5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

七里か三里か

2020-06-09 21:52:33 |  旅行・地域

なるべく通行人のすくない街路をと思いひさしぶりに熱田神宮の杜をぐるりと一回りした。杜の南西側は白鳥地区、伝馬町からすこしあるけば堀川が海に向かって広がる「宮の渡し」いわゆる「七里の渡し」に行き着く。東海道五十三次四十一番の宮宿は熱田さんの目と鼻の先。北の美濃路や西の佐屋街道の出発点だったから、東西の旅人が必ず通過する賑やかな宿場だったはずだ。

今日の中日夕刊一面は「江戸期の旅は急がず回れ」「七里の渡しは不人気ルートか」という面白そうな見出しである。七里の渡しは江戸後期の旅行記「東海道中膝栗毛」でも知られた名所だったが、伊勢参りの旅人の多くはこの海上の道をあまり使ってはいなかったようだという。愛西市の学芸員が5年をかけていろいろな江戸時代の旅日記600点をしらべた結果だ。

それによると江戸を含む東国から名古屋を経由して伊勢に向かった旅人たちが七里の渡しを使ったという記載があったのは55点のみ。一方で、名古屋城を見て、清州から甚目寺、津島へと行く津島街道を使ったという記載は395点もある。岩塚から佐屋に抜ける佐屋路も105点と海上ルートより多かった。

江戸の旅人たちが海より陸を選んだのは、海難事故の回避ということだけでなく、「津島を参らにゃ片参り」というように、当時は天王信仰の総本社である津島神社を伊勢参宮に合せる旅行プランが推奨されていたからだという。佐屋路の途中からも津島神社はすぐだ。

せっかくの尾張名古屋だ。お城の金鯱を見ずには江戸に帰れまい。「一泊して見物したい城下」だと名古屋観光を進める旅行書もあれば、買い物を愉しんだという記述も見られるという。

「当時は一生に一度の旅。後悔をしないように、焦って近道などせずに、いろいろな土地を見て回ろうという気持ちが強かったのだろう。今も昔も旅の楽しみ方は同じだ」というのがこの学芸員のコメントだ。

芭蕉の「おくのほそ道」の旅の最後、弟子の曾良は大垣と伊勢長島の間を川舟で往来している。名古屋から津島路や佐屋路を使い、津島神社に参詣を済ませた旅人たちも、木曽川を川舟で桑名に渡ったのだろう。こちらは七里ではなく三里の渡しという。

 


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