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リタイアーのよもやま話

政府は必ず嘘をつく

2012-02-26 10:25:58 | 若い時に読みたかった本

 

本屋で、なんとなく買った本があった。


政府は必ず嘘をつく
ーアメリカの「失われた10年」が私たちに警告する
こと

堤 未果著

角川SSC新書

である。

著者の堤 未果氏の、ファンである。これまで、
出版された本でも、その内容に大きな衝撃を
うけた。

 

TPPでも政府は嘘をつく

 ハリケーン・カトリーナと3・11を重ね合わせ
「復興特区」の危険を指摘したハワードの警告は、
もうひとつの大きな流れとつながってくる。

 2010年10月に突如としてマスコミに現れ九
〈TPP〉だ。

「2015年までに工業製品、農産物、知的所有権、
司法、金融サービスなど、24分野の全てにおいて、
例外なしに関税その他の貿易障壁を撤廃する」という
その内容は、まさに投資家や企業にとって〝バラ色の
未来〟と同義になる。

 政府が外資の参入に対し国民を守る責任を放棄して
くれるだけでなく、自分たちの利益を損なう規制に関
しては、その国を相手に訴訟を起こす権利(ISD条項)
までついてくるのだ。

 現時点での加盟国は9か国。だが、アメリカにとって
は日本の参加が重要な意味を持っている。

日本が加わると全加盟国のGDP比は日米2か国が9割
以上を占めるため、〈TPP〉は実質、日米の二国間
貿易協定となるからだ。

 政権交代以降、戦争の拡大と市場化政策でアメリカを
さらに貧困大国化させたため、支持率が急降下し再選が
危ぶまれるオバマ大統領にとって、日本のTPP加盟は
大きな意味を持っている。

 アメリカの大統領選は、資金が恐ろしくかかるのだ。

2008年の大統領選挙で当選したオバマ大統領が集め
たキャンペーン金額は7億5000万ドル、2012年
の再選を狙う次の選挙ではこれよりさらに多く集めること
が必要になる。

何億ドルという単位は、市井の有権者から少しずつ集めて
いては間に合わない額だ。

よって、上位1%の超富裕層や大資本からの支援を取り
つけざるを得ない。

 アメリカを貧困大国化させている元凶である〈コーポ
ラティズム(政府と企業の癒着)〉にメスが入らない大き
な理由のひとつは、この政治資金法のゆるさにある。

 幻想だった「チェンジ」に有権者が怒り狂う今、世界を
市場とするグローバル資本に日本という魅力的な市場を提供
できれば、選挙資金の高額スポンサーである投資家や業界の
支援を取りつけられる。

 「TPPの自由貿易で、10億ドル輸出するごとに5000
人の雇用を生む」というオバマ大統領の国内向けPRは、
ウオール街デモ抗議者や膨れ上がる失業者たちには届いて
いない。

グローバル企業は規模が拡大するほどに、製造も販売も国外
に移っていくからだ。

 限りなく低コストを追求する市場原理主義社会では、彼ら
のような中流以下の労働者は価格競争の中で自然に切り捨
てられてゆく。

 そしてここでも、政府は国民に正確な情報を伝えて
いない。

 「オバマ大統領は、〈TPP〉で国内の雇用が増えると
いう。

だが、それが事実じやないことに、俺たち労働者はもう
気づいてる。前にも政府に同じ嘘をつかれたからね」

 そう言うのは、シカゴ在住で雑貨店を経営するボプ
・ジョーンズだ。

 ボブは、祝日のレイバーディにグランドパークで行わ
れたTPP反対集会に参加している。

 「その集会は、アイスクリームのペン&ジェリー社が
主催だった。

たくさんの参加者を前にして、彼らは『自分たちは99%の
側につき、フェアトレードを推進する』と宣言したんだ。

全ての企業が自由貿易によって膨大な利益を得てきたわけ
じゃない、あれは世界を市場にしているグローバル資本の
ためのものだ。

中小企業や俺たちのような普通の労働者は、今よりもっと
搾取され生活が苦しくなるんだよ」

 「日本では、アメリカ政府が〈TPP〉に積極的だとして
報道されていますが」

「政府はこの自由貿易で輸出を増やすとjって、アメリカ
国民を騙してる。

だが、輸出は増えないよ。なぜなら、アメリカには売る物
なんか残ってないからだ。ウオール街デモを見てみるといい。

アメリカ政府が大企業と癒着して、莫大な企業献金と引き
換えに規制緩和を進めてきた結果があれだ。

この国は、1%のスーパーリッチとワーキングプア労働者
という、おかしな国になっちまったんだよ」

「国民は〈TPP〉について、どのくらい知らされている
んですか?」

 「アメリカはテレビ社会だから、まあ関心がない層が大半、
組合やごく一部の労働者が危機感を持っているというのが
現状だね。

特に俺のような中流以下の労働者は、貿易に関する規制撤廃
への警戒感が強い。NAFTA(北米自由貿易協定)でひどい
目にあってるからな」

 〈国内に膨大な雇用を生み、安価な農作物が食卓に上る〉
と謳われて導入されたNAFTAは、結果的にメキシコで
300万人、アメリカで200万人の失業者を出し、カナダ
政府に国民の健康を守るための規制を撤廃させた。

 「あの時も政府は、俺たち国民にこう言った。NAFTA
で雇用が拡大し、繁栄がもたらされるとね。だが、嘘だった。
『NAFTAが始まれば大搾取が起こり、何百万もの仕事が
他国に流れるだろう』と言ったロス・ペロー氏の警告が正
かったんだ。

儲けたのは、安い労働力を得るためにメキシコに工場を移し
た企業だけで、結局アメリカとメキシコでは500万人が
職を失った。

この500万人という数字は、オバマ大統領は前回の選挙戦
で批判的に使っていたがね」

「政府は事実を伝えなかったと」
「伝えなかったね、政府はバラ色の未来が来るようなことを
言って、自由貿易を推進した。
だが、うなるように儲けたのは、穀物メジャーやアグリビジ
ネス、製薬会社の連中だ。

結局、メキシコでもアメリカでもカナダも、勝ち組はグロー
パル企業、負け組は労働者だった。

俺たちは、懲りずに再び別の夢を見たんだが」

 「そう。労働者の味方になってくれるりリーダーがきっと
現れるという夢だよ。

2008年の政権交代が、どれほどアメリカの国民を高揚
させたか知ってるだろう? 

