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リタイアーのよもやま話

自分のゴールの見つけ方

2010-10-31 23:08:24 | 読書

自分は、本当は何がしたかったのか?これが、ずーっと
分からずじまいで、馬齢を重ねてしまった。

余生と言われる年代に入ったのだ。およそ、この問題は、
時効になっていると考えるのが、普通の人間の感覚では
あるはずだが、どうも、自分の気持ちを急かしてやまない。

ということもあって、苫米地英人氏の本などをひっくり
返して、悪あがきをしている。

 

以下、彼の見解を抜粋してみた。

 

自らの情動をコントロールして、情動に依らない
ゴールを見つけることが、超ネット社会をよりよく
生きるための術なのである。

情動を排して、自分のゴールを見つける方法は2つ
あります。


1)本当のwant toを見つける

2)社会の要請から、自分の生き方を決める


この2つのどちらかを実践していただければ、
自ずと自分らしいゴールを見つけることができ
ます。

 

自分のゴールの見つけ方1)

「本当のwant to」見つける


あなたが「~したい」と感じるとき、必ずと言って
いいほど、誰かに仕掛けられています。

仕掛けたのは、メディアや会社の上司、学校の先生や
両親などいろいろです。


では、仕掛けられたwant toではなく、真のwant toを
見つけるためには、どうしたらいいのか。

もっとも簡単な方法は、見返りを求めないことです。


大切なことは、見返りに喜びを求めるのではなく、
やっていること自体に喜びを求めるようになること
です。

見返りから自由になれば、今の価値観も超えられる。

やっていること自体に喜びを求めることができれば、
今の世界の価値観を超越して、自由な状態になること
ができます。

自分がやっている行為を「別に社会的成功も他人の
評価もいらない。ただ単に楽しいからやっている」
と言い切れるぐらいに好きになることが重要です。


本当のwant toとは、一切の見返りを求めず、純粋
に行為そのものを楽しみ、好きになることです。

本当のwant toを見つけることができれば、自分の
情動や社会的洗脳などの制約から自由になり、脳の
機能が活性化します。

 

自分のゴールの見つけ方2)

社会の要請から自分の生き方を決める

情動を排して、自分のゴールを見つけるためには、
行為それ自体に喜びを見出すようになることが理想的
です。

ただし、この方法は、簡単なようでいて、実はなかなか
難しい。

なぜなら、私たちはこの世に誕生してから今日まで、さま
ざまな価値観の影響を受けて人格を形成しているからです。

何か行動を起こしたり、考えたりするとき、知らず知らず
のうちにそうした過去の価値観の影響を受けてしまいます。

そこで、もう少し簡単な方法をお教えしたいと思います。

それが、「2)社会の要請から自分の生き方を決める」
ことです。

先ほど私は「見返りの抽象度を少しぐらい高めても、情動
であることに変わりない」とお話ししましたが、見返りの
レベルを世界全体、地球全体のレベルまで高めていけば、
個人としての情動は介入しづらくなり、結果として、超
ネット社会で自由に生きることができます。

 

具体的な手順は以下の通りです。

1)現在の社会状況を確認します。

2)そのうえで、未来の社会の最適な状況(理想的状況)
  を考えます。

3)未来における社会の最適化のために、自分はどういう機能
  を果たせるか設定します。
   
  ここで言う「社会」とは、自分が暮らす地域社会や日本と
  いう国家ではありません。抽象度を徹底的に上げて、世界
  全体、地球全体ぐらいをイメージしてください。

  さらに、今日や明日の世界ではなく、1000年先、1万年
  先を考えます。

  もし遠い未来のことまで考えることができなければ、少なくとも
  自分が生きている間の数十年ぐらい先まで考えてください。

  未来における社会の最適な状況とは、世界中の人々が共有
  でき抽象度の高いゴールのことです。

  たとえば、
 「世界を平和にしたい」
 「戦争と飢餓を撲滅したい」 
 「地球の自然環境を守りたい」

  などのゴールは、個人個人の世代のライフスタイル、趣味や
  仕事、思想・信条に関係なく、社会全体として共有されて
  います。
  それが、社会の最適な状況です。

