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リタイアーのよもやま話

聖書に「フィクション」のラベル貼って“大問題”…

2014-01-14 06:45:20 | 

コストコ炎上、聖書に「フィクション」の
ラベル貼って“大問題”…不買運動も、ネ
ット上では“神学論争”に発展

米国で大型量販店が聖書を「フィクション」
(架空の物語)に分類して販売し、クレーム
を受けて謝罪するという騒動があった。店側
は単なるミスだったとしているが、ネット上
では賛否入り乱れてのちょっとした神学論争
に発展した。写真を掲示して火をつけた牧師
自身も戸惑いを隠せない様子だ。

(坂本英彰)


聖書は1500円のフィクション

 FOXニュースなどによると2013年11
月、カリフォルニア州の牧師が量販チェーン
「コストコ」の店舗に買い物に訪れた際、「1
4・99ドル(=約1500円) フィクショ
ン」のラベルで売られている聖書を見つけた。

 牧師は店員に理由をたずねようとしたがはっ
きりした回答は得られず、ラベルがついた聖書
の写真をツイッターにアップした。

 牧師は取材に「コストコはコーランにもフィ
クションのラベルをつけるのだろうか。それを
したら大変なことになるだろう」と疑問を投げ
かけ、「聖書を信じないというならそれでもい
いが、少なくとも“宗教”とか“啓発”といっ
たラベルにしてほしい」と話した。

 ネット上には信仰に篤い人たちからの非難が
相次いだ。

 「信じがたい行為だ」

 「私の信仰はフィクションなんかではない」

 コストコに対する不買運動を呼びかける者ま
で現れた。その一方で、「正しいジャンル分け
だ」「聖書は人類最高のフィクションだ」とい
った、あまり宗教的ではないひとたちからの擁
護や称賛の意見も多くあった。

事態を受けてコストコは謝罪の声明を発表。そ
れによると、配送業者が一部聖書のラベルを間
違えて貼ったミスによるもので、意図的ではな
いとしている。また間違ったラベルは即刻すべ
て貼り直したとしている。

単純ミス? それとも…

 事実は単純ミスのようだが、この一件に深い
意味を見いだす論評も現れた。

クリスチャン・サイエンス・モニター紙のコラ
ムは「簡単に見えるジャンル分けについて考え
させられた」とし、歴史ものなどフィクション
とノンフィクションの境界の微妙さを考察。ジ
ャンル分けが売り上げにも影響すると指摘した。

 火付け役になった牧師もネットで議論に加わ
った。「信仰について神が話題を提供してくだ
さった」などと書き込んでいたが、やがて反響
の大きさに少し戸惑いも見せるようになった。
そして今度は火消し役に回るかのように、こう
つづっていた。

 「コストコや誰かに聖戦を仕掛けようとした
わけではありません。大変なことになって申し
訳なく思っています」

以上。

聖書に「フィクション」のラベル貼って“大問題”
なんてあるものだから、快哉を叫んだのだが、よく
読んでみると、単純ミスに近い話だ。

もし、わたしが、英語に堪能であったなら、フィ
クション説をぶち上げてみたいものだという思い
があるので、そのような早とちりをしてしまった。

それにしても、そのようなミスが出たことじたい
に、わたしは興味ぶかいものを感ずるのだが。

ところで、上記の記事で、

「正しいジャンル分けだ」「聖書は人類最高のフィ
クションだ」といった、あまり宗教的ではないひと
たちからの擁護や称賛の意見も多くあった。

とあり、この辺も興味深い。

最近、思うのだ。

ウリジナルという言葉で、韓国が揶揄されているが、
結局、ある意味で、旧約聖書もこのウリジナルと

同じ境遇から生まれたものだ。

韓国が中国や日本から弄られ続けてきた歴史があっ
て必死にアイデンティティーを持ちこたえんと、ウ
リジナル精神が高揚していると思っている。
 結局、よく考えてみれば、イスラエルだって、か
つて、そのような境遇で、必死になっていたのだろ
う。
「辺境の地」の度合いが、イスラエルと韓国とでは
差があったのだろうが。

乱暴な言い方だが、旧約聖書は、ある意味で、日本
の「古事記」と同列の世界の話である。結局、その時
の権力者が、自己正当化するためのプロパガンダでや
ある。とも言いたいのだが、残念なから、英語が、不
得手なわたしは、そのような「おおぼらをふく」のが、
できないのは、すごく残念だ。


ふしぎなキリスト教

2011-12-04 22:47:09 | 

池上彰の宗教がわかれば世界が見える

池上彰著

文春新書


本の帯びの表には、

宗教は「よく死ぬ」ための予習

仏教、キリスト教、イスラム教3大宗教のすべて


本の帯びの裏には、

池上彰と7人の賢者の教え

とあり、初めて知ったことが多く、大変勉強になった。
一般的な教養として、この本はお勧めの本の一つだろう。
と思った。

だから、多くの若い人にも読んでもらいたいと思った。

わたし個人的には、山形孝夫氏(宮城学院女子大学名誉教授)の
キリスト教には、ついては、面白く感じられた。

そうじて、キリスト教が、本質的にはパウロ教であるという
視点の見識には、いろいろと学ぶことができて良かった。

細かいところでの賛同の有無は別として、幅広くキリスト教を
理解する点では、多くの人に勧めたいと思った。

 

それから、

ふしぎなキリスト教

橋爪大三郎×大澤真幸

日本人の神様とGODは何が違うか?

