5月18日(土)有機圃場にアイガモ(56羽)を放鳥した。
約52aの田んぼは結構広いので、群れを成して動いても、どこにいるのかわからない。
あいがも農法を初めて25年以上になるが、当初、7人いた仲間も今では私と八千代の北野さんだけになってしまった。 25年前、横浜のお米
屋さんに勧められて始めた「あいがも農法」。
5/10 生まれたてのヒナ到着(56羽)
5/13日田植え
「安全で、美味しいお米を作ってください。できたお米は全部買い取ります。」今は亡き中村社長の熱い思いに共感し、手探りから始めた
が、当初は失敗の連続で、野犬に網を食いちぎられ、大切に育てた「あいがも」が一夜のうちに全滅したことも一度や二度ではなかった。
電線を編み込んだ網が開発され、ほっとしたのもつかの間、今度は空からカラスが襲い、毎日、数羽がいなくなった。
カモがいなくなった田んぼはヒエだらけの田んぼとなり、毎日、妻とヒエ退治に田んぼに通った。
一周300メートルを超す網張もなかなか重労働で、150本以上の杭を立て、網を縛りつける。暴風や、外敵からカモを守るため、厳重にしなけ
ればならない。
ヒナを7日から10日小屋で育雛し、いいよ田んぼに放鳥の日
カモの進水式 孫も手伝ってくれた。
初めての田んぼ。カモも恐る恐る水に浸る。
放鳥して三日目。悠然と泳ぐようになった。
それでも、収穫されたお米は通常の1.5倍高く売れたので、皆頑張った。 しかし、東日本大震災の福島の原発事故により、状況は一変した。
今まで「安全でおいしい、あいがも米」として買ってくれたこだわりの消費者は関東以北のコメをまったく買わなくなり、流通がストップし
てしまったのだ。
専門機関で検査を受け、放射能の影響はないというお墨付きを頂いても、状況は変わらなかった。
福島に直営の農場を持ち、東北産のお米を目玉にしていた中村商店の被害はさらに甚大だった。
あいがも米の買取は難しくなってしまった。
各自、販路を自己開拓し頑張ってほしいとの連絡が入った。 この原発事故で相当数の農家が有機農業から撤退したはずである。
私たちの仲間も一人、また一人と離脱していった。
私は、オリジナルの袋を作り、積極的にネットやスーパーに売り込もうと提案し、仲間の了解を得て、相当数の紙袋を発注したが、結果 誰
もその紙袋はいらないと言い出した。 結局すべて私が一人で持つことになった。
あいがも米をオリジナルの紙袋に入れ、スーパーを回った。「そんな高いお米は売れません。」予想どうりの反応だった。
その間、有機JASの認証も苦労して取得した。
このお米の価値をわかってくれる場所はどこだろうと考えた。 「つくば市」が脳裏に浮かんだ。石を投げると博士に当たると言われている
「つくば市」なら、このお米の価値をわかって買ってくれる人がいるに違いないと思った。
「つくばイーアス」のカスミにアポも取らず、お米を持参し、突撃した。
「すみません。責任者の方にお会いしたいのですが・・・」「責任者は今日不在で、私が受けたまわりますが・・」
このお米を作った熱い思い、有機認証も取ったこと、思いつく限りのことを言った。「このお米を置くことでカスミさんのイメージアップに
もつながると思います。」とまで言ってのけた。今考えると赤面の至りであるが、必死だった。
「あのー、生産者のコーナーはつくば市在住の農家さんに限っています。あなたは筑西市ですよね。 ダメですね。」
あっさり切られた。
そうですか・・・・・。 ところで「どんな物が出品されているのですか?」 一覧表を見せてくれた。その一覧表の最後の方に筑西市の方
が一人いた。
目の前に光が射した。「ここに筑西市の方がいるじゃないですか!」 担当の方はまじまじと一覧表を見つめ、「う~ん。チーフと相談しま
すので、しばらく時間をください。」といった。
後日、正式契約を取り交わし、現在「つくばイーアス カスミ」の生産者コーナーの一角に「愛がも米」のオリジナルの紙袋が並んでいる。
その後、ふるさと納税の商品としてラインアップし、今年の7月オープン「筑西市道の駅 グランテラス」にも並ぶ予定である。
「挑戦すること」「あきらめないこと」「自分の製品(商品)に自信をもつこと」 を身をもって学んだ。
愛がも米の栽培は、年を重ねるごとにきつくなってきたが、このお米を買ってくださる方がいる限り、また体力が続く限り、栽培して行
きたいと思っている。