オバマ大統領は大統領候補者の公開討論会で、共和党政権が
推し進めてきたグローバリゼーション、いわゆる新自由主義
的政策をめった切りにしてくれたんだ」

 確かに、あの時の選挙キャンペーン期間中、オバマ氏は
労働者が多い地域に行くたびに、ブッシュ政権の通商政策が
自由貿易一辺倒であることを激しく批判した。

海外移転を促進した大企業に対し、失業率拡大の責任を厳しく
追及する若いオバマ候補は、新自由主義で苦しめられていた
労働者たちの心を強くとらえたのだ。

 ミシガン在住のある機械工はあの時、私にこう言った。
 「アメリカは変わる。やっと私たちのヒーローが出てきた」
 そう伝えると、ボブは苦笑いを浮かべながら、ため息をつく。

 「大統領に就任した途端、彼は180度変わってしまったよ。
前政権の政策の中枢にいた人物を次々にホワイトハウスに入れ、
企業寄りの政策をさらに強化していった。教育、医療、食料、
そして戦争……。
それから、再び自由貿易がやってきた。NAFTAなんか比に
ならない、ずっと進化した内容の〈TPP〉が」

 


「民主党と共和党、どっちが貧困を悪化させますか?」


 かつてアメリカの.二大政党は、それぞれ代表する利権が
はっきりと分かれていた。

労働者の代表である民主党の政策は社会保障、健康保険、フード
スタンブ(食料配給券)、失業保険、教育、公民権などが中心で、
完全雇用実現のためには多少のインフレも容認する。

一方、企業側につく共和党が目指すのは、社会保障削減と規制
緩和による小さな政府だ。

 オレゴン州在住の新聞記者でピューリッツァー賞受賞者でも
あるリチャード・リードは、マスコミ業界に起こったある変化が、
二人政党消滅の序章だったと語る。

 「レーガン政権前までは、テレビは大統領選の候補者を平等に
映していた。

メディアは公共所有だったし、労働組合も強かったからね。

でも、レーガン政権が行った規制緩和がメディアの企業所有を
解禁してから、まるっきり変わってしまったんだ」
 この規制緩和によって、1980年代にテレビ市場の9割を
占めていた三人ネットワークテレビ局に、たちまち大資本が
群がった。

NBCは世界最大のコングロマリット(複合企業体)であるGE
に、CBSは投機会社に、ABCはウオルト・ディズニー・カン
パニ-にと、次々に買収されてゆく。

 大資本によるマスメディアの集中と系列化が進んだことで、
ニュース編集の一元化による情報操作が頻繁に起きるようになり、
多様な意見が反映されなくなっていった。

 さらにその後、各政党の台所事情にも変化が起きる。
 クリントン政権のさらなる規制緩和の下、企業が製造拠点を
労働賃金の安い海外に次々と移転、国内の労働組合が弱体化し、
民主党は一気に政治献金のスポンサーを失った。

 その結果、共和党だけでなく民主党も、石油業界やウオール街、
製薬会社、軍産複合体やアグリビジネスなどの業界から、大口
政治献金を受けざるを得なくなる。

 世界市場拡大を目指すグローバル企業にとって、マスコミと
政府を押さえることは常識だ。
形としての二人政党は、民主主義の基本である〈選択の自由〉が
まだ機能していると国民に思わせる効果もある。

かくして、大資本からの政治献金は両党に均等に配られ、選挙に
おける〈政策〉はもはや重要ではなくなっていったのだった。

 選挙キャンペーンが始まるたびに、大資本傘下のマスコミは
一斉に対立軸を強調する報道を流す。
 二人政党が土台から崩れたことに、多くの有権者たちはいまだ
に気づかないのだ。

 

 1970年代以降、自由貿易交渉の中身は〈関税〉から〈非
関税障壁〉にシフトした。

グローバル化による世界市場が拡大するほどに、モノだけでなく
市場で売れるあらゆるもの、サービスや金融、投資といった分野
まで含めた企業利益の前に、相手国の法律や規定が邪魔になって
くる。

 「だが、そうやって日本を次の市場として狙う製薬会社や医療
保険会社を、単に〈アメリカ〉としてくくると本質を見誤るだろ
う。

嘘だと思うなら、彼らが自国の患者たちに何をしているか見て
みるといい。

なぜ毎年、アメリカ国内で無保険ゆえに4万人の患者が死に、
保険がありながら100万人の被保険者が破産し、薬の副作用
で30万人が命を落とすのか。

グローバル企業にとって、患者の国籍や名前など意味を持たない
からだ。

アメリカ人だろうが日本人だろうが、グローバル経済の前で命は
〝数字〟なんだ。

それ以上でも以下でもない」

アメリカ国内における強力なTPP推進派、「NFTC(全米
貿易協議会)」という、ニューヨークとワシントンを拠点とする
全米最古で最大規模の財界団体だ。

NFTCは、会員として所属する300以上の企業の利益拡大の
ために、政府関係者に対し強力なロビー活動を行っている。

 会員企業の顔ぶれは、世界に市場を持つグローバル資本がほと
んどだ。

 ボーイング、シェブロン、GE、ヒューレット・パッカード、
インテル、マイクロソフト、モンサント、ニューズコーポレー
ション、IBM、ジョンソン&ジョンソン、GAP、ウオルマ
ート、コカ・コーラ、ファイザー、シティグルーブ、ハーバ
ライフ、ダウ・ケミカル、リーバイス、オラクル、UPS、
タイム・ワーナー、VISA、ゼロックス……。

このような大資本に加え、アメリカ国内の知的財産権や著作権
を扱う米国出版社協会や全米畜肉協会、全米音楽協会、全米
映画協会、商工会議所など、各業界のロビー団体も名を連ねて
いる。

 オーストラリアのメルボルン出身の経済アナリストである
ルーク・カツリスは、自由貿易というコンセプトそのものが、
グローバル企業と法治国家の力関係を変えてしまう性質を持つ
と主張する。

 「グローバル経済が支配する世界の中で、今後ますます
各国の憲法や法律、規制といったものは意味を失ってくる
でしょう。

国の介入は、小さければ小さいほど利益が上がる。

グローバル経済の最終ゴールは、規制ゼロの〝統一世界市場〟
だからです」

 ルークの言う通り、グローバル企業が世界に市場を拡大
するほどに、国境は意味を持たなくなるだろう。

先進国で国内の労働者が失業する一方で、年金や生活保護
など国の負担は重くなっていく。

第三国はますます資源を奪われ、通貨は効率よく統一され
ていくだろう。

その時「国家」という形は、いったいどうなってしまうのか。

 「TPP反対派はその中で、国境を超えて影響が出てくる
人権や環境、労働者の権利や食の安全、医療や教育へのアク
セス、といった部分での懸念を抱いています」

 「そうでしょうね。ですが、今挙がったようなことは本来、
企業ではなく政府が責任を持つことです。

ピジネスの目的は、純粋な利益です。極端な言い方をすれば、
企業には利益を生み出す地域や人々に対する義務はありませ
ん」

以上。


この本の内容をブログにアップしたのは、この内容と
日本の政治の現状をみた場合に、戦慄する思いがした
からだ。

一番最大の理由は、大阪維新の会(みんなの党を含む)の
動きだ。

地域政党・大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長は10日、
環太平洋経済連携協定( TPP)への参加や日米同盟を
基軸とした外交などを次期衆院選の公約として掲げる
意向を明らかにした。

