里山日記

NPO法人「里山を守る会」における活動の内容。
その日にあった様々な出会いと、感じたことをつづりたい。

原発事故

2011-03-31 13:33:02 | Weblog

3月11日に起きた東北関東大震災の余震はいまだ続いており、依然として不安な日々を送っている。それに加え、福島原発の事故は放射能という見えない相手だけに大変心配だ。今年の田植えも果たして進めてよいものかと言う話も出ている。私は今までどおりの作付けをする予定であるが、合鴨米の出荷先である横浜のお米屋さんは必ず買うという約束は出来ないとのこと。当然だろう。お米に限らず農家の方々はこの春の作付けをするのに果たして作ったものが売れるか売れないのかと言う不安を抱えたまま作業に入ることになる。

地震多発の国に原発を作るわけであるから、より周到な計画を元に設計されたはずの施設がこの有様である。想像を超える地震と津波によるとの弁解もあるが、やはり自然を甘く見たと言う印象はぬぐえない。とにかくこれ以上の放射能の拡散はなんとしても防がなくてはならない。各国からその専門家が来日して助言を行おうとしている。原発事故は一国の問題に留まらないと言うことだろう。

福島原発の電気は主に首都圏に供給されている。いわば福島県の犠牲の元に私達は暮らしていると言っても過言でないわけだ。電気はほしいが原発はいやだと言うのが本音であろう。もしこの原発が東京にあったら、首都機能は麻痺し、想像を絶するようなパニックに陥ったに違いない。だから首都圏には作らないのだ。

昨年、山梨の八ヶ岳にあるキープ協会の研修に参加したが、ナイトハイクの折、山から見る甲府の町はネオンがきらめき、とてもきれいだった。そのとき講師の先生が、「とてもきれいだけど、こんなに明るくなくてもいいのでは?」と言った言葉を思い出した。

24時間眠らない町東京と言われているが、その供給源は原発の電気である。日本の電力の三分の一は原発によってまかなわれている現実がある。今後の原発のあり方、発電のエネルギーを何に求めるのか、大きな論争が持ち上がると思う。

一方で私達はどれほどの電気が本当に必要なのかを考えることもわすれてはならないと思う。

 


東北関東大震災

2011-03-18 18:27:56 | Weblog

3月11日午後2時40分私は梨畑にいた。突然揺れが起こり、そのうち収まるだろうと思っていたら次第に強くなり、立っていられなくなった。とっさに梨の枝にしがみついた。近くにあった防火貯水槽のコンクリートの蓋が突然1メートルほど吹き上がった。自宅の方から黒っぽい煙のようなものが上がったので、慌てて転がるように家に戻った。瓦が落ち、その土ぼこりだった。母は外に出て大きな石にかじりついて呆然としていた。母を安全な場所と思われるところに移し、しばらく揺れの収まるのを待っていたが、なかなか収まらない。

やっと落ち着き、周りを見渡したが、瓦屋根の「ぐし」が見事に崩れ落ちていた。妻は実母の看病に病院に向かっているはずであったが、携帯はつながらなかった。子供たちにも電話するがまったくだめだった。妻は自冶医大にようやくついたそうだがエレーベーターが動かず、病室に入れないとのことで戻ってきた。家の惨状に驚いていたが、実母の病状の方も気がかりだった。義母は3月5日に脳梗塞で倒れ、意識不明のまま、自冶医大に運ばれた。それから毎日、通い続けているのだ。

3月12日未明、病院より連絡あり。母の病状に異変が起こったそうだ。妻と二人で車を飛ばした。病室にはすでに実家の家族が待っていた。午前3時30分、母は静かに永眠した。余震の中、葬儀の準備と子供たちへの連絡に忙殺された。3月15日通夜、16日告別式と決まった。孫9人ひ孫3人を見届け旅立った母は、千年に一度と言う大震災を知らずに逝った。せめてもの救いかもしれない。

大変な1週間だったが、大震災の被災者の方々に比べれば、まだ幸せな方かもしれない。東北地方の方々の惨状を見るにつけ、涙が出た。落ち着くまでに何年かかるのか・・・がんばってほしい。がんばれ日本。

 


こけし

2011-03-02 07:19:36 | Weblog

2月23日、高さ、約4メートル「こ け し」が五郎助山の入り口に設置された。このこけしは一昨年、炭窯を作る為招聘した福島県の高野善兵衛さんが寄贈してくれたこけしである。何でも昔(10年以上前とのこと)宮城県白石市で開かれた全国こけしサミットのとき、福島県で特注のろくろまで製作して作ったこけしだそうだ。当事日本一の高さと言うことだった。

炭窯作りを3日間泊り込みで指導をして頂、感謝会の後帰り際に、私に今度「こけしを持ってくるから」と言われた。私は当然手のひらに載るこけしを想像し、どうも有難うございます。と答えたことは記憶にあった。ところがその後、炭窯の様子を見に来てくれることになり、なんとダンプにその「こけし」を乗せてきたのだ。「えーっ」と絶句した。頭だけでも手を回せないほどのこけしなのだ。とても人の手では動かせるはずもなく、レッカーを手配してようやく降ろしたのだった。長い風雪に耐え、ところどころ色があせていたので、会員の谷貝さんにお願いし、作業場に移し、化粧直しをしていただき、やっとこの度、里山の入り口に建てることが出来たのだ。

今度、五郎助山に来た折には、是非ご覧ください。