講談社現代新書

を読み終えた。

個人的に、大変興味深い話しがあった。

 

以下、その抜粋である。


3 ユダヤ教はいかにして成立したか

大澤 すごく重要なポイントに一気に近づいているん
ですけど(笑)、もうしばらく立ち止まって初歩的な
知識を確認させてください。

 旧約聖書を読むと、3分の1ぐらいは歴史のことが
書いてあります。

『創世記』の最初のほうは、つまり天地創造のことで、
今しがた話題にした、神が人間をつくったことなども
書かれています。それは明らかにフィクションと言い
ますか神話的です。

しかし、旧約聖書は、そういうところからだんだん、
実際にあった話がそれなりに伝承されて文字になった
ものだろうと解釈できる部分へと、つまり本当の歴史へ
と変わっていきます。

旧約聖書の記述は、こういうふうに神話と本来の歴史、
フィクションと事実とをないまぜにしていますから、
これだけからはユダヤ教の客観的な歴史はわかりません。

 そうすると、実際問題として「ユダヤ教はいつユダヤ
教になったのか」ということが気になります。

おそらく学者の冷めた目で見れば、あの地域にいたユダヤ
人たちも初期の段階では周囲の共同体のそれと大同小異の
宗教を抱いていたのでしょう。

しかし、その宗教は、やがて、非常に独特の厳しい一神教
でGodと契約するというアイデアに固まっていきました。

一般的にはいつごろ、どういう社会的背景のもとでユダヤ
はユダヤ教になったと説明されていますか?


橋爪 まず、年表をみてください(27頁)。

 この年表は、エジプトの出来事と、メソポタミア(バビロ
ニアやアッシリア)の出来事に、パレスチナー帯(当時は
カナンといっていました)の歴史が挟まれるかたちになって
います。

両大国に挟まれた地域(カナン地方)に、イスラエルの人びと
がいた。

エジプトとメソポタミアの両大国に挟まれた弱小民族が、
ユダヤ人だったという歴史がわかると思う。

島国で安全だった日本とは、まるで正反対なんです。

 さて、ユダヤ教の成立時期なんですけれども、だんだん
出来ていったものなので、はっきりしたことは言えない。

 ヤハウェという神が最初に知られるようになったのは、
紀元前1300~前1200年ごろだと思います。

そのころ、のちに「イスラエルの民」といわれるようになる
人びとが、この地に入植しはじめた。神々のひとつとして、
ヤハウェがあがめられるようになった。

これが、それなりにユダヤ教らしくなったのは、ずっと時代が
くだって、バビロン捕囚(紀元前597~前538年)の前後。

すっかりユダヤ教になったのは、イエス・キリストより後かも
しれない。

ローマ軍の手でエルサレムの神殿が壊されて、ユダヤ民族は
世界中に散らされてしまったんですね。

神殿がなくなったので、律法を重視するいまのユダヤ教の
かたちが確定した。というわけで、1500年ぐらいかけて、
徐々に成立しているんでこれだけ長い間に、ユダヤ教はずいぶん
かたちを変えているので、以下、マックス・ヴェーーバーの
『古代ユダヤ教』(名著です!)を下敷きに説明します。

 ヤハウェは、最初、シナイ半島あたりで信じられていた、
自然現象(火山?)をかたどった神だった。

「破壊」「怒り」の神、腕っぷしの強い神だったらしい。
そこで、「戦争の神」にちょうどいい。

イスラエルの人びとは、周辺民族と戦争しなければならな
かったので、ヤハウェを信じるようになった。

 日本にも似たような、八幡という神がいます。もともとは
九州の国東半島あたりの神だったのが、戦争に強いということ
で、石清水に祀られ、鎌倉の鶴岡八幡宮にも祀られて、武士の
守り神になった。


 ともかくヤハウェは、戦争の神。イスラエルの民がそのもとに
まとまった。

 この「イスラエルの民」が元はどんな人びとだったか、実は
よくわかりません。肥沃な低地を見下ろす山地に往み、羊や牛や
山羊を飼っていた。人種も文化もまちまちなグループの寄り合い
所帯だったらしい。逃亡奴隷やならず者やよそ者もまじっていた
かもしれない。それが、定住農耕民と張り合おうというので、
団結して、ヤハウェを祀る祭祀連合を結成した。

ヴェーバーの言い方だと、「誓約共同体」(同じ神をいただく
宗教連合)ですね。

そして少しずつ、カナンの地に侵入していった。

 旧約聖書には、モーセが人びとを率いて紅海を渡り、シナイ半島
をさまよった「出エジプト物語」とか、モーセのあとを継いだ
ヨシュアが、エリコの町を攻略したとか書いてありますが、これは
ずっと後世に書かれたもので、その通りの歴史的事実があったとは
信じられない。

じやあ実際はどうだったのかというと、あんまり古いことなので、
よくわからないのです。でもともかく、ときには平和的に、ときに
は実力で、先住民に割り込んで、カナンの地に定着した。

そして、彼らの国をつくった。

 この段階では、ヤハウェは、数ある神々のひとつです。カナンの
先住民は、さまざまな神を信じていた。バアルと総称されるが、主に
農耕を司る神で、偶像を崇拝していた。

ペリシテ人はダゴン神、モアブ人はケモシュ神という具合に、めいめい
神を祀っていた。

 実はヤハウェの像も、つくられたことがあるらしい。最初は、石の
柱を立てていた(あとでは禁止されます)。ヴェーバーは、偶像崇拝を
しないユダヤ人に、こんな皮肉を言っている。なぜ、ヤハウェの偶像
がないのか? それは技術水準が低くて、偶像がつくれなかったから。

偶像崇拝がいけないというのは、負け惜しみなんですね。

 

 ともかくイスラエルの民は、先住民の神々(偶像)を拝むのを禁止
して、ヤハウェだけを信仰しようとした。

それでも、バアルを拝む人びとはあとを絶たなかったので、流血事
件も起こっています。

たとえば、王妃のイザベラがバアル神を拝んだので、預言者エリヤ
がバアルの祭司450人を殺害した事件(『列王記上』18章)は有名
です。

 ……という具合に、だらだらと、ユダヤの歴史を話し続けてもいい
のかな?