  当然、社会の最適な状況と、現在の社会状況の間には、
  さまざまな未解決な問題が山積みしています。

  世界各地で戦争や飢餓は起こっているし、自然環境の破壊
  もどんどん進行しています。
  
  そうした現状と理想の未来の差を埋めるために必要なことが
  「社会の要請」であり、社会の要請に対してあなたが果たせる
  機能こそが、あなたのゴールになります。
  そして、あなたの機能を設定するときには、論理的判断以外
  はしないようにしてください。

  この手順を踏めば、個人の情動は介入する余地がありません。
  なぜなら、徹底して自分以外のことを考えているからです。

  個人の情動を排除して、社会の要請からのみ自分の機能・役割
  を決める。
  その機能・役割が、超ネット社会の生きるためのあなたのゴール
  になります。


  以上、抜粋である。

 

    最初は、この見解にだいぶショックを受けた。                      

  でも、そのうち、いろいろと考えはじめるうちに、現実問題
  として、彼の提案には、厳しいものを感ずるようになった。

  彼は、まずこのことを推奨している。

1)本当のwant toを見つける
  もっとも簡単な方法は、見返りを求めないことです。

  大切なことは、見返りに喜びを求めるのではなく、
  やっていること自体に喜びを求めるようになること
  です。

  見返りから自由になれば、今の価値観も超えられる。

 

  見返りに喜びを求めるのではなく、やっていること自体
  に喜びを求めるようになることです。

  と言っている。
  非常に単純明快である。

  やはり、世の中で、非凡なる実績をあげている方々をみると
  楽しいことを夢中でやっているうちに、気がついたら、
  とてつもないことをやり遂げていた。という事例にであう。

  しかし、現実を振り返ると「逆は必ずしも真ならず」とも
  言われるように、彼の提案は、そう簡単に一般化し得ない
  ものではなかろうか。

  下手の横好きということがあるように、これが趣味であれば
  人生を楽しくすることになるが、生活の糧を得る事を差し置
  いて夢中になると人生の破滅ではないだろうか。

  ブルジョアか貴族でもない限り、このような信条を生活のメイン
  にすることは不可能だろう。

  われわれは、「時は金なり」の言葉で象徴されるように、毎日
  の生活で何事かを成し、その見返りとして報酬を得るというのが、
  最優先するべきことになっている。

  つまり、経済的自立が最優先である。

  憲法第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
  持ち出すまでもなく、学校教育は、基本的に労働者をつくる
  ことを前提としていることは誰も疑問とする者はいないであ
  ろう。

  だから、われわれはいかに見返りを確保できる人間になれるか
  ということが、日々の大きな目標となっている。

  そういうことだから、われわれは、時代に社会に洗脳されることを
  前提としている側面を無視するわけにはいかない。

  もちろん、そのことで、タイムラグが生じたりすることは、往々に
  あることなので、そのような枠組みで人生を設計することは、
  やはりリスクを伴うことなので、運が悪い人も出てくる。


  苫米地英人氏の論からすると、

  あなたが「~したい」と感じるとき、必ずと言っていいほど、
  誰かに仕掛けられています。

  仕掛けたのは、メディアや会社の上司、学校の先生や両親など
  いろいろです。

  となっている。

  わたしも何か大きな間違いをしでかしていることになっている。
 
  が、しかし、取り立てて能力のない人間にとって、とりあえず
  騙されてみることで、不必要な横道にそれることなく、退職まで
  辿り着けたような気がするので、必要悪かなと是認するしかない
  とも思ったりする。

  わたしは、30代前半に仕事をやめようと思ったことがあった。
  しかし、ちょっとした偶然でやめることを思いとどまった。

  今、振り返って、もし止めていたりしていたら、どんなにか悲惨
  な人生であったろうかと思っている。

  というのは、団塊の世代の仲間の人生をいろいろと推察して
  みると、商店街がシャッター通りになっていったように、一国
  一城の主の悲惨な人生の展開を多く目にする。

