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リタイアーのよもやま話

風が吹けば桶屋は儲かるのか?

2015-09-28 13:25:57 | 読書

とある本にあったことである。

 

 風が吹けば桶屋は儲かるのか?

 現実においては真っ白も真っ黒
もなく、すべては灰色で、そこに
濃淡かあるだけです。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」と

いう諺がありますが、この場合は
どうでしょうか。風が吹けば埃が
立つ。埃が立つと目を患う人が多
くなる。すると目が見えない人が
多くなる。

 目が見えなくなった人の中から三
味線弾きが出る。三味線弾きが多
くなると三味線の需要が増える。

三味線の皮は猫のものなので猫の
需要が増える。町から猫が少なく
なる。 

するとネズミが増える。増えたネ
ズミは風呂桶をかじる。だから桶
屋が儲かる……。 

ちゃんとした論理です。

 しかし数学的に考えてみると
どうでしょうか。風が吹くと埃
が舞い上がる。これが90%正
しい、すなわち0.9とする。と
ころがその次に、埃が目に入っ
て目を患う確率は10%、すな
わち0.1くらい。その中から目
が見えなくなる人となると、0.
001ぐらい。その次の三味線
弾きになるとまた0.001で
各ステップを全部かけていくと、
おそらく確率は一兆分の一以下
になるでしょう。

要するに、現実には風が吹いて
も桶屋は儲からない。


 長い論理は危うい

このように一般の世の中では、
長い論理というのは非常に危険
なのです。すべてのステップは
灰色だから、小数のかけ算を何
度もすることとなり、信憑性は
どんどん下かっていきます。一

般に我々は、「これはこうでしょ、
だからこうでしょ、だからこう
でしょ」と論理を長々と展開す
る人を見ると、白けてしまった
り、「なんかおかしいぞ」と感じ
たりします。長い論理というも
のを本能的に警戒しているか
らです。

 「長い論理は危うい」というこ
とを、人々は本能的に分かっ
ている。灰色に灰色を何度も重
ね合わせているのが分かるから、
聞いているうちに眉に唾をつけ
たり、胡散臭いと思ったりする
のです。

  長い論理は使えない。だから、
現実において論理のリーチは極
端に短い。ワンステップしかな
いような論理が幅を利かせてい
る。

 

 例えば、なぜ小学校で英語を
教えるなどということになった
のでしょうか。「国際人」がら
みです。 

ここで国際人とは、海外でも人
間として敬意を受けるような人
間、ということにいたします。

こんな論理です。「小学校で英語
を教える→英語がうまく話せる
ようになる→国際人になる」。た
ったツーステップです。凄くわか
りやすい。 

だから国民は大喝采で支持する。

ところが最初のステップが正しい
確率は0.1以下です。アメリカ
人でも国際人と呼べる人は10人
に1人はいませんから、次のステ
ップも0.1以下です。かけると
0.01以下となり、信頼性のな
い論理となります。こんなに短い
ステップでも危険なのです。同じ
ツーステップでも、「小中学校で
国語を強化し読書を奨励する→
人間の内容が充実する→国際人
になる」の方がはるたに信頼性
が高い。

 しかし、論理というのは通っ
ているとなぜか快感が得られる
ので、聞いたとたん、それに酔
ってしまう。

 各ステップの信頼度を量的に
考えようとしない。

 以上。

 

わたしも、けっこう理屈っぽい
人間だから、この内容を読んで、
驚いている。

このような数値的な判断の仕方
が、どれほど正しいのか、数学
については、疎いわたしでは、
なんとも、反論も肯定もしがた
いのだが。 

それにしても、この論理の半分
でも正しいとしても、理屈っぽ
い考え方は、考え直さないとい
けないかもしれない。

面白い考え方ではないか。

 