大津 どうぞ。最後までお聞きします。

 

4 ユダヤ民族の受難


橋爪 じゃあ、次のポイントは、王が登場すること。
 戦争するには、王がいたほうがいい。イスラエルの民は、サウル、
ダビデ、ソロモンといった王を選んだ。

でも、誰がどうやって選べばいい? サムエルという預言者がいて、
サウルに油を注いで、最初の王にした。サムエルになぜそんな権限
かあるかというと、ヤハウェの声を聴いたから。Godがいると、
Godが選んだからという理由で王制をつくりやすい。

こうして、ヤハウェ信仰と王制が結びついた。これが、ユダヤ教の
歴史の、二番目の転換点です。

 Godが王を任命するのだとすると、王を相対化できる。王がなにか
間違いをしたら、預言者がGodの声を聴いて、王を批判しに乗り込ん
でくる。

「王は間違っている、なぜなら、神との契約に反して……」みたいな
ことを、演説して歩くこともできる。
 たいていの国だったら、王は、自分を批判する人間なんか、すぐ捕ま
えて死刑にしてしまう。

殺されてしまうから、王を批判する知識人の社会的影響力なんて、
ないに等しい。

でも、Godの言葉をのべている預言者を、すぐ死刑にはできない
でしょう。

ちょっと様子をみているうちに、預言が社会的影響力をもってしまう
んです。

王制が始まると、王を批判する預言者もつぎつぎ現れるようになった。

そうした預言は、そのうち、預言書にまとめられるようになった。

 預言者のやっているのは、イスラエルの民をとりまく国際情勢
や国内政治を、ヤハウェの目でみることなんです。

王の行動が、ヤハウェ信仰に照らして正しいかどうか、チェックする。

 こういう預言がつみ重なって、ヤハウェ信仰は、さらにつぎの
段階に進みます。
 イスラエルの民をとりまく国際情勢は厳しさを増し、アッシリアが
攻めてきて、ついに北のイスラエル王国を滅ぼしてしまった(紀元前
722年)。

ソロモン王のあと、北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂して
いたのです。その北半分、首都のサマリアが陥落し、人びとはアッシ
リアに連れ去られて、歴史からかき消えてしまいます。

そのあと、新バビロニアという国が興って、ネブカドネザル王がユダ
王国を攻め、エルサレムを攻略してしまうのです。

王や主だった人びとは、バビロンに連れ去られた(バビロン捕囚)。

  いったいなぜ、こんな苦しみにあうのだろう。ヤハウェはなぜ
救ってくれないのか。

人びとは悩みに悩んで、こんなふうに考えるようになった。

 ヤハウェは、われわれだけの神ではない。世界を創造し、世界を
支配している。

アッシリア、バビロニアが攻めてくるのも、ヤハウェの命令だか
らだ。

われわれがヤハウェに背き、罪を犯したから、懲らしめのためで
ある。

つまり、われわれに原因がある。この試練を耐え忍び、これまで
以上にヤハウェを信じれば、外敵は除かれるに違いない……。

 ここでヤハウェは、イスラエルの民の神から、世界を支配する
唯一の神に格上げされているんです。

ヤハウェが自分たちだけの神なら、ほかの民族が彼らの神を拝む
のは仕方がない。でも、それはもう認めない。ヤハウェは唯一の
神で、世界を支配している。

ヤハウェ以外の神は、神でなく、偶像にすぎない。こういう信念に
成長した。

 バビロンに捕囚されたのは、ヤハウェの計画で、なにか理由がある。
だから我慢した。

預言者の預言のとおりに捕囚され、預言のとおりに解放された。
帰還して、エルサレムの神殿を再建することもできた。

やはり、ヤハウェは偉大だ。
というわけで、ヤハウェ信仰は前より強まったのです。

 バビロンには、天地創造の神話や大洪水の物語などがあって、
それを取り入れた。

聖書の冒頭の『創世記』も、こうして出来あがった。

ただし元の物語のままではなく、ヤハウェ信仰に合うように編集が
加わっています。

 さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。それには、三通りの
やり方があった。

 第一は、儀式を行なう。牛や羊などの犠牲を猷げるのですね。
  犠牲の献げ方にもいろいろあるが、特にヤハウェに献げる場合
  には、「全焼の供犠」といって、黒焼きにした。

 第二は、預言者に従う。ヤハウェの言葉を伝える預言者に、人
びとは従った。

 第三は、モーセの律法(聖書にまとめられている)を守って暮らす。
 この三つのやり方があって、どれも大事ということになっていた。

 ところが、この三つのやり方の中心となる人びと(祭司、預言者、
律法学者)が、お互いに仲が悪いのです。

 イエス・キリストの時代には、神殿で儀式を行なう人びとは
サドカイ派、律法を守る人びとはパリサイ派、と呼ばれていた。

この二つのグループが、ユダヤ人社会を取り仕切っていた。

 いっぽう、洗礼者ヨハネや、その流れをくむイエスは、預言者の
グループだった。

王制の時代には、預言者が大勢登場したのですが、律法が整備され
ると、預言者は登場しにくくなった。

バビロン捕囚から戻ってからは、預言者が現れなくなる。実際には
現れたのでしょうが、見つけ次第、弾圧されるようになった。

洗礼者ヨハネもイエスも、当局者に目をつけられ、結局、殺されて
しまうのです。

 神殿で儀式を行ない、ヤハウェに犠牲を猷げるのが、祭司たち
です。サドカイ派は、こういうグループだった。バビロンに捕囚
されていたあいだ、神殿がなくなってしまいましたから、祭司の
地位は落ちたんです。

犠牲を猷げるかわりに、律法を守ることしかできないから、律法
学者の地位が上がった。でも戻ってきて、神殿を再建したあと、また
祭司たちの力が強くなった。こういうふうに、対抗関係があったん
です。