いうニュースが流れた。

このまま、大阪維新の会の思うままにされては、日本は
アメリカのような貧困化へまっしぐらだ。

TPP、まさに、亡国の罠だ。

アメリカで、1%の超富裕層に対する反発のデモが開催
された。

アメリカでは上位1%の人間が、国全体の富の8割を
独占している。ということだ。

この1%の超富裕層の富を拡大するための、手段として
TPPが目論まれているようだ。

これが、本来のTPPの姿のようだ。それが、自由貿易と
いう美辞麗句で、飾られて国民をかどわかしているよう
だ。

1%の超富裕層が、国家の枠を超えて、人類の富を収奪
する。その収奪の前に、国家は国民を守りきれない。
という恐ろしい世界がまっている。

99%の人間が、1%の超富裕層のために、養鶏場の鶏の
ように、檻の中で、卵を生み続けるような生活がまって
いる。

それから、心配しているのが、

憲法改正し大統領制を」 民主党の代表選に絡み、大阪府の
橋下徹知事は4日、「公開討論もせずに国会議員だけで選ん
でいる。
国民が1票も入れることができない議院内閣制の限界」と
強調。

「憲法を改正して大統領制にするべきだ」と報道陣に語っ
た。

先程の本の引用にもあったように、

大統領制にすれば、それこそ、超富裕層の操り人形になって
国民を収奪するシステムが作れてしまう。

あれほど、アメリカは、勿論、日本も騒がしたオバマ大統領
の出現、結局は、1%の超富裕層の操り人形になってしまっ
ている。

橋本氏は、「いつまでも物事が決まらない。」と、現状の
政治的状況を非難しているが、これに乗せられると、恐ろ
しい結末がまっている。

1%の超富裕層に、収奪される国家システムを作られて
しまったら、おしまいだ。

ヒットラーのように、大きくなってしまってからでは、
取り返しがつかない。

誰かが言ったが、地獄への道は、善意で舗装されている。

なんとかしなくては。

 

政府は必ず嘘をつく
ーアメリカの「失われた10年」が私たちに警告する
こと

堤 未果著

角川SSC新書

ぜひ、多くの人に読んでもらいたいものだと願っている。
できれば、世界中の人に読んでもらいたい。

アメリカの1%の超富裕層が、全人類から収奪しようと
いうシステムが、このTPPだからだ。

発禁にならないうちに。

それから、この本と合わせて、

⑴ ルポ 貧困大国アメリカ 堤 未果著 岩波新書
⑵ ルポ 貧困大国アメリカⅡ 堤 未果著 岩波新書
⑶ アメリカから〈自由〉消える 堤 未果著 扶桑社新書
⑷アメリカの経済支配者たち 広瀬隆著 集英社新書

これらの本を一緒に、読み合わせてみると、なお一層
この本の趣旨の理解が深まるように思っている。


世界の宗教がざっくりわかる

2011-10-15 23:37:57 | 若い時に読みたかった本

世界の宗教がざっくりわかる

島田裕巳著

新潮選書

を読み終えた。


帯びには、

教義は?歴史?お互いの関係は?

丸ごと一気に頭にはいる

現代人必携の宗教ナビ!

とある。


表紙の折り返しには、

経済がグローパル化し、科学が進歩した世界において
なお、宗教の存在感は増す一方である。
宗教を知ることなしに、政治や経済、事件の本質を理解
することはかなわない。

しかも、ひとつひとつの宗教を別個に捉えていては何も
見えてこない。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教等、それぞれの
歴史、教義、関係性を一気に学んでこそ、私たちは全体像
を得ることができるのだ。

現代人のための宗教ナビゲーション。

以上。


「はじめに」では、

いったい宗教とは何なのか。
本書は、この問いに対する筆者なりの回答である。
新書のような形式の本において、このような根源的な
問いに答えようというのは無謀なことかもしれない。

 

この本でめざしたのは、あるべき宗教の姿を提示する
ことではない。
世界の宗教が全体としてどういったものなのか、それを
分かりやすい形で描き出すことに尽きる。


とある。


わたし個人的には、

特に、キリスト教の箇所については、興味深く思った。

ミッション・スクールの影響力
出家者のいる宗教は珍しい
聖なる世界だけを律する
イエスの教えを知らなかったパウロ
多神教への変質
教会の絶対的な権威
救済の方法がないプロテスタント

という項目となっている。


前に、塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力(下)」
をこのブログで取り上げ、

ディオクレティアヌスの皇帝の地位への執着が、キリスト教が
歴史に残る大きな原因であった。というのが、てっとり早い
〝まとめ〟と言えるのではないか。

という感想を述べたが、塩野七生氏によって書かれたこのディオ
クレティアヌス帝の所業と島田裕巳氏のこの箇所とを抱き合わせて
読み合わせると、よりキリスト教への理解が深まるような気がして
きた。

 

キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳
柏書房
 

捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房

 

破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳

柏書房


「ローマ人物語 最後の努力(下)

塩野七生著

新潮社


世界の宗教がざっくりわかる

島田裕巳著

新潮選書


これらの本が、若い時に、読まれることが切望されて
やまない。

 

それにしても、


世界の宗教がざっくりわかる

島田裕巳著

新潮選書


いい本である。

著者の趣旨は、俯瞰的で充分に実っていると思う。

ぜひ、多くの人に読まれることを願っている。

このような本を出してくれて、感謝である。


ついでにであるが、

織田信長のマネー革命
経済戦争としての戦国時代
竹田智弘
ソフトバンク社

で、信長が仏教にとった態度についても、セットで読まれると
面白いと思う。


塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力(上下)

2011-09-30 22:38:20 | 若い時に読みたかった本


塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力(上下)」
を読んだ。

何故かというと、ローマ帝国の崩壊した理由が分かるの
ではと期待したからだ。

いろいろと、学ぶものがあった。少しずつ、理解が深まる
ようで嬉しいものである。


その中で、面白い内容にめぐり合った。

それは、わたしが昔から気にしていたキリスト教のローマ
での国教化という話しである。

どうして?ということである。

意外とわたしたちは、キリスト教の側にたった考え方を
していたことに気づいた。

つまりキリスト教徒の信仰の努力が実ったという理解の
仕方である。

このことについては、まったく考えたことない考え方が
示された。

ある意味で、驚愕な内容であった。

それは、「最後の努力」の下巻に、書かれている。


この中で、このような文章があった。

以下、抜粋し、文章を前後入れ換えたりして私なりの
理解しやすい形にしてみた。


 「王権神授説」とは、絶対王政華やかなりし時代の
17世紀に、イギリスのジェームズ1世やフランスの
ルイ14世が主張した説として知られている。

(これは、世界史の授業で習った記憶がある)


だがそれを、「現世の支配権の神授説」と言い換える
ならば、17世紀の時点からでも1300年も昔に
すでに、皇帝コンスタンティヌスによって種がまかれ
ていた「考え」であったのだ。

 ただしそれが、自分の血をひく子への継承に限るな
らば、これほどまでしてコンスタンティヌスが定着させ
ようと努めた支配権の神授説も、息子の代を最後に断絶
してしまう。

しかし、「アイデア」 のほうは、その後も長く、考え
ようによってはフランス大革命までつづいたのだから長命
を享受したのである。

長く命を保てたのは、決めるのは人間ではなく神とした
この「考え」が、支配する側にとってはまことに好都合
であったからだった。

 

 

                      
 ローマ人は、王政・共和政・帝政と政体ならば変移させて
きたにかかわらず、世襲という一言に関しては一貫して、
釈然としない、俗な言い方なら胡散臭い、感じをいだいて
きた民族であった。

