対する恐怖と不安感がふくらみ、“被爆者差別”が生まれる。
 栗原学は、生徒たちにも島の人にも愛され、一見何不自由なく暮らしているように思える。が、その眼差しには、同情と、不安感と、恐れがひそんでいた。「ピカさえ浴びなければよかったのに、おしいことをした」と、まるで彼の人生が終わってしまったかのような言葉がささやかれる。仕事や結婚や多くのものを諦めざるをえないなかで、学が決して諦めなかったこと。それは“生きる”こと。島に落ちてゆく夕日の赤い陽の光を見ながら、「くそ!生きてみせるぞ!」と拳を握り締める場面でカーテンが降りる。

 印象に残る学の言葉:「わしももっと長生きして、原子爆弾でも人間を殺すことは不可能ちゅうことを証明せにゃいけんのう」
 「わしらが白髪の爺さんになる頃には、この地球上もだいぶ様子が変わっとるよの。それまで、一粒一粒、種を大事に蒔いて生きるんよの。-その時は、人類に貢献した言うんで」
  

 坪井さんご自身は、現在89歳、ご健在です。学役の清原さんは稽古に入る前に、倉橋島の坪井さんの実家辺りを訪ね、坪井さんにも会い、3時間近くお話を伺ったそうです。     
 ↓ の4年前のポスターは今も同じ。「島」の文字の上に原爆ドームがあり、その上を平和のハトが飛び交っている。

   トップ写真と、↓は、高岡例会の交流会の様子とロビーのポスター。ポスターはすべて高岡で公演された「青年劇場」の演劇です。(3枚とも、青年劇場のHPの公演日誌から拝借しました)           

            

 原爆資料館を何度も訪ね、語り部さんの話を何人からも聞き、本も読み、テレビの映像も見て…私の世代の日本人として「ヒロシマ」のことはだいたい知っている思いでいたが、被爆者の苦しみが新たに胸に迫ってきた。


試写会 「蜩(ひぐらし)ノ記」

2014-10-17 | 映画・テレビ・演劇・芸能

 9月末に見た映画「蜩ノ記」の試写会の紹介がすっかり遅れ、10/4(土)からすでに公開されている。熱心に試写会に応募しているNOちゃんからときどきお誘いがあるのだが、なぜか火曜夜が多く、私は合唱練習日と重なりいつも見送っていた。今回は木曜日、ようこ姫さんと待ち合わせて見に行った。

 かなり前から、葉室麟作の「蜩ノ記」が面白いよ、と「あかね」の友人から聞いていた。直木賞を受賞した本だそうだ。それが映画化された、と言うわけだ。↓は、映画館前のポスター。左は、豊後羽根(うね)藩士・戸田秋谷(役所広司)、右は、娘・薫(堀北真希)。  

  ↓は、左が、妻・織江(原田美枝子)、右は、同じく羽根藩士 檀野庄三郎(岡田准一)。            

 豊後(大分県)、羽根(うね)藩。これは架空の藩だそうだ。藤沢周平の海坂藩のように。 城内で刃傷騒ぎを起こした檀野庄三郎(だんの しょうざぶろう)は、家老・中根兵右衛門の温情で切腹を免れたものの、ある男の監視を命じられる。その男とは、7年前に藩主の側室と不義密通をし、その罪で10年後の切腹と家譜の編纂を命じられ、向山村に幽閉されている戸田秋谷(とだ しゅうこく)だった。

 庄三郎は、秋谷の切腹の期日まで寝食を共にし、「家譜」の編纂を手伝いうことになる。秋谷は机に向かい「家譜」の編纂に携わるだけでなく、畑を耕したり、村人の力になったりしながら運命を受け容れ、穏やかに暮らしている。その誠実な人柄を目の当たりにするうちに、秋谷に敬愛の念を抱き、次第に秋谷の無実を確信するようになる。やがて庄三郎は、秋谷が切腹を命じられる原因となった側室襲撃事件の裏に隠された、もう1人の側室の出自に関する重大な疑惑に辿り着く・・・。はたして秋谷は無実なのか…。

