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リタイアーのよもやま話

音楽の捧げもの

2015-02-24 02:43:31 | 音楽

 

バッハ:音楽の捧げもの BWV 1079 
アーノンクール 1970

が気に入るようになって、聴きだしている。

 

前に、フーガの技法を聴くようになって、この曲
も聴いてみたが、その時には、どうもしっくり

いかなくて、聴く気にならなかったが、久しぶり

に聴いてみて、心地よく思えて、喜んでいる。

 

 

 

フーガの技法の主題が、4小節であるのに、音楽
の捧げものは、8小節で、ひとフレーズが、長い。
3小節目の2拍目の裏から7小節目の1拍目まで、
半音階で下降していくメロディーであるが、非常
に異様な響きで、とっつきにくい。

ダラダラ感が、好きになれなかったのだが、その
長いフレーズに親近感を持てるようになってきた。

 フーガの技法のフレーズより、音楽の捧げ物の
フレーズに苦渋感・不条理感が感じられ、下降
する半音階に、奈落の底に落ちていくような情趣
も感じられて、今の時代の世相に、似つかわしく
感じ入ってしまう。

 ということで、今のわたしの心情に、響きあって
感じ入るものがある。

この曲についてのエピソードである。

1747年(35歳)、62歳の大バッハがポツダムを訪問した際、フリー
ドリヒ2世がバッハの即興演奏のために与えたといわれるテーマを
基に、バッハの『音楽の捧げもの』が誕生したと伝えられる。

しかし、どうして、このようなメロディを提示したのだろう。 

 次の曲は、彼の作曲である。

 Friedrich II der Große. Concerto for flute and s
tring orchestra in G - Allegro 1/3 


 Friedrich II The Great Flute Concertos
and Symphonies

 

 Friedrich II. 'Der Große' Flute Concerto No.3
in C major / Christoph Huntgeburth

以上。

「音楽の捧げもの」の曲調との乖離にびっくりする。

 もしかして、フリードリッヒ大王は、バッハに意地悪
したか。こんな変なメロディー。

ただ、今の時代を表現するに、うってつけのメロデ
ィーだと、勝手に思っている。

もしかして、幸運だったかもしれない。 このような
曲を持ち得て。

 


レクイエム

2015-02-14 22:28:32 | 音楽

最近、モーツァルトのレクイエムをよく聴く
ようになった。

指揮は、カラヤンである。

 

前々から、バッハのフーガの技法が聴ける
ようになって、びっくりしていたが、なんと
はなしに、この曲を聴いてみる気になった。 

たまたま、カラヤンの演奏があったので、聴
いたのだが、予想外にも心地よく聴けて、び
っくりした。

若いころだったら、とても、聴く気にならな
かった曲が、今、心地よく響く。 

不思議でならない。

 

変な話だが、この曲を聴きながら、佐伯泰英
の小説を読んでいる。

レクイエムとこの小説の接点は、全くないが、
音楽は心地よく聴けるし、小説の方は寝るの
が惜しいほど、楽しい。

肘突き背もたれのある椅子にふん反り返り、
ベッドに足を放り投げ、心地よく響く音楽を
聴きながら、時がすぎるのを忘れて、小説に
耽溺している。

なんとも、贅沢な時間なこと。

それにしても、レクイエムが心地よく響いて
くるなんて、なんて不幸な時代なんだろう。 

若いころ、革命という言葉が、輝いてみえ
た時代があったなんて、嘘のようだ。 

こんなにたがの外れた時代、重信房子は、
牢獄でどう思うのだろう。聞いてみたい
ものだ。

 


