人生は五十からでも変えられる
新しいことを始めるのに、遅すぎることはない
外科医 平岩正樹
海竜社
にあった話である。
以下、抜粋。
と言いたいところが、量がけっこうになった。
気が引けているのだが、すこぶる感心してしまったので、
著者や出版社には、宣伝をしているつもりで、受け
取ってもらいたいと、願うしかない。
以下、その箇所である。
「神の声」と哲学者たち
カントが好きになった
哲学者である高橋哲哉東大教授のことが、私の知人である
評論家の宮崎哲弥氏はどうも気に入らないらしい。
理由は、高橋氏の靖国問題や日本の戦争責任に関する発言に
あるようだが、そんなことは、私が一年生のときに受けた
高橋教授の「倫理学」とは何の関係もない。
旧約聖書のアブラハムに始まって、最後は米国ブッシュ大統領に
よるイラク戦争開戦で終わるという高橋教授の授業展開は、見事
というほかはない。
伝説上のアブラハムと、現代のブッシュがどのようにつながる
のか。
もし、最初にそんな講義予定を聞かされていれば、私は面食らった
に違いない。
しかし、高橋教授の講義は何の予告もなくそっと、アブラハムに
よる息子イサクの犠牲の場面から始まった。
旧約聖書の中では「ノアの箱舟」や「バベルの塔」、「ソドムの
滅亡」などと並ぶ名場面の一つである。
旧約聖書「創世記」二十二章によると、イサクはアブラハムが百歳
のときにやっと生まれた子どもである。
しかし、ある日、アブラハムは神の声を間く。「イサクを連れて
モリヤの地に行き、披を焼き尽くす捧げ物(燔祭)としてささげな
さい」
敬虔なアブラハムは、その神の声に従って指定された山に登った。
刃物でイサクを殺そうとした瞬間、再び神の声を間く。「その子に
手を下してはならない」。神は、アブラハムに忠誠心を試したのだ。
アブラハムはこの神への忠誠によってユダヤ教徒、キリスト教徒、
イスラム教徒から今でも称賛されている。ちなみにこの三つの宗教
は、アブラハムのところまで同根である。
十字軍もホロコーストも、仏教徒やヒンズー教徒から見れば「内ゲバ」
なのだ。
アブラハムが神に試された意図はどこにあるのか。昔から神学議論の
対象になっていたらしい。高橋教授はこのイサク燔祭問題をカント、
ヘーゲル、キュルケゴール、ニーチエの順で、それぞれの考え方を、
最初の三か月をかけて解説していく。
最初のカントが素晴らしい。私は高橋教授の説明を聞いて、カントが
好きになった。
カントは頭がよいだけでなく、実直で現実的であるところがよい。
カントは言う。
「人を殺してはいけない、ということは最高の道徳である。
最高の道徳には理由はない。
理由がないから最高の道徳なのだ。だから神が『最高の道徳』に
反して『イサクを殺せ』と言うはずがない。
そんな声を聞いたとしても、神の声だと思ってはならない」
なんとカントは、旧約聖書の記述そのものを否定する。
カントによれば、アブラハムは幻聴を聞いたのだ。幻聴を聞いて、
誤って神の声だと勘違いし、危うく殺人罪を犯すところだった。
カントにとって、アブラハムの行動はまったく称賛に値しない。
こんなことを言うカントは、どこまでキリスト教徒だったのか。
否、カントこそ、本当のキリスト教徒ではないのか。世のキリスト
教徒はこぞってカントに歩み寄るべきではないか、とまで思って
しまう。
ヘーゲルとなると、むしろ頭でっかちで、逆に偏狭ではないかと
私は思ってしまう。
十九世紀のヨーロッパを人類の歴史の頂点と考えてみたり、アルタ
ミラ洞窟の壁画も東洋の美術も知らないのに、当時の知識だけで
「美学」を「完成」させてしまったり、国家を最高の道徳と考えたり
するところは、たとえ十九世紀最高の頭脳であったとしても、私が
共感できるところは少ない。
ニーチエと、アメリカの娘殺し事件
圧巻だったのはニーチェの講義だ。
「神は死んだ」と唱えるニヒリズムの中で、ニーチェは「超人」として