 原作本では、その謎ときがミステリーを読むようでぐいぐいと引き込まれるとか。映画は、淡々と物語は進み、秋谷を支える妻と娘も、思いを胸に秘め表には出さず、村人と一緒に莚作りに喜びを見出している。 
 理不尽な命令により切腹と言う運命が待っているにもかかわらず、1日1日を大切に「家譜」作りに勤しむ秋谷と家族の生き方に感銘を受ける。

  原田美枝子はどんな役にもなりきれる女優さん。大好きです。役所広司も、うどんを食べているCMの顔とは似ても似つかぬ崇高なたたずまい。            

 オールロケで撮影されたそうで、遠野を始め、各地でロケが行われたようだ。高岡瑞龍寺も出て来ると後で知った。今から見る方はご注目を。

 映画を見る前に夕食をすませる。最近チョクチョク入る(東京でもお世話になった)大戸屋へ。              

 ↓は、真鱈と野菜の黒酢あんかけと雑穀米飯とサラダ。

           


秋の立山’14

2014-10-13 | 自然・海山草花

 10/5(日)、金沢へ無事にお能を観に行けた、体調は回復した、と喜んでいたら、同じその日小雨の中を、SAさんは「歩こう会」の仲間と小杉駅~太閤山ランドを往復したそうだ。また、MiTUの友人たちは午前晴れているうちにと立山室堂まで行って来たそうだ。なんと元気な…!唖然としてしまう…。

 そう言えば、5月に娘たちが立山へ出かけた時、MiTUバスのTAさんからもらったアルペンルート半額券が2枚残っていた(彼女たちは忘れて行き使わなかったのだ)っけ。今年は無理と思っていたが、券を無駄にするのももったいない。金沢へも行けたし…などと私流の理屈が頭をよぎる。
 折しも、6日は初冠雪、室堂平は真っ白とのニュースが入った。早く行かないと…。天気予報は、連休は雨だ、土曜は予定がある。10日(金)か15日(水)だな~、と思いながら何人かの顔を思い浮かべ、まずメールしたSAさんが迷わずOK。急だが10日に行くことにした。私が車を出すと言うのに、SAさんは私を気遣って電車にしようと主張。高岡発7:23に決める。室堂へは10時半ごろに着くだろう。大観峰までか、黒部平までか、お天気と気分次第かな?

 立山駅で聞くと、山の上は晴れているとのこと。行き先を「大観峰」と決めた。立山駅~大観峰は、往復券半額で3,780円。美女平からバスに乗る。途中、称名滝はクッキリと見えたが、七曲あたりから濃いガスで視界ゼロ。窓から何も見えない。え~?山の上もこんな?と心配したが、室堂に近づくにつれ立山の山々がハッキリ見えて来た。
 すぐにトロリーバスに乗り換え、雄山の真下700mと言う立山トンネルを抜ける。立山の下を掘るとは!来るたびに、人間の力の偉大さに舌を巻く。

 大観峰展望台からは後立山の山々が見晴らせる。↓は、黒部湖と針の木岳(真中)。三脚を持ったカメラマンも多い。ほとんど長野県側から来た人たちだ。「黒部ダムまで行って来られましたか。紅葉はどうですか」と尋ねると、「私たちそこから来ました」と。両側から来た旅行者が、時間的にここで出くわすわけだ。   

  ↓は、大観峰の紅葉。向こうは黒部湖。           

  室堂でゆっくりすることにして、そこからUターンする。室堂平はたくさんの人で賑わっており、記念撮影する人が行列を作っている。↓は、舞鶴から来た高校生たち。この子たちは「2くみ」、他のクラスは「おいおいおいグループ」、「ゴールデンレッドリバー」などと名前をつけており、呼び出しのアナウンスを聞く度に笑ってしまう。           

 ここでゆっくりと昼食をとる。おにぎりとお茶だけ用意した私と違い、SAさんは漬物や煮物、鶏手羽まで持って来てくださりすっかりご馳走になった。

 ↓は、去年、黒部湖まで行った時のブログだが、室堂では友達がみくりが池一周して来る間、ずっと待っていたものだ。寒くなるし、退屈するし、待つのはコリゴリ。今年はゆっくりSAさんの後をついて行くことにする。「先、行ってね。行けるところまで行って戻るから」と。そのつもりだったが、結局、池のほとりまでたどり着いた。けっこう登ったり降りたりの高低差がありつらかったが。          

http://blog.goo.ne.jp/67kiyoh/d/20131020

http://blog.goo.ne.jp/67kiyoh/d/20131021

 ↓は、地獄谷。          

 ↓は、チングルマの綿毛。接写が上手くいきません。        

 ↓は、みくりが池。正面が雄山。右は浄土かな?           