  中小企業に勤めていた同輩は、少ない退職金・少ない年金で
  老後を不安に迎えていることだろう。

  ましてや、小規模の農業をやっていた人なんかも、大変な老後だ。

  国民年金だけが、年金収入であったりする多くの仲間は、とんでも
  ない老後をおくっているはずだ。

  という現実を目の当たりにするにあたって、不本意な自分の人生
  が結果として、大過なく第一幕を終了したことに気づき、胸をなで
  下ろしている。

  自分の人生に、充分納得いったとは思えないが、とりあえずそこ
  そこの年金を確保できたということについて、幸運な人生であった
  と評価すべきではと考えるようになったのだ。

  見返りに喜びを求めるのではなく、やっていること自体を喜べる
  人生も羨ましいが、とりあえず、時代にそこそこに騙されて、
  乗ってみることを疎んずるのは、確率的にみて安全策ではない
  のは?

  とは、言うものの バブルな歯医者や弁護士になって、引き返せな
  い人生になっている者もいるので、断定できないところが、難しい。

  もしかして、時代にそこそこに騙されて、乗ってみて良かったの
  ではというのは、わたし個人の場合に限ってかもしれない。 
 
  いや、少数派かもしれない。 

  人生、第二幕。見返りに喜びを求めるのではなく、やっていること
  自体を喜べる人生にありつけたら、「終わり良ければ全て良し」
  と言うように、人生前半、不毛な人生を帳消しにすることが
  できるのだが、いくら頭の中を見渡しても、心の中を手さぐりして
  も、何も出てこないのだ。悲しいことに。

 

  ところで、苫米地英人氏こうも言っている。

  自分のゴールの見つけ方2)
  社会の要請から自分の生き方を決める


  これは、とてもとてもである。

  彼は、そしてこう言っている。

  ここで言う「社会」とは、自分が暮らす地域社会や日本と
  いう国家ではありません。抽象度を徹底的に上げて、世界
  全体、地球全体ぐらいをイメージしてください。

  さらに、今日や明日の世界ではなく、1000年先、1万年
  先を考えます。

  もし遠い未来のことまで考えることができなければ、少なくとも
  自分が生きている間の数十年ぐらい先まで考えてください。

  以上。


  残念ながら、わたしには、この発想についていけない。
  彼は、経済的には裕福であるので、このような日常の生活
  から飛躍した発想ができるかもしれない。
  
  言い出しっぺだから、先行者利益にもあずかれるであろう。

  大方の人間は、とても、とても、この発想を是とする気は
  ないだろう。

  わたしなどは、いかに寝たきりの父親と背中の曲がった母親
  の天寿をどう全うしてもらおうとか。自分自身の天寿をどう
  全うできるかなんてことで、日々懊悩している。
  
  あと20年そこらの人生にあって、

  自分のゴールの見つけ方2)
  社会の要請から自分の生き方を決める

  このテーマを対象とするには、年齢制限に引っかかるとしたい。


  それにつけても、

  見返りに喜びを求めるのではなく、やっていること自体
  に喜びを求めるようになることです。

  これって、どういうことなんだろう?

  何時の日か、自分の生活にもこのようなことが起こり得る
  のだろうか?

  どうなんだろう?

 

 


will you dance?

2010-10-29 23:12:42 | 音楽

will you dance?

ここ数日、DVDを観てきた。しかし、今日あたりは、
その内容にうんざりしてきた。

今日は、何か音楽をと思い、You Tubeに出かける。

そこで、何となく覚えていた「Will You Dance」
で、検索したら、なんと出てきた。

この曲に新鮮な印象を受けたのは、その伴奏がナポリ
歌曲の『オー・ソレ・ミオ(私の太陽)』の伴奏の
リズム「ハバネラのリズム」にそっくりだったからだ。

まさか、ポピューラーの曲で、このリズムの伴奏に
出会うとは、想像もしていなかった。

もっとも、どういうわけか、今回、You Tubeで調べたら
ジャニス・イアンは、タンゴの風の曲を作りたいという
ことだったらしい。?