王政とて選挙制であったのだし、共和政となればもちろんの
こと、現代の首相にあたる執政官は市民集会の選挙で決まっ
た。

このローマでは、帝政でさえも、公式の主権者は皇帝ではなく、
主権者であるローマ市民権所有者とローマの元老院が権力の
行使を託した存在が、皇帝であったのだ。

それゆえに、権力の行使を託すに値しないと判断された皇帝は
殺されたのである。一年任期の執政官とちがって皇帝の任期は
終身であったので、その皇帝をリコールしたければ、肉体その
ものを抹殺するしかなかったからであった。

 三世紀のローマ帝国が直面した危機の要因の第一は、現代風
に言えば、皇帝へのリコールが次々と起こったがために政局
不安定がつづいてしまったことにあった。

それを改善しようとしてディオクレティアヌスが考え実施した
のが、「四頭政」のシステムである。だがこれも、短い生命で
終わった。

それを短命で終わらせた一人がコンスタンティヌスだったが、
それだけに披には、「四頭政」では政局不安定は解消できない
ことを見抜いていたにちがいない。

また、ローマ帝国を一人で統治してきた「元首政」時代の皇帝
たのように、自分も一人で統治したいという野望もあったろう。

 しかし、帝国を一人で統治したければ、それを可能にする、
しかも長期にわたって可能にする、何か別のシステムを考え出す
必要がある。
それも、機能しないことがはっきりした「四頭政」型のシステム
ではなく、かと言って、殺害というリコール方式の危険を常に
内包している「元首政」システムでもなく。  

 

 


 現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の
権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、と
する考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの驚嘆
すべき政治センスの冴えであった。

委託でも、また一転してリコールでも、それを決める権利は「可
知」である人間にはなく、「不可知」である唯一神にあるとしたの
だから。

 だがこれは、実際上には何も意思表示をしない、神が決めると
いうことになる。となれば、その神の意を受ける資格をもつとされ
誰かが、それを人間に伝達しなければならない。

キリスト教では、神意は聖職者を通して伝えられるということに
なっていた。

それも、権威ある神意伝達のコースとなると、信者と日常的に接
する司祭や孤独な環境で信仰を極める修道士よりも、教理の解釈を
整理し統合する公会議に出席する資格をもつ、司教ということにな
る。

つまり、世俗君主に統治の権利を与えるか否かの「神意」を人間に
伝えるのは、キリスト教会の制度上では、司教ということになるの
だ。

ならば、司教たちを〝味方〟にしさえすれば、「神意」も〝味方〟
にできるということになる。

そうとわかれば話は簡単だ。どうやれば司教たちを懐柔できるかに、
問題は集約されるからであった。

 「司教」という、後期ラテン語では「episcopus」、後期ギリシア
語では「episkopos」と呼ばれた存在くらい、キリスト教が浸透しつ
つあったローマ帝国後期にあって、注目に値する階層もない。

 高度に官僚制度が発達した現代のカトリック教会とちがっていまだ
組織化が進んでいなかった時代のキリスト教会の司教は、実に大きな
存在であったのだ。

 司教とは、十二使徒の後継者と考えられており、イエス・キリスト
とその十二人の使徒から、神意を伝える権利、信徒を教え導く権利、
信徒を統合する権利を託された存在とされていたのである。しかも
これらの諸権利に加えて、キリスト教の教えの拡大に役立つことや
それを行った人に対して、神聖な正統性を授ける権利まで有していた
のだった。

 


 要するに、司教区内の信者を統轄するのが司教なのだが、
それは司教が、神意を伝える人、であるからだった。

キリスト教会では、すべては神の意を汲んで成されると決まって
いたので、現実世界の統治も、神の意を得た人によって成される
のも、彼らの教えからすれば当然なのである。

そして、神の意を汲んでそれを人間に伝えるのが、司教であった
のだった。

 では、この司教たちを味方にするのにコンスタンティヌスは、
具体的にはどのような策をとったのか。

 組織の長となれば必ず、自分がトップに坐っている組織の確立と
存続を何よりも重視する。司教にとってのそれは、管轄下にある
司教区での宗教上の諸々の活動からはじまって、福祉事業や教育
事業に必要な、人とカネの確保になる。コンスタンティヌスはこれ
を、保証しかつ増やしてやればよかった。

 教会を建てて贈ること。
 教会活動の財源になる、資産を寄贈すること。

 教会の諸活動を第一線に立って実際に行う聖織者たちへの、公務
と納税の免除。

 聖職界には入らない俗人の身分のままでも、奉仕活動には積極的
に参加する人であることで教会にとっては重要な人的資源でもある、
独身者への法律上の不利の解消。

 ここまではすでに述べたことだが、コンスタンティヌスは司教に、
これらの優遇策に加えてさらに、司教区内での司法権まで認めた
のである。

もはやローマ帝国は、法治国家ではなくなった。司法は宗教とは
無関係なところで実施されねばならないはずだが、その司法の世界
でさえも、キリスト教徒であることが有利になったのである。

 しかも、これに加えて司教は、重税に耐えかねた納税者が、皇帝
の徴税官に手加減してもらうための仲介を、願い出る唯一の訴え先
にさえもなったのだ。

ただしこれだけは、コンスタンティヌスの決めたことではない。

しかし、司教に与えられた権力がかくも大きなものになれば、
ならば税金をまけてくれることもやってくれるかもしれないとは、
誰であっても思うことではなかったか。

 キリスト教の浸透が最も遅れたのは、人間よりは自然を相手に
することの多い農村地帯を別にすれば、軍隊ではなかったかと思
う。

もともとからしてローマ軍の兵士の間では、個人的には太陽神や
ミトラ神を信仰する者が少なくなく、軍団としてまとまって行動
するときはそれら個人の信仰は脇に置いて、ローマ帝国全体の守
護神であるローマ伝来の神々に犠牲式をあげることに、慣れ親しん
できた集団であった。

 キリスト教を公認した「ミラノ勅令」が発布された年から十一年
が過ぎた紀元三二四年、コンスタンティヌスとリキニウスの両帝の
間で闘われた内戦で前者が勝つのだが、その戦闘に敗れて降伏した
リキニウス側の将兵たちが、勝者コンスタンティヌスに向って
次のように叫んでいる。

「皇帝コンスタンティヌス、あなたに神々の御加護があらんことを!」
 神々となれば、ローマ伝来の神々のことである。キリスト教の公認
後でも、兵士たちにとっては「神々」のほうが、慣れ親しんだ存在で
あったことを示していた。

 この兵士たちに対しては、コンスタンティヌスはいっさい、親キリ
スト教的な態度もとらず、策も講じていない。皇帝としての彼の権力
の基盤が、軍にあることは知っていたからだ。彼らの支持を減ずる
ような行動は、最高司令官でもある皇帝には命取りになるのだった。

 ただし、小さなことならば実行している。それは、キリスト教徒の
兵士には、神に祈りを捧げるという理由で日曜を休日にすることを認
めたが、異教徒の兵士たちには、日曜も他の日同様の訓練を課したこ
であった。