 ↓は、みくりが池温泉。昔、泊まったり、温泉だけ入ったりしたもの。今はどんなふうか、覗きたかったが、もうちょっとだが降りて行く元気がなかった。左に剱岳が見える。          

 みくりが池のほとりで、ゆっくり休む。河口湖から来たご夫婦。「春、雪の大谷を見に来た。紅葉も見たくて」秋も来たそうだ。「富士山とはまた違うよさですね~」と、言われる。
 帰り道で、道を間違え遠回りをしてしまい、先を行くSAさんに心配をかけた。室堂山荘に向かっていることに気づき戻りはじめたら、ケータイにSAさんから電話。標高2,500mでもケータイが通じるのですね。

 帰りのバスの中から見た七曲から美女平までの紅葉がきれいだった。うまく撮れないが…。

        

 富山駅のパン屋さんで一休みして帰宅。ほぼ予定通り、今年も立山に行けて嬉しい。翌日は野村のボランティアと観劇で丸一日詰まっておりチョッとつらかった。


 「七騎落」と頼朝旗揚げ~10月・金沢定例能

2014-10-12 | 能楽

  先週の日曜日、10/5はいろいろな行事が重なり、せっかくのお誘いをいくつも断った。ずっと行きたいと思っていたのが金沢の10月定例能。いただいた券が何枚か手元にあった。いつも一緒の友人たちは都合が悪く、私自身もあまり体調がよくなかったのできちんと計画する気にもならず、その日の気分で出かけようかな~と考えていた。
 ちょうどその週の木曜、平米の謡とお囃子のお稽古が終わると、山崎先生が「この後、『七騎落』の申し合わせをする予定だ」と仰る。「七騎落」は、頼朝が石橋山の合戦で負け戦となり、主従8名で船で逃れる時の物語。山崎先生は老いた武者の役をされるのだが、米島先生も急きょ従者の役で出演されることになり、何人か集まってお稽古されるらしい。それを聞くと、いっそうお能を見たいな~との思いが強くなる。が、金、土は、フラフラとめまいがして万葉朗唱の受付ボランティアは欠席した。翌、日曜朝はわりと気分がよかったので、小雨だが出かけることにした。
 1人は気楽、昼食は電車の中でと11:41発の鈍行に乗った。兼六園シャトルバスに乗ると、開演直前に能楽堂に到着する。

 話は変わるが、今年3月に私たち城端小中の同窓会「東京卯辰会」が湯河原で開かれた時、街中で↓のポスターを見かけた。「土肥祭」とある。湯河原は土肥郷と呼ばれており、城主は土肥実平、頼朝の旗揚げに尽力した武士で湯河原駅前に土肥夫妻の像が建っている。お能を見た後わかったことだが、この土肥実平が「七騎落」の「シテ」なのだ。            

  ↓は、頼朝一行の推定逃走ルートだそうだ。石橋山の合戦で負け、箱根神社へ逃れ、その後土肥実平の助けにより船で安房へ逃れ渡る。   《 石橋山~土肥城~箱根神社~洞窟~真鶴~安房(千葉県)》