Cantate Domino in B-flat - Ko Matsushita

2015-09-27 23:20:24 | 音楽



年に一度の忙しい行事を終えて、
ほっとしたところだが、何やら体
調はすっきりしないし、気持ちも
鬱ぎみで、すっきりしない。

気分転換ということで、映画を
観にいった。

ジュラシック・ワールドである。

観終わった後、拍子抜けして
しまった。

なんとも、子供だましの映画
だ。いつものことだが、今度
も、がっかりして家路につい
た。

それにしても、ミスがあった。

恐竜に追われ、滝壺に飛び
込んだ後、しばらくして、マ
ッチを取り出して、火付けた。

マッチは濡れているので、
火はつかないはずだが。

それにしても、小学生み
たいな子がなんで、マッチ
を持っているのだろう。

それ以上に、映画の時代
設定からして、マッチはない
と思うのだが。

途中、古いジープを修理
して、恐竜から逃げるの
だが。

バッテリーを付け替えて、
ジープを動くようにする
のだが。

そんなに古いパッテリ
ー、放電仕切って使え
ないはずだが。

ラジエーターの水だって
ないだろう。

タイヤの空気だって
抜けているはずだ。

運転試験の実地試験
を落ちた少年が、どう
してあのスピードで運
転できるか。

夜のジャングルをバイク
が疾走するのだが、そ
れも大いに疑問だ。

夜のジャングルを走れ
ば、虫は飛んでくる。
木々の間を疾走している。
ヘルメットなしで、危険
である。

ジヤングルの疾走は
できないはずだ。
路面が荒れているの
だから。

それにしても、最後に
隠していた巨大な恐竜
が出てきて、問題となる
恐竜と戦わすのだが、
その恐竜についての
説明が何にもない。

後味の悪い終わり方で
ある。

最後に出てきたあの巨大
な恐竜、何者なんだ。

最後だが。
ラプトルが、4頭いて、巨大
な恐竜と戦ってたりして、
死んだずだが、最後の
場面と頭数があわない
気がしたが。

等々、いろいろと気に
なったのだが、どうだろ
う。

 

 

 


あすという日が

2015-09-26 22:34:19 | 音楽

久しぶりに、聴いています。

数ある演奏の中で、けっこういい音程で
気にいっています。

東日本大震災の復興もままならないところ、
この前は、鬼怒川の氾濫、洪水、土砂災害
等が襲った。

なんとも、やるせなく、語る言葉が見つから
ない。

私も、高齢者の仲間になり、気力も体力も
心もとなくなりつつある。

同輩の胸の内に、やはり、語る言葉が
見つからない。


今好きなものによる支配

2015-09-26 22:15:20 | 読書

とある本にあったことである。

今好きなものによる支配

 それでは次に、反対の支配に
ついて書こう。これは、自分が
「好きだ」と思い込んでいるも
のによる支配である。「嫌い」
による支配よりも、一般にさら
に見えにくい。ほとんどの人は
気づいていない。

  あるとき、なにかをもの凄く
好きになると、もう一生それか
ら離れられない、という気持ち
になる。「浮気」をしない一途
な愛を注ぐ未来を想像する。 

そのような爰に満ちた姿は美し
く語られることが多いので、誰
もが憧れているし、素直に自分
の中に受け入れるだろう。これ
がしかし、ときとして度を超え
ることだってある。「好きなもの
はずっと好きでなければなら
ない。そうでなければ、本物の
愛ではない」という考えが原動
力となる。

これは、「嫌いなものはずっと
嫌いなままだ」の裏返しであり、
人間も環境も変化をするという
条件から考えれば、やはり普通
は成立しない命題である。もち
ろんありえないとはいえないが、
特殊な状況と考えて良いだろう。

  方針を変えないことは、最初
の指向がいくら革新的でも、い
ずれは保守的になる。築き上げ
たものが多くなるほど、「ここで
やめたら今までの苦労が水泡
に帰す」といった強迫観念が芽
生え、不安に苛まれるようにな
る。

もちろん、本当にそれが好
きなうちはまだ良い。しかし、
よくよく振り返ってみると、無
理をしてしがみついてきた、と
いうことが珍しくない。もう少
し自由に考えてはどうなのか、
と傍から見ていて忠告したくな
ることもしばしばである。

