5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

新しい米

2014-10-22 21:38:41 | たべもの
「どこで食べてもご飯が美味くなった。米の品質がよくなり、炊飯の器具なども改善されたからだろう」というのは《季語集》の坪内稔典先生。

新米の季節である。もちろん「新米」は秋の季語だ。いつもスーパーに買いに出かける北海道産の「ゆめぴりか」も2週間ほど前から26年産すなわち新米に表示が変わっている。

面白いのは、新米なら古米に比べて値を上げてくるだろうと思っていたのが、逆に少し安い値付けで売られていることだ。このごろは米の売れ行きがいまひとつだということも聞いたが、現代日本人は米の飯に飽き(秋ではない)が来たのだろうか。

3%分の消費税アップが気に入らない自分とすれば、古米より安くて美味しい新米が手に入って嬉しい限りである。

さて、坪内先生は「昭和30年代の私の中学生時代は、ちょうど麦飯から米飯への移行期だった。学校の昼食時、麦飯弁当の者は弁当箱の蓋で中身を隠して食べていた。」と書いている。

先生と同年の自分にも麦飯の弁当箱には引け目を感じていた記憶がある。冬になると大きな木製の練炭保温器に生徒達全員の弁当箱を積み上げて入れ、昼食時間になると温まった弁当を(蓋をずらしながら)食べたものだ。昼前頃には、保温器の中から醤油の匂いが教室内に拡散して空き腹がグウグウ鳴った。

「米がふだんの主食になって未だ50年ほどしか経っていないのではないか」と先生は云う。愛媛出身の先生と愛知県の自分とはすこし生育環境が違うからなんともいえないのだが、都会ではもう少し以前から米飯が一般化していたかもしれない。

いずれにせよ、雑穀、麦、芋などの後に来た米は、比較的に新しい主食なのだ。米中心に日本文化を考えるのが当然のことのように思われているが、「米が未だ新しいという視点を大事にしたい」と云う指摘は、なるほど、その通りだろう。

TPPの米交渉も難しいことがありそうだが、「日本人と米」について、こんな坪内先生風の視点で見直してみることも必要なのかもしれない。

「新米の袋の張りを担ぎけり」高橋洋一






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