二輪よもやま話ー35
去った5月28日(月)、AT限定解除で、教習所に通って
いたが、やっと、卒業検定に合格した。
はっきりと、メモをしていないが、3月の下旬に
申し込みをしているので、やがて、2月かかった
ことになる。
基本的に要する時間は、5時間だったので、大幅に
時間を超過してしまった。
見極めが、なかなかOKが出ない。10時間までは越して
はないと思うが、記録をとらなかったのは、残念だ。
もっとも、早くとりたいが、乗り足りないことは、
自分でも感じているので、ジレンマがあった。
乗っていることじたいに、どこかで、不安がある
のだ。
これでは、免許をとっても、路上に出て事故への
不安がある。実際に、不測の事態が起こって、事故
ったりすると、リードよりずっと重量がある分、
コントロールする自信がない。
最初、教習の様子をブログに書いていたが、途中で
やめたのは、わたしの教習の状態が、あまりにも
ひどすぎて、書く気も失せてしまったからだ。
若いころ、一度は、バイクに興味は持ったものの
その圧倒的な存在感、重量感に恐怖感も感じたくら
いなので、だいたい乗っている自体で精一杯なので
ある。
何かを、習得しようなんてゆとりは、どこにもない。
ましてや、歳もとり、身体機能は衰えて行くばかりだ。
直感的に乗れるほどの反射神経も失せている。
とにりかく、飲み込みが悪いのである。
乗っているだけで、精一杯なのに、教習の課程は、進行
していく。
許容量オーパーの情報に、溺れそうになっている。
消化不良のままに、教習が進行していく。
パソコン的に言えば、CPUが劣化し情報の処理スピード
が遅くなり、それに加えて、メモリーも少なくなって
一度に処理できる情報量が少なくなっている。
もっとも、機械であるパソコンの場合は、そういう
ことは、起こらないはずだが、たとえ話である。
若者に比べて、どうしても、そのような状況なので
ある。
飲み込みの悪いことに、指導教官に対しては、気が
引けるのだが、そこは、年を食った者の、ずうずう
しさというものが、我が身を救っている。
飲み込みが悪くて、ジタバタするのは、「折り込み済み」
とにかく、耐えるしかないと。先は、見えないけど、そう
思えるのは、老いた者の、力だろう。
やはり、続けていると、知らず知らずのうちに、五里霧中
でも、身についてくるものはあるようだ。
先ず、最初に気づいたのは、あんなに、コントロール
に苦労した。スタート時のアクセルに手こずらなくな
った。
なにしろ、スクーターのアクセルとの違いが、使い分け
られなかった。
静かで、スームズなスタートのコツが身につきつつ
ある。
クランクは1で、八の字は2、スラロームは2で、
アクセルを絞ることなく、エンジンだけのトルクに
まかせて、走ることができるようになった。
これは、ATの免許をとるときとは、違って、バイク
が自分で走っていく、という意味が分かった。
ATの場合は、これができないから、アクセルと後輪
ブレーキを併用して、似たような状況にしている。
しかし、これが当時、納得いかなかった。違和感が
生じて、生理的に受け付けないのである。
クラッチ盤が傷むようなことが、なぜ行わねば
ならないである。
昔、四輪のマニュアル車でもAT車でも、そのような
操作方法を指導された記憶がない。
教習の後半は、バイクに乗るのに、ゆとりが出て、
楽しいという気分がわくようになってきた。
それと同時に、車庫から、コースまでのバイクの
押しての移動の際、バイクが軽く感じられてきた
のには、不思議な気分がした。
「四輪マニュアル車、AT車」、「二輪のAT車、マニュ
アル車」の経験がごちゃまぜになって、収拾がついて
ないのである。それに加えて、わが「CPUとメモリーの
劣化」が、教習の困難に拍車をかけている。
教習を開始してから、「一歩前進、二歩後退」「二歩
前進、一歩後退」か、わけのわからない状況の教習
であったが、少しずつ習得していったようで、教習
後半に、あまりにも単純な原理に、ようやく気がつく
ことになった。
なんとも、恥ずかしい話だが、とにかく二輪に乗って
いることに精一杯では、気づきようもない。
その肝心な点というのは、
マニュアル車は、ギア1と2はアクセル操作はせずとも
エンジンのトルクだけで、バイクは走っているという
ただこの一点を、活用してコースを走るという、あまり
にも初歩的なことに、気づくまでに、時間がかかりす
たのだ。
マニュアル車の操作は、結局この特性をいかに、いかして
操作するかなのだったのだ。
このことについては、指導教官にとっては、当たり前
すぎて、気づかないようだ。
でも、わたしのような、歳を食った人間には、一番
最初に身につけるべきポイントだったようだ。
この一点に気づいたことで、全ては、見えてきた。