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リタイアーのよもやま話

反戦

2015-03-26 13:23:38 | 政治

反戦運動で、戦場の悲惨さを訴えかけ
るようなことやっている。

語り部も高齢化し、戦争体験の継承で
問題化している。 

わたしは、このような反戦運動のあり方
には、ある種の疑問をもち続けている。

誰もが犠牲者の悲惨さに訴え続け、感
情論的な姿勢についてである。

どうして、戦争が起こったかという視点
がいつも欠けている。これでは、防ぎよ
うがないではないか。 

わたしは、犠牲者も戦争加担者だとい
う理解だ。国民を食わせるために、政
を行う者は、戦争にはしるのである。

 ところで、最近興味深い本を読んだ。


国家の盛衰―3000年の歴史に学ぶ

渡部 昇一, 本村 凌二 祥伝社新書

という本である。

 

その中の一部で、とても、興味深い
内容があったので、抜粋してみた。 

一部といっても、けっこう長くなるが
肝心な箇所なので、あえて、とりあげ
てみた。 

以下、その内容である。

 

ふたつの世界大戦とアメリカ 本村

 軍事力もその重要な要素ですが、
やはり、経済力を持つ国が覇権国家
となります。パクスーアメリカーナ
を支えているのも経済力です。

 しかし、アメリカは建国以来、順
調に経済成長を続けたわけではあり
ません。「史上最初の国際恐慌」と
され、1873年のウィーン証券取
引所のパニックから1896年まで
続いた「大不況」の影響で、経済低
迷を経験しています。 

 この時代は、イギリスが世界の覇
権を握るなか、いっぽうのアメリカ
は19世紀末の「鉄道狂時代」と言わ
れる鉄道敷設ブームにより、莫大な
対外債務を抱えていたため、大きな
打撃を受けたのです。

  しかし、スペインとの米西戦争
(1898年)やフィリピンとの米比
戦争(1899~1913年)などを
経て、国力は徐々に上向き、第
一次世界大戦では対外債務を一
掃し、債務国から世界最大の債権
国へと転化します。

 第一次世界大戦が勃発した当初、
アメリカは孤立主義とも呼ばれる
「モンロー主義」を採っていたため
戦争には参加せず、大戦当該国に
物資を輸出したり、イギリスやフラ
ンスに多額の軍事費を貸し付けた
りして(戦債の購入)、莫大な利益を
上げていました。

 このため、アメリカが1917年に
ドイツに宣戦布告し、連合国側の
一因として参戦したのは、ドイツ潜
水艦による無差別攻撃により自国
船が被害を受けたため、と世界史
的には理解されていますが、その
いっぽうで、イギリスやフランスが
敗れると貸し付けた戦費が回収で
きなくなるから、とも言われていま
す。

 ともあれ、アメリカは他のヨーロッ
パ諸国と異なり、本土が戦場にな
ったわけではありません。そのため、
アメリカの工業は戦時中には軍需景
気に沸き、さらに、戦後は自動車や
ラジオなどの新技術を獲得し、経済
は飛躍的に発展しました。それと共
に、世界経済の中心は疲弊したヨー
ロッパからアメリカに移行し、金融
市場の中心もロンドンのシティから
ニューヨークのウォール街に移りま
した。

 このため空前の好景気が到来した
アメリカの1920年代は、「黄金の
20年代」「狂騒20年代」と呼ばれ、
作家F・スコット・フィッツジェラルド
の『グレート・ギャッツビー』に見ら
れるような享楽的な生活も出現し
ました。

  このように、アメリカの経済は戦
争により立ち直り、さらに世界最大
の経済大国として台頭しました。つ
まり、アメリカの覇権を支える礎と
なったのは、戦争経済だったので
す。 

 しかし、「水遠の繁栄」と言われた
時代も、工業生産の急落、商業・貿
易の不振、企業倒産、失業率の増
大などにより、1029年の「世界恐
慌」に襲われるのは周知のとおりで
す。

 その後、フランクリン・ルーズベ
ルト大統領(第32代、在任193
3年~1945年)の経済復興政策
「ニューディール政策」が実施され
ます。この政策による経済復興の
効果は限られていましたが、当時
台頭し始めたファシズムからアメリ
カの民主主義を守り、国民の不安
を軽減したという大きな意義があ
りました。 