  ↓は、真鶴の海岸。左の岩海岸から船を出した。 

 さて、能「七騎落」は「源平盛衰記」に題材をとっており、作者は不明。
 お囃子(太鼓なし)とともに、弓矢をかついだ武者が8名、頼朝(ツレ:佐野玄宜師)以下、ぞろぞろと武者や法師姿、それに子方も登場して、舞台上で二列に並び向かい合います。これだけの人数が一度に舞台に上がるのは、やはり迫力があります。場面は、石橋山の合戦に敗れた頼朝主従が真鶴から安房へと船で落ち延びようとしているところ。一同が脇座から大小の皷の前まで居並んだところで、頼朝は同行の人数を確認して、8人というのは祖父・為義、父・義朝とも不吉の例(敗戦で逃れた時の人数が8名だった)なので一人下ろせと、土肥実平(シテ:広島克栄師)に命じます。実平は供の人々を見まわし、選びかねて困惑します。  

 重ねて命じられ、まず、白髪の武者・岡崎義実(ツレ:山崎健師)に降りてくれないかと頼みますが、「自分は息子を前の日の戦いで失い命は一つ、命を二つ持っている者が降りるべきだ」と主張します。土肥実平の息子遠平(子方:渡邊真之助さん)を降ろすべきだと言うのです。実平はしかたなく息子遠平に降りるよう言います。遠平は、自分は幼いといえども頼朝の役に立ちたいと言って納得しません。実平は、それなら息子を自分の手にかけると言い、岡崎が割って入り、遠平を納得させ船から降ろし、一行は出発します。
 やがて、頼朝たちの船に和田義盛(ワキ:北島公之師)の船が追いつき、味方に参上したと告げます。様子を見るため頼朝は行方知れずだと答えると、それでは生きる甲斐がないと自害しかけますので、忠義のほどがわかり頼朝と対面させます。和田義盛は、討ち取ったと見せかけた遠平を船底に隠しており、実平に会わせます。
 和田から遠平救出の顛末を聞いて嬉し泣きの実平、酒宴となって頼朝と和田とに扇を持って酒を注ぐと、乞われるままに勇壮な男舞を舞います。

 船から誰を降ろすかのやりとり、実平と遠平の親子の別れと再会…、歌舞伎のようなドラマティックな場面が展開された「七騎落」。↓は最後の男舞の場面(別の会の能だが、左端の舞姿が実平(シテ)、右端に座るのが頼朝(ツレ)。左から3人めの白髪の武者が岡崎(ツレ)で山崎先生の役。他の立衆に大澤先生、米島先生が出演された。全員が面をつけない直面(ひためん)なので、顔がわかるのだが米ちゃんが最後までわからなかった。          

 中入りがないので短いが、間狂言(船頭)は荒井亮吉師、お囃子は、大皷:飯島六之佐師、小鼓:河原清師、笛:江野泉師、地謡:佐野由於師 他。

 この後、狂言「咲嘩(さっか)」、仕舞「船弁慶」、能「六浦」。渡邊茂人師の「船弁慶」が素晴らしかった。などと終演後のバス待ちの間、傘をさしかけてくださった女性たちと立ち話。

 ↓とトップ写真は、この日の金沢駅。「新幹線開通」の垂れ幕(トップ)と駅前の鼓門(↓)。     

 ↓は、カウントダウンの表示。この右は「百番街」で工事中。                    


~北陸新幹線開業記念~みんなで歌おう高岡「第九」結団式

2014-10-08 | 合唱

 10/8(水)、秋晴れの日。3か月間放置していた庭の雑草との闘いの最終日だった。ちょうど1か月前の9/8に、フェンス側の奥から初めて今日で6回目。用事や外出、体調、気力、天候などの条件がピッタリ合う日を選び、気長に進めて来た。最終日の今日は、道路側のツルニチニチソウの散髪と溝掃除。長い間放ってあった溝は、落ち葉がたまり雑草が伸び放題でけっこう時間がかかった。通りがかりの町内の民生委員の方と立ち話をしたりするのでなおさらである。が、これでシルバーさんに木々の枝払いをしてもらい、支柱をたててもらえば冬支度も終わる、と思うとホッとする。

 さて、6日(月)夜、高岡市民会館で、「第3回みんなで歌おう高岡「第九」公演の結団式が行われた。↓は、式次第。        

  ↓は、高岡市長代理の教育長、氷見哲正さんの挨拶と参加者。 

             

 ↓は、、第3回みんなで歌おう高岡「第九」開催要項。  

と き:

平成27年3月15日(日) 開演15時(開場14時30分)
ところ: 高岡市民会館
入場料: 1,000円(全席自由)

公演内容:

◆曲 目 *ベートーヴェン/歌劇「フィデリオ」序曲(7~8分)
*ベートーヴェン/交響曲 第9番 二短調 合唱付 作品125(70分)
◆出 演 指 揮/本多 敏良(高岡フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者)
管弦楽/高岡フィルハーモニー管弦楽団 約70名
独 唱/西浦由佳里(ソプラノ)、安井 綾香(メゾソプラノ)、
古村 勇樹(テノール)、渡辺 洋輔(バリトン)
合 唱/古城の森合唱団(一般公募)約200名
 
 ↓は、2年前の演奏風景。 
 
 私自身は、昨年は富山第九に参加したので2年続くが、3月までたっぷり日があるし、第2回はハワイ旅行で不参加だったので、新幹線開通を盛り上げるために参加を決めた。市内で練習だしMiTUの仲間が大勢いるので心強い。

本 「置かれた場所で咲きなさい」

2014-10-07 | 

 かなり前のことだが、まんよう荘で”MiTUのアルト会”をした時、HOさんが紹介された本「置かれた場所で咲きなさい」を最近ようやく読んだ。当時、「あさいち」か「スタジオパーク」かのNHK番組に、著者の渡辺和子さんが登場されたようである。HOさんはその番組を見た後すぐ本を読んだそうだ。

 渡辺和子さんは、現在ノートルダム清心学園の理事長さんだが、1927年のお生まれだから87歳ということになる。お父上の渡辺錠太郎氏は2.26事件の犠牲者の一人で、和子さんが9歳の時目の前で最期を遂げられた情景が目と耳に焼き付いているそうだ。
 聖心女子大卒業後、上智大の院、ノートルダム修道女会に入会、ボストンカレッジの院に学び、30代半ばでノートルダム清心女子大の学長になられた。

 若くして学長さんになられての悩みや苦労、学生や隣人から相談を受けたり教えを乞われたりした時のこと、老いて感じられたことなどなどが、短いエピソードと共に語られているのだが、一つ一つが今の私には心にひびいた。

 目次の中からいくつか紹介します。内容を読むとさらに心にストンと落ちて納得します。

 * 神は力に余る試練を与えない…現実が変わらないなら悩みに対する心の持ちようを変えてみる。

 * いい出会いを育てて行こう…いい出会いにするためには自分が苦労をして出会いを育てなければならない。
 
 
 
 * 順風満帆な人生などない…人生にポッカリ開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。
 
 
 
 * つらい夜でも朝は必ず来る…希望に叶わないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けること
 
 
 
 * 道は必ず開ける…迷うことができるのも、一つの恵み
 
 
 
 * いぶし銀の輝きを得る…毎日を「私の一番若い日」として輝いて生きる。 
 
 
 
 * 老いをチャンスにする…老いは人間をより個性的にするチャンス
 
 
 
 * 2%の余地…信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。

 

 まだまだあるのですが、この辺で。老いてから悩みの多い今の私には、とても心強い本でした。

 幻冬舎出版、新書版のサイズです。表紙のタンポポの絵がかわいらしい。図書館で借りましたが、手元に置いて時々読めばいいと思いました。


「モス バーガー」でデート

2014-10-05 | 食物

 いつだったか、義妹から「アラピア」の割引券をもらい、久しぶりにSAさんと出かけた。「アラピア」は昔のまま、大広間では踊りのショーが始まっていた。生ビールで食事をしながら、ショーをチラチラ見ながら喋る。↓は、座長さん。お馴染みの客が多いらしく、終わったら客席を一通り回ってご挨拶。           

                  

 その時、SAさんから美味しいカボチャの煮つけをもらい、お返しにNAさんから2ケースもらったゴーヤの佃煮をお裾わけしようとマンションへ行ったのだが、さすがに郵便受けには入らず、短時間のデートとなった。