でも、聴くと。
『オー・ソレ・ミオ(私の太陽)』の伴奏のリズム
「ハバネラのリズム」にそっくりなのだ。

よく分からない?


それはさておき、丁度、その頃、このメロディーが綺麗に
響いたのと、その心地よいリズムが気に入って、しばらく
聴きこむことになった。


レコードも買ってきて、聴いたのだが、どういうわけか、
メロディー・リズムに酔ってしまい、歌詞なんて、見てなか
った。

今回、イアンは怖い曲だと言ったので、改めて訳詞を探して
読んでみた。

そしたら、なんとまったく想像してなかった内容だった。

わたしとしては、かなり世紀末的・退嬰的で、刹那的な歌詞
だと思っている。大人の歌詞である。

当時は、「Will You Dance」という歌詞だけが聞こえて、全く
違うイメージで受け止めていた。

久しぶりに、聴いてなんともいい加減な聴き方をしていたと
反省している。


ところで、なんでこんな曲ができたのかと、作曲者には、
悪いが、いろいろと詮索してみたくなってきた。

1977年(昭和52年)の作曲だそうである。

アメリカの歴史をふり返ってみた。

1971年にドルショック
1972年は沖縄返還
1973年オイルショック
1974年ウォーターゲート事件でニクソン米大統領が辞職
1975年サイゴン(当時)陥落、ベトナム戦争が終結

等々あったが、ニクソン大統領(1969~1973年)の時代、
不況とインフレで、新自由主義が台頭しようとするような
行き詰まりに陥っていたようだ。


このようなことからすると、勝手ながら、そのような歌詞
が生まれても、不思議ではないなと解釈してしまった。

ところで、つい、最近、実は、この曲を聴いた通りを
ドライブしてみた。

この店は、大通りからかなり離れた十字路の角にあり、
駐車場もない所で、近くの裏通りに駐車して、夕食を
食べにいった記憶がある。

その時のBGMとして、流れていたのがこの曲であった。

今も看板はまだあるのだが、商売を続けているのか、はっ
きりしない雰囲気であった。

この十字路の道反対側の角の二階に、漫画喫茶があり、よく
帰宅の途中夕食を食べながら、漫画を読んだが、今では、
空家になっている。

そして、その喫茶店の真反対側の二階にもレストランが
あって、何度かカレーを食べにいった記憶があるが、
そこも、今では、空家になっており、この界隈が全く廃れて
しまったのには、寂しい思いがする。

20代半ばによく通ったところである。

久しぶりに懐かしい曲に出会った。

なんもとエレガントな雰囲気の曲と思っていたが、その内容
にかなりショックを覚えた。

20代半ばの想い出の曲の一つである。




「アレルギー対応」名乗る卵に注意を

2010-10-29 20:54:25 | 健康

ヤフーのニュースである。

 

「アレルギー対応」名乗る卵に注意を=根拠なし、健康被害
の恐れ―消費者庁

時事通信 10月29日(金)11時10分配信

 「卵アレルギーの人でも大丈夫」などとうたい、インター
ネットサイトなどで販売されている卵には科学的根拠がなく、
アレルギー患者が食べると健康被害が出る恐れがあるとして、
消費者庁は29日、注意を呼び掛けるとともに、適切な表示を
販売者に指導するよう保健所などに要請した。

卵アレルギーは食物アレルギーの中で最も患者が多いとされ、
アレルギーの人が卵を摂取するとじんましんや呼吸障害など
の症状を起こす。

卵に含まれる「オボムコイド」などのタンパク質が体の免疫に
作用することが原因とみられている。

消費者庁によると、「アレルギーの原因は臭み。臭みのない当社
の卵は大丈夫」「特別に手を掛けて鶏を育てているので心配ない」
などと宣伝しているサイトが複数確認された。中には卵1個が100
円以上と高価な販売例もあった。

しかし、同庁が専門家に確認したところ、原因物質の科学的な
除去は困難で、反応を抑える仕組みも未解明のため、宣伝を信
じて摂取すれば健康被害の恐れがあると指摘されたという。