生きることを人々に勧める。でも、その「超人」とは具体的にどんな
生き方なのか。
私はそれまで数冊のニーチェの著作を読んでいたが、ニーチェの
[超人」が何なのかさっぱりわからなかった。
高橋教授がプリントを配る。
その中にニーチェの著作『反キリスト者』があった。
ニーチェは『反キリスト者』の中で、教少ない「超人」の実例をあげて
いるのだ。
それはイエスである。イエス・キリストこそニーチェの生き方のお手本
なのだ。あれほど激しくキリスト教を批判し続けたニーチェが、である。
「どうですか、みなさん。これを読むと、ニーチェに対する考え方が少
変わってくるのではないですか」
ニーチェによれば、超人の生き方をしたイエスの考えをあとから捻じ
曲げ、イエスの死後にキリスト教をでっち上げたのは、すべてイエスの
弟子たちの仕業なのだ。キリスト教を否定するニーチェは、イエスの
弟子たちの悪行を否定している。
イエス自らが示した強い生き方を素直に模範とできない弱々しい弟子
たちが、弱い自分たちを正当化しようとして、強者に対する怨恨と嫉妬
に満ちた奴隷のような道徳のキリスト教を打ち立てた。なるほどねえ。
私は高橋教授の説明するニーチェの考え方にほとほと感心したが、感
心の半分はニーチェのレトリックにある。
哲学者ニーチェは、悪文家で有名なヘーゲルと違って名文を書く文
学者でもある。
イエスを「超人」の手本とし、返す刀でキリスト教を罵倒する手法は、
キリスト教を完膚なきまでに分断してしまう。
ニーチェがイエスを超人の一人と考えたのは、本心ではあっただろう
が、ことさらにイエスをお手本にあげることで、ニーチェが攻撃する
キリスト教のダメージはより大きくなるはずだ。あえてイエスを超人
と推奨する意図の半分は、ニーチェの哲学的戦術だと私は思う。
それにしてもニーチェの著作も含めて、あらゆる哲学書を原書できちん
と読み尽くしている教授の授業だからこそ、その講義も縦横無尽で楽
しい。
独学ではなかなかこんなことには気づかないだろうし、気づくとしても
何年も研究しないといけない。
時代がニーチェまで下ったあと、高橋教授の話は急に、アメリカで
最近起こった殺人事件に移る。
ある父親が幼い娘を殺した。それがどうも虐待によるものではない。
犯人の父親は、社会的にちゃんとした仕事をまじめにこなしていたし、
家庭内でもよき夫、よき父としてずっと模範的な生活を送っていたと
いう。
周囲の評判もよい。それがなぜ突然、我が娘を殺したのか。裁判で
その父親は供述した。
「神の声が聞こえ、娘を殺しなさいと命じられたからです」
いくら尋ねても、本人の答えは「神の声」の一点張りだったという。
なるほど、ここで話はアブラハムのイサク燔祭問題に再び戻ることに
なる。
我々はこの事件をどう考えればよいのか、と高橋教授が私たちに尋ね
る。
イサク燔祭問題は、古臭い旧約聖書の中だけの問題ではなく、今日
の問題でもあるのだ。
すると、再びカントの指摘が普遍性をもって光ってくる。「反道徳的な
言葉であるなら、それは『神の声』ではない」のだ。「神の声」を
人間が内容で判断するなら、それはもう「神の声」と呼べないと私は
思うのだが、こうしたカントの反キリスト教的姿勢は、今までに誰か
指摘しているのだろうか。
「神の声」は理不尽だから「神の声」なのであって合理的であるなら、
神の声を待ち出すまでもない。
幻聴は精神疾患の症状の一つだ
でも医者の私は、カントとは別なことを考える。私の専門は進行がん
の治療であり、精神科医ではない。
しかし若い頃、精神科の臨床実習で、神と会話する患者を何人か診
た。
いつの時代のどこの国でも、人口の1パーセント弱の人は精神分裂病
(最近流行の言葉でいえば、統合失調症)を患っている。だから、今の
日本にも約百万人の精神分裂病患者がいることになる。