 くり返すが、コンスタンティヌスはキリスト教を宗教として
公認したのであって、ローマ帝国の国教にしたのでもなければ、
キリスト教以外の他の宗教を排除したのでもない。だが、それゆえ
にかえって、四世紀当時のローマ人にとってのキリスト教は、
多くの宗教のうちの一つでしかなかったのである。

ということは、日曜は休めるというだけのつまらない理由で改宗
したとしても、精神上の負担は、後世の人々が考えるよりはずっと
軽かったということでもあった。


 はじめての『キリスト教会史』の著者として有名なカエ
サリアの司教エウセビウスは、当時のキリスト教への改宗
者の多くは、信仰心からではなく利益からであった、と苦
々しい口調で書いている。

しかし、個々人のキリストヘの信仰心が自然に高まるのを
待っていたのでは、「少数」を「多数」にするには、途方も
なく長い歳月を要したにちがいない。

イエス・キリストが十字架上で死んでからその教えが公認
されるまででも、三百年もの歳月を要したのである。それを、
個人や職種によって別々ではあったにせよ「利益」を介在
させることによって、「少数」はより短い期間で「多数」に
なっていったのではなかろうか。

それならば、司教階級を懐柔したことと並んでこれもまた、
人間性の現実を冷徹に洞察したうえでの、実に巧妙な戦術で
あったとするしかない。見事なまでに政治的であり、政治家
であることの最重要条件である、政治感覚の冴えを示してい
たのだから。

 なぜなら、統治ないし支配の権利は、「人間」が与えるの
ではなく「神」が与えるとしたことによって、歴代のローマ
皇帝たちを良きにつけ悪しきにつけ悩ませてきた事柄を、一挙
に解消することになったからである。

 皇帝権力のチェック機関を任じてきた元老院も、その最重要
の存在理由を失った。

チェック機能を持つか持たないかは、権力者に権力を与える
資格を有するからこそ持てるのである。

 市民という有権者の意思表示の場でもあった円形闘技場や
大競技場も、これ以降は単なる娯楽の場に変わるのだ。

 ローマ人が常に胡散臭い想いで見てきた皇帝位の世襲も、
それがいかに能力のない息子に継承されようと、その理由
づけに苦労する必要はもはやない。

 すべては、次の一句、「お前たちをわたしやわたしの息子が
統治するのは、お前たの意志によるのではなく、お前たちの信
仰する至高の神の御意志によるのだ」と言いさえすればよいの
だから。

つまり、「神がそれを望んでおられる」と言えばそれで済むので
あった。

 

途中、カット。

 


だが、死を前にしての洗礼には、別の解釈もある。1964年
にオックスフォーードで出版された『The Later Roman Empire』
の著者であり、ゆえにローマ帝国後期の世界的権威でもあるA・
H・M・ジョーンズ教授は、次のように書いている。

 コンスタンティヌスは、ただ単に、多くのまじめなキリスト
教徒たちの例に従ったまでなのであった。

つまり、現世では、キリスト教の教えでは大罪に値すること
確実な悪しき行為でもやらざるをえない以上、キリスト教徒に
なるための洗礼を、そのような行為はやろうにもやれないとき
にまで先延ばししたのである」

 これを読んだとたんに私は、実に愉快な気分になった。

なぜなら、古代のキリスト教のもっていた、時代への順応性も
ローマ的な考え方への柔軟性も充分に理解し、それにことあ
ごとに言及してきたつもりだったが、このような愉しい面ま
あるとは知らなかったからである。

だがこうなると、処女作以来一貫して非宗教的な視点に立って
歴史を書いてきた私にも、キリスト教的に救済されるには、死
の直前に洗礼を受けるという道が残されていることになる。


とは言っても、一生をキリストの教えに忠実に生きていた人と、
そうでない直前駆け込み組は、最後の審判に際してもやはり
平等なのであろうか。

 いかに直前駆け込み組の一人でも、生前のコンスタンティヌス
が熱心に取り組んだキリスト教の振興の成果は、「大帝」の尊称
を贈るぐらいでは済まないものであった。

シャルルマーニュなど、はるかに及ぶところではない。


研究者の一人は言う。

 「もしもコンスタンティヌスが存在しなかったとしたら、キリスト
教会は、教理の解釈をめぐってのたび重なる論争とその結果である
分裂に次ぐ分裂によって、古代の他の多くの宗教同様に消え失せて
いただろう」

 しかし、別の研究者は、コンスタンティヌスのみでなく、ディオ
クレティアヌスからコンスタンティヌスまでという私がこの巻で取り
あげた時代全般について、こうも言っているのである。

 「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかった
のであろうか」

ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの二人の皇帝によって、
ローマ帝国は再生したとする研究者は多い。

だがこの二人は、ローマ帝国をまったく別の帝国に変えることに
よって、ローマ帝国を起たせておくことには成功したのである。

もしもこの二人がいなかったならば、帝国の終末は早くも三世紀
末に訪れていたかもしれない。

 しかし、帝国をひとまずにしても起たせておけた歳月は、百年
足らずにすぎないのである。

それもその百年が、五賢帝時代の百年のような百年であるならば
多大な代償を払う価値はあったかもしれない。帝国の国境である
「防衛線」は鉄壁で蛮族の侵入はなく、ゆえに庶民でも安全に仕
ができるか否かのリトマス試験紙でもある、農作も盛ん。街道を
行き交う人も車も、盗賊を怖れる必要のない治安の良さ。

ために広大な帝国中を人と物が流通し、職業の選択の自由もあった
ところから、社会の階層間の流動性と、その結果である人材の活用
のメカニズムも機能し、税も広く浅く課される百年ならば、話は別
だということである。


言い換えれば、「パクス・ロマーナ」の百年ならば、ということだ。

 だが、これ以後の百年は、そのようにはならなかった。「パクス・
ロマーナ」は、再びもどってはこなかったのである。ゆえに、「これ
ほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのか」とは、
ローマの誕生から死までの歴史を学び知る人の多くの胸中に、自然に
わきあがってくる想いでもあるのである。しかも、その後に訪れる
中世が、どのような時代になったかを知ればなおのこと。


以上。


けっこう長い抜粋だったが、ディオクレティアヌスの皇帝の地位
への執着が、キリスト教が歴史に残る大きな原因であった。という
のが、てっとり早い〝まとめ〟と言えるのではないか。


ところで、この本を読んで、わたしとしては、とんでもない文章を
見つけてしまった。

 

以下、抜粋。


この役割には、ローマ伝来の神々は適切ではなかった。

なぜなら、多神教の神は人間を護り助ける神々であって、人間
に向って、どう生きよと命ずる神ではなかったからである。

多神教と一神教では、神の性質からしてちがうのだ。

つまり、コンスタンティヌスにとっての必要を満足させる神は、
一神教の神しかいなかった。

そして、四世紀当時のローマ帝国でこの需要を満足させることの
できる一神教は、ユダヤ教がユダヤ民族の宗教に留まっている以上
は、民族のちがいを超越することを布教の基本方針にしていたキリ
スト教しかなかったのである。