 イエスが処刑されたあと、エルサレムの神殿が破壊され、神殿を
拠点にしていた祭司がいなくなった。預言者もとっくにいない。
律法学者だけ残った。これが、いま私たちが知っているユダヤ教です。

 律法学者を、ラビと呼びます。彼らは、ユダヤ社会に欠かせない
存在です。そうやって律法を守り、二千年の歴史を歩んできた。

大澤 なるほど。旧約聖書に書かれている歴史というのは半分事実
で半分作り話だと思うので、客観的な宗教史を考えるうえでは、
すべてを鵜呑みにはできません。

いまおしゃったように、ユダヤ教がほんとうに「らしさ」をつくって
くるのはおそらくバビロン拙囚の前後ぐらいではないかと思います。

その頃に成立した世界観が過去に投影されて、旧約聖書の「歴史」が
成立しているのでしょう。

つまり、バビロン捕囚の頃におおむね完成したユダヤ教の観点から、
過去の事実が再解釈されたり、ときに創造されたりしているので
はないかと思うのです。

だから、バビロン捕囚以前のユダヤ人たちの宗教は、若干は周囲
の宗教と違うかもしれませんが、まあそんなに驚くほどには違って
いなかったかもしれない。

おそらくバビロン捕囚が非常に大きな歴史的経験で、それが今日の
ユダヤ教のユニークネスの根拠になっているのではないか、と推測
します。

 

以上。


キリスト教について、わたしが、一番知りたかった部分が見つかる
ことがあるなんて、驚きであった。

神(ヤハウェ)が、厳しいユダヤ人の歴史の中で、創作されてきた。
ということである。

乱暴な言い方をすれば、ユダヤ人の悲惨な歴史が、その苦しい
現実の中で、崩壊しようとするアイデンティティを維持せんと
神(ヤハウェ)をでっちあげた。

ということだと、理解した。

つまり、創世記は、でっちあげである。

神が、人間を造ったのではなく、ユダヤ人が神をでっちあげた。

である。

しかし、どういうわけか、この本の内容が途中から、神が人間を
造ったということで、話しが進行していくのだ。

そして、つじつまが合わなくて、話しの展開で混乱している。

わたしは、この本の話しの展開が、どうして、このようになる
のか理解できない。

前半で、神はでっちあげだと言っているような気がするが、
神は存在するという話しに風向きが変わる。

その後、違うテーマに話しが展開していくのだが、途中で、
混乱した部分はさておき、全体的に、大変学ぶことが多くて
いい本だと思った。

ぜひ、多くの若い人たちに読んでもらいたいと思っている。

高校の2年生以上の若い人に、読んでもらえたらと、希求
してやまない。

 

これで、キリスト教の理解のために、勧めたい本が2冊
追加された。


キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳
柏書房
 

捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房

 

破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳

柏書房


「ローマ人物語 最後の努力(下)

塩野七生著

新潮社


世界の宗教がざっくりわかる

島田裕巳著

新潮選書

 

池上彰の宗教がわかれば世界が見える

池上彰著

文春新書

 

橋爪大三郎×大澤真幸

日本人の神様とGODは何が違うか?

講談社現代新書


以上。


ぜひ、若い人にキリスト教の理解のために、まとめて
読んでもらえたらと、願ってやまない。


「神の声」と哲学者たち

2011-07-23 21:54:28 | 

人生は五十からでも変えられる

新しいことを始めるのに、遅すぎることはない

外科医 平岩正樹

海竜社

にあった話である。


以下、抜粋。

と言いたいところが、量がけっこうになった。
気が引けているのだが、すこぶる感心してしまったので、
著者や出版社には、宣伝をしているつもりで、受け
取ってもらいたいと、願うしかない。

以下、その箇所である。

 


「神の声」と哲学者たち

 カントが好きになった

 哲学者である高橋哲哉東大教授のことが、私の知人である
評論家の宮崎哲弥氏はどうも気に入らないらしい。

理由は、高橋氏の靖国問題や日本の戦争責任に関する発言に
あるようだが、そんなことは、私が一年生のときに受けた
高橋教授の「倫理学」とは何の関係もない。

旧約聖書のアブラハムに始まって、最後は米国ブッシュ大統領に
よるイラク戦争開戦で終わるという高橋教授の授業展開は、見事
というほかはない。

伝説上のアブラハムと、現代のブッシュがどのようにつながる
のか。

もし、最初にそんな講義予定を聞かされていれば、私は面食らった
に違いない。

しかし、高橋教授の講義は何の予告もなくそっと、アブラハムに
よる息子イサクの犠牲の場面から始まった。

旧約聖書の中では「ノアの箱舟」や「バベルの塔」、「ソドムの
滅亡」などと並ぶ名場面の一つである。

旧約聖書「創世記」二十二章によると、イサクはアブラハムが百歳
のときにやっと生まれた子どもである。

しかし、ある日、アブラハムは神の声を間く。「イサクを連れて
モリヤの地に行き、披を焼き尽くす捧げ物(燔祭)としてささげな
さい」

敬虔なアブラハムは、その神の声に従って指定された山に登った。

刃物でイサクを殺そうとした瞬間、再び神の声を間く。「その子に
手を下してはならない」。神は、アブラハムに忠誠心を試したのだ。

 アブラハムはこの神への忠誠によってユダヤ教徒、キリスト教徒、
イスラム教徒から今でも称賛されている。ちなみにこの三つの宗教
は、アブラハムのところまで同根である。

十字軍もホロコーストも、仏教徒やヒンズー教徒から見れば「内ゲバ」
なのだ。

アブラハムが神に試された意図はどこにあるのか。昔から神学議論の
対象になっていたらしい。高橋教授はこのイサク燔祭問題をカント、
ヘーゲル、キュルケゴール、ニーチエの順で、それぞれの考え方を、
最初の三か月をかけて解説していく。