以上。


わたしが、子どもの頃、玉子焼きは好物であった。

その頃、卵アレルギーなんて聞いたことはなかった。

就職してからも、卵を使った料理はよく食べてきた。

しかし、50代をすぎる頃から、わたしもその話を耳にする
ようになった。

このニュースによると、食物アレルギーの中で最も患者が多い
とされているようである。とのことである。

昔わたしの同僚で、卵がまったく駄目な人がいて、その時に
不思議でしようがなかったが、退職して母と食事するように
なって、母親も卵アレルギーであると聞いて、びっくりして
いる。

わたしは卵料理を食べ過ぎ、コレステロール値がものすごく
上がったことがあったので、今では極力卵を食べないように
している。

健康の不安につけ込むような、このような商売が出て来る
なんて、びっくりである。

が、オレオレ詐欺がいろんな手口で展開されてやまない今日
やはりと思ったほうがいいのかも知れない。

この時代、どんな落とし穴がまっているのか油断できない
ようだ。

 


老いの才覚

2010-10-28 10:42:02 | 読書
老いの才覚 曽野綾子著 ベスト新書
を読み終えた。


彼女が30代後半に書いた『戒老録』も読んだことも
あり、久しぶりな気分である。

当時、この本を彼女が30代後半に書いたとは、思わな
かった。

今回この本を読んで知ることになった。


1931年(昭和6年)生まれなので、わたしの父より
4歳年下である。

わたしは、彼女があの歳であのような本を書いたこと
については、残念ながら、けっこう尊大な人間だったなと
これまでの彼女の評価を覆すことになった。

いくら秀才と言え、自分の年齢以上のことについて、理解
が及ぶなどというのは、大変失礼なことであろう。

ところで、この本を読んで、最初は好感をもって受け止め
たが、読後いろいろとひっかかることが浮かび上がった
きた。


以下、本からの抜粋である。


私の母が晩年、私に目的を与えてくれ、と言ったことが
ありました。

老人性の軽い鬱病になっていたのかもしれませんが、私は
「それはできません」と答えたのを覚えています。

だれに対しても、他人に目的を与えることはできない。
その人の希望を叶えるために相当助けることはできます。
しかし、目的は本人が決定しなくてはなりません。
それは、若者であろうと老人であろうと、アフリカの
片田舎に生まれようと、ニューヨークの摩天楼の下で
生まれようと、同じことです。


83歳で亡くなるまで、母は6畳に半間の押し入れと
小さなキッチン、バス・トイレがついて離れに、整理
ダンス一つだけ置いて暮らしていましたが、遺品の整理
をするのに半日しかかかりませんでした。