それに、いまだキリスト教が微々たる勢力でしかなかった頃の二百
七十年も昔に、キリスト教をユダヤ人の民族宗教から世界宗教への
道に進ませることになる聖パウロが、すでに次のように説いていたの
である。

 「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。なぜなら、われわれ
の信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、
それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の指示があった
からこそ権威になっているのである。

だからそれに従うことは、結局はこれら現世の権威の上に君臨する、
至高の神に従うことになるのである」

以上。

 

ここで、興味深い文章がいくつかあった。


なぜなら、多神教の神は人間を護り助ける神々であって、人間
に向って、どう生きよと命ずる神ではなかったからである。

多神教と一神教では、神の性質からしてちがうのだ。

これである。


「人間に向って、どう生きよと命ずる神」、ここにキリスト教が
時代のニーズにあう要素があったと指摘しているあたりが面白い
と思われた。

その点は、ある意味で中国の文化に大きな影響を受けた日本人に
は見落とす視点かも知れないと思った。

そう、日本人には、孔子を含む諸子百家の思想、そして、仏教が
あったからだ。

なぜヨーロッパにおいて、キリスト教が流行ったか、その原因の
一つを知り得たような気がした。


先に、塩野七生氏は、


現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の
権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、と
する考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの驚嘆
すべき政治センスの冴えであった。

と書いたが、


ところで、パウロに関して、非常に気になった文章がある。

 「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。なぜなら、われ
われの信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認め
ないが、それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の指示
があったからこそ権威になっているのである。

だからそれに従うことは、結局はこれら現世の権威の上に君臨する、
至高の神に従うことになるのである」

これである。

これでは、イエスに対する裏切りではないか。まさに、「ユダ」では
ないか。

ユダが密告したことによって、イエスは捕まり死んだことになり、
ユダは裏切り者になっているが、パウロの言葉は、イスラエルを
帝国として間接的に支配してきたローマを非難し、死んだイエスに
対する裏切りである。

そう、彼は、イエスを死に追いやったローマの権力を肯定している
からである。

イエスの死後、イスラエルは、ローマによって、世界に流浪する民と
しての運命を強いられることになったからである。

なんとも可哀相なイエスであろうことか。

彼の明言した、ハルマゲドンは訪れず、その裏切りにおいては、ユダの
比ではないパウロの裏切りによって世界宗教になったとは。

そういう意味で、本質的にキリスト教の原罪は、ここにあると言えよう。

権力との癒着である。

皇帝の野望のために、王権神授という洗脳に加担することによって、
膨大な特権を与えられたという事実に注目する必要がある。


話しは変わって、


織田信長のマネー革命 

経済戦争としての戦国時代

竹田智弘著

ソフトバンク社

に関する内容で、興味深い文章があった。


以下、抜粋。


 キリスト教容認に隠された信長の海外戦略

 信長は、キリスト教の布教を認めたことでも知られている。

信長はイエズス会の宣教師フロイスに引見し、布教や教会建設の
許可を与えている。また教会建設のための場所や資材の提供にも
便宜を図っている。

フロイスは、その著書『日本史』で、信長のことを好意的に書い
ており、信長に対して良い印象を持っていたようである。

 信長がキリスト教の布教を認めたのは、「仏教と敵対していた
から」「南蛮文化に興味があったから」などと言われることが多
い。

確かにそれもあるだろう。

 しかし、最大の理由は、南蛮貿易における利権を手にしたかった
からではないだろうか? 

というのも南蛮貿易とキリスト教布教というのは表裏一体のものだっ
たからだ。

 当時、ポルトガルやスペインは、キリスト教の布教を交易の条件と
していた。大航海時代、ポルトガルやスペインは、世界各地に乗り
出し交易をしていた。

その際には、戦争をしたり、都市を占領することも多々あった。

 中世といえども、ただ金儲けのためだけに戦争をしたり、他国を
占領することは道義的に許されるものではなかった。そのため、彼
らは「キリスト教の布教」という大義名分を掲げていたのである。


 1494年に、ローマ教皇にも承認されたトルデシリャス条約
では、キリスト教を布教することを条件にして、「ポルトガルと
スペインで世界を二分してよい」ということになっている。

つまりは、「未開の人々にキリスト教の福音をもたらすために世界
を占領しなさい」ということである。

 もちろん、それはローマ教皇とポルトガル、スペインが勝手に
決めているだけであって、現実問題として世界をその二国で占有
できたわけではない。

ただ、彼らの交易や侵攻には、「必ずキリスト教の布教が伴わな
ければならない」という縛りは確実にあったのだ。

 たとえば、戦国時代に日本を訪れ布教を開始したイエズス会に
しても、その活動費はポルトガル王室から出ている。

ポルトガル王室は交易活動を支援しながら、その収入の一部をキリ
スト教布教に充てていたのだ。

 そしてイエズス会の宣教師たちも、布教活動と交易をセットで
行っていたのだ。彼らは、布教活動をしながら、交易への助言を行い、
時には自分で物品取引を行うこともあった。

そして取引を行うときに、相手への条件として必ずキリスト教の
布教許可を求めたのである。

「私たちと貿易すれば儲かりますよ。でもその代わり、キリスト教
の布教を許可してください」ということである。


以上、抜粋。


次の文章に、驚いてしまった。

1494年に、ローマ教皇にも承認されたトルデシリャス条約
では、キリスト教を布教することを条件にして、「ポルトガルと
スペインで世界を二分してよい」ということになっている。

これである。

結局、コンスタンティヌス帝の王権神授という発想が、ローマ
帝国の内政問題を超えて、世界史を大きく動かしてしまったよう
だ。

もしかして、西欧は今でも世界をこのように考え続けているの
ではないのか。

「禍福は糾える縄の如し」という言葉もあったが、まさに「歴史は
糾える縄の如し」である。


「ポルトガルとスペインで世界を二分してよい」という発想は、
ヨーロッパの植民地主義への道であり、アフリカ、アジア等からの
収奪の歴史の始まりである。

イエスは、このことに、驚愕するのでは。

ただ、悲しいかな、収奪した富みによって、ヨーロッパは近代化
を押し進め、資本主義を生み出した。

わたしたちの快適な今日の生活を生み出している。

とは言うものの、金融資本主義という悪魔も生み出し、先進国は
かつての植民地から追い詰められて、青息吐息の様だ。


本の中に、

現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の
権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、と
する考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの
驚嘆すべき政治センスの冴えであった。

とあったが、コンスタンティヌスの皇帝の地位への執着が、今日
の混乱した世界を生み出したとも思えたりしてきて、これも
バタフライ効果なんではなんて、妙に関心してしまった。

つまりは、支配の道具としての「キリスト教」、支配からの
脱却を希求し、ハルマゲドンの到来を予言して、十字架で
磔にされたイエスは、地下、それとも天国でどう思うのだろ
う。


わたしは、これまで、

キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳

 柏書房

 

捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房

 

破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳

柏書房


の3冊をできれば、わかい世代に読んでもらえたら、と思って
やまない。と述べたが塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力
(下)」も、含めてもらえたらと思われてならない。

 