卒業写真

2015-02-10 22:47:24 | 音楽

卒業写真を久しぶりに、聴いている。

この曲は、30代の始め、自分の人生に
行き詰まりに、呻吟していた時に、職場
で突然流れてきた。 

その時の曲は、ホルンが前奏で出てきた
アレンジであったが。 

わたしの隣で、30代の先輩が堂々と、仕事
をしていたのを、横目にしながら、わたしは、
自分の能力不足を認めざるを得ない現実を突
きつけられていた。

資質・適性に欠ける、その上能力不足である。

わたしは、疲労困憊していた。

 その時、わたしは仕事を止めるつもりで
いた。 

ただ、その時に、仕事を止める手続きを
というのを知らなかった。

結局、職種替えをすることにして、転勤を
した。 

今から振り返ってみると、止めなかったこと
は、正解だった。 

この激変する社会に、あの時に止めていれば、
完全にドロップアウトしていたはずだ。

もともと人見知りの性格で、社会的適応力に
欠ける。今になってみれば、ヒヤッとする思い
だ。 

勧奨退職という結末だったが、とりあえず、
第一の人生、ゴールまで辿りついたといえ
るのではないか。 

もしあの時に、止めていれば、年金生活な
んて、あり得なかったし、今、ブログを書い
ていることもなかったし、バイクを乗って
いることもなかっただろう。 

もちろん、わずかではあるが父親の資産を
管理する能力も培うことができなかっただ
ろう。 

何度か、仕事をやめるかもいう気になった
が、辞めずにいれたことに、今頃になって、
感謝している。 

「人込みに流されて変わっていく自分自
身」に歯ぎしりするたびに、この曲を聴い
てきた。

30代、40代、50代、そして、今。 

しかし今や、私自身をねじ伏せたものは、
どこにいったのだろう。

タガが外れ状態の収拾のつかなくなった
時代、そのような情けない時代とそのよう
な時代に愛想を尽かすなさけない自分自身。

辿り着く先が、こうだと思えば、「人込み
に流されて変わっていく自分自身」に歯ぎ
しりしたのは、どういうことだったのだろ
う。

だいぶ前だが、新聞の死亡広告蘭に、わた
しの隣で、堂々と仕事していた先輩の訃報
が載った。 

落ちこぼれの私は、まだ生きている。人生は
なんだろうという思いが、一瞬、頭をよぎっ
た。

 重信房子は、

おみなえし揺れ咲く細き野道行く
なりたい自分になれただろうか

と、歌った。

彼女は、まだ、牢獄にいるのだろうか。

いま、老いて、子育てが上手くいって、
老いの不安に怯えない人生を享受できる
人は、どれほどいようか。 

タガが外れ状態の収拾のつかなくなった
情けない時代に、みんなどう暮らしている
のだろう。

誰が、なりたい自分になれただろう。


The Art of Fugue

2015-02-09 07:15:28 | 音楽

J. S. Bach - The Art of Fugue, BWV 1080 - T. Koopman and T. Mathot

最近、J. S. Bachの「The Art of Fugue」をよ
く聴くようになった。 

このことに、自分でも驚いている。

この曲については、おそらく20代の頃には
知り得ていたはずだし、30代の始めには、
一度は聴いていたはずだ。

しかし、若いころ、この曲を好きになれなかっ
た。

 曲調が、単調で暗く思われ、陰鬱に感じら
れたからである。

しかし、最近、不思議なことに、この曲に親
しみがわくようになった。

おそらく、わたしの心境の変化に関係するの
かもしれない。 

今やタガが外れ状態の収拾のつかなくなっ
た時代、そのような情けない時代とそのよう
な時代に愛想を尽かすなさけない自分自身、

そして、老いて無力になりゆく情けない自分
自身の葬送曲として、聴いているのかもしれ
ない。

よく、老いてペットを慈しむ方々がおられる
が、わたしには、この葬送曲とも聴こえる
「フーガの技法」を友として、いくことになり
そうである。

 


檄文?

2015-02-07 22:06:34 | 日記

だいぶ前になってしまった。1月21日(水)
朝郵便受けを見ると、1枚の紙が、入っていた。

次ぎのような文章が、書かれていた。

檄文かと思いながら、読んでみたのだが。

 