精神分裂病の症状の一つに幻聴があり、幻聴の中には神との交信もある。
世界中の精神科病棟で、「神の声」は珍しい出来事ではないのだ。
ちなみに、精神分裂症以外の精神疾患でも幻聴は起こるから、幻聴
=精神分裂病ではない。
それはともかく、もし「神の声」が聞こえたら、人は「精神を患ったか」
と心配すべきなのだ。カントは内容を道徳に照らして判断せよと指摘し
たが、私は、そもそも神の声が聞こえた時点で、精神科を受診すべき
だと助言したい。
キリスト教神秘主義の人たちは神の声に従って生活しているそうだ
が、1パーセントの人は本当に「神の声」を(症状として)聞いて
いるのだ。
ちなみに娘を殺した父親は、高橋教授によると裁判で無罪に
なったそうだ。
正常な善悪の判断ができなくなっている、というのがその理由
らしい。
妥当なところだろう。
そこから講義は急展開する。20001年の9・11]同時多発
テロ事伴のあと、ブッシュは怒りの矛先をなぜかイラクに向け、
ブレア首相と小泉首相が一早くブッシュに賛同して、イラク戦争が
始まった。
そのときのブッシュの演説が日本ではほとんど報じられなかった、
と高橋教授か指摘する。
なんとブッシュ大統領は、イラクとの戦争は「神の思し召しだ」と
アメリカ国民に訴えたのだ。
どうやらブッシュには「神の声」が聞こえたらしい。
ここで再びアブラハムのイサク燔祭問題が蘇る。
なるほど、高橋教授はイラク戦争開戦の問題が指摘したくて、旧約
聖書から始まってカント、ヘーケル、キュルケゴール、ニーチェと
話をつないできたのか。
巧みな講義展開ではないか。旧約聖書の中のアブラハムの行為が無
批判に称賛されるなら、「神」を口にするブッシュの開戦を止める
こともできない。
そして実際、当時のアメリカの世論は、九割以上の異常に高い支持
率で、ブッシュのイラク戦争開戦を支持したのだ。
アブラハムの時代から四千年がたっている。そして「『人を殺せ』という
道徳に反する声は、真の神の声ではない」と、カントが指摘してから
二百年がたっているのに、何も状況が変わらない。
誰も開戦を促す「神の声」を止めることができないのだ。イサク燔祭
問題はすこぶる今日的な問題だ。
実際に「神の声」を聞く人は患者として1パーセントいるが、
「神の声」を聞いたと言い張る人は、思い違いや嘘も含めてきっと
もっとたくさんいる。
世の中は「神の声」であふれているのだ。
カントに従って、道徳的に「神の声」の内容を判断する以前に、
そもそも「神の声」は精神疾患の範暗に属する出来事と知るべき
なのだ。
人間はいつになったら、「神の声」を口にすることをやめるの
だろうか。
「大きな物語」は近代文学がいくら批判しても、今日でも大きな物語
としての力を失っていない。
以上。
ほんとうは、ニーチェに関心があったのだが、どうも、ここだけ
抜粋しては、理解が不十分だと、かなりの量を引用することにした。
ニーチェは「神は死んだ」と、言ったのだが、なぜ、キリスト教の
ヨーロッパで、このような発言が許容されたのか理解できなかった。
話に聞くと、西欧人には、宗教を持たない人間というのは、理解
できないらしいからでもある。
それにしても、キリスト教の文化で、キリスト教を捨てたりすれば、
いったい何をもって、生きていく支えにするのだろうと、疑問に
思ってきた。
そして、「超人」って何なのだ。という、疑問はあった。
「ツァラトゥストラはこう言った」を買ってみたものの
残念ながら、最初から拒否反応がでて、ギブアップであった。
今回、若い頃から、抱えていた疑問が、一挙に解けることになった。
ラッキーである。
ニーチェ、かく語った。
弱々しい弟子たちが、弱い自分たちを正当化しようとして、強者に
対する怨恨と嫉妬に満ちた奴隷のような道徳のキリスト教を打ち立
てた。
ようだが、
ドイツの哲学者・古典文献学者だったということは、どの程度彼の
見解に影響を与えたのだろう。