織田信長のマネー革命

2011-09-10 22:23:40 | 若い時に読みたかった本

織田信長のマネー革命
経済戦争としての戦国時代

竹田智弘

ソフトバンク社


を読み終えた。


コペルニクス的転回という言葉があったが、信長に
ついて、まさに、そのような思いのする本であった。


その本を紹介したいのだが、本の「まえがき」、その
「目次」、そして「あとがき」を紹介したほうが、
手っとり早いと思い、下に引用した。

 

まえがき

織田信長というと「天下布武」に象徴されるように、
武力で天下を手中に収めかけた人物として知られてい
る。

必然的に「桶狭間の戦い」や「長篠の合戦」などその
華々しい軍事的成功ばかり目につきがちである。

 しかし実は信長は、日本の経済史、金融史において
非常に大きな功績を残しているのである。

信長以前と信長以降では、日本の経済社会は明らかに
違う。

信長は、ある意味「マネー革命」とさえ言えるような
大改革を実施しているのだ。

 江戸時代、日本は欧米に負けないほど貨幣経済が発達
していた。

この貨幣経済の発達は、信長が大きく関係しているので
ある。

信長は、中央政権としては初めて体系的な貨幣制度を
作り、物量単位の統一や関所の撤廃などで、日本の商
経済に大変革をもたらした。

 この信長の経済政策が、世界に冠たる。〝経済大国
日本〟のベースを作ったとも言えるのだ。

 また現代の日本では、津々浦々によく整備された都市
が存在する。

この都市の存在も、もとをたどれば信長に由来するので
ある。
信長は岐阜や安土に、「政庁」と「交通の拠点」を融合
させた〝新しい城下町〟を作った。

この新しい都市政策は、すぐに全国に波及した。今、
日本の各地にある中小都市のほとんどは、もともとは
岐阜や安土をモデルとしているのである。

つまり、信長は日本の都市の形を作り上げたといえる
のだ。

このように、信長は日本経済社会の礎を作ったといえる
のだ。

 歴史というものは、[出来事」[事件」を中心に論
じられることが多い。

 しかし「出来事」ではなく[経済視点」で歴史を検
すると、今まで見えなかったものが見えてきたりする
ことがある。

 信長の生涯についてもそうである。

 経済視点から信長を眺めれば、今まで語られてきた
信長像とは別のものが見えてくる。

彼は冷酷なだけの為政者ではなく、むしろ民衆には非常
に優しかったのである。

筆者は特にそれを紹介したくて、本書を執筆した次第で
ある。

本書を読まれた後、おそらく信長の意外な姿に驚かれる
はずである。


以下は、「目次」より


序章  信長はいかにして軍資金を調達していたか? ‥9
    鉄甲船に秘められた信長の経済力/
   錬金術のキーワードは「寺」「城」「港」/
   寺社の持っていた莫大な利権を奪う/
   築城するたびに富が集まるという謎/
   信長の城は巨大な税務署だった/
   太閤検地のモデルとなった信長の検地/
   日本最初の不動産デベロッパー/
  〝竹中工務店〟の創業者は信長の重臣だった/
   楽市楽座は信長に何のメリットがあったのか?/
   信長は領地より港を欲した/
   港を押さえれば、莫大な収益が上がる/
   「桶狭間の戦い」は商業地をめぐっての戦いだった/
   信長の作った戦争税とは/
   キリスト教容認に隠された信長の海外戦略

第1章 日本の経済システムは信長が作った!?‥ 47
    楽市楽座だけじゃない!経済史上に残る偉業の数々/
       日本の金融システムは信長が作った/
       信長の作った金銀本位制/
       金銀の通貨流通を促進させる/
       金銀は大量生産さえすれば貨幣として流通するわけ
       ではない/
       遠隔地の物流を促進する/
       史上初の公定〝金貨〟の鋳造/
       信長はどうやって大量の金を集めたのか?/
     「名物狩り」で大量の金を市中に放出した/
       武田信玄の甲州金はなぜ流通しなかったのか?/
       枡の大きさの統一/
      関所の撤廃/
      日本全土の道路網整備計画/
      価格破壊・をもたらした楽市楽座

ここまで

 

第2章 長篠の戦いは〝経済戦争〟だった‥‥ 79
   「長篠の戦い」の真実/
    実は武田信玄は鉄砲の権威者だった/
    15歳で鉄砲5〇〇挺を入手した信長/
    信長が目をつけた国際港「堺」/
    堺は日本最大の軍需都市だった/
    堺を手に入れることは有力大名になることと同じ
    だった/
    堺商人をなびかせた信長の手腕/
    死の商人「今井宗久」とは/
    武田信玄を経済封鎖せよ/
    鉄砲はあっても弾薬がなかった武田軍/
    信玄の西上作戦……追い詰められていたのは信玄の
    方だった

第3章 延暦寺の焼き討ちは〝大財閥〟解体だった‥ 101
    強大な〝支配階級〟としての寺社/
    比叡山は、戦国時代最大の財閥だった/
    延暦寺は全国に領地(荘園)を持っていた/
    悪徳金融業者の横顔を持った比叡山/
    商業、物流も支配していた比叡山/
    実は平安時代から比叡山は社会の悩みの種だった/
    信長の140年前にも比叡山は焼き討ちされていた/
   〝楽市楽座〟を最初に行った石山本願寺/
    本願寺は畿内の流通拠点を押さえていた/
    海外貿易まで企んでいた本願寺/
    京都、堺を占領していた法華経/
    寺院は要塞都市だった/
    武器の製造基地としての寺社/
    現代日本が宗教の弊害を被っていないのは、信長の
    おかげ

第4章 安土城〝テクノポリス〟構想‥‥ 131
    現在の都市の形を作った信長/
    商都と軍都を融合させた複合都市/
    極彩色の東南アジア的な〝安土城〟
   〝お城〟の原形は安土城/
   〝都市計画〟の走り/
    安土~京都間に造られたハイウェイ/
    安土で本格的な兵農分離をはじめる/
    当時、最高の技術を集めて造られた安土城/
    遊び心満載の安土城/
    サービス精神旺盛な為政者/
    安土城は日本で最初のテーマパークだった/
    安土城は大相撲の聖地/
    近江商人を育てた信長

第5章 信長の〝理想国家〟行方‥‥ 161
    実は領民に優しかった信長/
    信長以前、農民は重税に苦しんでいた/
    石高制の採用/
    信長の減税政策の意図/
    弱者救済政策と庶民への配慮/
    罰金で徴収した黄金を庶民のために使う/
    中間搾取を極力減らす/
    朝廷の立て直し/
   「茶会を開く権利」を褒美として与える/
    日本の首都は大坂になっていただろう/
   〝信長安土大社〟計画

 