 最初のカントが素晴らしい。私は高橋教授の説明を聞いて、カントが
好きになった。

カントは頭がよいだけでなく、実直で現実的であるところがよい。

カントは言う。
「人を殺してはいけない、ということは最高の道徳である。
最高の道徳には理由はない。

理由がないから最高の道徳なのだ。だから神が『最高の道徳』に
反して『イサクを殺せ』と言うはずがない。

そんな声を聞いたとしても、神の声だと思ってはならない」

なんとカントは、旧約聖書の記述そのものを否定する。

カントによれば、アブラハムは幻聴を聞いたのだ。幻聴を聞いて、
誤って神の声だと勘違いし、危うく殺人罪を犯すところだった。
カントにとって、アブラハムの行動はまったく称賛に値しない。

こんなことを言うカントは、どこまでキリスト教徒だったのか。
否、カントこそ、本当のキリスト教徒ではないのか。世のキリスト
教徒はこぞってカントに歩み寄るべきではないか、とまで思って
しまう。

ヘーゲルとなると、むしろ頭でっかちで、逆に偏狭ではないかと
私は思ってしまう。
十九世紀のヨーロッパを人類の歴史の頂点と考えてみたり、アルタ
ミラ洞窟の壁画も東洋の美術も知らないのに、当時の知識だけで
「美学」を「完成」させてしまったり、国家を最高の道徳と考えたり
するところは、たとえ十九世紀最高の頭脳であったとしても、私が
共感できるところは少ない。

 

ニーチエと、アメリカの娘殺し事件

 

 圧巻だったのはニーチェの講義だ。

「神は死んだ」と唱えるニヒリズムの中で、ニーチェは「超人」として
生きることを人々に勧める。でも、その「超人」とは具体的にどんな
生き方なのか。

 私はそれまで数冊のニーチェの著作を読んでいたが、ニーチェの
[超人」が何なのかさっぱりわからなかった。


高橋教授がプリントを配る。
その中にニーチェの著作『反キリスト者』があった。

 ニーチェは『反キリスト者』の中で、教少ない「超人」の実例をあげて
いるのだ。

それはイエスである。イエス・キリストこそニーチェの生き方のお手本
なのだ。あれほど激しくキリスト教を批判し続けたニーチェが、である。

「どうですか、みなさん。これを読むと、ニーチェに対する考え方が少
変わってくるのではないですか」

 ニーチェによれば、超人の生き方をしたイエスの考えをあとから捻じ
曲げ、イエスの死後にキリスト教をでっち上げたのは、すべてイエスの
弟子たちの仕業なのだ。キリスト教を否定するニーチェは、イエスの
弟子たちの悪行を否定している。

イエス自らが示した強い生き方を素直に模範とできない弱々しい弟子
たちが、弱い自分たちを正当化しようとして、強者に対する怨恨と嫉妬
に満ちた奴隷のような道徳のキリスト教を打ち立てた。なるほどねえ。

私は高橋教授の説明するニーチェの考え方にほとほと感心したが、感
心の半分はニーチェのレトリックにある。

 哲学者ニーチェは、悪文家で有名なヘーゲルと違って名文を書く文
学者でもある。

イエスを「超人」の手本とし、返す刀でキリスト教を罵倒する手法は、
キリスト教を完膚なきまでに分断してしまう。

ニーチェがイエスを超人の一人と考えたのは、本心ではあっただろう
が、ことさらにイエスをお手本にあげることで、ニーチェが攻撃する
キリスト教のダメージはより大きくなるはずだ。あえてイエスを超人
と推奨する意図の半分は、ニーチェの哲学的戦術だと私は思う。

それにしてもニーチェの著作も含めて、あらゆる哲学書を原書できちん
と読み尽くしている教授の授業だからこそ、その講義も縦横無尽で楽
しい。

独学ではなかなかこんなことには気づかないだろうし、気づくとしても
何年も研究しないといけない。

時代がニーチェまで下ったあと、高橋教授の話は急に、アメリカで
最近起こった殺人事件に移る。

ある父親が幼い娘を殺した。それがどうも虐待によるものではない。

犯人の父親は、社会的にちゃんとした仕事をまじめにこなしていたし、
家庭内でもよき夫、よき父としてずっと模範的な生活を送っていたと
いう。

周囲の評判もよい。それがなぜ突然、我が娘を殺したのか。裁判で
その父親は供述した。

「神の声が聞こえ、娘を殺しなさいと命じられたからです」
 いくら尋ねても、本人の答えは「神の声」の一点張りだったという。

なるほど、ここで話はアブラハムのイサク燔祭問題に再び戻ることに
なる。
我々はこの事件をどう考えればよいのか、と高橋教授が私たちに尋ね
る。
イサク燔祭問題は、古臭い旧約聖書の中だけの問題ではなく、今日
の問題でもあるのだ。

すると、再びカントの指摘が普遍性をもって光ってくる。「反道徳的な
言葉であるなら、それは『神の声』ではない」のだ。「神の声」を
人間が内容で判断するなら、それはもう「神の声」と呼べないと私は
思うのだが、こうしたカントの反キリスト教的姿勢は、今までに誰か
指摘しているのだろうか。

「神の声」は理不尽だから「神の声」なのであって合理的であるなら、
神の声を待ち出すまでもない。

 

幻聴は精神疾患の症状の一つだ

 

でも医者の私は、カントとは別なことを考える。私の専門は進行がん
の治療であり、精神科医ではない。

しかし若い頃、精神科の臨床実習で、神と会話する患者を何人か診
た。

いつの時代のどこの国でも、人口の1パーセント弱の人は精神分裂病
(最近流行の言葉でいえば、統合失調症)を患っている。だから、今の
日本にも約百万人の精神分裂病患者がいることになる。