破綻した神キリスト
バート・D・バートン=著
松田和也=訳
という人もいて、学問的な技術が完成しているようだが、ニーチェの
時代、古典文献学の世界はどのようなものであったのだろう。
だから、このような発想ができたことについては、ニーチェの才能に
はびっくりしてしまう。
ただ、ニーチェにとっては、イエスは、「超人」になるようだが、
このところが、残念ながらまったく理解できない。
バート・D・バートン氏の著書を読んだことは、多いに影響あるが、
わたしは、イエスが超人とは理解しがたい。
イエスやキリスト教の信者には、悪いが。ただ単に馬鹿な男としか
思えない。
文字が読めるだけで、賢しらぶった田舎者のイエスが、黙示思想
にかぶれ、ちょっとばかし、信者ができただけで、思い上がって
世間をあなどり、スタンドプレーをして、死刑されるという
自己陶酔も甚だしい自業自得のバカな話でしかなかったのでは。
というのが、イエスについての理解である。
恥ずかしい話だが、これは、わたしたちの青春の総括でもある。
60~70年代にかけて、革命にかぶれて、結局ねじ伏せられた
わたしたちの過去そのものでもある。
黙示思想が革命思想に変わっただけで、イエスと同じ、馬鹿な
ことをわたしたちもしたので、イエスを単純に揶揄するわけでも
ない。
わたしたちだって、野郎自大だったし、なんのことはない、イエス
だってその程度のことだったのである。
ローマ帝国の強大な権力に耐えかねて、ひきこもらざるを得ない
人々が、キリスト教を生み出すことによって、苦しい現実を正当
化する媚薬を生み出すことに成功したということかもしれない。
負け犬が生き延びるために、美しい嘘を共有しようと計ったのだ
ろう。
いずれせよ、この本で、長い間、疑問を抱き続けてきたことへの
解答にめぐり合ったような気がしたのは、嬉しいことと思った。
ところで、
旧約聖書「創世記」二十二章によると、イサクはアブラハムが百歳
のときにやっと生まれた子どもである。
しかし、ある日、アブラハムは神の声を間く。「イサクを連れてモリヤの
地に行き、披を焼き尽くす捧げ物(燔祭)としてささけなさい」
敬虔なアブラハムは、その神の声に従って指定された山に登った。
刃物でイサクを殺そうとした瞬間、再び神の声を間く。「その子に手を
下してはならない」。神は、アブラハムに忠誠心を試したのだ。
この箇所については、前にも読んだのだが、今回、再び読んでみて
気づいたことがあった。
とりとめもないと言えば、そうなるが。
イサクはアブラハムが百歳のときにやっと生まれた子どもである。
単純に考えて、あんな、大昔に百歳にもなる人間が、認知症にならずに、
百歳で子どもが生まれるのだろうか。
普通に考えて、百歳にもなる老人が、山に登り、子ども自ら刃物で、
殺すだけの体力があるのだろうか。
思うに、百歳にもなり、今にも、死んでいく年寄りをなぜに、神は、
試す必要があったのだろうか。まったく理解できない。
ややもすると、アブラハムの狂言かもしれない。
と、勝手に、凡愚は考えたくなる。
ところで、本の中で、平岩氏は、
旧約聖書のアブラハムに始まって、最後は米国ブッシュ大統領に
よるイラク戦争開戦で終わるという高橋教授の授業展開は、見事
というほかはない。
と言ったが、その感想を述べているこの本の平岩氏の「幻聴は精神
疾患の症状の一つだ」の話の方が、さらに見事ではないか。
ただ、残念なのは、次の話である。
そこから講義は急展開する。20001年の9・11]同時多発
テロ事伴のあと、ブッシュは怒りの矛先をなぜかイラクに向け、
ブレア首相と小泉首相が一早くブッシュに賛同して、イラク戦争が
始まった。
そのときのブッシュの演説が日本ではほとんど報じられなかった、
と高橋教授か指摘する。
なんとブッシュ大統領は、イラクとの戦争は「神の思し召しだ」と
アメリカ国民に訴えたのだ。
