マスコミで話題になっている。
「いつまで生きるつもり」
麻生氏、高齢者侮蔑か
麻生太郎副総理兼財務相は17日、北海道
小樽市で開かれた自民党の集会で「90に
なって老後が心配とか訳のわからないこと
を言っている人がテレビに出ていたけど、
いつまで生きているつもりだよと思いなが
ら見ていた」と述べた。消費拡大が経済の
浮揚につながるとの文脈での発言だが、
高齢者の侮蔑とも受け止められかねず、論
議を呼ぶ可能性がある。
麻生氏は国内で1700兆円を超す個人金
融資産があるとして「みんながじ一っとし
ているのが、今最大の問題だ」と指摘。「あ
ったらその金は使わなきゃ、何の意味もな
い。さらにためてどうするんです」と話した
後、この発言をした。
以上。
「嘘も百回言えば真実となる」という言葉が
ある。このような出鱈目な意見が、正論に
なられては、堪らない。
何しろ、麻生太郎は、副総理兼財務相なの
だ。
世論操作をして、下地作りをしているかも
しれない。
漢字もろくに読めない元総理に、わけの分
からない論理で、天下をとられては堪らない。
まず、一声。
本人が、寝たきりの病院に毎日通えば
どういう意味か分かるはずだ。
使う金に不自由しない麻生太郎、何を
かいわんや。
ところで、
資産家は3代でつぶれる」という言葉がある。
ついでに、ネットにあった記事である。
松下幸之助の相続資産、三代で20分の1に
創業者、松下幸之助は2000億円を超えるパ
ナソニックグループ株を遺したといわれてい
る。正幸氏の保有株は、時価に換算すると約
94億円。ほかにも資産はあるだろうが、株だ
けの単純計算では、3代にして資産はなんと、
20分の1になったようだ。
以上。
麻生太郎は、この意味が分かるだろうか?
1700兆円を超す個人金融資産がまるで、
固定的に存在するかのような言い分には
反論しなければならない。
麻生の頭には、まるで、この金が、高齢者
が死んだら、死者と一緒に、埋葬品として、
墓にでも持っていくかのような言いぶりだ。
この個人金融資産は、新陳代謝をしている?
わかるかな?麻生太郎。
新しい定年者が生まれ、働いて貯めたお金が
この個人金融資産に加わっていく。
人間、大抵105歳までに殆どの人が死んで
いくが、とにかく、それと同時に、この金は
まず、相続税として消える。残ったお金は、
相続人の手に渡り、消費されていく。
そして、個人金融資産のお金から消えていく。
このように動いているのが、1700兆円を
超す個人金融資産の実態だ。
麻生は言っている。
「みんながじ一っとしているのが、今
最大の問題だ」と指摘。「あったらその
金は使わなきゃ、何の意味もない。さら
にためてどうするんです」
このお金は、じーっとはしてない。
まず、3代かけて、相続税として
国庫に入るのだ。
「1700兆円を超す個人金融資産」は、
相続税いう形をとって、国の財産になる
原資なのだ。3代という時間をかけて。
麻生は言った。
90になって老後が心配とか訳のわから
ないことを言っている人がテレビに出て
いたけど、いつまで生きているつもりだ
よと思いながら見ていた」と述べた。
以上。
わたしの父親の病院代が、月8万余の金額
だ。
毎月、8万5千円ほど、口座から引き出し
てくる。
私の父親は、重度の身体傷害となっている
ので、払い戻しがあるが。
老衰のような寝たきりだったら、払い戻しは
なく、この金額はまるまる病院に納めること
になる。
もし、母親が寝たきりになったら、毎月16万
近く、病院代になる。年に192万になる。
ちと、大ざっぱであるが。
経済的には、両親が寝たきりになっても、なん
とかなる。
それは、両親に資産があるからである。
もし、アパート暮らしの夫婦であったり
して、それも国民年金という「すずめの涙」
の年金だったら、この病院代は、国庫から
出ることになる。
「1700兆円を超す個人金融資産」は、実は、
高齢者医療費の高騰にブレーキをかけて
いる資産なのだ。
「1700兆円を超す個人金融資産」を
「みんながじ一っとしているのが、今
最大の問題だ」と指摘。「あったらその
金は使わなきゃ、何の意味もない。さら
にためてどうするんです」
麻生は言ったが、金はちゃんと動いて
国力の保持に寄与している。
ところで、「1700兆円を超す個人
金融資産」を高齢者が積極的に使った
ら、デフレから脱却できるのだろうか。
新聞の折り込みの広告をみれば分かる。
いろんな商品の広告があるが、全ての
商品について、需要よりも供給が過剰
なのだ。
若い女性は風俗嬢、老人は姨捨て山…
一億総貧困時代が来た
と、ネットに記事が踊った。
今の時代は、資本主義の終焉の時代
なのだ。
「1700兆円を超す個人金融資産」を
使ったら社会は活性化するか?
