.親も教育…虐待・モンスター防止へ維新が条例案
読売新聞 5月1日(火)14時52分配信
大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)大阪市議団は1日、
保護者に家庭教育の学習機会を提供する「家庭教育支援条例
案」を、15日開会の5月定例議会に議員提案する方針を固
めた。
児童虐待や、無理難題を強いる「モンスターペアレント」
の出現を防ぐ狙いで、成立すれば全国でも異例の条例となる。
市議会で審議中の教育基本2条例案に盛り込まれた保護者
向け家庭教育支援を具体化する内容。「親になる心の準備の
ないまま子どもに接し、途方に暮れる父母が増えている」と
し、具体的には市内の全保育園・幼稚園に保護者を対象とし
た一日保育士・幼稚園教諭体験の機会を設けるよう義務化。
結婚や子育ての意義を記した家庭用道徳副読本を高校生以下
の子どものいる全世帯に配布するほか、市長直轄の推進本部
を設置し、「家庭教育推進計画」を策定することも盛り込ん
だ。
以上。
とうとうと思ったが、複雑な気分だ。
「親になる心の準備のないまま子どもに接し、途方に暮れる
父母が増えている」
幼児虐待とかネグレストとか、マスコミを賑わして止まない。
情報化社会になったせいで、このような情報が行き渡るよう
になったのか。定かでないが。
それにしても、「母性愛」という言葉があったが、もう、
この言葉、死語になったか、はたまた差別用語の取り扱い
になったか。消えてしまったようだ。
このような条例案が出てくる状況、大方の人は、同感できる
ものがあるかもしれない。
わたしが言える立場ではないのだが?
わたしたちの親の世代は、人は、結婚して、所帯を持ち、
父親や母親になって、子どもを育てるのが、当たり前、
子孫繁栄、地域社会の発展がひとつの宗教であった。
最近は、母親から昔の苦労話を聞くようにしているが、
戦前は移民で食い扶持を探して、世界に出稼ぎに出か
けるほどの貧困、戦後は戦後で、なんもない混乱の
時代を親として必死に生き抜いた様を聞かされると、
残念ながら、我が身は贅沢な半生と愚かさに恥じ入る
ばかりである。
ところで、戦後は民主主義・自由・平等が、強調され、
個性の尊重、自己実現などと、戦前の反動ともみた
ほうが良いような極端な個人優先の社会になった
ように思われてならない。
いつのまにか、自己責任に全てが託されてしまった。
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにて
あらん、死なば多くの実を結ぶべし」
という諺があったが、今の社会は、一粒の麦は、亡ば
ず永遠に成長していたいという時代になった。
人の親となって、自分の命の流れを後世に伝えるなんて、
意識はとうになくなって、いつまでも自分の命に拘って
いる。
「死なば多くの実を結ぶべし」なんて、誰も考えたこと
がない。
「あいつが幸せと感じた時に、
その想いの中に、オレがいられるようにしよう。」
なんて、言った人が、いたが、なかなかそのような
ことを考えるゆとりなんて、だれしもなくなった。
皆、どこかに「蜘蛛の糸」が、下がってないか血眼に
なって探している。
「親になる心の準備」たいていの人は、意識もしない
し、結婚することになった時点で、亭主になろうとか、
子どもができた時点で、しっかりした父親になろうとか
なんて、覚悟もしない人もややもすると、いるかも知れ
ない。
いずにせよ、みんな、気が狂いそうなくらい自分が
愛おしくてたまらない。
あれだけの幼児虐待のニュースを読むと。
ネオテニーのまま、結婚し、夫婦となり、親となっていく
ものが多いのかもしれない。
苫米地氏も言ったがいまや「お金教」時代だし、わたしが
勝手に付け加えたが「自己実現教」時代でもある。
それが、ネオテニーのまま、突っ走ったりすると、恐ろし
い人格ができてしまう。
成人式の一環として、結婚学とか、父親・母親教室とかで、
家庭を作る前に、講習を受けないと結婚できないとした
方がいいかもなんて、個人的に密かに、考えたことがあっ
た。
本当のところ、自動車教習所の話では、ないが、結婚適正
検査とか、父親・母親適性検査とかやって、真摯な気分に
なってもらったらどうかなんて、橋下氏っぽくて、大っぴら
に言えるものではないが、内心、どこかでつぶやいている。
もっとも、わたしに資格要件が保障されるか、自信はない。
昔、読んだ本で、こういう文章があって、
〇人生
金を残して死ぬのは下だ。
仕事を残して死ぬのは中だ。
人を残して死ぬのは上だ。
感じ入ったことがあった。
また最近読んだ本で、
人が死んだあとはに残るものは、
集めたものではなく、与えたものである。
という言葉があって、ギクッとしたが、これは
言えていると思った。
なにしろ、たいがいの人間の資産なんて、3代で
なくなるそうだ。
人が死んで集めたものは、無くなるのは、本当の
ことかもしれない。
だから、与えられたもの達によって、引き継がれ
る与えられたものしか、その人が死んだあとも
残らないのだろう。
つまり、与えてくれたと認められた者たちを通して
しか、人が死んで残るものはないのかも知れない。
そのことを通して、歴史の脈絡のなかに、自分の
「命」をもぐり込ませることができることになる
のかもしれない。
そういう意味で、叙勲で表彰される人たちは、
人が死んだあとはに残るものは、
集めたものではなく、与えたものである。
という話をの証人かもしれない。
しかし、ひとは、
「あいつが幸せと感じた時に、
その想いの中に、オレがいられるようにしよう。」
ということは、なかなかできず。
「おれが幸せと感じた時に、その想いを、みんな
で形作ってほしいな」なんて、だれもが、叫んでいる。
みんな、狂おしいほどに、自分が愛おしくて、堪らないし、
誰らかも、愛おしく思われたくて、気が狂いそうだ。