 SAさん、メールでいわく、「1時頃、京田のモスバーガーにいます」 「京田のモスバーガーってどの辺?」 「Vドラッグの向かいです」 へえ~、そんな店あったっけ? 今や京田は都会だ。京田に住む彼女は都会人だね。
 行ってみると、なるほど、ドライブスルーの横に洒落た店があり(トップ写真)、一人、二人、グループの客で賑わっているがそう煩くない落ち着いた店。

 焼きおにぎりに具を挟んだような「ライスバーガー」と言うのがある。「天むす」みたい感じかな?
 ↓は、SAさんの海鮮かき揚げバーガー。(ボケ写真だが)           

 ↓は、私の「彩り野菜のきんぴらバーガー」。           

 飲み物を入れても500円そこそこ。軽い食事にはいいかも。

 ↓は、ドライブスルー用のメニュー表。ナンのバーガーもあるらしい。「売り切れ」表示になってるが。            

 ↓のライスバーガーは、左から、鮭、彩り野菜のきんぴら、海鮮かき揚げ。             


「人間ドック」 後遺症 ?

2014-10-03 | 健康

 10/1(水)高岡市ふれあい福祉センターで、「高岡市社会福祉大会」が開かれ、社会福祉活動の功労者の表彰式が行われた。音訳ボランティア「グループあかね」のHAさんが表彰されるので晴れ姿を見てお祝いしましょう、と、Oさんからメールが届いた。↓は、その時添付された秋の立山の写真。9/22日の立山のチングルマの紅葉とみくりが池。        

         

 久しぶりに、お元気なHAさんにお会いできると楽しみにしていたのだが、当日朝から頭が重く元気が出ない。前日の合唱練習の疲れ?それとも前前日の「人間ドック」の疲れ?千葉のAちゃんから電話があり(彼女はいつも水曜午前に電話を下さる)、話しているうちに少し頭がスッキリしてきた。が、あっと言う間に時間が過ぎ、結局表彰式には間に合わず、失礼してしまった(HAさんごめんなさい)。

 「人間ドック」、以前は、ほぼ毎年受けていた。今より受診料金が安かったせいもある。国保の補助、退職厚生会の助成金を合わせると手出しはわずかだった。脳ドックと交替に受けたりもした。そのうち受診料が上がり、自分の病気は治療するのみ、との思いなどからもう必要なしと思い込んでいた。
 ところが、若いころから親しくしていた友人が亡くなられ、また私自身も7月に新しい病名がつき内服薬がいっぺんに増え、すっかり気分が落ち込んだ。で、思い立ったのが「人間ドック」だ。
 7月に後期高齢者になったホヤホヤの私は、もう国保の補助は受けられず、富山県後期高齢者医療広域連合と言う長たらしい名前の機関へ「人間ドック利用承認証」を申請しなければならない。「市民と市政」に手続きの方法は掲載されるのだが、市役所へ行ってもらって来なければならない。その前に、まず利用する病院に予約しなければならない(これは今まと同じ)。

 受診日が近づくと、2日前から便を採ったり、前夜の夕食以降は絶食、降圧剤は朝7時までに飲む…など、今までもそうだったのだが、それだけのことがとても煩わしくストレスになる。「人間ドック」って健康な人が受けるもの、と今更ながら思う。若い頃は、なんか楽しみだったものなのに…。

 身体計測をして、血液と尿を採り、心電図、レントゲン撮影、眼科で眼底検査…、胃の内視鏡検査のために鎮静剤注射をしてもらい(おかげでいつカメラが入ったか覚えていない)…、午前中で終わる簡単なドックなのにとても疲れた。朝から絶食なので、食堂で日替わり定食をゆっくり食べ、待合室でテレビを見たりしながらとろとろ眠った。以前なら午後から一仕事していたが、とんでもない、ゆっくり休んで家に帰り、また一眠りした。 ↓は、済生会病院の会計側の待合室。獅子舞のバルーンアートです。迫力あるでしょう?            

 結果の報告書はいずれ送られて来るだろう。検査直後の診察では、今までわかっていたことだけ。ただ、血圧がいつもより低かったのが嬉しいような不思議なような。ドックを受けて、疲れが2,3日も残るなんて、年をとるってそう言うことなのね。