妙な言い方ですが、母が亡くなった時、わずかばかり
持っていたへそくりも、ちょうど尽きかけていました。

財産でさえ、うっかり残すと、遺族は手数がかかります。
何も残さないのが最大の子ども孝行のような気がします。                                                                                                      


最期をみとってくれたお手伝いさんの総勢20人で、お
葬式を夕方4時頃からやりました。


私は、若い時から広い家を持ちたいとは思ったことがあり
ません。

掃除をするだけでも大変ですから。

田園調布にある我が家は、昭和9年(1934年)に親が
建てたもので、ついこの間まで窓枠もアルミサッシでは
なかったし、いまだに木枠の窓もあります。

当時のその辺りの家と同じくらい広い庭があって、庭師に
頼んで維持していますが、お金がかかってしょうがない。

だから、子どもには、私たち夫婦が死んだら、家も充分
使ったから心置きなく壊して、更地にして売りなさい、
と言ってあります。


もし私が、長生きしすぎて一文なしになったら、あらゆる
知人や周囲の人にタカります。

そして冷たくあしらわれて、どうにもならなかったら、
その時は野垂れ死にを覚悟するしかない。

それに、自分をみてくれる人がだれ一人としていないような
薄情なこの世なら、もう生きていなくてもいいじゃないですか。



以上、抜粋である。


これらは彼女についてのかなりプライベートな内容を書いて
いるのだが、この箇所を読んで、わたしは彼女についての
これまでの好意的な評価を覆すことになった。


1 財産でさえ、うっかり残すと、遺族は手数がかかります。
  何も残さないのが最大の子ども孝行のような気がします。
   
  と、彼女は言ったのだが、

  彼女は、自分の親の作った家に住めたおかげで、自分で
  家を建てる精神的苦労、経済的な苦労から免れ、その分
  自分の好きなことをやってこれたのではないか。

  彼女の住所は大田区○-▲ー◇◇となっている。

  この土地が彼女のブランドとして、どれほど役立った
  のだろう。

  彼女自身は、親の持っていた財産のおかげで、どんな
  にか助かったのだろうと思ったが、どうだろう。

  わたしが、今不労所得で生活している。
  今回、父親が寝たきりなって、いろいろと振り返る
  日々が続いている。

  かつて、母方の曽祖父が小作農をしながらこつこつと
  荒れ野を買い集めてきた。

  なんの楽しみもなく買い集めた荒れ野が、いまのわたし
  の不労所得を生む原資となった。

  父方・母方の祖先、そして父母の大きな悲しい人生の
  上に、不労所得を生む資産が形成されてきた。

  たいした資産ではないが、それでも、年金生活で暮らす
  生活からすれば、どんなにかゆとりがあることか。

  自分の柄にあわないのか、その管理はあまり楽しめる
  ものではない。

  春先から秋にかけて、電動の草刈り機で草刈りにおわ
  れる。

  屋敷の樹木も定期的に切り落とさないと周囲の迷惑に
  なる。
  
  それで、台風の直撃でもあったら、木々の枝が折れたり  
  して、その片づけに大変な労力を費やす。

  年中屋敷の管理におわれていて、時折、アパート暮らし          
  が羨ましくなる。


  しかし、わたしの今の不労所得の生活が母方の貧しか
  った曾祖父・祖父の夢見た生活であり、そして、父方
  の祖母の夢見た生活であろうことだっろうと思うと、
  彼等にあなた方の夢は、実現しましたよと、感謝しなけ
  ればなんて思ったりしている。
  
  祖父母がコツコツと荒れ野買い集めて、その子孫が不労
  所得を得ることができるようになるまでに、曾祖父の代
  からその孫である私の父母の人生を使い切ってなし遂げ
  ることができた。

  わたしは、その資産の形成になんの努力もせず、その恩恵
  に服している。

  その恩恵の上に、好きなだけ本を読み、夜な夜なブログ
  を書いて暮らす生活が成立しているかと思うと恐ろしく
  てならない。
  
  そして、なんと奇跡的なことだろうと不思議でならない。


  曽野綾子は、語った。

  財産でさえ、うっかり残すと、遺族は手数がかかります。
  何も残さないのが最大の子ども孝行のような気がします。

  あなたの住んでいる家が、両親の人生にとって、あなたの
  人生にとって、何の意味もないのだろうか。

  どうだろう。

  もっとも、あなたは、膨大な印税があるから、親の遺産
  の意味合いなんて、考えることはないだろうけども。

  それにしても、あなたのような物書きの生活は、遺産を
  残せるようなゆとりのある人たちの存在によって、成り
  立っているのではなかろうか。

  今、格差社会ということで問題となって、契約社員や
  フリーターで飯を食わざるを得ない人々によって、
  あなたの作品が、読まれることはないはずだ。

  人間の文明も文化も常に先行世代の遺産ではなかろうか。

  遺産がのこらないのは、動物の世界の話である。

  それにしても、あなたの著作権は遺産として、子どもたちに
  引き継がれるのではなかろうか。

  あなたの膨大な著作も遺産のはずである。


2 83歳で亡くなるまで、母は6畳に半間の押し入れと
  小さなキッチン、バス・トイレがついて離れに、整理
  ダンス一つだけ置いて暮らしていましたが、遺品の整理
  をするのに半日しかかかりませんでした。