あとがき

信長は天才だった」と言われることがある。
信長は確かに常人がなしえないことを次々にやり
遂げている。
そういう意味から言えば、天才だと言えなくもない。

しかし信長は常人がまったく理解しえない発想を
持っていた人だとは、筆者は思わない。

信長の行ったことは、当時としては画期的なこと
ばかりだった。

 が、その所業の一つひとつを洗い出してみると、
決して突飛な思い付きを実行したわけではない
ことがわかる。

信長の数々の大事業のほとんどは、実は「だれも
やろうとしていたこと、やりたいと思っていたこと
を、きっちりやり遂げたもの」だと言える。

たとえば、鉄砲を大掛かりに導入することは、多く
の戦国武将にとっても念願だった。
しかし、資材や火薬の調達には大きな手間や財力が
かかることから、だれもが二の足を踏んでいたので
ある。
 
それを信長は港を制することから始めて、最終的には
数千挺単位(もしくはそれ以上)の鉄砲導人にこぎ
つけたのである。

また当時、「寺社の力が強すぎて社会に悪影響を与
ている」ということは皆が思っていたが、だれもが
寺社を恐れこの問題には手をつけなかった。

しかし、信長に対して寺社を臆することなく、粘り
強く彼らの力を削いだのである。

現状の問題点を直視し、〝前例にこだわらず〟に解決策
を探りだし、粘り強く実行する。

それが信長のやり方だった。

「事業を成す」とは、つまりそういうことなのだろう。

 未曽有の大災害に見舞われた現代日本にもっとも必要
なものは、この信長の〝事業精神〟なのかもしれない。

本書を通じてそれを少しでも伝えることができれば、筆者
としてこの上もない喜びである。
(あと、省略)


以上。


わたしがこの本を読んだ感想は、まさに、「まえがき」と
「あとがき」に著者が書かれた通りである。

これまで、わたしは、信長は、本能寺で謀反にあい、全国
統一を目前にして、どのような思いで死んでいったのだろう。

ということに興味がわいていた。


信長は、伝統芸能の
『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け滅せぬもののあるべきか』
を好み。出陣の際に、踊ったといわれる。

それだけに、どのように思ったのか、悔しかったのか、
絶望したのか、なんてである。

しかし、今回、この本を読んで、結局、わたしの興味は、
「下衆の勘繰り」でしかなかったと思い知った。

結局、信長は、シーザーと同じ視点で、自分の歴史的立ち
位置を理解していたのでは。ということだった。

信長は、時代が今後、どのような方向に向かうことになって
いるか、向かわざるを得ないかということを理解して、その
歴史の向かう方向に、どれだけ、自分の力で、時代の流れを
進捗させることができるかというとに、大きな興味をもち、

彼は「どうせ人生は五十年しかないのだから、死ぬ気になって
思い切ってやってやろう」といった心情で、日々生きていた
のではなかろうかと、思えてきた。

だから、本能寺で死ぬ間際でも、きっと、どうせ、おれが、
いろいろと目論んだ方向に国も時代も向かうにきまっている。

おれの出番は、ここまでと言って、死んでいったのではな
かろうか。

きっと、充分に、自分の才能を試せたと、思ったのでは。

なんて、思われてならなかった。

今回も思った。

できれば、このような本を10代で、読んでおきたかったと。

今、思うに、できれば、高校生以上の日本人の多くの人が
この本を読んでもらえたらという気持がいっぱいである。

日本も閉息しているが、世界も閉息しているこの時代に。


人生は五十からでも変えられる

2011-07-12 21:39:39 | 若い時に読みたかった本

人生は五十からでも変えられる

新しいことを始めるのに、遅すぎることはない

外科医 平岩正樹

海竜社


を読み終えた。

本の帯びには、こう書かれている。

新しいことに挑戦すれば、新しい自分に出会える。
問題は年齢ではなく、その生き方の中身の違いにある。

◎体力ゼロから、トライアイスロン銀メダルへの大変身
◎理系人間が東大文学部で出会った感動の授業
◎フィリピンの極貧スラムで考えた人間の豊かさ

以上。

「はじめ」の方の最後にあった文章である。

大きな壁にぶつかってもあきらめないで、ずっと頑張り
続けることは立派なことだ。

でも今までと違った、まったく新しいことに挑戦してみる道
もある。

新しい道はどこにでもころがっているのだけれど、古い道しか
見ない人は新しい道に気づかない。

本当に古い道しか残っていないのかと、あたりをもう一度を
見回してみれば、新しい道もたくさんある。


途中、カット。

そしてこの本は、五十代で再び東大に入り、未知のものを
学ぼうとした私が、入学前にはこれっぽっちも想像しな
かった「想定外のこと」に出会い、思わぬ人生の収穫を得た
肉体改造・頭脳改造の物語である。


以上。


この本を読んで、図らずも、平岩氏の肉体改造と頭脳改造を
追体験することになった。

おかげで、わたしも想定外の思わぬ収穫を得ることになった。

特に、「◎理系人間が東大文学部で出会った感動の授業」
についてであるが、わたしのパラダイムが、なんと旧石器時代
のように、陳腐化していたというショックであった。

と同時に、この本に出会えたことは、幸運だと思った。

おかげで、東大に入学することなく、私が一番知りたい
ことを知り得た気がする。

これを、幸運と言わずして、何と言おうか。

 

団塊の世代の皆さん、いかがでしょうか。

わたしたちの世代のパラダイムの桎梏から解放されるのは。

わたしたちは、あの70年代前後の学生時代に染み込んだ
時代の刻印から解放される必要があると思うのだが。

それは、容易なことではないと思うが。

わたしたちは、せめて、新しい時代を作る世代がその才能
を発揮するのに、手を貸すことができるようにならなくは
ならないと思うのだが。

管直人や鳩山、小沢の愚行から解放されなければならない。

あたらしい時代が生まれるのに、足手まといにはならない
努力が必要だ。

 

ところで、できるだけ多くの国民に、ぜひ、読んでもらいたい
内容がある。

それは、

◎フィリピンの極貧スラムで考えた人間の豊かさ

である。

わたしたちは、よく世界の貧困について、テレビで放映され
るのを見ることがある。

しかし、この本で紹介されている「フィリピンの極貧スラム」は、
それを超える貧困で、あまりの酷さにマスコミの取材は不可能と
思われた。

そして、残念ながら、あの現地をわたしが直接、体験する勇気
を持ち合わせていない。

それだけに、この本の内容は、貴重と思われてならない。

だから、この本が出版された機会に、ぜひ、この現実を知って
もらえたらと思った。

あらため、貧困って、なんだろう。と、大きなショックを覚える
と思うのだ。


この本を読んで、わたしも気づいたのだが、多くの国民に知って
もらいたいことがあった。

日本の抗ガン剤治療は「技術料が無料」と決められているそうで
ある。

平岩氏は、抗ガン剤治療のエキスパートであるが、この制度が
抗ガン剤治療の発展の阻害となっており、多くの救える命が散って
いくようである。

この医療制度の改善をする必要があると思う。

今のボランディア状態では、この優れた技術の発展は望まれない。
そして、それが、国民の不利益となっている。

そして、多くの才能を失っているようにも思われる。
このような技術こそが、閉息状況の日本の明日を引き寄せる力にも
なると思われるのだが。

ぜひ、この件については、みんなで、なんとかできないもの
だろうか。

なんて、思っているのだが。

それでは、最後に、この本を、高校生、大学生くらいの若い人
に、読んでもらえたらと思った。

大きなインパクトがあると思う。