とんでもない。
麻生太郎は、
吉田茂を祖父に持ち、大久保利通を高祖父して
麻生セメント(株式会社麻生)の代表取締役
社長に就任。
である。
彼は、就職の心配をしたことがないし、リス
トラの恐怖も味わったことがない、定年とい
う言葉の意味も理解できない。
人生で、一度も金の心配をしたことがない。
彼が老人ホームに入ることはないし、勿論
寝たきりになっても、医者付き、看護師付き
リハビリ師付きの個室の病室に入っている
ことだろう。経済的には、寝たきり生活と
はいえ、生きていて経験できる最高の贅沢
の一つを享受できる可能性がある。
彼には、寝たきり生活の恐怖とは、無縁
で人生を終えることができるだろう。
もっとも、家族が気づけばだが。
高齢の夫婦が、介護難で殺し合う。
親の介護のために、働き盛りの子ども
が、介護退職をして、貧困化していく。
場合によって、心中という最悪なことに
なる。
親の葬式代が無くて、保護者責任遺棄の
悲しいニュースが流れる。
「1700兆円を超す個人金融資産」は、そ
の不幸から解放してくれている。
相続者のいない使えない高額の資産は、
地域社会への寄付行為があるのを、麻生
太郎は聞いたことがないのだろうか。
「1700兆円を超す個人金融資産」のうち
ゆとりのある金額は、息子たちの住宅
資金に、事業資金に、孫たちの学費に
捻出されているはずだ。
最近、ニュースでは株の購入にも使わ
れているようだ。
国は、NISAという姑息な方法を生み出した
ようだが、「1700兆円を超す個人金融資産」
は、株の買い支えにも寄与しているようだ。
麻生太郎は言う。
「みんながじ一っとしているのが、今
最大の問題だ」と指摘。「あったらその
金は使わなきゃ、何の意味もない。さら
にためてどうするんです」
ほんとうだろうか。
「1700兆円を超す個人金融資産」は、
「じーっとはしていない。」、彼の気に入る
方法ではないが、ちゃんと動いている。
金の心配のない麻生太郎には、知り得
ない世界があるのだ。
ところで、麻生太郎。
この文章を読んだことはないだろうか。
第十三条 すべて国民は、個人として
尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民
の権利については、公共の福祉に反し
ない限り、立法その他の
国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第二十九条 財産権は、これを侵しては
ならない。
どうだろう。
国民が、一生懸命難儀して作った財産に、
大金持ちの麻生太郎が、手を突っ込む。
舛添もゲスだったが、彼はこそこそとや
っていた。
しかし、麻生太郎は、ほっておいたら、堂々と
法律でも作って、公共の福祉なんていう大義
名分でもぶち上げかねない。
「誰しも持てる者はさらに与えられて豊かに
富む。
しかし、持たざる者は、持っている物すら
取り上げられる」 新約聖書マタイ伝--
この言葉のようにならないように、注意しな
ければならない。
誰しも持てる者はさらに与えられて豊かに
富む。これは麻生太郎のことだ。
金持ちのくせに浅ましいゲスだ。
追加。
今日のネットの記事である。
「両親を離婚させるしか…」 介護費倍増、
揺らぐ中流
恐ろしい記事である。
「90になって老後が心配とか訳のわか
らないことを言っている人がテレビに
出ていたけど、いつまで生きている
つもりだよと思いながら見ていた」と
述べた。
と、麻生太郎が言った。
「両親を離婚させるしか…」 介護費
倍増、揺らぐ中流
この記事など、読んだら、庶民の気持
ちが理解できるだろう。
もっとも、裕福な麻生太郎には、関係
ない話だが。
ところで、さらに、追加。
落合恵子の
質問 老いることはいやですか?
あった文章。
黒井千次さんに質問
〝老いる〟ってどういうことでしょうか?
落合 黒井さんは70代の前半から、読売
新聞に「時のかくれん坊」というタイトルで、
老いについ
てのエッセイを連載されています。連載当
初に感じていた「老い」と、今年(2014年)
82歳になられた「老い」はどこか違うもの
でしょうか?
黒井 老いそのものが違うかどうかはわか
らない
けど、振り返ってみると、70代の頃は、どち
らかといえば老いを見ていた、眺めていたと
いうような感じがあります。
落合 ご自分が見ているほう、目撃者なん
ですね。
黒井 もちろん、いろんなことを感じたり、考
えたりはしていますよ。でも、70代は、たと
えば父親などの姿に老いを見るような感じ
が濃厚にあったように思います。それがい
まは、自分自身が老いを感じるようになり
ました。もう他人の老いを見ている余裕が
なくなってきたのかな(笑)。
落合 なるほど、おもしろい変化ですね。
黒井 75歳とか、77歳なんていう年齢は、
自分のものとして自然に受け入れているよ
うなところもあったんです。でも、80歳という
のは、その手前にひと山あるような気がしま
すね。82歳なんて年齢を突きつけられても、
「そんなことはねえだろう」と違和感のような、
ちょっと距離を感じます。
落合 私は2015年に70歳なのですが、
やはり老いというのは借景だったんです。
それが今、遠景と近景の中間になってきて、
もう少しすると、わが庭になってくれるのか
なあって思っていて。
黒井 そうなんですね。
以上。
これは、私も含めて、反省だが。
90歳の高齢者の心細い、理解する
には、若すぎると反省するしかない
かもしれない。
わたしの寝たきりの父親は、89歳、
腰の曲がった母親は、88歳。
もうちと、寄り添う気持ちが必要かも
しれない。
心細い思いをさせないのが、最大の
親孝行だとも思っているが。
麻生太郎、金持ちのくせに、庶民の
懐に手を突っ込もうとしていやがる。
自分の資産を放出せよ。
麻生太郎、現在75歳、90歳までに
後15年だ。
彼は、まだ元気だろうか。
その時、「いつまで生きるつもり」
と、言ってみたいものだ。
麻生太郎がなんと答えるか、見て
みたいものだ。