精神分裂病の症状の一つに幻聴があり、幻聴の中には神との交信もある。

世界中の精神科病棟で、「神の声」は珍しい出来事ではないのだ。
ちなみに、精神分裂症以外の精神疾患でも幻聴は起こるから、幻聴
=精神分裂病ではない。

それはともかく、もし「神の声」が聞こえたら、人は「精神を患ったか」
と心配すべきなのだ。カントは内容を道徳に照らして判断せよと指摘し
たが、私は、そもそも神の声が聞こえた時点で、精神科を受診すべき
だと助言したい。

キリスト教神秘主義の人たちは神の声に従って生活しているそうだ
が、1パーセントの人は本当に「神の声」を(症状として)聞いて
いるのだ。


 ちなみに娘を殺した父親は、高橋教授によると裁判で無罪に
なったそうだ。


正常な善悪の判断ができなくなっている、というのがその理由
らしい。

妥当なところだろう。

そこから講義は急展開する。20001年の9・11]同時多発
テロ事伴のあと、ブッシュは怒りの矛先をなぜかイラクに向け、
ブレア首相と小泉首相が一早くブッシュに賛同して、イラク戦争が
始まった。

そのときのブッシュの演説が日本ではほとんど報じられなかった、
と高橋教授か指摘する。

なんとブッシュ大統領は、イラクとの戦争は「神の思し召しだ」と
アメリカ国民に訴えたのだ。

どうやらブッシュには「神の声」が聞こえたらしい。

ここで再びアブラハムのイサク燔祭問題が蘇る。

 なるほど、高橋教授はイラク戦争開戦の問題が指摘したくて、旧約
聖書から始まってカント、ヘーケル、キュルケゴール、ニーチェと
話をつないできたのか。

巧みな講義展開ではないか。旧約聖書の中のアブラハムの行為が無
批判に称賛されるなら、「神」を口にするブッシュの開戦を止める
こともできない。

 そして実際、当時のアメリカの世論は、九割以上の異常に高い支持
率で、ブッシュのイラク戦争開戦を支持したのだ。

アブラハムの時代から四千年がたっている。そして「『人を殺せ』という
道徳に反する声は、真の神の声ではない」と、カントが指摘してから
二百年がたっているのに、何も状況が変わらない。

誰も開戦を促す「神の声」を止めることができないのだ。イサク燔祭
問題はすこぶる今日的な問題だ。

 実際に「神の声」を聞く人は患者として1パーセントいるが、
「神の声」を聞いたと言い張る人は、思い違いや嘘も含めてきっと
もっとたくさんいる。

世の中は「神の声」であふれているのだ。


 カントに従って、道徳的に「神の声」の内容を判断する以前に、
そもそも「神の声」は精神疾患の範暗に属する出来事と知るべき
なのだ。

人間はいつになったら、「神の声」を口にすることをやめるの
だろうか。

「大きな物語」は近代文学がいくら批判しても、今日でも大きな物語
としての力を失っていない。


以上。


ほんとうは、ニーチェに関心があったのだが、どうも、ここだけ
抜粋しては、理解が不十分だと、かなりの量を引用することにした。

ニーチェは「神は死んだ」と、言ったのだが、なぜ、キリスト教の
ヨーロッパで、このような発言が許容されたのか理解できなかった。

話に聞くと、西欧人には、宗教を持たない人間というのは、理解
できないらしいからでもある。

それにしても、キリスト教の文化で、キリスト教を捨てたりすれば、
いったい何をもって、生きていく支えにするのだろうと、疑問に
思ってきた。

そして、「超人」って何なのだ。という、疑問はあった。
「ツァラトゥストラはこう言った」を買ってみたものの
残念ながら、最初から拒否反応がでて、ギブアップであった。

今回、若い頃から、抱えていた疑問が、一挙に解けることになった。

ラッキーである。


ニーチェ、かく語った。

弱々しい弟子たちが、弱い自分たちを正当化しようとして、強者に
対する怨恨と嫉妬に満ちた奴隷のような道徳のキリスト教を打ち立
てた。

ようだが、

ドイツの哲学者・古典文献学者だったということは、どの程度彼の
見解に影響を与えたのだろう。


破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳


という人もいて、学問的な技術が完成しているようだが、ニーチェの
時代、古典文献学の世界はどのようなものであったのだろう。

だから、このような発想ができたことについては、ニーチェの才能に
はびっくりしてしまう。

ただ、ニーチェにとっては、イエスは、「超人」になるようだが、
このところが、残念ながらまったく理解できない。

バート・D・バートン氏の著書を読んだことは、多いに影響あるが、
わたしは、イエスが超人とは理解しがたい。

イエスやキリスト教の信者には、悪いが。ただ単に馬鹿な男としか
思えない。

文字が読めるだけで、賢しらぶった田舎者のイエスが、黙示思想
にかぶれ、ちょっとばかし、信者ができただけで、思い上がって
世間をあなどり、スタンドプレーをして、死刑されるという
自己陶酔も甚だしい自業自得のバカな話でしかなかったのでは。

というのが、イエスについての理解である。

恥ずかしい話だが、これは、わたしたちの青春の総括でもある。

60~70年代にかけて、革命にかぶれて、結局ねじ伏せられた
わたしたちの過去そのものでもある。

黙示思想が革命思想に変わっただけで、イエスと同じ、馬鹿な
ことをわたしたちもしたので、イエスを単純に揶揄するわけでも
ない。

わたしたちだって、野郎自大だったし、なんのことはない、イエス
だってその程度のことだったのである。

ローマ帝国の強大な権力に耐えかねて、ひきこもらざるを得ない
人々が、キリスト教を生み出すことによって、苦しい現実を正当
化する媚薬を生み出すことに成功したということかもしれない。

負け犬が生き延びるために、美しい嘘を共有しようと計ったのだ
ろう。

いずれせよ、この本で、長い間、疑問を抱き続けてきたことへの
解答にめぐり合ったような気がしたのは、嬉しいことと思った。

 