 さらに、ルーズベルトは通貨(ド
ル)を袖に経済圏を作り、他国の商
品を除外するブロツク経済を推進し
ます。この政策はやがて第二次世界
大戦へつながる布石となりますが、
第二次世界大戦によりアメリカの重
工業はさらに隆盛し、世界で唯一の
覇権国家となるのです。 

 

世界恐慌を深刻化させた「スムートー

ホーリー法」 渡部

 世界恐慌の原因は、さまざまな経済
理論で説明されます。しかし、より深
刻化させたのは、スムート下院議員と
ホーリー上院議員のふたりの働きかけ
により、1930年に成立した「スム
ート・ホーリー法」が原因である、と
考える学者が多いようです。

 この法律は、第一次世界大戦後、イ
ギリス、フランス、ドイッヘの輸出が
低迷していたアメリカが、なんと約2
万品目の関税を平均50%も引き上げる
という滅茶苫茶なものでした。それは
自由貿易に反するうえに、ヨーロッパ
諸国に大打撃を与えます。各国はその
報復措置として、アメリカ製品に対し
高い関税をかけ、貿易が停滞、世界恐
慌が深刻化したのです。

 フーヴァー大統領は、1931年に
ヨーロッパ諸国の債務支払いを一年猶
予する「フーヴァー・モラトリアム」を発
表し、経済の安定化を図りますが、時
すでに遅し、世界恐慌は長期化して
いきました。

 世界恐慌の影響をもっとも受けたの
が日本です。明治以来長らく輸出品の
第一位であり、1930年当時、全輸
出の30~40%を占めていた生糸の輸出
が激減し、日本経済は危機的状況に陥
りました。特に、生糸の主な輸出先は
アメリカでしたから、アメリカ発の恐
慌や法律に大きく左右されたのです。

  その後、ブロック経済を採るアメリ
カは、最終的に石油や鉄の日本への禁
輸を行ない、日本は資源獲得のために
戦争へと踏み切ったのです。

以上。

なぜこのような紹介になったかという
と。 

アメリカによる石油の輸入禁止にあっ
て、やむを得ざる開戦になったという
ことを聞いていたからである。 

今回、この部分を読んで、戦争のメカ
ニズムみたいなものに、触れ得たよう
の気がしているが、このような視点を
なくしては、戦争は回避できないと思
うし、戦争反対もその実効性に、疑い
をもたざるを得ないのではなかろうか。

 ということで、大変興味深い内容だと
感じ入ってしまっているのである。 

この本、いい本であったと思う。

 第二次世界大戦の悲劇が強調されるが、
第一次世界大戦で、他国を植民地にし

た反動による悲劇でもあったことに気
付く必要があると思う。


認知症

2015-03-25 06:25:37 | 健康

認知症に関する興味深い記事が新聞にあった。

隣にスーパーが2カ所あってそこへ出かけると、、 最近、所在なげな
定年組の男性を多く見かけるようになった。

その様子に、寂しいものを感じてやまない。

この資料に、「自信喪失・孤独感・疎外感・無力感・恐怖・絶望・怒り・
悲しみ」という言葉があるが、これらの言葉が、その人たちにまとわり
ついているようで、寂しいものを感ずる。

皮肉にも、わたしは、父親のリハビリで、毎日病院通いなので、その
ような状況に浸りようもなく、複雑な思いがする。

わずかながらの父親の資産のおかげで、病院通いのストレスを、読書
やバイク発散しているし、トレードで小遣い稼ぎができるのが、気持ち
ゆとりをもたらしているかもしれない。

とはいうものの、
「自信喪失・孤独感・疎外感・無力感・恐怖・絶望・怒り・悲しみ」は、
わたしの胸の内にもあるし、同情を禁じ得ない。

認知症のタイプに
葛藤型、回帰型、遊離型とあるが、わたしは、どのタイプにもなりそう
にない。

社会的に高い地位にはなかったし、仕事人間だったが、働き者で頼り
にされていたわけではない。自分勝手に仕事をしていただけである。
不当人事を食らって、苦い思いをしたこともあるので、若年時からお
となしく従順な人でもない。