どうやらブッシュには「神の声」が聞こえたらしい。
ここで再びアブラハムのイサク燔祭問題が蘇る。
なるほど、高橋教授はイラク戦争開戦の問題が指摘したくて、旧約
聖書から始まってカント、ヘーケル、キュルケゴール、ニーチェと話を
つないできたのか。
巧みな講義展開ではないか。旧約聖書の中のアブラハムの行為が無
批判に称賛されるなら、「神」を口にするブッシュの開戦を止める
こともできない。
そして実際、当時のアメリカの世論は、九割以上の異常に高い支持
率で、ブッシュのイラク戦争開戦を支持したのだ。
以上。
この中で、
20001年の9・11]同時多発テロ事伴のあと、ブッシュは怒り
の矛先をなぜかイラクに向け、ブレア首相と小泉首相が一早く
ブッシュに賛同して、イラク戦争が始まった。
というのがあり、
「矛先をなぜか」言っているが、「なぜか」ではなかったはずだ。
それなりに、開戦の論理建ては、していたはずだ。
はっきりいって、「9・11の報復」という大義名分があった記憶
がする。
だから、「神の思し召し」で、国民を煽動できたのだ。
ところで、
ニューズウィーク日本版 2011.6.29 にあった
「アラブの春」に凍るCIA
にあった話でこういうのがあった。
以下、抜粋。
9・11テロ後もスレイマンとの協力関係は続いた。
だがブッシユ政権は、都合のいい情報だけを引き出そうとした。
アルカイダの工作員イブン・アル・シェイク・アル・リビは
エジプトで拷問され、アルカイダとイラクのサダム・フセイン
大統領はつながっていると自白したが、真っ赤な嘘だった。
アル・リビは後に、「死ぬほど痛めつけられたから」とアメリカ
側に語ったとされる。
「何かを言うしかなかった」
以上。
これである。
「アルカイダとイラクのサダム・フセイン大統領はつながっていると
いう嘘の自白」がブッシュにとっての「神の思し召しめ」の根拠
だったはずだ。
平岩氏は、
「なるほど、高橋教授はイラク戦争開戦の問題が指摘したくて、旧約
聖書から始まってカント、ヘーケル、キュルケゴール、ニーチェと話を
つないできたのか。」感嘆しているのだが、
嘘の自白のことを抜きにして、ただ単に、論理を展開しているのは、
己が「博覧強記」を頼みにした、好事家にすぎなくもないと思えたり
する。
平岩氏は、
旧約聖書の中のアブラハムの行為が無批判に称賛されるなら、「神」
を口にするブッシュの開戦を止めることもできない。
そして実際、当時のアメリカの世論は、九割以上の異常に高い支持
率で、ブッシュのイラク戦争開戦を支持したのだ。
と語ったが、このような「話のオチ」にもっていかれては、「神の思し
召しめ」という大義名分で、これからも戦争に駆り出されることになる。
それでは、困る。
平岩氏の本の中に、このような文章があった。
「君たちは、高校の先生と大学の先生の違いがわかるか、高校の先
生たちは他人の研究成果を学生たちに教える。ところが、大学の
先生は、自分が自ら出した研究成果を、誇りをもって自慢しながら
学生に教えるのだ」というのがあったが、
(高橋教授が)成果をださんがために、博覧強記の知識を弄ばれて
は、国民を戦争に誘導することに加担しているようなものだ。
平岩氏は、こう言った。
人間はいつになったら、「神の声」を口にすることをやめるの
だろうか。
「大きな物語」は近代文学がいくら批判しても、今日でも大きな物語
としての力を失っていない。
以上。
今日の戦争を判断するに、近代文学(どうして近代まで?)の成果を
前提とし、このような結論を出されては、事の本質を隠蔽する事に
加担することにしかならない。
戦争は、政治をする国の内政の延長線上にあり、経済の問題である。
そういう意味で、高橋教授の講義は、二重に偽善である。
文学者が、的外れに戦争を語る。不遜の行為である。
いずれにせよ、知的な爽快感が残る本であったことには、間違い
ない。