以上。

人も時代も変わりゆく、しかし、
時に「ここでやめたら今までの
苦労が水泡に帰す」というのも
あり、なかなかのことだ。

時に、たいした才能でもないの
に、下手の横好きで、いたずら
に人生を消耗していることもあ
り、好きなものによる支配、な
かなかやっかいなことだ。 

衝動買いをさせる技術にあった

ことだが、

 美味しそう、良さそう、楽しそ
う、子どもが喜びそう┄。人の
心に何らかの好感を抱かせ、人
の心をいじくりまわす輩もいる
からやっかいだ。


今ブログの罠

2015-09-25 22:08:22 | 読書

今ブログの罠

 これに似たことが、インター
ネットで大いに普及したブログ
にも観察される。あれは基本的
に自由になんでも書いて良いは
ずのものだけれど、もちろん実
情はそうではない。人目を気に
しなければならない。そこが従
来の日記とはまったく異なって
いる。        

 本当は誰も読んでいないかも
しれない(その可能性が非常に
高い)のに、仮想の大勢の読者
を想定して(自分の行為が注目
されているものと妄想して)、
ブログを書く人は多いだろう。

 そういう心理がよく表れている
文章が散見される。冷静になっ
て観察すると、酔っ払ってハイ
テンションになっているときの
ようにも見える。

 本来、自分の時間は自分のた
めにある。何をするかは自由な
はずだ。

 しかし、ブログを書くことが
日常になると、ついブログに書
けることを生活の中に探してし
まう。人が驚くようなものを探し
ている。写真に撮って人に見
せられるものを見つけようとし
ている。たとえば、1年かけて
じっくりと考えるようなもの、
10年かけなければ作れない
ようなもの、そういった大問題
や大作ではなく、今日1日で
成果が現れるような手近な行
為を選択するようになるのだ。

 知らず知らず、ブログに書き
やすい毎日を過ごすことになる。

 これは、「支配」以外のなに
ものでもない。人の目を気にし、
日々のレポートに追われるあま
り、自分の可能性を小さくする
危険がある。充分に気をつけた
方が良いだろう。

 そういう人は、ためしにブロ
グを1ヵ月くらい休むと良いか
もしれない。人に見せない、と
いうだけで、自分が選ぶものが
変わってくる。

 誰にも見せない、誰にも話さ
ない、としたら、貴方は何を選
ぶ? 自分のために選べるだろ
うか。自分が本当に欲しいもの、
自分が本当に好きなものは何か、
と考えることになるはずだ。も
のを買うとき、選ぶとき、他者
からどう思われるかを判断基
準にしている、少なくとも、その
基準が大半を占めていること
に気づくはずだ。

 ある程度はしかたがないこと
とはいえ、他人の目を気にしす
ぎると、いつか虚しくなるときが
来るだろう。何のために自分は
生きているのか。他人のためで
はない、自分のためではない
のか、と┄。 

以上。

 

この文章を読んで、愕然とした。

ブログの罠

1年かけて
じっくりと考えるようなもの、
10年かけなければ作れない
ようなもの、そういった大問題
や大作ではなく、今日1日で成
果が現れるような手近な行為
を選択するようになるのだ。

 知らず知らず、ブログに書き
やすい毎日を過ごすことにな
る。

 これである。

ブログ的生活で、日常が過ぎて
いく。

そして、ややもすると、日常が
軽んじられていく。

日常を生ききることが、肝要だ。

多くのブログで見受けられるこ
とである。

怖い話である。注意しよう。

 

 リラクゼーション・バッハ  主よ、人の望みの喜びよ

20日(日)は、自治会のグランドゴルフ大会が
あった。

自治会で、一番大がかりで、朝早くから
動き出し、かなり疲れる行事である。

一番神経が張りつめる日である。

その行事が終わり、今年も無事終える
ことができたと、安堵している。

一息ついて、更地の草刈り作業を始め
る予定である。

今日は、その時に使ったテントを保管
する方のところへ、返却に行った。

連休で、我が家の車庫で預かってい
たのだ。

私の車は、カローラワゴンである。

セダンに比べて、見栄えは悪いが
草刈り機は、載せられる。

テント一張りが、運べる。
だいぶ前にも、一度運んだが、改め
て、その積載能力に感嘆した。

テント一張りが、運べる。
どんなにか、重宝することか。

襖だって載るし、数メートルの鉄パ
イプだって、数本だったら、運べる。

その積載能力で、活動範囲が広が
る┄┄。

今日は、「主よ、人の望みの喜びよ」
くつろいでみた。