ところで、

旧約聖書「創世記」二十二章によると、イサクはアブラハムが百歳
のときにやっと生まれた子どもである。

しかし、ある日、アブラハムは神の声を間く。「イサクを連れてモリヤの
地に行き、披を焼き尽くす捧げ物(燔祭)としてささけなさい」

敬虔なアブラハムは、その神の声に従って指定された山に登った。

刃物でイサクを殺そうとした瞬間、再び神の声を間く。「その子に手を
下してはならない」。神は、アブラハムに忠誠心を試したのだ。


この箇所については、前にも読んだのだが、今回、再び読んでみて
気づいたことがあった。

とりとめもないと言えば、そうなるが。


イサクはアブラハムが百歳のときにやっと生まれた子どもである。

単純に考えて、あんな、大昔に百歳にもなる人間が、認知症にならずに、
百歳で子どもが生まれるのだろうか。

普通に考えて、百歳にもなる老人が、山に登り、子ども自ら刃物で、
殺すだけの体力があるのだろうか。

思うに、百歳にもなり、今にも、死んでいく年寄りをなぜに、神は、
試す必要があったのだろうか。まったく理解できない。

ややもすると、アブラハムの狂言かもしれない。

と、勝手に、凡愚は考えたくなる。


ところで、本の中で、平岩氏は、

旧約聖書のアブラハムに始まって、最後は米国ブッシュ大統領に
よるイラク戦争開戦で終わるという高橋教授の授業展開は、見事
というほかはない。

と言ったが、その感想を述べているこの本の平岩氏の「幻聴は精神
疾患の症状の一つだ」の話の方が、さらに見事ではないか。

 

ただ、残念なのは、次の話である。


そこから講義は急展開する。20001年の9・11]同時多発
テロ事伴のあと、ブッシュは怒りの矛先をなぜかイラクに向け、
ブレア首相と小泉首相が一早くブッシュに賛同して、イラク戦争が
始まった。

そのときのブッシュの演説が日本ではほとんど報じられなかった、
と高橋教授か指摘する。

なんとブッシュ大統領は、イラクとの戦争は「神の思し召しだ」と
アメリカ国民に訴えたのだ。

どうやらブッシュには「神の声」が聞こえたらしい。

ここで再びアブラハムのイサク燔祭問題が蘇る。

 なるほど、高橋教授はイラク戦争開戦の問題が指摘したくて、旧約
聖書から始まってカント、ヘーケル、キュルケゴール、ニーチェと話を
つないできたのか。

巧みな講義展開ではないか。旧約聖書の中のアブラハムの行為が無
批判に称賛されるなら、「神」を口にするブッシュの開戦を止める
こともできない。

 そして実際、当時のアメリカの世論は、九割以上の異常に高い支持
率で、ブッシュのイラク戦争開戦を支持したのだ。


以上。


この中で、

20001年の9・11]同時多発テロ事伴のあと、ブッシュは怒り
の矛先をなぜかイラクに向け、ブレア首相と小泉首相が一早く
ブッシュに賛同して、イラク戦争が始まった。

というのがあり、

「矛先をなぜか」言っているが、「なぜか」ではなかったはずだ。
それなりに、開戦の論理建ては、していたはずだ。

はっきりいって、「9・11の報復」という大義名分があった記憶
がする。

だから、「神の思し召し」で、国民を煽動できたのだ。


ところで、

ニューズウィーク日本版  2011.6.29 にあった
「アラブの春」に凍るCIA

にあった話でこういうのがあった。

以下、抜粋。

9・11テロ後もスレイマンとの協力関係は続いた。

だがブッシユ政権は、都合のいい情報だけを引き出そうとした。

 アルカイダの工作員イブン・アル・シェイク・アル・リビは
エジプトで拷問され、アルカイダとイラクのサダム・フセイン
大統領はつながっていると自白したが、真っ赤な嘘だった。

アル・リビは後に、「死ぬほど痛めつけられたから」とアメリカ
側に語ったとされる。

「何かを言うしかなかった」

以上。

これである。


「アルカイダとイラクのサダム・フセイン大統領はつながっていると
いう嘘の自白」がブッシュにとっての「神の思し召しめ」の根拠
だったはずだ。

平岩氏は、

「なるほど、高橋教授はイラク戦争開戦の問題が指摘したくて、旧約
聖書から始まってカント、ヘーケル、キュルケゴール、ニーチェと話を
つないできたのか。」感嘆しているのだが、

嘘の自白のことを抜きにして、ただ単に、論理を展開しているのは、
己が「博覧強記」を頼みにした、好事家にすぎなくもないと思えたり
する。


平岩氏は、

旧約聖書の中のアブラハムの行為が無批判に称賛されるなら、「神」
を口にするブッシュの開戦を止めることもできない。

 そして実際、当時のアメリカの世論は、九割以上の異常に高い支持
率で、ブッシュのイラク戦争開戦を支持したのだ。

と語ったが、このような「話のオチ」にもっていかれては、「神の思し
召しめ」という大義名分で、これからも戦争に駆り出されることになる。

それでは、困る。

平岩氏の本の中に、このような文章があった。

「君たちは、高校の先生と大学の先生の違いがわかるか、高校の先
生たちは他人の研究成果を学生たちに教える。ところが、大学の
先生は、自分が自ら出した研究成果を、誇りをもって自慢しながら
学生に教えるのだ」というのがあったが、