  とあったが、なんと残酷な老後を強いたのだろうと、
  私には思えてならない。

  彼女の家をグーグルで確かめてみた。私の今住んで
  いる父の家と比較しているが、屋敷はほぼ同じ広さ
  である。
  
  だから、屋敷の管理がいかに大変であるかは、分かる。
  わたしの住んでいる屋敷の方が木がたくさん生えて
  いて、こちらの方は、私の方が大変だ。
   
  ただ、彼女は有名人なので、屋敷の管理なんてやって
  いる暇なんて、まったくとれないだろう。

  田園調布というブランドの街である。
  それなりに丁寧な庭づくりをしているはずなので、
  管理も大変であったであろう。

  (わたしの住んでいる父の屋敷は、もともとは畑で、
  素人が成り行きで樹木を植えたので、美しくはない。)

  ただ、彼女の現在の屋敷の半分は更地にされて、土が
  むき出しになっているので、若干寂しいものを感ずる。

  ところで、
  母親にしては、自分の主人と苦労して建てた家を娘夫婦に
  取り上げられ、幽閉同然の生活を強いられ、寂しい老後
  の毎日だったように思われる。

  木々に囲まれた人気のない「6畳の離れ」で母親は、どう
  いう想いで暮らしていたのだろう。


  娘夫婦があまりにも有名人であっただけに、何にも言え
  ない辛い想いをしたのではなかろうか?


3 妙な言い方ですが、母が亡くなった時、わずかばかり
  持っていたへそくりも、ちょうど尽きかけていました。

  こう述べているが、曽野綾子は、まったく母親の心中
  を察することができてない。

  彼女は、膨大な著作権料があったはずだ。
  だから、経済的には潤沢なはずである

  その親に経済的に心細い生活をさせていたとは、なんと
  いう愚かな娘であったろう。

  老いて、自分の自由になる金に不自由することほど、ど
  んなにか絶望的なことであろう。

  彼女の書いてある通り、「へそくり」をそのまま受け止め
  ると、彼女の母親は、年金を貰ってなかったのだろうか。

  本当の「へそくり」であったとすると、著名人の夫婦の
  母親としては、なんと経済的に辛い老後をおくったのだ
  ろうかと、思ってしまった。

  膨大な印税の入る娘夫婦は、なんも経済的な支援を母親
  にしていなかったのだろうか?

  自由になるささやかな金が尽きたから彼女の生きる力も
  実は尽きたのだ。


4 私の母が晩年、私に目的を与えてくれ、と言ったことが
  ありました。
  老人性の軽い鬱病になっていたのかもしれませんが、私は
  「それはできません」と答えたのを覚えています。

  このようなことを彼女は書いている。

  上記の2や3で書いたような現実にあったから、母親は
  鬱病にもなったし、生きる意味を失いかけて、彼女に目的
  を与えてくれと、すがったのだが、曽野綾子は、自分の
  身近にいた母親の生きる悲しみを理解できず、非情な仕打ち
  をしている。このことを彼女は理解できているだろうか。
  
  
5 もし私が、長生きしすぎて一文なしになったら、あらゆる
  知人や周囲の人にタカります。

  そして冷たくあしらわれて、どうにもならなかったら、
  その時は野垂れ死にを覚悟するしかない。

  それに、自分をみてくれる人がだれ一人としていないような
  薄情なこの世なら、もう生きていなくてもいいじゃないです
  か。

  と、彼女は書いている。

  本のあちらこちらで、勇ましいことを書きつらねているわり
  には、見苦しいことを言っている。

  本当に長生きしすぎて一文なしになったら、死んだ後、誰に
  も迷惑になることがないよう、密かに孤独死をするのがよか
  ろう。
   
  というのが、彼女の本の勇ましさに似つかわしいと私は
  思えてならない。
 



  ところで、

  彼女が「一文なし」になることがあるだろうか?
  彼女には、膨大な印税がはいるはずだ。
 
  現在住んでいる家だって、土地だけでも何億円のしろもの
  かもしれないのだ。

  あらゆる知人や周囲の人にタカります。と言っている。
  逆ではないか、彼女に知人や周囲の人がタカリにくるのだ。


  (それにしても、タカる相手が、子どもや親族ではなく
   あらゆる知人が先になっているのはどうして?)