もしかして、ぼけは、わたしには無縁なのだろうか。

それはそうとして、たいていの高齢者が、
「自信喪失・孤独感・疎外感・無力感・恐怖・絶望・怒り・悲しみ」から、
自由になることは、不可能ではなかろうか。

定年は、労働者として賞味期限がきれたから、設けられたものだと
いう説明があったからだ。

国民の義務としての、労働から解放された定年組は、消費期限を
過ぎた存在でしかない。国民の義務を免除された存在は、突然
定年とともに、何事にも半人前に逆戻りだ。

ネットにあった書評である。 

【書評】半グレ化する不良老人 暴行の検挙数は20年で45倍に 

 高齢者の万引き犯には常習者が多く、世間が思っている以上に
したたかなのだ。だが、犯罪に走る背景を探っていくと、「生きる
意味も生き甲斐も失った」と漏らし、心の空白を窺わせる高齢者
が多いという。

〈持て余す時間とエネルギーをどう使ってよいか分からず〉〈迷走
を続ける、不器用な高齢者〉。取材を通じて見えてきたのはそん
な姿であり、〈死ぬよりも、上手に老いることの方が難しい時代に
なってしまった〉と著者は書く。確かにその通りである。そして、こ
こに描かれている姿は誰にとっても「明日の我が身」かもしれな
い。そう思うと、問題はより切実だ。

以上、一部抜粋してみた。

〈死ぬよりも、上手に老いることの方が難しい時代になってしまっ
た〉

ところで、


荒井由美は、卒業写真で歌った。

 ひとごみに流されて変わってゆく私を
あなたはときどき遠くでしかって
あなたは私の青春そのもの 

 

小田和正は、The  flagで歌った。

 自由な翼を 僕らは たたんで
二度と そこから 飛び立つことはなかった

やがていつの日か この国のすべてを
僕らが この手で 変えてゆくんだったよね

僕らが この手で すべてを

こゝから 行くべき その道はどこかと
できるなら もう一度 捜さないか
戦える 僕らの武器は 今 何かと
それを見つけて こゝへ 並ばないか

僕は 諦めない 誰か 聞いているか
僕は こゝにいる 誰か そばに いるか

 

加藤登紀子は、歌った。


時には昔の話を

一枚残った写真をごらんよ
ひげづらの男は君だね
どこにいるのか今ではわからない
友達もいく人かいるけど

あの日のすべてが空しいものだと
それは誰にも言えない

今でも同じように見果てぬ夢を描いて
走りつづけているよね どこかで

である。 

上手に老いることさえままならない情けない存在が
あの若き日の尊大な輩の成れの果てとは、誰が
想定できたであろう。

田中角栄は、学生運動見ていて、いずれこの若者
たちが、日本の将来を背負ってたつと、暖かく受け
止めていたというが、その成れの果てを見て、どう
思うのだろう。

わたしたちの世代は、高校入試から競争ばかり
してきたと言われたが、人生の一幕を終わって、
誰が、有終の美を飾り、人生をゴールできるのか、
そう簡単ではないようだ。

 

 

 

 

 

 


三原氏、八紘一宇は大切な価値観

2015-03-17 22:05:39 | 政治

三原氏、八紘一宇は大切な価値観

 

 自民党の三原じゅん子参院議員(50)
は16日の参院予算委員会で、日中戦争
から第2次世界大戦にかけて、当時の政
府が用いた「八紘一宇」を、「日本が建
国以来、大切にしてきた価値観だ」と訴
え、今後の日本のあるべき姿として紹介
した。17日付のブログでも、重ねて言
及した。

 八紘一宇には「世界を一つの家とする」
という意味がある。戦前・戦中には、天
皇を中心とした日本の海外進出を正当化
するスローガンとされた経緯がある。

以上

 

「日本が建国以来、大切にしてきた価値
観だ」って言うが、借金だらけの倒産し
そうな日本で、「世界を一つの家とする」
そんな大層なことをぶちあげる頭は、ど
ういう構造なのだろう。

格差社会で、国民を食わせられなくなっ
た国に、「世界を一つの家とする」なんて、

恥ずかしく、よく言えたものだ。

 

ところで、これに関連して面白い本が
あった。

バカが多いのには理由がある
橘玲著 集英社

かなり、長い引用になるが、いい資料
だと感じ入ったので取り上げてみた。

以下、橘玲氏の著書より。

 

唐の誕生が「日本」を生んだ

 九州に渡った弥生人は稲作に適した
土地を求めて瀬戸内海と日本海を東へ
と進み、吉備(岡山県・広島県東部)
や出雲(島根県)に大型の墳墓を残し
ました。とりわけ畿内(大阪・奈良・
滋賀)は瀬戸内海と琵琶湖、日本海側
の若狭湾を結ぶ交通の要衝で、稲作に
適した河内平野が開け、琵琶湖から東
に進んで峠を越えれば東日本(関東・
東海)へと至るため、古米より有力な
氏族が覇を競ったと考えられています。