(高橋教授が)成果をださんがために、博覧強記の知識を弄ばれて
は、国民を戦争に誘導することに加担しているようなものだ。

平岩氏は、こう言った。

人間はいつになったら、「神の声」を口にすることをやめるの
だろうか。

「大きな物語」は近代文学がいくら批判しても、今日でも大きな物語
としての力を失っていない。

以上。

今日の戦争を判断するに、近代文学(どうして近代まで?)の成果を
前提とし、このような結論を出されては、事の本質を隠蔽する事に
加担することにしかならない。

戦争は、政治をする国の内政の延長線上にあり、経済の問題である。

そういう意味で、高橋教授の講義は、二重に偽善である。

文学者が、的外れに戦争を語る。不遜の行為である。

いずれにせよ、知的な爽快感が残る本であったことには、間違い
ない。


2011-07-21 06:54:53 | 

たまたま、ネットをみていたら、進化論に反対し
創造論をまくしたてる医者がいた。

そのことで、ブログで、ドンパチやっているのだが
面白い論理が出てきた。


以下、その抜粋である。


宣教師シドチ

「天地万物は神が創造した」

 

新井白石

「天地万物を創造した神がいたというのなら、神もまた
これを創りだした作者がいたはずだし、
 もし神が自ら成り出ることが出来たとするなら、天地も
また自生し得ることに何の不思議もない。」


以上。


非常に単純明快な論理。

天地万物を創造した神は、何時、どのようにして、できたの
だろう。ほんと。

そして、面白いことに気づいたが、天地がない時に、神はどこ
にいたのだろう。

創造論を真に受ければ、天地万物を作った時に、宇宙ができた
ように思われるが。

 

人生は五十からでも変えられる

新しいことを始めるのに、遅すぎることはない

外科医 平岩正樹

海竜社


にあった話である。

以下、抜粋。

「進化論」という用語は、現在では正しくない。進化は
特定の思想ではないからだ。
現在は「進化学」と称されている。

以上。

というのがあって、大変びっくりした。

いつまでも、進化論対創造論ではなく、
進化学対創造論の時代のようである。 

 


「人間はなぜ生きる?」が生んだ「大きな物語」

2011-07-19 22:59:27 | 

人生は五十からでも変えられる

新しいことを始めるのに、遅すぎることはない

外科医 平岩正樹

海竜社


にあった話である。


以下、抜粋。


「人間はなぜ生きる?」が生んだ「大きな物語」


江原氏は「宗教は小説だ」と言う。

近代小説が生まれる前、人類は世界の至るところで、それぞれの
「大きな物語」を共有していた。

私は、それは迷信というより人類の英知であり、邪教というより
人間の真理だと思う。

江原氏が「宗教は小説」の例にあげるのは、聖書の中の「マル
コによる福音書」のイエス復活の場面だ(『新約聖書』フラン
シスコ会聖書研究所訳注・サンパウ)。


「安息日が終わったので、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、
およびサロメは(中略)、日が出るとすぐ、墓に行った。(中略)

墓の中に入った彼女らは、右手のほうにまっ白な長い衣をまとった
若者(天使)が座っているのを見て、非常に驚いた。(中略)

婦人たちは墓を出て逃げ去った。われを失うほど恐れおののいて
いたからである。

そしてだれにも何も言わなかった。それは、恐ろしかったからで
ある。」

 この、イエスの亡骸が墓から消えていた「復活」の描写が、
聖書は小説の特徴を備えている、と江原氏が指摘するところだ。

問題は、最後の「そしてだれにも何も言わなかった」の部分である。

この文が事実なら、いったいマルコはどうやってこの復活の場面の
記録を残すことができたのか。

そうではなく、「そしてだれにも何も言わなかった」という文こそ、
いろんな小説の中で典型的に繰り返し使われる言い回しなのだ。

これは江原氏の小説家ならではの指摘ではないだろうか。江原氏のこの
指摘を逆に表現すれば小説家は小説の中で神の存在になっている。

 一般に小説の中ではしばしば、特定の登場人物しか知り得ない秘密を、
赤の他人である読者も共有する。

でもこのことは、現実の世界では絶対に起こり得ない。

「マルコによる福音書」は、小説以外では絶対に起こり得ないことを
書いてしまった。

江原氏の慧眼に、私は「なるほど」と感銘し、


以上。


この江原氏に関する記述を読んで、驚いた。


前述の文章である。

問題は、最後の「そしてだれにも何も言わなかった」の部分である。

この文が事実なら、いったいマルコはどうやってこの復活の場面の
記録を残すことができたのか。

以上。

このような論理の展開であるが、つい、笑ってしまった。

同様な視点の持ち主がいたとは。

わたしの場合は、こうである。

「誰もみているはずがないのに、どうして、このような文章が
かけるかということである。」

それは、創世記の天地創造の話である。

創世記で、「神は言われた」という言葉が、何度も出てくる。

この話を聞いた誰かがいるわけだが、誰が聞いたのだろう。

アダムとイブが、知恵の実を食べる前の話だ。

誰も見た人はいないのに、なぜ、天地創造の話が、あったと
言えるのだろうか。

である。

さて、江原氏の文章である。

近代小説が生まれる前、人類は世界の至るところで、それぞれの
「大きな物語」を共有していた。

私は、それは迷信というより人類の英知であり、邪教というより
人間の真理だと思う。

以上。

 

というのがあるが

私は、それは迷信というより人類の英知であり、邪教というより
人間の真理だと思う。

ここのところが、ひっかかる。

私は、それは迷信ではあるが、それはそれとして、「人間はなぜ
生きる?」という切実な問いに対して、時代の制約を受けながらも
答えようとする意味で「人類の英知」であり、邪教ではあるが、
何等の答えを求める行為の結果であるという意味で、人間の本質で
あろう。
そして、正しいか否かは、別として、人類に一般的に、宗教を生み
出してきたという意味では、「人間の真理」であろう。

宗教は、悪く言えば、阿片だろうし、好意的に受け止めれば、麻酔か
精神安定剤とはなりうるかと思う。

誰しも、自分の苦しみを克服できるわけではない。だから、宗教という
麻酔があっても、精神安定剤があっても、人生を全うできれば、是と
して良いのではと思ったりする。

ということを、考えたりしたが、

人生は五十からでも変えられる

新しいことを始めるのに、遅すぎることはない

この本に多いに啓発されて、幸運だった。