  それに、自分をみてくれる人がだれ一人としていないような
  薄情なこの世なら、もう生きていなくてもいいじゃないです
  か。

  と言っている。

  本のあちらこちらで言った勇ましい発言は、どこにいった。

  自分の老いた母親の心情を推し量ることはできなかった
  くせに自分のことになると、甘ったれようとしている。
 
  本の中で、「くれない族」を揶揄したが、あれってなん
  だったんだろう。
 
  人に「老いの才覚」などと物知り顔する前に、自分自身の
  老いの才覚に疑問を持つことが必要ではないか?

 
  そにれつけても、

   それに、自分をみてくれる人がだれ一人としていないような
  薄情なこの世なら、もう生きていなくてもいいじゃないです
  か。

  と言っていることがどういう意味を持っているか、彼女は分か
  っているのだろうか。

  この箇所を読んだ夫や子ども夫婦にとって、この文章がどういう
  意味を持つか考えなかったのだろうか。

  彼女の母親お葬式に20人ほど集まったようであるが、この人達
  にとって、この文章がどのように伝わるのだろうと、考えなかった
  のだろうか。

  あなたのつきあってきた多くの親しき知人友人はこの文章をどう
  受け止めるのか考えなかったのだろうか。

  あなたにしては、決して言うべきでないことを、言ってしまった
  ような気がするのだが。

  あなたが80歳手前まで生きて積み上げたものが、すべて
  泡となって消えたような気がするのだが。



  モンテッソーリの幼児教育 ママ,ひとりでするのを手伝っ
  てね! [単行本(ソフトカバー)]  相良 敦子 (著)

  という本があるそうであるが、私は子どもが老いた親にできる
  ことは、この本のタイトルと本質的に同じでは思っている。

  「誰か、私がひとりでするのを手伝ったくれたら、いろいろ
   やりたいし、何でもできるのに」である。

  できるかぎり、毎日を生き生きと暮らしてもらうようどのよ
  うな支援ができるか。

  老いて生きる意味に迷う時にも、子どもだからこそ、答えが
  見つかるかどうかは別として、一緒に悩む人が自分の身近に
  いるということを感じてもらうだけでも、わたしは親孝行だ
  と思っているのだが
   
  曽野綾子は、どう考えるだろう?
  
  あなたは書くべきでない本を書いてしまったような気がする
  のだが。

  あなたが、ただの小説家であれば、このような手厳しいことを
  書くことはなかったのだが。


<孤独死>公営団地で1191人

2010-10-27 09:30:35 | 社会

ヤフーのニュースである。



<孤独死>公営団地で1191人 65歳以上は7割超 

都道府県や政令市、県庁所在地の計98自治体が運営する
公営団地で09年度に誰にもみとられることなく孤独死した
人が少なくとも1191人で、このうち65歳以上の高齢者
が879人と73.8%を占めていることが毎日新聞の全国
調査で分かった。

これとは別に、UR(都市再生機構)団地で起きた65歳以上
の孤独死472人を合わせると、1日に4人弱の高齢者が孤独
死していることになる。【三木陽介】(毎日新聞)


以上。

団地だけでも、1日に4人弱の高齢者が孤独死をしていると
いうことだが、マンションや一戸建ての住宅を含めるとどれ
だけの高齢者が孤独死をしているのだろう。

わたしたち団塊の世代が後期高齢者の仲間入りをする頃からは、
孤独死が日常茶飯事となり、孤独死が一つの死のあり方となる
かもしれない。

もしかすると、いかに孤独死をするかなんて、ひとつの作法に
なったりするのかも。

なにしろ、生産年齢人口減少も激しく、とても、高齢者の孤独死
なんて、かまっていられないほど、社会にはゆとりがなくなるで
あろうから。

もしかして、すべての文明はこのようにして、滅んできたかも
しれないなんて思ったりしている。

かのローマ帝国の滅亡の理由を探しあぐねているが、やはり
このような理由ではなんて、かってに推測している。