 そのひとつが「倭(ヤマト)」で、
4世紀中頃から中国大陸と交流を持ち、
東晋や南朝に朝貢した記録が残ってい
ます。当時の中国大陸は漢帝国滅亡後
の長い混乱期で、さまざまな王朝が興
ってば消えていました。
 その中国を300年ぶりに統一した
のが隋ですが、実質2代、40年足らず
で唐に取って代わられます。618年
にこの巨大な統一王朝が誕生したこと
が、朝鮮半島と日本に大きな影響を与
えました。

 当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百
済の3国が鼎立しており、百済と高句
麗に南北から挟撃される立場の新羅はい
ち早く唐に朝貢して属国となる道を選び
ます。
それを受けて唐は高句麗を攻め、次いで
新羅を従えて百済に迫ります。追い詰め
られた百済が倭国に支援を求めたことで、
663年に白村江で唐・新羅連合軍と百
済・倭国連合軍が激突します。この戦い
に大敗したことで百済は滅亡し、倭国は
朝鮮半島への足がかりをすべて失うこと
になりました。

 この敗戦は倭国に激しい動揺を招きま
す。大帝国である唐との圧倒的な軍事力
の差を見せつけられたことから、倭国の
指導者たちは国号を「日本」と定め、「天
皇」を置き、唐と外交交渉ができるよう。
グローバル化”を進めたのです(岡田英
弘『日本史の誕生』ちくま文庫)。

 中華帝国の朝貢・冊封体制では、中華
に属さない蛮族(東夷・西戎)の王は皇
帝に貢物をして服従の意を示し(朝貢)、
見返りとして贈り物を受けます(冊封)。
「皇帝」を名乗ることが許されるのは中
華帝国の支配者(天子)だけですが、当
時の日本は唐と国交を結ぶにあたり、皇
帝に服従する「王」ではなく同格の「天
皇」の号を用いました。これは対内的に
は唐と対等であるとして王権の権威を示
そうとしたものですが、もちろん唐では、
日本は東夷の属国のひとつと扱われてい
ました(この倭国が天皇家につながるか
どうかは歴史家の間でも諸説あります)。

万世一系-日本にしかないもの

 中国大陸に隋・唐という統一王朝が
成立すると、多くの知識人が遣隋使・
遣唐使として海を渡り、仏教や儒教、
道教など中国の最新思想(グローバル
スタンダード)を日本にもたらします。

それは飛鳥・奈良時代の支配層にとっ
てとてつもない衝撃でした。

 中国では紀元前17世紀の殷の時代
から文字の記録が残り、孔子は紀元前
6世紀の聖人で、漢王朝が繁栄したの
は紀元前200年から紀元後200年
にかけてでした。その長い歴史のなか
で、中国には膨大な文書・記録が残さ
れています。それに対して日本には、
8世紀まで王権の正統を示す歴史書す
らなかったのです。

 こうして『日本書紀』と『古事記』
の編纂が国家事業として開始されまし
た。そのなかではじめて天孫降臨の神
話と万世一系の物語が登場し、戦前ま
ではこれが。〝史実〟とされてきたの
ですが、いまでは「日本神話」のほと
んどが中国の史書を原典としているこ
とがわかっています。

『日本書紀』も『古事記』も、唐から
帰国した知識人や渡来人たちが天皇や
貴族(畿内の豪族)の権力の正統を内
外に示すためにつくったフィクション
でした。

 『日本書紀』『古事記』編纂当時の最
高権力者は藤原不比等で、自分の孫に
あたる首皇子(聖武)を天皇位につけ
ようとしていました。この野望を実現
するためには、文武天皇(不比等の娘
の夫)から首皇子への長子相続が唯一
の正統であり、その皇統が神(天孫)
へとつながることが示されなければな
りません。このようにして、「天孫降
臨」「万世一系の神話」が創造された
のです
(大山誠一『天孫降臨の夢』NHKブ
ックス)。

以後、省略。

(省略するには、惜しい内容だったが)

 

結局、八紘一宇の正確な理解は、この
ような歴史的背景を踏まえなければ
明らかにならないといえよう。

『日本書紀』も『古事記』も、唐から
帰国した知識人や渡来人たちが天皇や
貴族(畿内の豪族)の権力の正統を内
外に示すためにつくったフィクション
でした。

これを自分なりに、受け止めると、
天皇や貴族(畿内の豪族)が、他の豪
族に対して、唐から帰国した知識人や
渡来人の力を借りて、自分の権力の理
論武装をして、押しつけた。というよう
な理解が成り立つのではなかろうか。