   どん底人生で学ぶ

  戦時中から戦後の食料難のころの作柄欠
陥品が多いようで、その作柄にあたるのが
昭和五年生、学校は軍に摂取され先生がた
も軍に徴用されて廃学となる。 

家には老人と子どもが残され仲間のほとん
どは働き手となって家事と労働にあけくれ
た。

 米軍の上陸で着の身着のまま飢がと地獄の
逃避行、二カ月後の六月栄養失調も限界で
大勢の難民とともに山をおりる。 

生きのびてほっとした所で多くの仲間たち
が栄養失調とマラリアのため去る。

 学ぶ時を失い戦後の復興でも働きずくめの
正直者の仲間の多くは心身ともに蝕まれて
密かに崩れる家族。 

思えば軍国教育は戦争にそなえて男組と体育
と暴力できたえられ、目上の人は自由放題
で目下のものは絶対服従でした。 

 そのような仕組みのもとに目下人間の国民
年金の通知書は、まるで玉砕命令だ。こんな
不当な差別はいじめでひどすぎると思ってい
た所へ、今度は娘と孫の不自然死だ。

 ゆすりなのかごまかしか死因に疑問を感じた
私は、日米高官の次のような雑談を思いだし
た。

日本の高官が「武器社会の君の国は怖いね」
というと「米国より君の国が怖い。政治経済
は暴力団のおかげで成り立っているではない
か」の会話だ。

さらにある宗教の創始者は「正しい教え
説くものは迫害(法難)にあう」との説
法だ。社会のしくみが歴史を繰りかえす
から事実とみんなに伝えるべきことを痛
感して筆をとった次第。

 

祖先崇拝は戦国時代から

 外国では民族戦争や独立戦士の将軍の像
が建立され崇拝されている。南の国でも部
族を守るために戦死した先祖をミイラにし
て同居するほど先祖を崇拝していた。戦死
者を奉る儀式や慰霊は殺す恐怖とたたりを
恐れた良心からの発想と思われる。

従って本音に先祖を崇拝するにはお墓での
礼拝が適切かと思う。外国の葬儀は教会と
墓で行われるが、大和での葬儀は幕府がお
寺に仏壇の設置を命じてから始まる。武家
社会には葬儀場、お墓、仏壇、お寺、神宮、
神社などがある。なぜか大和には18万4
千以上の宗教法人があり、神社は8万以上、
お寺は7万7千軒以上あるとのこと。

そのおかげで城下町、門前町、港町では年
中にぎやかな上に、伝統行事で子孫だいだ
い繁盛のこと、盆と正月には大手の百貨店
も1日で平日の半年分の売り上げというか
ら、伝統行事は欠かせない。

   人生は一度だけ頭は飾らず使おう

 聖職者によると「人間は生まれ代われる」
の説だが、自爆テロの多いイスラム諸国もな
ぜか天国を美化賛美している。宗教は、人間
の幸福、戦争のない平和な社会が理想だと思
うが、なぜか反戦の声はない。大和に渡来し
た仏教も当所は世の中の争乱や災いを鎮める
のが務めだったはずです。ところが武力に屈
したのちは幕府に(政府)の保護のもとに戦
争に協力するようになる。

従って極楽も地獄もこの世のはなしとなる。
たとえば、私の遺体は火葬の煙となって魂
ごと永遠にブラックホールに消え去ります。
魂とたたりの言霊は遺族や信じる人たちの
脳裏(心)にあるわけで、遺体には魂も怨
念もありえない。死後は極楽浄土も冥福も
あり得ないから「命る宝」と理解する。生
身の人間には神や仏さまの魂を慰めるのも
不可能、故に飲食費は命を守る教育にあて、
善悪を判断できる人権の課目が重要と思う。 

 辻斬りが明治まで続いた大和では「火事
ケンカは江戸の華、地獄の沙汰も金次第、
転んでもただでは起きない、金が物を言う」
お金文化となる。従って「一人では生きて
いけない」という宣伝におびえて不安がる人
が多いのが現実。

私事だが人工神に逆らい、夜ごと自然の神に
誘われるまま、安らかな眠りで安楽に死ねる
練習(睡眠)を楽しんでいる。

ねごと、ねがえりは生きている意思表示で、
表示がない人々はご臨終と思うから動く
ようにする。

考えると死は安らかなものだが、怖いのは
加齢と病気だ。家族と一緒でも誕生と臨終
のときはみんな独りぼっちだから諦めよう。

但し遺体の処理は葬儀屋に頼んでおこう。

私は、葬式もお墓も無用、戦争で散った人
たちと同じ散骨でよい。

地獄の植物人間はいやだから延命処置はお断
りが私の意思だ。 

2014年3月10日  〇 〇 〇 〇(氏名、略)

以上。 

本人は、一生懸命で、何か言いたいのであるが、
全く、意味不明で、驚いてしまった。

知識の切り貼り、コピペ文章である。 

あまりにも、奇異で不思議な文章なので、紹介
した次第。

である。