だから、ここでいう「八紘」は、当時の
日本国内(?)の隅々までという理
解が、相当ではなかろうか。

だから、

八紘一宇には「世界を一つの家とする」
という意味がある。戦前・戦中には、天
皇を中心とした日本の海外進出を正当化
するスローガンとされた経緯がある。

というが、
このような理解の仕方は、本来は、詭弁

だろう。

「世界を一つの家とする」ではなく、

「バラバラな国内を一つの家とする」ため
に、天皇や貴族(畿内の豪族)の権力を
認めよ。と思想闘争をぶち上げたにすぎな
い。 

というのが、本来の理解のあり方ではなか
ろうか?
である。

自民党の三原じゅん子参院議員、スタンド
プレーするのはいいが、しっかりと理論武装
が必要だろう。 

しかし、1964年〈昭和39年〉生まれでは、こ
の言葉、知らないかも知れないな?

せっかくだから、この際、八紘一宇の言葉に
ついて、国民の理解が深まればと思うのだ
が?

 


面倒くさいモンスター高年者が急増?

2015-03-16 22:16:18 | 人生

 

ネットの記事である。

面倒くさいモンスター高年者が急増?
自分の非を認めず怒る、的外れの説教、
マナー無視…

 1947~49年頃の第一次ベビーブーム
時代に生まれた人々は「団塊の世代」
と呼ばれる。この3年間は年間出生数
がいずれも260万人を超えており、世
代別人口比率において大きな割合を占
めている。

そんな現在60代後半に当たる団塊の
世代をめぐり、公共の場でのマナー違
反やクレーマー化がメディアなどでも
しばしば話題に上っている。

以上。

高齢者のクレーマーが、マスコミに出る
ようになったが、とうとう我が世代も、
そのような不逞の輩に、名を連ねるよう
になったようだ。

 荒井由美は、卒業写真で歌った。

 ひとごみに流されて変わってゆく私を
あなたはときどき遠くでしかって
あなたは私の青春そのもの 

 

小田和正は、The  flagで歌った。

 自由な翼を 僕らは たたんで
二度と そこから 飛び立つことはなかった

やがていつの日か この国のすべてを
僕らが この手で 変えてゆくんだったよね

僕らが この手で すべてを

こゝから 行くべき その道はどこかと
できるなら もう一度 捜さないか
戦える 僕らの武器は 今 何かと
それを見つけて こゝへ 並ばないか

僕は 諦めない 誰か 聞いているか
僕は こゝにいる 誰か そばに いるか

 

加藤登紀子は、歌った。


時には昔の話を

一枚残った写真をごらんよ
ひげづらの男は君だね
どこにいるのか今ではわからない
友達もいく人かいるけど

あの日のすべてが空しいものだと
それは誰にも言えない

今でも同じように見果てぬ夢を描いて
走りつづけているよね どこかで

である。 

そう、このような想いをした日々もあるのだ。

しかしである。 

なんという、おぞましい老醜だろう。 

 おみなえし揺れ咲く細き野道行く
なりたい自分になれただろうか。

と言ったのは、重信房子だが、 
このクレーマーぶり、誰も、
自問自答することは、ない
のだろうか。

こんな情けない想いをする日は、 
弦楽のためのアダージョ で、
我が心を鎮めよう。

 


ラフマニノフ 交響曲第2番 第3楽章

2015-03-07 22:00:11 | 音楽

昨晩は、「マーラー アダージェット 
交響曲 第5番から」を聴いて、贅沢な
気分になったのだが、今日は、試しにと、
ラフマニノフを聴いてみることにした。

この曲も、大変気分の良い曲調である。

なんとも、芳醇な響きなこと。

猥雑な日常からほど遠い世界に、迷い
込む。

なんとも、贅沢な響きが、わが部屋に
満ち満ちて、至福な一時が立ち現れる
ことよ。

この贅沢が、ネットで、満喫できる。

まさかこのような時代がやってくると
は。

それにしても、Bowers & Wilkins MM-1
 コンピュータ用スピーカー、いいスピ
ーカーだね。こんな小さいのに、ほれ
ぼれとした音をだす。

こんな時代がやってくるとはね。